不穏

 この国にはマアタルク神殿の他にもう一つシンボルがある。

 

 ネイタン。周囲四〇〇メートル、高さ五〇メートルの円形闘技場。約三万人を収容できるこの場所で民はしばしば己の力を誇示する。素手と素手でのタイマンが基本だが、時には剣士がライオンや猪の猛獣と戦う『死闘』も人気の催しであった。

 

 ネイタンは人々の娯楽の中心だ。踊りや火吹きのショー、弦楽器や打楽器の演奏会。時には作物や魚を持ち寄り、ワインやビールを酌み交わす宴会場にもなる。

 

 そのネイタンで月に一度行われるのが、懐胎の儀だ。古くより、人間が子を成すにはアンクら神の御心に寄り添い、祈りを捧げることで成立するとされていた。

 

「妻がこの度、元気な男の子を出産いたしました。こちら献上品にございます。お納めください」

 

 男はアンクに小麦と葡萄ぶどうの入った箱を、それぞれ差し出した。

 

「よいよい、こんなに持ってこずとも。これからの子の成長に必要な栄養ぞ、持ち帰ってそなたたちで食すがよい」

 

 男はアンクの言葉に瞳を潤ませる。

 

「妻は身体も弱く、何度か施していただいた儀でも上手くいかず……子は諦めかけておりました。ですが先日頂いた花を食したところ、妻は目に見えて体力をつけ、こたびの出産も耐えることができたのです。その上そのようなお言葉まで……アンク様をはじめ、神々には一生お仕えする所存にございます」

「そんなに硬くなるな。子の背の痣についてはすまぬ。八つになれば、自然と消える故」

「滅相もございません!」

 

 去り際まで何度も頭を下げる男を見送りながら、アンクは口を開く。

 

「シエル。そなたの花のおかげで人々の笑顔がより一層増えた。礼を言うぞ」

「もったいなきお言葉。アンク様の呪力があってこその、わたくしですから」

「ふんっ、そんなものを人間に与えては、またジェロスからの嫉妬が増えるぞ」

 

 アンクとシエルの会話にマウトが口を挟めば、シエルは邪魔だとばかりに頬を膨らませた。

 

「ただでさえ我らの儀の件数にちまちま文句を言うあのジェロスが、こんなところでも我らとオシリスたちとの差を見せつけられては発狂するのではないか」

 

 嘲笑を浮かべるマウトに、アンクは呆れた顔を見せる。

 

「マウト、口が悪いぞ。我らとオシリスたちは敵ではない。母は違えど同胞、家族なのだ。上も下もない」

「そう思っているのはそなただけだ」

 

 マウトは立ち上がり、肩に手を当て首を回した。

 

「本日はこの懐胎の儀に加えて霊魂崇拝れいこんすうはいの儀も重なっておる。この日ばかりはジェロス、セトやイシスと顔を合わせねばならぬゆえ、憂鬱だ」

「そう悪態ばかりつくな。父も含め皆で話し合える、唯一の日ではないか」

「話し合いなどできた試しがこれまで一度だってあったか?」

 

 アンクは小さくため息をつくと、真っ黒なローブで身を隠すニフティに顔を向けた。

 

「ニフティ、準備はできているか」

「はい」

「そなたは葬祭そうさいの神。月に一度とはいえ辛い思いをさせるが、許せよ」

「とんでもございません。これがわたくしの存在意義。辛いと思うたことはござりませぬ」

「……そうか。だが」

「アンク様、次の民が参ります」

 

 アンクは何かを言いかけたが、言葉を飲み込む。フードまで被ったニフティの表情を確認できぬまま、懐胎の儀は滞りなく進んでいった。

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