第7話 図書室
頭上高く、一羽の鴎が、静かにのびやかに、大きく、悠ったりと、天上の帆船のように滑るが如く飛んでいた。窓の額縁構図。
ここは、図書室、それは静謐なる楽園であ―――る。
学校図書館法において、小学校・中学校・高等学校には学校図書館を設置し、さらに司書教諭を置かなければならないと義務付けられているが、そのような影も形もなく、もっぱらは昼休みや放課後に図書の貸し出し・返却を受けつける、送受信所であり、また、小工場といった要素もある。
たとえば紀元前一四世紀のヒッタイト王国の首都ハットゥサから、膨大な粘土板のコレクションが発掘されたように、知性は国を形成する一要素だ、それゆえに、ここは陰性の王国、本をもたない修道院は武器をもたない要塞、といったように・・・・・・。
誰も読まないまま埃をかぶっている百科事典の淋しさ―――。
・・
古めかしきものから今めかしきもの、へ。
しかし
春のなま温い風は、いたずらに人の面にうちつけに入り淫れよう、桜よ、そは陰性の花、神経衰弱者の強迫観念や憂鬱感や破綻の、―――エントロピーの大海、超絶主義者の栓をした瓶に封じ込められた、暗黒の海に、投げ出されよ―――う・・。
そこで俺はスマホからLINEの天使様が映った写真を見せる。文芸部の部室は、別名、図書準備室である。こうやって一枚の扉を行き来して、本を読みに来たりする。彼女はくすくすと笑いながら―――。
(余白の中にある。
情報処理できていない九九.九パーセント、)
「沙紀ちゃん、コスプレしてますね、可愛い」と言った。
*
―――想像して欲しい、何処か遠くで、かすかな長いチャイムの音。
男は旅を思った。女を連れて、世界の果てへ遠く旅立ってしまおうか、と。
それぐらい夕陽が射しこんだ図書室は神秘的だっ―――た、
それが書物の世紀末的光景、臨界値を大幅に破ってしまったマツキヨ的ないしはドンキ的惨状だったら、どうだろ―――う、ソドムヤゴモラの地のことを考える、分裂症的愛憎。頽廃芸術のエルヴィラ写真館。異邦の禁制の思想や、猥画、それこそ海か密雲に対するように茫漠とした美感にうたれて、俺は本棚をすべて押し倒すという、ドミノ倒しに挑戦するべきではないか、妄想は、小さな、美しい奇蹟を、眼の前に、スライドする・・。
“世界の秘密に触れること”(は、)【宗教と信者】
“宇宙の秘密に触れること”(は、)【水槽の中の脳】
とはいえ、雨の日や曇りの日の、安っぽい蛍光灯というのも乙なものだ。狭く暗い階段に通じていて、その先に見える、こぢんまりとした灯りを燈す秘密の部屋のような雰囲気がある。世界から隔離された場所のようにも思え、訳もなくワクワクと胸を躍らせた―――もの・・。
心の声も透きとおってきこえてきそうな、濡れ場。
青春群像劇の芳香性幻想が廻―――る・・。
雨上がりの夜空みたいな顔をしていたいけど、
潰れたスライムみたいな顔してたら本当にごめん、
どうするのって聞いてほし―――い、“きみ”・・。
どうするのって聞いてほし―――い、“きみ”・・。
*
などというのは、たんなる俺自身の誤魔化しにすぎない。俺は考えるんだ、
(
(手を伸ばしている内に、俺の記憶は急激に過去へと遡ってゆく―――)
何の意味はないと知りながらも、それは大きな吸い取り紙である。
彼女は自殺をしている。そして俺は俺で、人生を一度終えている。交通事故で、死んでいる。接点のなかった二人が結びつく、妥当な理由、それは高校生にやり直さなければけして見えてこないルートである。ナスカの地上絵とバミューダトライアングルがごっちゃになったようなもの―――だ・・。
