第9話 放課後
―――そこには歩きづらい道がある。
―――それから
それは、文芸部に沙紀といた―――とある放課後だ。
沙紀は俺のお年玉やお小遣いをお菓子に変えさせる名人だ。手元にある、アラフォートとかいうものは、もちろん俺が捻出している。時には、來果や恭介っちがお菓子をあげたりしている。飼育員としては、ケダモノにお菓子を与えてはあげませんよ、と言いたいが、沙紀は天使の成分をお菓子だと言い切っている(?)
夏には俺の懐が燃え尽き症候群になるが、やり直しの機会を与えてくれた事情もあり、毎月のお小遣いが消え、目減りしていく残高というわけだ。こいつ一体地上に何をしに来ているのかと思いはしたけれど、沙紀には沢山の友人はいれど、沙紀ほど親しげに接している人物はいない。
それはやはり、きのこ山とたけのこの里だったりするのだ。自分でも―――
そしていまは、お菓子を買うためだ。
そんなことを考えながらの夕方、さて、そろそろ、と沙紀が言い始めた。ヒロイン救済イヴェントの開始だ、とか宣い始める。
「馬鹿、ヒロインなんか、いないよ。俺は友達を作りに来たんだ」
「女の子に馬鹿っていうのはルール違反、誰も幸せにならない呪いの言葉。呪詛。やめて、そんな言葉、誰も望んでない、テレビがあって、ワイドショーがやってるんだけど、何も頭に入ってこない、芸能人の噂話、辛い、へーあの人が、へー、あの人もねえ―――だからユニセフを泣きながら見ていた(?)」
「・・・・・・沙紀さん(?)」
「ゴゴゴゴゴゴッ! つまりこういうことかい、アンタは私の母親になりたいけど母親じゃねえ、実母VS義母の闘い、心の中では産みました、あの子はわたしのもの、破水して三時間後、二八八〇グラムの元気な女の子を生みました、なにを言うかこの女、育てながら、オスに性転換して育てました(?)」
「・・・・・・あの、沙紀さん(?)」
しかし來果がまだ、部室に来ていないことを訝って、読んでいた本を机に置き、席を立ちあがった。それに、近頃教室の中で、正直一切関わり合いになりたくない辻井小夜子達のグループと揉め事になりそうな出来事があった。
正直、俺の隣の席だから來果に何かするとすぐに分かる。あっ、ごっめーん、とか言って鞄をわざと机にあたるようなことをしてきた。
程度の低い嫌がらせだ。もしかしたら見ていないところでは、こういう類のことをやられているかも知れない。來果は堂々としてニコニコし、俺も傍観者を決め込んだ。どうせ、ろくでなしの奴等だから、やっかんでいる類の絡みだろう、無視する他はない。やり直す前の地味な來果にも、そういう程度の低い嫌がらせをされていたのだろうか。俺は、一人で過ごすことが多く気付かなかった。
不意に思った。差別や迫害は最初からワンセットだ、それを回避するために知識が必要だ、アナウンサーの基礎知識の放送禁止用語みたいに―――。
マーケティングとか、ターゲットじゃないけど、こういう場合、こういう人がいてとか、こういう界隈があるだろって思う。そこにズレはない。直感的にいっても、感覚的にいっても、情報的にいっても、でも、それがいざ、人に話すとズレ始める、連想ゲーム。
落ち着きをなくしかけた鼓動が、たまらない不安に締め上げられて眩暈がする。
けれども気付いたところで、辻井小夜子達のグループには手を出そうとは思わなかっただろう。暴走族との繋がり、援助交際、クスリの噂、関わり合いたくない要素がてんこもりだ。昔の俺はそんな奴だった。でもいまは、その気になれば職員室に乗り込んで大立ち回りをし、生徒会、PTA、警察という国家権力を使ってでも徹底的に抗戦する。ただの高校一年生と、大学四年生の間にはそれほどの変化がある。
ただ、昔だって今だって、心の何処かではそういうのに見て見ぬふりをしたい。
