楽園

八塚ケイ

01 ever, forever


 白い花が、微かな風に揺れている。

 丘の斜面を埋めるほどに乱れ咲くそれらは、真白の絨毯を思わせた。

 汚れのない純白をたたえてさざめく一面の花々。

 幻想的で浮世離れしたさまは、瞬きをすれば消えてしまいそうなほどだ。

 眼下にはなだらかな稜線が描かれており、森を隔てて向かいに望む丘には外壁に囲われた街が見て取れる。その喧噪もここには遥か遠く、ただ葉擦れの音と静寂だけが満ちていた。


 青年は一人、花園のただなかで娘を待っている。

 狼のような琥珀の瞳。曇りのない陽光を、柔らかく受け止める褐色の髪。腰元には鞘に収められた長剣が。頬には小さな傷があった。片膝を抱えて座り込んだ彼の手には、封をされた一枚の手紙が掴まれており、花々と同じ力で風に揺れている。

 白く咲き誇る雪花の丘。高く澄んだ空は孤高を謳う。

 人の手垢を知らぬこの場所では、時間さえ留められているようだ。

 青年は息をついて、無言のまま目を閉じる。

 この感情を伝えたならば、彼女は何と言うだろうか。

 焼けた鉄のように胸に渦巻く感情の嵐。

 あるいはそれは、身を切るほどに冷たく暗い、深い氷の泉のような。

 知らなかったのだ。己の中にこれほどまでに、強く狂おしい感情があることを。

 目を閉ざしたまま彼は、風と葉擦れの音の向こうへ意識を向ける。

 そうして遠く、遠く離れていく過去の呼び声に、ただ耳を澄ませる。


 ※


 彼女と初めて出会ったのは、街の祝祭の日だった。

 それはとりたてて特別な出会いではなかったと、彼は思う。

 なにしろ彼はその日、目的もなく街に出ていただけであったし、彼女にとってもおそらくそれは、ありふれた日常の一幕であっただろうから。


 彼が街に出ていたのは友人に言われてのことだ。

 剣の仕事以外に興味がない。付き合いが悪く趣味も持たない。

 顔つきも目つきも捨て犬のように不景気なのだから、せめて休みの祝祭の日くらいは引きこもっていないで外に出ておけ、というのがその僚友の意見だった。

 取り合う必要もない助言。

 言った当人もこちらが聞き入れることを、期待してはいなかっただろう。

 だがそれでも彼が街に出ることにしたのは、言われたことが十分以上に正しいからだった。不健康な生活を望んでいるわけではなかったし、休みの日の過ごし方に拘りがあるわけでもない。身なりを整え、彼は街の兵士の証である飾り紐が結わえられた剣を帯びる。最後に手慰みにするための小さな手帳と鉛筆を持って家を出ると、青年は街をあてどなく歩き始めた。


 半年に一度執り行われる祝祭は、この街が形作られた時、不毛であった周辺の大地に祝福を授けた聖女を称えるためのものだと言われている。煉瓦作りの通りのあちこちには鮮やかな青色の飾り布がかけられ、人々を呼び込む出店が並び、普段以上に街を賑わせていた。

 しばらく街を巡り歩いた後、彼は休憩にと、広場の隅にある長椅子に座り込む。

 街に出て分かったことは祝祭を皆が平穏に楽しんでいること。

 そして彼が街歩きには、全く向いていないということだった。

 通りにあるものを順番に見て回っては、そこに何かがあるかを確認していく時間。出店に広げられた小物や服飾具、通りの脇でそれぞれに披露される歌や踊りなどの出し物を物珍しいとは思うものの、それらを殊更に楽しいと思うでもない。これでは散策というより、仕事での巡回に近かった。それでも家でただ胡乱な時間を過ごしているよりかは、まだ意味があるだろうか。

 彼の守る街。ひとときの歓楽と笑声に溢れた人々。

 ――――だがそこに、本当はどれほどの価値があるだろう。

 手帳と鉛筆を取り出し、彼は醒めた目で通りを眺める。


 子供の泣き声が聞こえたのはその時だ。

 人々の行き交う広場の一角に目をやると、人波の向こうに小さな少年が泣いている様子が垣間見えた。この人込みの中で親とでもはぐれてしまったのだろうか。顔をくしゃくしゃにして細い声を上げている様子は、一人きりで街に出てくるには不釣り合いに幼い。