だからもしかしたら、俺のように、來果も人生をやり直しているのではないかと思う。もちろん、これだって、淳や恭介っちにも言えることだ。彼等だって、俺にとっては別人だ。面識もなかったのに、いまは、友達として接している。一見それは何てことのないように聞こえるけれど、バタフライ効果、ドミノ効果というのがある。そもそも俺が生きていた世界というのは、やり直しをした人間の効果について述べているわけではない。何しろ、俺が別人であるのだから、それに対して何らかのバランスが崩れるようなことがないと言い切れるかということもできる。同じ世界というものが本当に存在するなら、すべての人間は
何しろ、当人だってどうしてそうなのかを理解しているとは限らないからだ。
(有害な調味料、腐った食料品、変造された薬、伝染病、)
*
文章の字を追っていても、そこに書かれている内容が頭に入ってこない時がある。そうすると同じ箇所を何度も読み返さなくてはならな―――い。
活字で眼を追う時の自然な眠気も、感動した余韻―――も、大切だ。逆に気になる内容にページを捲る手を止めて、インクの微妙な乗り方の差を見つめたり、本の内容と全然関係ないことを白昼夢のように夢想する―――のも。
ドリーミーなスカイハイだってわかってたけどアフターグロウで。
*
じゃあ、って考えてみた。もしかしたらこの世界は俺の妄想なのかも知れない。あるいは、來果の作り出した妄想の世界なのかも知れない。死んだ瞬間に、魂を引っ張り込まれたのかも知れない。
それはいくらなんでもSFすぎるという見方もあるが、結局のところ、そうであっても、そうでなくとも筋が通ってしまうのだ。可愛くなり始めたのか、段々美しくなっていったのか、それは―――世間相手の暮らしそのもの。それは冷蔵庫の中で一番冷えている豆腐やゼリーのように厄介な問題だ。薄氷の張った池を渡るように、より慎重になった方がいい質問かも知れな―――い・・。
閉じられた世界。
終わらない世界。
天使なんていないのかも知れない。そもそも、そんな風に思うようになったのは、何も、天使という存在が非現実的だからとか、ではない。天使に特権があるとしても、バスの乗客をなくすなんていうことをするのだろう―――か。あれは決定的だった。沙紀の存在意義そのものが、致命的に疑問だった。
眼の前に見えることは、天使なら可能な奇跡である。けれどそれは別の言い方を誘う、天使のような力があれば可能な奇跡である。もっと拡大できる、この世界だって天使のような力があれば可能な奇跡である。
そこで、思考を停止すれば、奇跡というのは解釈次第で、天国や地獄にもなることを想う。いまはいい、だって、彼女が何を考えているかわからない―――から。
肉体全部の神経をそなえて内的完結の指向をしたけれど、緊密な細い声が聞こえる、騙したところで、昔の自分を―――おちょくってみたところで、問いに一つ一つ微笑みながら、美しいほど黙っている君よ。
まだまだ保険請求をする、
まだまだ連帯責任が必要なんだろ―――う。
嫌な雲が涌いてきて、風があとずさりしたようにのっぺりと吹く、きっと悲しい秘密を大地に囁い―――て、曲がりくねった川の模様に染めるんだ・・。
どんなことを考えても、妄想だ、有り得ないと言うこともできる―――から。お互いの意志は跳ね返ってゆく。細かい砂、不均一な黒のある陰鬱な影に染められてゆく。俺だって淳や、恭介っちが偽物だとか、作り物だとは思いたく―――ない。
でもそういう気持ちを天使が利用し、來果が得をするように仕向けているのは否定できるものではない。ご都合主義を排斥するのは、たんなる被害妄想だ。そう言いたい。一緒に朝のトレーニングをした淳とアニメの話をし、恭介っちとは文芸部の部屋で本の話をする。沙紀はアドバイスをし、來果とはいつも他愛ない話をする。それをいま、世界で一番大切に思っているのは自分だ。
來果ではない、他の誰でもない、自分だということはわかって―――いる。
