File1.生存本能
ゆっくりと、意識が暗闇から引き戻される。
視界一面に広がるのは、見慣れぬ暗い木で造られた天井。
先程までの激痛は随分と引いており、寒さも暖かい毛布に包まれて消えていた。
__僕はまだ、生きている。
「にゃあ?」
霧が晴れつつある視界のままぼうっと天井を見ていると、突如白猫が僕の胸に飛び乗ってきた!
猫は攻撃も揶揄うこともなく、ただ胸の上からこちらを見下ろしてくる。
追い返す気も起きず見つめ返していると、少女の怒声と共に猫が持ち上げられた。
「こらっ!怪我人さんの上に乗っちゃいけません!」
自然とその様子を目で追いかけると、肩で止まった白髪が特徴的な、薔薇色の瞳の少女と目が合う。
彼女は僕を見るなり一瞬だけ固まって瞬きを二度行い、ばっと後ろに首を向けた。
「ちょっとちょっとフィーズさん!起きてますよ!人間さん、起きてます!」
次いで足音が聞こえて来て、少女の隣に白衣を羽織った眼鏡姿の男性が現れる。
その手を取って
一言で表せば、医務室。
僕が寝かせられていたベットの隣には木製の机と椅子が一つずつ置かれており、机上には本やペンが散乱している。そしてその奥には、汚れた棚が幾つか設置されており、部屋の隅には小さな窓が見えた。
しかし、窓から光が差し込んでくる様子は無い。
「体は平気かい?」
一本結びの金髪を揺らしながら、その男性は僕に話し掛けてきた。
眼鏡越しにも関わらず不思議な魅力がある青い瞳に引き込まれないよう、重傷を負った腹部へ視線を移す。
「ああ……はい。もしかして、治療してくれたんですか?」
「医者の目の前に怪我人が運ばれてきたから。」
少し待っててくれと男性は告げると、俄然
名前も知らない猫を抱えた少女と、僕だけが部屋に取り残される。
「……カーミラです!カーミラ・ブロードリア。さっきのお医者さんはフィーズさんで、この白猫はアナと申します。人間さんのお名前は?」
その最中、この気不味い空気にも関わらず笑顔の少女__カーミラと名乗ったゴスロリ服姿のその子は、アナと言う猫を抱えたまま僕に顔を向けてきた。
赤紫と黒で多くが構成された派手な服とヘッドドレスだが、この子はぴったりと似合っている。胸辺りまでのケープから覗かせる手は華奢で、背丈もそこまで高くない。年齢は僕と同じくらいだろうか。
「ああ……ごめんなさい。知らない人と会った時は、自己紹介しなさいって教えられたので。」
咄嗟に答えられなかった僕を見て、少女は息を飲み込んだ。
「………あ、えっと……レイ、です。レイ・ホープ。」
「レイ……いい名前ですね!」
名前を聞いた彼女は息を吐き出し、ベットの端に腰掛ける。
「クラノスさんから聞いたんですけど、どうして森にいらっしゃったんですか?ああいや、それともここの説明が先かな……。どっちから話したいですか?」
「え?ああ、えっと……。」
この場所の説明か、先程までの経緯か__
返答に困り僕が再び沈黙した瞬間、タイミング良く再び扉が開かれ白衣姿の男性が現れた。
「やあ少年、無事みたいで安心したよ。」
「あ、どうも……。」
その後にヒールの心地良い音を響かせながら、森で出会った背高の黒髪の男性と長い水色の髪の女性が続き、ベットの前に立つ。
「改めましてこんにちは、私の名前はクラノス。クラノス・サード。何でも好きなように呼んでくれると嬉しいな。」
「……レイ・ホープです。あの、ここは……。」
指摘しようとして、口閉ざした。
先程はよく見えなかったが、クラノスと名乗ったその探偵服の男性の目が変だ。
糸のように細く、眼球が全く見えない。他の三人も、猫も、僕すら含めて全員瞳が見えるのに、彼だけが全く色の想像の一つも付かないのだ。
栗一色の帽子と服は統一感があるが、随分長く使用しているのか所々小さな継ぎ接ぎが目立った。
そんな彼は、右手に陶器製のティーカップを持っている。
「ああ、医務室だよ。随分と酷い怪我を負っていたから、ここに運んだんだ。それでこの医者がレイ君を治療した……という訳。」
先刻話した白衣の男性を手で指すと、その人は表情一つ動かさないまま一言。
「フィーズ・リリーフ。普段は医師として働いてる、宜しく。」
「あ、よろしく……お願いします。」
「さっき名前言ったのに……。」
改めてフィーズさんの顔を見て、同性にも関わらず見惚れてしまった。
作り物かと疑ってしまう程に整った顔立ち。
例え人形の中に入っていたとして、僕はこの人が生きている事に気付けないだろう。
白衣の間から見えるシワ一つも無いワイシャツと青色のネクタイと、その先に伸びる紺色のズボンは、彼の厳格的な_もっとも、初対面ではあるが、そんな几帳面な性格を表している気がした。
「ちなみに制服も酷い有様だったから、彼女に任せてるよ。」