沙紀が真面目な顔をしていた。
「もちろん、気付いてるよね?」
何について言っているのかはそれはわからないが、明白だ。
もしかしたら來果が自殺をした理由に、辻井小夜子達のグループが関わっているかもしれないという可能性は知っていた。健康体の毛穴からしみいる嫌な気持ち。一つや二つじゃない、何年も積み重なるとそれは取り返しのつかない病気のようになる癌みたいなものだ。來果と過ごした楽しく過ごした時間の結晶が、記憶の底にある、底のない憂愁の色に染まってゆく。
「來果ちゃん、守ってあげられるよね・・・? まずは教室へ行って」
教室に戻る途中で昇降口に向かう來果の姿を見た。いつもは見ただけで愛犬さながら襲い掛かってくるのに、こちらに気づかなかったのか、とぼとぼと俯いたように歩いていった。薄い背中や、弱々しい様子、周囲が見えていないぐらい落ち込んでいるようで、すぐに追い掛けるべきかも知れないと思ったが、沙紀が教室へ行ってという言葉が引っ掛かった。自分のクラスに近づいたとき、教室から女子の声が聞こえた。誰かが残っているようだ。瞬間、スマホで録音を開始した。音声が聴こえづらくても問題ない、沙紀はこの為に俺を教室へと
心の中ではあまりに多くのことが動きまわっているのさ、
これまでに起こったことと、
(まかり通る世の中の仕組みにカルマが増えてゆく、)
まだ起こっていないこと、
(願いを込めた思いの行き先は、ドンキ―ホーテの風車、)
最後に、心の中以外では絶対に起こらないこと。
しゃべって/いる
よるべ/ない
まるで防犯用のCCTVカメラでも覗いている気持ちにさせられた。状況分析シークエンス開始。顔面構成要素分析、人数確認、良好。
さあっと、やさしく軽い音をたてながら、カーテンの方で、波を打つ。
すると、まるで海の波みたいに、
一本のほぼまっすぐな線となって横に広が―――る。
不意にスターティングゲートに入るのを嫌がる馬みたいな自分を想った。
「ったく、ケッサクだよねー」
神経に障る、ひときわ大きな声。それに続いて笑いが起こる。
いつもの取り巻きが一緒にいるようだ。彼女がいるだけで教室は荒廃し、月面のクレーターのように変わり果てる。俺は俺で、ガリバーが小人の世界を彷徨ったような巨人の気持ちを想像している。
「でもさあ、ちょっとやりすぎじゃない?」
「いいんだよ。あいついっつもヘラヘラしててムカつくし」
取り巻き二人が交互に言う。相原みよ子に、槇原佳代だった―――か。全然笑うところでもないのに、笑ってる人を見ると、怖いなって思う時ある。精神医学方面明るいから、病名浮かぶ。駅で歩いている人を見ていても顔見てるだけで、あ、この人は鬱かも知れないって思うことある。
連続する、抵抗する。
接続する、単純化する、複雑化する。
笑いの一番奥へいくと、笑う人も病気だし、笑わせようとしてる人も病気だ。
そしてこんなのが文化だって思っている。どこかの宗教の人はずっとダジャレ言って信者に笑いをとる、平和だ。それを知った人が、こんなんだったら自分でもできるって言う。違うんだよ、平和なん―――だ、頭の中に蛆が湧いてる・・。
ダンテが語った、鮮烈な地獄―――放射性元素の名前でもあるプルトニウムは、冥界の神ハデスへの門の名・・ 米オハイオ州シンシナティの廃地下鉄駅―――。
―――俺はそれを、『不気味な森を彷徨っている感覚』に似ていると感じる。
人が死ぬのが面白いって感じるような歪んだ心を、欲しがっているような世界じゃ、困っている人を虐げる、真面目な人を馬鹿にする方が面白いらしいや、これがSNS、これが底辺教育の金字塔。
百の言葉を煮詰めたような重苦しい言葉で、俺は呪った。
誰一人として、胸の中にきちんとした
「窓から鞄を投げ捨てるなんて」
窓から鞄を投げ捨てる? 誰の?
