夏休みのみちびき

うみしとり

第1話

 アパートの一室は青い太陽光が差し込んで、海月の様に揺れる白いカーテンから漏れ出してた光がベットのリネンを濡らしている。ちいさな埃がゆっくりと宙を浮かんで漂う。肩まで垂らしたストレートヘアをベットにもたれ掛からせて、浮かぶそれをじいっと見つめる少女が一人。

 僕の幼馴染、名前をみちびきという。正確には巳池響みちひびき。省略してみちびき。彼女はそう呼ばれるのを気に入っている。夏休みが始まるやいなや僕の部屋に転がり込んできたのだ。


「今日からここで暮らす」


 そういって事情も告げずに上がり込んできた彼女と、僕は今二人暮らしをしている。理由を聞いても「そうしたいから」とはぐらかされる日々だ。

 窓の外には立派な入道雲が空高くもくもくと伸びている。波の音、打ち寄せるさざめきが筒ヶ島の海岸沿いの情景をアパートの窓の形に切り取って響いている。今日もまた、夏休みが始まる。入った時は永遠で、終わろうとするときは一瞬のような。そんな夏休みが。


「ねぇ」


 彼女が声を発する。水面に落とした石ころのように、その音がワンルームに波紋を広げていく。僕は読みかけの小説から目を上げて彼女の方をみやる。メランコリックな表情を浮かべたベットサイドのみちびきが上目遣いに部屋の隅を見つめて告げた。


「天国って、どこにあるんだろうね」


 僕は小説に目を戻して、薬指でブックカバーの隅をなぞりながら興味なさげに答える。


「さあ。どこにもないんじゃない」

「そんなこと、ないと思う」


 彼女は強情に僕の方を見つめて、ゆっくりと首を振る。


「信じてるの……? 神様ってやつ」

「そういうわけじゃ、ないのだけれど」


 彼女はベットサイドから、どこか遠い、遠い空を見つめて言った。


「……どこにあるんだろうね」


 そうやってみちびきはベットにもたれたまま、ぼんやりと宙を見つめている。

 無神論者の僕は、彼女の問いに面白い答えの一つも出すことが出来ないだろう。死んだ後は無になるのだと、そこはかとなくそう考えて生きてきた。きっとお腹が空いたから彼女は気分が落ち込んでしまったのだろうと僕は立ち上がって冷蔵庫へと向かう。殺風景なアパートの床には物一つ落ちていない。まるで病院みたいだと友人にしてきされたことがある。ミニマリストというわけではないのだが、きっと物欲が人よりも少ないのだろう。

 モノクロームの部屋に朝方の青い光が満ちていると、まるで満月の日の夜のようだと思う。

 冷蔵庫から取り出したチョコレートを彼女に差し出す。


「チョコ食べる?」

「食べる」


 冬眠前のビーバーのようにもそりもそりとチョコにかじりつく彼女を尻目に僕は机に向かう。薄暗い部屋の中でカチリ、とライトをつける。そう今は夏休み、僕は宿題を早めに終わらせるたちだから計画的に進めなければ。そして朝は一日でもっとも生産性の高い時間だと言われている。みちびきがどこか散歩に行きたくなる前に何ページが課題を終わらせなければ。クリアファイルから用紙を取り出し、僕はざっと宿題の一覧に目を通す……。


「季節外れの紫陽花に触れる」

「永遠に続く砂浜で夕日を眺める」

「筒ヶ島の岩屋を散策する。怪物に注意」

「おしゃれなカフェでひとくち珈琲を飲む」

「坂の上でおみくじを引く。でも見せ合ってはいけない」


 ……これってどっちかというと。


「やりたいことリスト」


 にゅるり、とみちびきがいつの間にか背後に迫っていた。

 口から食べかけのチョコがはみ出している。


「……びっくりした。こんな宿題ある? ただの観光じゃないか……」

「たまにはいいんじゃない」

「たまにはって……」


 仮にも高校生の夏休みの宿題だ。受験だってもう数年後に迫っている。その大切な期間である夏休みにこんな宿題を出すとは学校のやる気を感じられない。僕ははあ、とため息をついて用紙を机に放りだす。


「もっと無かったのか? 数学とか英語とか……役に立つものをさ」

「これでいいと思う」

「でも受験とかさ……将来とか……」


 みちびきはチョコをくわえたまま用紙の一番下に指をさす。

 僕はその細い指の先を目線で追う。するとA4用紙の一番下に簡潔な一文を見つける。


「天国はどこにあるのか?」


 みちびきはチョコを吸い込んで首を横に振る。


「わたしも、まだ見つけてない」

「……そういうことだったのか」


 どうやら彼女はメランコリックになっていたわけでも、腹が減って鬱になっていたわけでもなく、ただ宿題について思いを巡らせているごく一般的で健全な高校生であった様だった。


「チョコ返してほしい」


 心配して損した。大体なんだこの宿題は……。その問いに答えを出せるなら人類は4000年間も正義を求めて争ったりしない。一介の高校生に与えるには大きすぎる問いだ……答えが出せる気がしない。


 みちびきは僕をじっと見つめて首を傾げる


「もう食べちゃったから……ちゅーしろってこと?」

「違う」


 僕はクリアファイルに「宿題」を再びしまって立ち上がる。とにかく宿題と名のつくものならば早めに終わらせておくに越したことは無い。


「どこいくの」

「電車。紫陽花といえば初瀬はせだろう」

「……そんなに生き急がなくてもいいのに。宿題なんて終わらなくてもいいじゃん」

「これが性分だから」

「じゃあついてく」

「どうして」

「君が心配だから」


 うーんと伸びをしながらみちびきは僕の後ろをついてくる。どうやら心配を口実にただ乗りして宿題を終わらせるらしい。まあ減るものじゃないから別にいいけど。てか君はみちびきじゃないのか。導いてくれないのか。


 僕は何千回と繰り返した動作でアパートのドアを開ける。光が差し込んでくる。僕たちは朝日の中踏み出す。

 昨日までを忘れて、今日がまた過ぎ去っていく。遠くにさざめきを聞きながら何の変哲もない夏休みの一日が目を覚まそうとしていた。





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