たかだか一週間程度なのに、濃密な時間を過ごした。
失いたくない、と思う。
忘れたくない、と思う。
手放したくない、と思う。
だけど、それを選ぶ権利が果たして俺にあるのだろうかと分かっているから、このことを、時たま、熟考させる。騙されるのもいい、知らぬ存ぜぬで、口を噤んでいれば、楽しい夢を見続けられる。ずっと見ていたい思う。大切な友達、そしてもっと大切になるかも知れない、來果の存在が、こうも容易く俺の心を揺さぶる。時計が壁に掛かっているそいつも、コップの中の歯ブラシのそいつも、蒼い顔して、笑いたいような悲しみが流れた―――。
かたつむりのような格好した巻貝の裏側の
空っぽの記憶を磨き上げようって思ったのは正しいの―――か、
わからないけれど、言葉は風に舞う一枚の紙きれ・・。
壊れてゆくメタフォア、何を言っても、考えても、メタフォア・・。
でも、どうだろう、もし沙紀と、來果が同一人物だったらという
それは
博物館は俺に、
眼の前に見える現実ではない、だって人間は分裂したりしない。それじゃあ化け物だ。あるいは、AIのようなものかも知れないし、鏡像のような存在かも知れない。そんなの話をややこしくしているにすぎないかも知れない。それも正しい。だけれど、それは否定できるものではない、何故ならそれは不安だからだ。
莫大な計算量の物理シミュレーションでもしている世界だったらいいのにと思った。『
地球上に極小ブラックホールが発生したらどうしよう、ある日、フィラデルフィア実験みたいな、異次元の口が開いたらどうしよう?
ある日、隕石が落ちてきたら、大地震が起きたら、宇宙人が侵略してきたら、どうなるだろう。いや、何だっていいんだ。近い将来、來果はおそらく俺に告白をするだろう。そしてその瞬間に、必ず訪れる変化がある。それは俺かも知れないし、天使かも知れない。もしかしたら來果かも知れない。
何も起きないかも知れないというのは、甘い考え―――だ・・。
―――これは滅びの美学にも似た、線香花火の一抹の不安なんだ・・。
*
ネットで吹聴されるような類のフリーメーソンが都市伝説だというのは間違いない話だ。それでも在籍していたのは、錚々たるメンバーである。モンテスキュー、ヴォルテール、サド侯爵、カサノヴァ、ゲーテ、ジョージ・ワシントン、ハイネ、ステファヌ・マラルメ、ジュール・ヴェルヌ、オスカー・ワイルド、コナン・ドイル、マーク・トウェイン、シャガールもフリーメーソン。
どうやっても接点なさそうな無茶苦茶なものが、フリーメーソンという一本の糸で繋がると、世界を闇で動かしているような感じは確かに出る。
繋がりのないものを結べば世界は変化が起きる、と言い換えてもいいかも知れない。まるでここは大規模シェルターの中の街みたいだよな、と思う。政治スペース、医療スペース、学問スペース、繁華街スペースがある、大規模シェルター。自給自足のシステムがあって、そこでも人間同士の衝突が、駅前で繰り広げられるパチンコ屋のティッシュ配りの残骸のようにあっ―――て・・。
温かい空気は上に行く。純白の明晰な
その、
世界の終わり、多くの人は混乱し、怒り、そして何処かへ逃げようとする。ゴルディアスの結び目。限られたシェルターのスペースが奪いあいになり、抽選方式が採用され、政治家や大富豪がお金でシェルターの当選を買おうとしたり、落選を知った人は人生を悲観して命を断った―――り・・。
アメリカ政府から核戦争の大気に対する影響のモデル化を委託されていた天文学者のカール・セーガンをはじめとする、研究者グループが、一つのレポートを発表した。TTAPSレポートだ。
核兵器の大量同時使用で広範囲かつ大規模に爆発が発生し、爆発の影響で都市周辺域に大規模な火災が発生。核爆発による灰や火災の煙といった微粒子が、大量に大気中に放出され、その微粒子が大気を覆い、長期に渡って日射量が急減。