 幼子の前には一人の娘がいた。屈み込み、目線を合わせて何事かを話し掛けている。察するに、知り合いというわけではないらしい。腕には小物の入った木の籠をさげていた。どこかの出店の呼び込みなのか、祝祭に行き交う人々に配り物でもしているのか。娘は幼子を宥めようとしているようだったが、なかなか落ち着きそうもない。変わらない泣き顔に、彼女の眉が困ったように下がるのが見えた。

 彼は立ち上がると、そちらへと歩み寄る。

 どうかしたのか、と声をかけると、娘は振り向いた。

 陽の光に透けるような白銀の長い髪。

 薄い空色の瞳がまるく見開かれて彼を見上げた。

 大人びて繊細な顔立ち。だがそれよりも曇りのない瞳が印象に残った。

 娘はすぐに目を細めて苦笑すると、迷子になったみたい、と答える。

 そうして幼子へと向き直ると、両親がどうしているかを問いかける。

 柔らかい声音での問いかけ。だがそれはしゃくり上げている幼子を落ち着かせはしなかった。じくじくと腫れた心には優しさでさえ毒なのだろう。泣き止む様子も、意味のある言葉が出てくる気配もない。

 俺が詰所に連れていく、と彼は言った。こういった迷い子や失せ物、街での困りごとは兵士たちが待機している詰所に相談することができる。

 おそらくは親も探しているだろう。そこで待っていれば探しにくるかもしれないし、そうでなくとも少しずつ落ち着くはずだ。そう告げると、娘も残念そうに表情を曇らせて、それがいいかも、と頷いた。

 屈んでいた娘は、立ち上がると彼へと向き直る。

 もしあなたに用事があるなら自分が連れていく、と彼女は言ったが、彼は問題ないと首を振った。ちょうど街の巡回をしている気分になっているところだったのだ。それが本当になったところで構わない。詰所にこの子供を預けて、ついでに散策も切り上げれば、有意義な休日だったと思いこむこともできる。彼が腰元の剣を指で指し、これも仕事のうちだと言ってみせると、娘は少し申し訳なさそうだったが、微笑を見せて礼を言った。


 幼子の手を握る。まだ鋼の重さも知らない手は、小さく柔らかい。

 じゃあ、と言って歩き出そうとすると、娘は待って、と提げていた籠から何かを取り出した。小さな花の苗を使った、手のひらに乗るほどのささやかな花籠。彼女がここで配っていたものらしい。薄く細やかな草花が慎ましげに咲いている篭を、彼女は幼子の空いている手へとさげさせた。

 良い祝祭を、と細く淑やかな唇が紡ぐ。

 娘はついで、はい、と同じものを彼へと差し出してきた。

 彼は目を丸くする。彼は兵士なのだから構わないのだ。この街のため尽くすのが当然であり、何かを受け取る理由はない。

 いいのか、と聞くと娘は不思議そうに首を傾けた。

 だって、あなたは皆を守ってくれる人なんでしょう?

 だからありがとうと、そう彼女は言った。

 澄んだ空色の瞳がふわりと柔らかく微笑む。


 彼らの出会いは、ただそれだけのものだ。

 だが、ただそれだけのものが、彼には特別なものになった。

 手渡された花。屈託のない微笑み。

 単純と言えばそうだ。

 些末といえば、その通り。

 けれどそれだけで彼は――――きっと、救われたのだ。

 それがどれほど幸福なことだったのかは、他の誰にも分かりはしない。


 ※


 手渡された小さな花篭には、一枚の紙片が差しはさまれていた。

 そこには店らしき名前と街の通りの名前、そしてそこで薬を商っていることが書きつけられている。

 あの娘はその宣伝も兼ねて、祝祭で贈り物をしていたのだろう。

 この街はなだらかな丘のうえに形作られており、場所の高さに応じて大きく上層、中層、下層に分けられる。上層ほど富裕層が多く、下層につれて貧困層が多くなる。彼の家は中間に位置する中層にあるが、紙片に書かれていた通りは下層にあった。

 祝祭の数日後、剣を帯びて街の見回りをしていた折、下層にまで足を伸ばした彼は、ふと例の娘の店が近くにあることを思い出す。ついでにと足を向けた。

 あばら家や崩れかけた石組みの家が多い街並み。

 その中で小さな看板の出されている一軒家の戸を叩くと、明るい娘の声が返る。

 戸が開かれ、顔を出したのは、間違いなく祝祭で出会った娘だった。

 来てくれたんだ、と両手をうちあわせて瞳を輝かせる彼女に、彼は見回りで近くまで来たから、と真面目な顔で頷く。彼の仕事では体に傷を負うことも少なくない。切り傷や打ち身に効く軟膏があるのなら貰い受けたい、と言うと、彼女は笑顔で頷いて彼を店に迎え入れた。

