苦海

「相変わらず仲が良いな、そなたたちは」

 

 泉の向こうから、釣竿とバケツを持った男がイシスたちに近づく。

 

「なんですか、そのバケツ」

「川で採れた。ティラピアという魚らしいぞ」

「また人間と交流を?」

「散歩していたらたまたま釣りしているところを見かけてな。参加させてもらった」

 

 イシスは呆れていた。ボロボロの麻の腰巻き。貧しい民でさえ一つ二つ宝石を身に纏うが、彼はそういった装飾を好まない。無邪気に頬に泥までつけて笑っている。

 

「アンク様、我々は神ですよ。立場を考えて行動しなければ。人間との交流も結構ですが、本日の懐胎かいたいの儀式はもうお済みなのですか?」

「イシスは相変わらず厳しいなあ」

 

 アンクは頬を拭う。だが右頬に付いた泥が鼻を超えて、左頬に伸びだだけだった。

 

「そういえば、ジェロス様にえらく叱られたそうじゃないか。言うほど儀式の件数も変わらないと思うが」

「たった一人少なくても文句を言うお方です。とにかく、この世の何もかもが気に入らないのです」

 

 イシスの隣で無表情なオシリスを横目に、アンクは掌から出した炎に魚をかざした。青緑に揺れる炎を受け、ぱちぱちと小気味いい音と共に煙の線が一筋立ち上る。

 

「人間はいつも良い刺激をくれる。初めてこうして魚を焼く姿を見たときは驚いたが、それも人間の内臓に負担をかけないようにする処理だ。人間は自ら発見し、学び、発信する。こうして焼かずとも、処理次第では生でも食べられることを知っているか?」

 

 イシスは興奮気味なアンクとは対照に興味のない顔だ。

 

「生きるために、豊かな生活を送るために知恵を絞る。我々神には必要のない過程が、気づきと驚きをくれるとは不思議だと思わぬか? ……そろそろ焼けたようだ。どうだイシス、食してみるか?」

 

 アンクはティラピアの尾を持ち、イシスに差し出す。真っ黒に変貌したそれの白濁はくだくした目玉を見て、イシスは黙って首を振った。

 

「そうか。実は私もまだ食という概念を試したことはないのだ。どうも口に何かを入れるというのにはふんぎりがつかなくてな」

「自分でも試したことがないものを人に勧めるのですか」

 

 イシスは軽蔑の眼差しでアンクを見る。その表情に、アンクはケタケタと小さく肩を揺らした。

 

「そなたは度胸があろう? 私より幾分も呪力を持ちながら、それを誇示せずオシリスを大事にしておる。私はそんなそなたが好きだがな」


 すると、オシリスの横に腰を下ろしていたイシスがおもむろに立ち上がった。


 凛と切れ長な目、シャープな顎。小ぶりな鼻に薄い唇……その唇が、微かに震える。


「もうずっと上級神として君臨されてるアンク様に、我々の気持ちなどわからぬのです!」

 

 イシスの突然の大声に、アンクは気圧されて眉を上げた。

 

「貴方様は立派です、我ら兄弟など到底敵わない。生まれた瞬間に超えられぬ壁が目の前にそびえ建っていたのです。その絶望感と疎外感が分かるのですか? 簡単に好きなどと馴れ合う言葉をかけるのはおやめください、惨めになります」

 

 アンクは焦げたティラピアをそっと土に返すと、改めてイシスに視線を向けた。

 

「すまない。そなたの気持ちに寄り添えず、無神経なことを申した。だが、なにをそんなに悲観する? そなたたちが生まれたおかげで、我らの仕事は分散された。だからこうして魚釣りもできる。それに、それまで流れ作業のように多忙だった懐胎かいたいの儀の最中、人間と二言三言ふたことみこと会話する時間が持てるようになったのだ。涙を流して感謝する民に笑顔を向けられること、それは私にとってとても意味のあることで——」

「もう結構です。貴方の話は、今の我には受け止めきれぬ故……失礼します」

 

 去って行くイシスの背中を遠目に、ふと側に佇む巨体を振り向く。相変わらず無表情で考えが読めない彼に、アンクはおでこを掻きながら話しかけた。

 

「そなたも歯がゆいな。思うところもあるだろうに」

「……」

「私が嫌いか? オシリス」

「……」


 なにも言わないオシリスにアンクはそっと微笑む。木に止まっていた鳥たちが、何かを察したように一斉に飛び立った。

 

「いつまで続くのかのう、この世界・・というものは」

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