雪は花束を覆い隠す

@kyomou

毎日

 朝起きれば、特別にあつらえられた部屋へ行く。そこは、全面が少しくすんだ大きなガラス張りの窓が外と中を仕切っており、朝の陽射しを目一杯に部屋中へと取り込んでいる。鳥の声も風が揺らす梢の音も、春の到来を告げては爽やかだ。それを意にも介さず、窓側で寝ているのは僕の祖母。足悪く、体も悪く、頭も数年前には耄碌し始めていた。まだ開かれていない瞼を確認しては近づいて、幸運にも異臭がしないことにホッとする。気持ちが良さそうに、朝の日差しを浴びて眠っている。今日は休日で急ぐこともないので、久々にゆっくりと台所へと朝ご飯の準備に取り掛かった。


すりおろしたリンゴ、市販の介護食を二、三品、取っ手のついたコップに水を一杯、残量を確認しながらいくつかの薬。一通り準備が終われば、最後に自分の分の朝食、簡単なトースト一枚を焼いて、全てお盆で運んでリビングのテーブルに置く。祖母をリビングまで連れて行くのは男性の筋力を持ってしても重労働だ。介護ベッドのリモコンを使ってゆっくりと上体をあげてから、後頭部と膝裏に手を差し込み、ぐいと持ち上げて車椅子にスライドさせる。部活動では文句を言わなかった腰がびきびきと悲鳴をあげる。体が密着することに、いつまで経っても慣れやしない。口をもぐもぐとさせては眉が時々ピンと釣り上がる祖母は、今の僕を見て何を考えているのだろうか。


なんとかリビングへと運べば、父と母が起きて自身の朝食を準備し始めていた。友人の家では母親が用意したりするものらしいが、この家では自分のことは自分ですることになっている。誰かが決めたわけではない、自然とそうなった。


「おはよう、今日もお婆ちゃんのお世話、ありがとうね」

「お母さん、おはよう。ううん、大丈夫」

「大変だったら言うんだよ」

「うん、ありがとう」


暇そうに見えた僕がこの役割を受け持つことになった時、母は大層喜んだ。これで楽になる。ずっと大変で、もう続けられないと思っていたのよ。実際に腰も悪くしていたし、趣味の時間を取れないことを嘆いていた。僕は、早くに親孝行することができたことを嬉しく思うし、祖母も好きだった。何より、ずっと辛そうな顔をしては愚痴を吐く母親と向き合わなくて済むようになったので、それでいい。テーブルに全員がついて、それぞれの食事を始める中、僕は子供用のプラスチックスプーンで祖母の食事をとり、口元へと運ぶ。口は、開かない。構える手はそのままに、焼いたトーストにかぶりつく。


「お婆ちゃん、今日はあんまり食べたくないんじゃないか?」

「そうみたい。お父さんは今日は調子いいの?」

「そこそこだ。そら、お婆ちゃん。食べないと俺より先に天国に行っちまうぞ」


父も病を患っている。結構な大病で、後はいかにして生活を楽しむか、と言った具合だ。祖母には良く、どちらが先に天国に行けるか競走だと冗談を言うので気が気ではない。死の匂いが、鼻腔を過ぎる。大好きな父が、祖母と顔を合わせるたびに、ひやひやする。父と母が朝食を終えて席を立つ。僕はまだ、震えるスプーンを手に持っている。口はまだ開かない。


 ようやくのことで食事が終われば、医者に言われた通りお喋りをする。学校であったこと、趣味のこと、テレビで見たニュース。僕が、一方的に祖母に語りかけては、曖昧な相槌が時々返ってきたりするので、油断がならない。ずっと気を張って語りかけては、何かを思い出したかのような鋭い視線が貫くので手元の携帯を見る。毎日毎日が繰り返し。どうせ覚えていないだろうと以前の話題を持ち出す僕は、まるで壊れたロボットになった気分。


「だから、この前は凄く面白かったんだ。…今言ったこと、覚えてる?」

「…」

「じゃあ、この前始めたゲームの話をするね。フォトンドリヴンってシステムなんだけど…」

「…」


祖母のかつてあった知性と精神に降るのは雪だった。夜深くしんしんと積もっては、明朝には陽光にさらされてはほとんどが消えゆく白い雪。その上で過去の一切を真っ新に覆い尽くす。覚えて欲しいこと…僕の世話、努力、最近あった楽しかったことなんてのは何一つ覚えてくれはしない。それでいて覚えて欲しくないこと、例えば僕が漏らした不満なんかはきっちり覚えていて、ため息をついたり不意にその話題を口にするとその度に「ごめんなさいねぇ」と呟くのだ。


「…今日も、元気だね」


最近は、ただただ体に堪える感覚だけが残っている。この前『アルジャーノンに花束を』を読んだ時、僕は主人公のチャーリーを見守るアリス・キニアンが気がかりだった。段々と知性が衰えていって、自分が自分でなくなっていく。かつてあったものが失われていく様を見続けるのは勿論のこと、それでも愛を決して失わなかった姿があまりにも眩しくもあって、だからこそ報われなかった結末が頭から離れなかった。僕は、そうなれるのだろうか。


「今日も仲良しねぇ」


家事に勤しむ母が声をかけた。どうしようもない無気力に襲われる。いつになったらこの苦役は終わるのだろうか。僕の頭にも、雪が降って全てを覆い隠してくれないだろうか。どうか、どうか。僕の何もかもを、覆い尽くして。

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