俺は自分が温厚で、面倒ごとを避ける人間だと思っていたけれど、全然そうではないことを思い知った。やられたら数十倍にして返すべき、と咄嗟的に思った。
人を殺しても罪にならない『ゾーン・オブ・デス』と呼ばれるエリアが、アメリカにある。イエローストーン国立公園の細長い西側だ。
そこにはアメリカという国の法律の問題がある。簡単に言えば犯罪が起こった時、その州から陪審員を選ぶのだが、このイエローストーン国立公園は複数の州が管轄する場所、ましてやこの細長い西側に人は住んでいないので、人を選出することなど出来ず、裁判自体が行われないと理論上はそうなっている。
見て見ぬふり、不条理で、理不尽な、暗黙のルール。尊大とか横柄というのは、クリスマス・ツリーに、季節外れのビーチ・サンダルを飾るようなもの。
「なに言ってんのー。小夜子がやれっていったんじゃん」
「そうだよ。この、小悪魔ちゃん」
三者、哄笑。
―――不意に映写機が途切れる・・
(なんてうすぎたねえ
舌打ち、咳払い、ののしる声、悲鳴、重い物が倒れる音・・、
二律背反、追従笑い、げっぷ、ヒステリーの爆発、
暗い世界の皮肉な空の形に砂をふりまくような構図、
昂奮、生物が凍りつく気配、
繰り返される砂との闘い・・・。
ドミニカが一九〇〇年に発行した一枚の切手がもとで戦争が起きたという話はどうだろう。それは西インド諸島のイスパニオラ島の地図を描いた図柄だが、ドミニカとハイチの境界線があり、それが誤っていたことで武力を行使したという話。無論、戦争をおっ始める連中にとって理屈など何でもよかったに違いないが―――。
―――どうでもいい世界だ。
―――だったら、俺と俺の愛する人以外、
どうだっていい世界だ・・。
そこまでを録音した上で、職員室へ行き、担任他に録音内容を聴かせ―――た。所々聞き取りにくかったが、辻井小夜子、相原みよ子に、槇原佳代だと名指しし、どうも、木ノ内來果の鞄を窓から投げ捨てたようだと説明した。更に学校生活が始まってからも小さな嫌がらせのようなことが連綿と行われてきた、ならびに、辻井小夜子の素行不良ぶりも、説明した。
とはいえ、子供同士のことだからと言いそうになる教師の前で机をバッコン叩いて怒りをあらわにしたポーズをし、
「やっていいこととやってはいけないことの区別もつかないんですか、
これは、イジメですよね、PTAや生徒会にも報告させてもらいます!
なれ合い主義はいい加減にしろ・・・!」
と言い切った。ちなみにフカシではない。PTAには恭介っちの母親がいたし、生徒会には淳が入っていた。その気になれば昔だって今ほど上手く立ち回れなくても、駆けずり回れば、來果は自殺しなくて済んだのかも知れない。
暴力にだって対抗手段はある。
何ということはない―――超がつくほどの、八つ当たりだ。聞いている教師側にとっては超面倒臭い生徒に違いないが、そこまでのオーバーリアクションをしなければ伝わらないのだ。世代が違う、認識が違う―――という、温度差がある。
いつのまにか、教頭先生や校長先生も話を聞く側に加わっていた。
でも反応の薄さはやむをえない。熱意だけではこんなものか、と思う。没価値的な認識が襲う、それはあざらしが原始の海へ引っ張り込む合図だ。
不安な想像を、
「もし今度のことで、辻井小夜子、相原みよ子、槇原佳代の三名が停学ないしは退学処分を受けないのなら―――」
そもそも、信用したり期待するから疲れるんだ、面倒くさいんだよ、と。 誰も
違う・・ちがう―――チガウ・・・。
無駄かも知れない。駄目かも知れない。それでも、そうじゃない、そうじゃないって言わなくちゃ駄目だ。肩の張りや身体の力が、ずるずるずると落ちて、流れていくように感じる。でもそれが、人生の致命傷なのではないか、と思う。それが、俺のアキレス腱なのではないか、と思う。
実存主義の哲学者セーレン・キェルケゴールは、著書『死に至る病』において、絶望の根底には自己意識があり、絶望とは死に至る病なのだと述べたうえで、絶望の対極に神による罪の赦しを挙げている。
―――やり直しの人生は、そういうものでもあると信じたのだ。