(チェルノブイリ原発事故、福島第一原子力発電所事故・・・、)
日射量の減少で気温が低下。植物やプランクトンなどの光合成を行う生物が、日射量の不足や気温の低下で枯死。植物やプランクトンを主食とする動物が飢餓で死滅。農作物や動物の壊滅で食料事情が悪化。放射能を含んだ微粒子の長期滞留や降下により、細胞の癌化や遺伝子損傷が発生。子孫の奇形化や短命化などが発生。
うるせえよ。うるさくない、げらげら、踏切の音がし、救急車の音がきこえていたりする。この街の悲鳴、いま、プラットフォームの白線の
その、一歩前にゆこうとする理由―――。
電気や原材料の輸送は止まり製造工場や機械は稼働しない、
物資の新規製造は困難である、そんな未来。
道が崩壊、瓦礫で塞がれ、僅かな照明で夜を過ごす、未来。
救援物資や避難救助を求める人間がそのまま暴徒と化す、未来。
致死性ウイルスに化学防護服やシェルター内で過ごす、未来。
あって欲しくないけど、あるかも知れない未来。
食糧や安全な水もない、生活必需品もない、トイレも外、風呂もない、そんな生活が想像できるだろう―――か。
自律神経が乱れ、食欲不振、不眠、肌荒れ、
あらゆるストレスが加速する、そんな俺達の未来。
―――あるいはその・・・・・・無限への崩壊、奇妙の虚構の世界・・・。
水族館の前でお泊りできるという話を何となく思い出した。ジンベエザメやカマイルカが泳ぐ水槽の前で眠るのだ。波の音を聞きながら眠りにつくなんてロマンチックなシチュエーションを、ついうっかり考えたのもそのせいかも知れない。
情報というのは、石板・金属板で六千年以上。粘土板で、五千年以上。パピルス紙で、二三〇〇年以上。マイクロフィルムは、百年。洋紙(酸性紙)は五十年。
光磁気ディスクも、五十年。BD/DVD/CD‐R/RWなどは、十年~三十年。
フラッシュメモリは五~十年。フロッピーディスクで、二~十年だ。
それでもいつか、日進月歩の科学は、コールドスリープのように、人間の不老不死の電脳化というワンシーンが訪れるだろう。AIや量子コンピューター、宇宙開拓時代も、やがてその内側を、より深層心理を追求するようになる。
人間の記憶、経験、性格、知識など、その人のすべてをデジタルデータとして再現すること―――だ。今から五〇億年後には太陽は消滅してしまうと言われていて、地球はその前の約二八億年頃には滅亡すると言われている。とはいえ、一兆年後にも残るとか一京年後にも残るとかいうのと同じく、あくまでもパワーワードにすぎない。
「
よっぽど暗い顔をしていたのだろう―――か。
頭の中のシロアリに気をつけなければいけない。
波動であると同時に粒子、時間と空間に展開を与える現実的認識、澱みが、ズレが、狂いが、濁ったまだらや線となって浮かび上がり、昆虫に寄生するハリガネムシのように、俺は次第に麻痺していく。
「いや、何でもないんだ」
「何でもないって顔じゃないよ」
と、來果が額に手をあててきて、一瞬どきりとする。
距離がすごく近いけれど、彼女の眼は明らかにそういうつもりではない。男の子だって一緒だ、結局胸をノックされた―――い・・。
どんな手練手管を使おうが、本当の素顔の前でそんなものは滅びてしまう。
「熱はないみたいだけど、疲れたりしんどかったら、言ってね」
と、彼女は言う。
吹奏楽部の静かに明るいメロディが遠くの空に消えてゆき、
本を捲る音が聞こえ、俺の動かなくなった表情を残して夜が存在感を増してゆく。その内にきっと、いやいまでも、この瞬間も來果の気持ちは取り返しがつかないほど大きくなっているのに気付く。
―――
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