 店の奥には店主が客を迎えるための小さなカウンター。寝起きするための別室に続いているのだろう扉が一枚。日の当たる窓際には植物の鉢植えが配されており、反対の壁棚には薬の壺が並んでいる。傷が目立つテーブルと二つの椅子は、客と歓談するためのものだろうか。

 質素で生活感の漂う薬師の部屋は、しかし正面で笑顔を浮かべる娘のせいか、温かみというものがある気がした。あるいは整えられて無駄なもののない、中層の彼自身の家などよりもずっと。春の陽だまりに似た空間の中で娘が微笑む。

 手狭でごめんなさい、でも薬はちゃんとしているから。

 そう言う彼女に、彼はそれならいいと思うと真顔で返した。

 彼女はおかしげに苦笑すると、棚へと向き直って薬を選び出す。渡されたものは二つの軟膏の入った木瓶だった。それぞれ包帯と一緒に使うといいと添えられたので彼は頷く。娘は合わせて、別の小さな封箋も手渡してきた。中には赤茶色の砂つぶのようなものが入れられている。これは、と聞くと薬草茶だと言う。小さじ一杯程度をお湯に混ぜて飲むと落ち着いてよく眠れるらしい。

 彼がいくらなのかと聞くと、彼女は、これはこの間のお礼だと頬を膨らませる。

 そういえば、祝祭で子供を彼女から預かって詰所に連れて行ったのだった。

 例の子供はどうなったのかと聞かれたので、後で詰所に母親が迎えに来たと教えてやる。やはり祝祭を家族で出歩いているうちにはぐれてしまったとのことだった。彼女は良かったと胸を撫で下ろす。本当に安心したのであろう、安堵の笑顔。そんなに心配だったのか、と尋ねると彼女は頷いた。それから、泣いている子供は、誰かがちゃんと守るべきだもの、と小さく微笑む。

 どこか透徹したその微笑を見ながら彼は、違いないと答えた。

 ――――不思議とよく表情が変わる娘だ、と思った。


 その日をきっかけに彼は、彼女の店に通うようになった。

 はじめはあくまで、彼女から受け取った薬が傷によく効いたからだ。

 しかし日を重ねていくうち、彼は自然と、彼女と彼女の店そのものを好ましいと感じるようになった。

 彼女は人懐こく、明るく、時に大人びて、そしていつも真摯だった。

 それが何に対しての真摯さなのかは、よく分からない。

 だがそれが彼女が周囲を惹く魅力であるのは間違いなかった。店には彼以外の者も訪れていることがあり、彼女と話す彼らは皆表情を明るくしている。彼女とその店には、誰をも受け止めて安心させる温かな安らぎがあった。

 彼が巡回のついでに立ち寄り、彼女が笑顔で迎え入れる。

 そんなことが続くうち、彼らは少しずつ互いのことを知るようになった。


 彼女はカナリアと名乗った。

 薬を煎じ、病人や老人の世話で生計を立てている薬師であること。

 一人で店を開いていること。

 草花の手入れが好きで、今の仕事は好きであるということ。

 彼よりも少し年下であるということ。

 薬草の知識は師であるという、別の高齢の薬師から学んだということ。

 その薬師に拾われるまでは孤児であり、両親はいなかったということ。


 彼も幼い頃に病で両親を亡くし、身寄りはいないことを話した。

 同じ年頃であること、一人で生活していることなど、身の上がいくらか似通っていることも分かってくると、自然と彼らの距離は縮まっていった。


 グレイシアス、と彼女は彼の名を呼ぶ。

 包帯と軟膏を手に彼のそばに座ったカナリアは、軽く嗜めるように言った。

 それが小さな傷でも、きちんと治るまで薬は塗らなければいけないと。

 左腕に丁寧に巻かれていく包帯を、グレイシアスは決まり悪く眺める。

 その日彼は、いつものように薬を求めて店に立ち寄ったのだが、たまたま袖口から手傷が覗いたのを見咎められてしまったのだ。どうせ治りかけているのだからと思って、あまり薬を塗らずに放っていた傷口だった。彼はカナリアに店の隅に置かれている椅子に座らされると、そのまま処置を受けさせられている。