打ち付ける釘じゃない、打ち付けるロングソード。きつすぎる、もう心折れるとかいうレベルじゃない。諦めて引きこもりたい、穴に隠れたいレベルだ。
だって
活字をつまみ出すような無感情さで黒い蝙蝠が生まれる。記憶の奥底にある人間という黒の書、
青い酔った炎がゆらいでいる光景として見える。逃げられないし、仮に逃げられるとしても、逃げてはいけない、という気持ちが冷たい心臓の上を玩具の猿のようにころがってゆく。本当にこんなことに意味があるのか、このカードは通用するのか。冒険というマップ、あるいはそのフィールドワークがどんなに夢にあふれたものでも、ロボットメールに等しい、と思う。
慢性疲労症候群の漫画家が、真夜中に書き殴った夢見がちな言葉ぐらいいらいらする。ふつふつと湯がたぎるように
―――
―――【
それでも、それでも、それでも、だ。
ここで、心をふるわせて、自分の気持ちと向かい合わなくちゃいけない。
そうしないと、この受刑は終わらない。
この
「その話、詳しく俺に聞かせてもらえないか・・・?」
背後を見ると、制服を着た男子生徒がいる。何処かで顔を見たことがあるなと思ったら―――何ということはない生徒会長だ。名前は忘れたというより、元から知らない。淳が俺の肩に手を掛けてきた。
「なんか職員室で、久嗣が教師相手に揉め事を起こしてるって聞いて、
生徒会長を連れて参上した次第だよ―――」
ナニソレカッコイイイ、と思った。淳がモテる理由がわかった気がした。だが、それだけではない恭介っちも肩に手を掛けてきた。
「教師に通じないんだべ、それならPTAに話持っていくべ、
久嗣がこれだけ言ってもわからないんなら、話なんかしても無駄だべ」
チョウオトコマエ、どうしてモテないの、と思った。
校内放送で辻井小夜子、相原みよ子、槇原佳代の三名が校長室に呼び出され、両親も学校へ呼び出されるという話がまとまり、さらに、教師連中が黙認していた素行不良な行為もあって―――停学という運びになった。
が、この停学は自主退学を勧めるものである。実質的な、もうあなた達は学校に来ないで下さい、というレッドカードを勝ち取ったことになる。
それに今度のことで、淳や恭介っちも一肌脱いでクラスメートを説き伏せて、こういうことが二度とないようにすると言ってくれた。二人も、俺ほど身近に見ていたわけではないにせよ、何となくは、知っていた。
「下手に手を出すと來果ちゃんに迷惑がかかる―――っていうのは、
やっぱり言い訳だよな、一番辛いのは來果ちゃんなのに・・・」
と淳が落ち込んだ顔をする。
わかってやれかった、と。
人生をやり直す前でも、來果を知っていた淳はこんな顔をしていたのではないだろうか。止められる立場の人間であることよりも、止めようとする意志があったことで、深く深く、自分を傷つけることがあったんじゃないだろう―――か・・。
汝を愛するが如く汝の隣人を愛せ。
人間に植え付けられた想念の実が熟し、弾けると誕生する、悪夢。
「俺は職員室に乗り込んで何としてでも、來果ちゃんを守るんだべっていう、
久嗣の気持ちが必要だったんだと思うよ・・・・・・」
と俊介っち。
いつもは明るい俊介っちが、しょげ返っていた。
クラスメート、文芸部、そしてメイド喫茶、淳の早朝トレーニングみたいな場面が思い浮かび、それが、來果を思いやる人間のごくごく有り触れた優しい感情である気がした。優しさは時に、自分を傷つけようとする―――のだ。
だって優しさ、あるいは良心というのは、人間の最もか弱い
難民キャンプの話を思い出した。教育を受けるべき子供には教師の質も数も十分ではない。難民キャンプでは父親による母や子への暴力が横行し、仕事のない父親たちは一日中家にいざるをえず、苛立ちが暴力になる。そして夜間に外へ水汲みやトイレへ行けば性暴力の可能性も否定できない。
PTSDの発症。不眠症。コレラやマラリア、黄疸、肝炎、結核、HIV、腸チフス。
そして文化や宗教が違う者同士の口汚い言い争い・・。
優しさ―――で、もちろん救われるようなことばっかりじゃない。
二人とも、何処か、昔の俺のようなところがあることに気付いた。それでも、何処が明確なラインなのかなんて、当人以外にはわからない。
それが、いじめの難しさなんだという気もした。
もちろん様々な出来事が膨れ上がった末に、咽喉元までこみあげている気持ちがあるというのもあったが、その場限りの出任せとは違っていた。
その言葉は、昔の俺とは明確に違っている。だって二人は、メイド喫茶で働いている來果のことを知っていた。今の俺の行為がただの八つ当たりなのとは違う、もっと重くて、もっと、信頼できる類いのものだ。
「でも、二人とも職員室に乗り込んでくれた。反応が薄くて、正直こんなの続けても意味ないだろうと諦めかけていた」
俺は淳と恭介っちの手を握り、眼の端に涙をにじませた。もし彼等を責めるなら、あの時の自分の心も同じように責めなければいけないだろ―――う・・。
「心強かったよ、本当にありがとう・・」
「やめろよ、照れ臭い、友達だったら普通にそうする」
「そうだべ、友達が困っていたらいつでも駆けつける」
その言葉は、何というか、一生の財産のような気がした。もちろん世の中そんなに上手くはいかない、今回はたまたま上手くいったけど、したくても出来ないことだってあるに違いない。けれど、その言葉の強さ、明るさは、人生をやり直して本当によかったと思えるものだった。
「いいムードになっているところ悪いけど、そろそろ、
來果ちゃんを迎えに行ってあげてくれない・・・?」
といつのまにか現れた沙紀が言う。
背後にはジャージ姿の、麦藁帽子をかむった後藤がいた。
「ヒロイン救済イヴェント(?)」と言った。
ピザやドーナツが入れられた箱のリサイクルが難しい話みたいだな、と思った。本来、紙自体はリサイクルできるが、食べ物の油が紙の繊維にまで入り込んだ油を完全に分離するのが困難だからだ。
「きっと、來果ちゃん泣いてるわ。こういう時、わたしや誰が行っても意味がない、こういう時は、たった一人しかいないのよ」
と沙紀が言ったのはいいのだが、何でシリアスなムードの場面でニヤニヤしたり、時折笑い声が混じっているんだ。折角の友情場面が台無しだ。
興奮の栓が抜けるような気がした。
「あとでみんなで、何処かで落ち合おうよ、三時間は軽く見ておく、
ああ、ヤッたんだなと見て見ぬふりしておく、
大丈夫、ハゲしかったんだなと思っておく、
何も言わなくていい、テカってるなって思っておく(?)」
―――そんなことしねえよ。
俺は職員室廊下から昇降口に向かって駆けていた。そして昇降口を出て、自分のクラスの窓の下に目を向ける。そこに、來果がいた。散らばった鞄の中身を拾おうとせぬまま、ジッと、蹲っていた。それが、やり直す前の來果なんだという気がした。道々持ちきれないほど用意してきた慰めの言葉や、明るい未来なんかも全部吹き飛ぶほど、忘れてしまった。草叢に逃げ込んだ蛇の尻尾みたいに、來果が、遠くへ行ってしまうような気がした。
曲がりくねった、道・・・未知―――。
(通り過ぎたんだろ―――う、ね・・)
(思い出せないけど―――いま、は・・)
気が付くと、來果の背中から腕を回していた。氷のように音もなく、心の中に入りこんでくる、格子。
それが幻のように美しく彩って、人の心を捉える。そして、ロールプレイングゲームっぽいテロップが脳内に出る。
復活したキリストの声を聞いたと信じて回心したパウロ?
唇が動くのを見て―――いた、引力と重力みたいに、頭の中で水溜まりを踏む音がした、もう触れられない、小さな音がした。
生の悩みの根本に触れ、さらに一歩進んで、その反逆の事実に触れる。
全身を冷気で掴み、骨の髄まで凍らせ、心臓を凍らせた夜―――を、知っている。灰色の日は続く、そしてまた次の日という名の灰色の日が続く。この街に潜んでいる、無力さ、その陰気さの底には怨みや悲しみがある、人々がする冷笑は博物館の硝子棚にあるみたいで、屏風の薄れた絵のような景色を、感情をなくして眺めるような日々、夜が夜の中にしかないことをくっきりと照らす、時の残酷な言葉である平等や自由―――を。
間違って――いた、
間違って、いたのだろうか?