 貴方、自分のことだと何でも適当に済ませようとするでしょう。

 不満げに言うカナリアに、彼はそうかもしれない。でも気にするほどのことじゃないと答える。彼自身、何事に対しても、おざなりだという自覚はあった。自覚はあって、けれどそれで特に問題があるとは感じていない。

 私は気になります、と唇を尖らせて言われたので、それはすまない、と彼は返しておく。

 こうやって面倒見がいいのは、君が薬師だからか、と彼は問うた。

 薬師という職業柄、他人の傷が気になるのか。

 それとも単に性格上、だらしのない他人が放って置けないのか。

 彼女は少し考えるような声をもらした後、多分薬師だからだと言った。

 ――――貴方って、花に似ている気がするの。

 グレイシアスは、思わずまじまじとカナリアを見つめる。

 彼は例えば誰からも好かれる可愛げがあったり、分かりやすい美貌を持っている類の人間ではない。捨てられた犬か不愛想な猫に似ていると言われることはあっても、流石に花に似ているなどと言われたのは初めてだった。

 言った当人は冗談を言ったようなそぶりもない。

 真面目な顔で目を細め、包帯を巻きながら言う。

 花って周りを良くする力があるでしょう。

 いい香りがするし、見ていると素敵な気分になるし。

 でも花自身は、それで助けられることはない。痛んでも自分の香りで元気になったりしないし、お水をあげないと枯れてしまう。

 だからお世話したくなるのかも、と彼女は言った。


 分かるような分からないような例え。

 彼女の感覚はどこか浮世離れしていて、時々意味を掴みかねる。

 つまり俺は枯れて見えるのか、と聞くと彼女は吹き出した。

 鈴のように響く笑い声。

 うん、少しだけ、と楽しげに言うので彼は苦い顔になる。

 良い性格をしている。彼女の住んでいるこの下層は治安があまり良くないが、それでこのような物怖じしない性格になったのだろうか。ただくすくすと笑みを溢す様子は同時にひどく無邪気にも見え、そんな彼女の姿は彼にとって決して不快ではなかった。

 ――――花というのであれば、それは彼女の方だろう。

 雨や風も受け入れて、野に咲く花のような。

 自然な強さと綺麗さが彼女には備わっているように思えた。


 それはそれとして、彼女のこういう雰囲気は心配にもなる。

 あまり他人を信頼しすぎるなよ、とグレイシアスはため息混じりに注意した。

 彼女は優しく、一人で生きていく術も身につけているのだろうが、どうにも好奇心が強いようだ。こうして彼に構うのも、そのあたりが原因なのだろう。中層から降りてくる人間が物珍しいのは分からないでもない。だが、誰彼構わずこのように無警戒に接していそうで危なっかしいと彼は思う。

 彼の苦言にカナリアは目を瞬かせる。

 けれど彼女はすぐに大丈夫、と笑って相好を崩した。最近は頼りになりそうな人が来てくれるようになったから、と冗談まじりに腕を軽く叩いてくる。

 自分は薬を買いに来ているだけだ。いつでもここにいられるわけではないし、特別な力があるわけでもない。いざという時、頼れる人間ではない。

 そう伝えてはみたが、彼女は取り合わない。

 初めて会った時、祝祭で迷子を助けていたこと。

 いつも薬をやりとりするときに感想とお礼を言うこと。

 下層まで見回りに来ていることなどを、指折り数えあげてくる。

 どれも誰にでもできることで、グレイシアスは根拠になっていないと返す。

 彼女は、うん、そうかも、と、やはり澄んだ声で小さく笑みをこぼした。そうして純真な瞳で見つめられ、彼はよくわからない居心地の悪さを覚える。


 そうしているうちに、できた、とカナリアは言って彼の腕から手を離す。

 手当が終わったらしいそこを彼は眺める。巻かれている真っ白な包帯は、彼自身が手当をした時よりも遥かに丁寧だった。

 優しく穏やかな声が彼の名を呼ぶ。

 彼女の声は不思議と耳に心地よく響く。

 ねえ、グレイシアス。

 天使って、どんな生き物なの。

 首をかしげる娘の問いに、グレイシアスはわずかに目を見開く。

 だがやがて目を伏せると、彼は知らない方がいい、と答えた。


 ※


 赤い血溜まりが、床を濡らしていく。

 剣先を伝う鮮血の雫と広がっていく血の香りは、遥か昔から続くこの街の罪そのもののようだと、グレイシアスには思える。

 上層にある民家の一室だ。中央に食卓が置かれ、普段であれば一家が温かな団欒を囲むはずのそこは今、惨劇の場に成り果てていた。机や戸棚などの家財は荒らされ、引き倒されて散乱し、壁には獣が大爪で引き裂いたような傷跡がいくつも刻まれている。戦いを終えた兵士たちの足元には、無造作に男と子供の死体が転がっていた。部屋の片隅から女の啜り泣きが聞こえてくる。