トマトの皮のように中が透けて見える。
少し考えて、出した答えは、イエスだ。
「えっ―――えっ・・・」
來果の声が聞こえ―――た。
でも俺は、飛び降り自殺をした來果のことを考えていた。
“敵”―――“障害物”
誰かを守るってどういうことなんだろうと考えて―――いた。消えていく星を捕まえて、君臨する、シチュエーション、心がずんずん染みわたって、ほのかに煌めくような胸の鼓動を感じ、る。尖って、危なっかし―――いけど、だから優しくなれる、
嘘をつかないで済むと思う。あと、ちょっとなんだよ、辿り着けそうで辿り着けない、水位が上がってる、気ぜわしい波音が何か囁いてるような気がする。救われないと、大人になるのが嫌になる。風邪を引いた肉食動物。人生の障害物は、この高い壁は、誰でも一つ一つ、簡単にクリアしていけるものじゃない。人生の道に迷ったような顔、無秩序な霧のような顔。
時間の速さは違う、モチベーションも違う。
けれどその貴重な経験が大きく異なることはない。仮にそうではなくとも、そこで踏みとどまれない人も、大勢見てきた。
ねえ、もっと静かな気持ち―――で。
ねえ、もっと胸をひたして高まってゆく熱情―――で。
付き合う、一緒に生きてゆく―――とは・・。
何度も耳にした、口にした彼女の名前・・・・・・。
「ごめん、全然何もしてやれなくて、嫌だったよな、
でも、もう大丈夫だ、淳や恭介っちも俺も、沙紀もいる。後藤もいる。
みんな、來果さんのこと心配していた。
これからはもう、こんなことが起きないようにする、でも無事でよかった、
いまは、心の底から神様に感謝している、
本当に、本当に、よかった・・・・・・・」
「久嗣君・・・・・・」
しんみりとさせる―――声・・・。
來果は泣き声をあげたので、もう少し強く抱きしめた。
いつもなら躊躇することも、いまは平気だった。支えになりたい、と思った。困ったことがあったら今日みたいに何とかしてやりたい、と思った。泣きじゃくった子供を泣かすままにする選択をして、そうしていた。とても疲れた。けれど、逃げるわけにはいかなかった。それが頼りない自分の役目なんだという気がした。もしかしたら今度のことで逆恨みして來果に何かしてくることだって、考えられた。返り討ちにしてやるというぐらいの力が、欲しかった。
*
と、そこまでは、よかったのだ―――よかった・・・。
そしてどうしてこういうことになったのかはわからないが、來果を膝枕している。太腿にかかる体重の主は、
全身の力が、手の指の先からふっと抜けてしまう。
―――世界は思いがけない形で、かすかに乾いた音をさせ、蝶が
アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテンの美学。
どっちが―――
夕方、影がまつわり、
見上げれば、星も、波に打ち上げられた貝殻のように
さっき様子を見に来た淳や恭介っちや沙紀が、敬礼して、本当に何も言わず去っていった。職員室の大立ち回りを演じた友情も、色事の前では遠慮するのが作法らしい。誤解なんだよ、何か流れでこうなっているんだということぐらい―――ニヤニヤしている沙紀はわかっているだろうに、本当にこいつ天使なのだろうかとやっぱり思うのに、文芸室でのあの必死に救済を促した天使の片鱗は何処へ行ったのか。
LINEが入っていた。それが沙紀からだった。多分、いや、絶対ロクなものじゃない気がしたが、やっぱり見た。そして、何しろやっぱり、ロクなものじゃなかった。
「“出ないけど、ウッ、マジキモチイイワ、って言ってみてね。
みんな、欲望を満たすためだけに生きてる、パブロフドッグってる”」
―――
「“手錠と首輪と、ポケットハンディカムが俺の武器さあっ!
細胞分裂を続ける三十八億年の記憶の旅の行方っ!”」
―――おーいえー(?)
女性はしなを作り、喋り方を変え、服や化粧を覚え、ファッション誌や、テレビの向こうの、よくいる美人みたいに中身がなくなってしまう。脳味噌は水を吸って膨らんだ市販の熱冷ましみたいだ。
そしてみんな沙紀みたいなイカレポンチになってしまう(?)