 そばにいた仲間の兵士が、厄介だったな、と呟く。

 ゴーシュというのが彼の名だった。普段から何くれとなく声をかけてくることが多く、共に戦いに臨むことも多い僚友の言葉に、グレイシアスは短く、ああ、と返した。倒れ伏している男の死体。その背中から広がっている木の枝のような白い翼に目を落とす。


 この街には、天使と呼ばれる人外が隠れ潜んでいる。

 彼らは人に化け、いつのまにか隣人と取り替わり、そして人を襲う。

 人と天使を見分けることはできない。

 正体を表すその瞬間まで、彼らは人間と僅かな違いも見られない。

 だが天使はある時、唐突に本性を表し人を襲う。つい先ほどまで笑顔で語らっていたはずの友を、愛し合っていたはずの家族を、何の躊躇いもなく手にかける。

 彼らは背中に一対の白く輝く葉脈のような爪を持っている。

 言葉は通じない。なぜ人に敵意を向けるのかも分からない。

 だが一度天使として人間に牙を向いた彼らは、二度と人の言葉を操ることはなく凶暴、残忍な化物に成り果てる。

 それが天使について、この街で説明されていることの全てだ。


 この街の至る所には鐘が設えられており、天使が出た際には近くの鐘を鳴らす決まりになっている。その鐘の音を頼りに駆けつけ、彼らをなるべく早く殺すのが、この街の兵士――――天使狩りであるグレイシアスの、最も重要な仕事だった。

 今回の天使は街中で暴れ出し、駆けつけた天使狩りたちによって剣で駆り立てられたが、手負いになると逃げ出し、最後には民家に逃げ込んだ。それがこの天使が家庭を営んでいた場所であったのは、決して偶然ではないだろう。そこにどのような意図があったのかは、もはや知る由もない。家屋に立て籠り、狭い場所で羽根の爪を振るう天使を相手取るのは難しかったが、四人がかりでようやく息の根を止めることができた。子供は助けられなかったが、もう一人の家族が生きているうちに殺せただけましと言えた。


 達成感などない仕事だ。この街では、誰かが負わねばならない役目。

 天使の力は強く、一度現れれば周りの人間に犠牲が出るのは避けられない。

 戦うための訓練を積んだ天使狩りでさえ、命を落とすことは珍しくない。

 彼らの行く先にはいつも血と悲鳴が溢れている。目にするものは誰かが嘆き苦しんでいる姿ばかりだ。そうしてこの街の絶望は積み重ねられる。


 人殺し、と半狂乱に叫ぶ声が響く。

 グレイシアスやゴーシュら、その場にいた天使狩りたちは弾かれたように部屋の片隅でうずくまっている女へ目をやる。錯乱しているのだろう。涙を流して絶叫する女は、すでに理性と狂気の境目を見失っているようだった。大粒の涙があふれる双眸には、絶望と怒りが宿っている。

 震えてこちらの顏へと差し向けられる人差し指。

 それをグレイシアスは無表情で見返した。自分の夫が天使であったことを理解していないのか。それを受け入れられずに喚いているだけなのか。――――あるいは、全てを理解した上での糾弾なのか。

 珍しいことではなかった。天使の見た目は人と変わりない。

 その血は赤く、亡骸は元の人間の顔をしている。だから天使を討滅する彼らは、人狩りのような目で見られることもある。

 行くぞ、とゴーシュがそっけなく嘆息して外へと出ていく。

 グレイシアスは黙って手にしている剣を見やる。

 天使は人を殺す。だが人もまた天使を殺す。

 殺意を向け合うこと以外に違いがないのなら、人もまた化物のようなものだ。

 人の形をしたものが殺し殺される街。罪悪を塗り重ねて続く営み。

 血に濡れた刃に誇りはなく、ただ諦念だけを映して久しい。

 部屋を満たしていく叫びと血の香りの中で、グレイシアスは瞼を閉じた。

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2024年12月25日 00:00 毎日 00:00

楽園 八塚ケイ @yatsukakei

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