アメリカのデンヴァー近郊に住むジャラルド・フースはモーテル自体を買い、屋根裏に細工し通風孔と見せかけた穴から、毎夜宿泊客の夜の生活を覗き、克明な記録を付けていたという話を思い出す。
ここからは校舎の側面が見え、黒く塗りつぶされた非常階段も見える。 避難階段における侵入防止対策―――地震や火事の避難経路・・。
サア―――ッ・・と、風が吹くと水晶の底のような空の雲がうごく。
ぱりっと突き砕けるような、
イメージがタグのように消えてゆく―――夢の深淵の腐葉土みたいに。
ここまでできるのよ―――は、上目づかいで。
ここまでわかるんだ―――は、優しく首を傾げる・・・。
就寝中の仮面(デスマスク)ではない、惚(ぼ)けた、愚劣な謎を含んだ微笑―――が、風を孕(はら)んだ、水色の気持ちのいい時間を過ごしている・・。
人生で一番清々しい一瞬じゃないかと言っても、嘘にはならないと思う。
が、涸れた井戸に石でも放り込むみたいに、世の中そんなに単純ではないことを思い知ったり―――する。
たとえばそれは掃除機の細長い棒でまさぐるもの。箪笥。冷蔵庫。すきま。
時々ぼんやり思う、それって、こころのすきまだ、と。
『
『
柔らかな牡蠣でありながら恐れるものを知らない眠らないまぐろ。瞳は無数の微細なかすり傷を持った鋼鉄の眩い断面、角膜が、虹彩が、『妖精のエアと死のワルツ』という有り得ない楽譜を、鳴らしているような気がする、夢のヴェールを下ろして、心拍数が、一三〇から一四〇。脳の酸素容量が減って、言葉はこんな時に、感覚的神経記号で、情報処理装置の機械になった。
―――
「・・・・・・ふや・・・うにゅ・・・」
と、とぼけた声が聞こえ、彼女がゆっくりゆっくりと、寝返りを打つ。頬に泣いたような痕があり、やっぱり疲れたんだろうな、と思う。男の太腿なんて気持ち悪い以外のものでしかないが、來果さんの枕として機能としているのならよいのだろう。
彼女の強い張りのあるアキレス腱が膝裏の窪みを作っているのを見ていた。拒食症でも心身症でもいい、自分の身体さえ上手に持ち運ぶことができない、そんな足を考えていた。
感覚の一つ、一つが、何処か、遠くの方へ抜きとられていくみたいに物語の枠組、メタフレームの中に、古いフィルムがひっそりと背景にへばりついている。水面に浮かび上がる紋様や、屈折や、泡立ちや、影・・・。
おおばこの生い茂った夏の道の蛇の印象―――。
「“ラブコメでは、頭ナデナデからの膝枕は、高等技術なのさー”」
沙紀、その情報は本当なのか・・・?
「“ラブコメでのこの安眠枕は精神安定剤。
香り袋みたいな効果がある”」
“保護欲”というものがある―――らしい。
“庇護欲”というものがある―――らしい。
何重もの
段々『気配』の域を超えて、いろいろな種類の狂気が集中し、
『見えるもの』の領分へ入って―――くる。
―――ゆりかごのまどろみ。
―――ひとみ、ささやき。
それがしぶきを上げたように吹き出し、迷路のような、黒錆色の背景を完成させながら、セロフアァンのような
雲の切れ間から突然のようにうつくしい飛行機雲があらわれたみたいに、幼な児の眼の清浄な感覚は時計のようにちくたく音を刻む。
人に知られずに播いた一つの
アーダルベルト・シュティフターの、水晶のような
果物の腐蝕にもこれ以上進めない固い芯のような種子がある、見えないものが線やまだらとなる、この眠り。そろそろ、最終下刻時刻になるかも知れな―――い・・。
―――あの
―――あの
俺は待っていた、この一瞬を待っていた、すごくつまらない顔をしながら、哲学の欠陥を、極東的無個性人物の悲劇を、待っていた、意志と感情の時間割りを、不安定な状態で、少し迷い、足掻き、不安に駆られ、眠れぬ夜を過ごしながら―――。
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