と告げながら、クラノスさんは同じ様に水色の髪の女性を手で指した。その合図に反応し、その人は黒い手袋をした手で己の髪を優しくとかした。
「カリファ・トラストよ、よろしくね。少し時間が掛かるかも知れないけど、必ず直すから待ってて。」
「あ、ありがとう……ございます。」
海をそのまま生き写しにした様な水色の髪と、宝石をはめ込んだ如く繊細な紫色の瞳が、とりわけ大きな光源が無い部屋の中でも輝いている様に見える。
それを引き立てる黒い長袖ブラウスと髪よりも濃い膝丈の青いスカート。差し色として目立つ赤い花のネックレスさえもその煌めきを飲み込んでいた。
足を隠した黒い布は黒いベルトが交差したピンヒールより少し薄く、カリファさんが足を動かす度に心地良い音を響かせる。
こんな状況でこの思案が生まれるのは
「それと、君の武器も預からせてもらってる。後で全部まとめて返すから、少し待ってて。」
「……分かりました、ありがとうございます……。」
治療、修復……見ず知らずのこんな僕なんかに、この人達は敬意を払ってくれている。
「そこの二人は……。」
「ああ、大丈夫です!さっき済ませておきました。」
「流石、手間が省けるよ。」
数秒間沈黙が走り、クラノスさんは手に持っていたティーカップを僕に差し出してきた。
「さて……ああそうだ、はいこれ。」
その中には、赤い液体が淹れられている。
「……これは……。」
覚えがある鉄の香りが鼻に侵入し、咄嗟に顔を離す。狭くなった湖に、畏怖する僕の顔が揺れながら映った。
「私の血。」
「……は……?」
先刻までとは一変した空気に素っ頓狂な声を上げ、今にも落ちてしまいそうに震えるカップをもう一度だけ見る。
鉄の香りが、一層強くなった気がした。
「いきなり吸血鬼になると最初は血以外受け付けないらしくてね。この優秀な医者が言うんだから__」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
久方振りに出した大声に、その場の全員が僕に注目した。
「吸血鬼なんて……僕人間ですよ?」
すると、クラノスさんは不思議そうに声を漏らして少し首を傾げる。
「何言ってるの、君が吸血鬼になりたいと言ったんじゃないか。」
その衝撃的な言葉に、体が硬直した。にも関わらず、心臓は体内で動きを加速させていく。
「……え……いや、そんなこと……。」
「言ったよ、つい数時間前に。」
それと同時に、脳裏にある言葉が浮かんだ。
『……にならない?』
「もしかして、あの時……?」
「そうそう。良い話ですねと君が笑ってくれたから、仰せの通りにしたんだけど。」
嘘。
嘘だ。
僕が吸血鬼?あの……あの、悪だと教えられてきた、魔物に……?
ならこの人達は、この場所は__
目の前の男性__もとい魔物は、特に悪びれた様子もなく笑う。
「そんな、馬鹿な話……。」
「なら証拠でも出そうか。コーヒー飲める?」
「……大丈夫です。」
良かったと男性が再び指を鳴らすと、その手の中に別の白いカップが出現する。血の匂いと豆臭さが入り混じり、独特な香りを放った。
「飲んでご覧。」
差し出されたのは、見た目も臭いも、何の変哲も無い唯のコーヒー。何も変わったところはない。
「別に毒とか入れてないから、大丈夫だよ。」
半信半疑になりながらカップを持って一口飲むと、それはあっという間に体内へ侵入してくる。
「……あ、美味しい。」
味は、普通だった。
きっとどこかで飲んだことがある美味しいコーヒの味が、口内に広がる。
「なんだ、やっぱり冗談じゃないですか……。」
下手な嘘を吐く人もいたもんだと二口目を飲もうとしたその瞬間__再び心臓が大きく跳ねた。
同時に、体中の水分が失われていく。
「ガ……ッ。」
目眩がして、呼吸が苦しくなった。手が震えて何かが砕け、鼓膜を裂いた。体が熱い。
酷く、喉が渇いた。
「……レイさん……?」
声をした方に目をやると、女の薄くなった赤色の瞳から、細く赤い糸が伸びているのが見えた。白い生地によく映えながら、それは呼吸に合わせて何度も収縮している。
近くで見たら、どんなに綺麗だろう。
「元凶に手を出さなきゃ。」
伸ばした右手は、掴まれて苦しくなった。
「カーミラ、怪我は無い?」
「……はい、大丈夫です……。」
女との間に途端現れた男の所為で、あの赤い糸は見えなくなってしまう。
邪魔された。
「ねえカリファ、ちょっと私の首を斬ってくれるかな。今手が離せなくて。」
「あら、平気?」
「勿論。」
紫色の瞳の女と目が合う。この女もまた、先の者と同じく眼から赤い糸が伸びている。
その糸を取ろうと再び手を伸ばしたのとほぼ同時に、液体が左手に掛かった。
「悪くない速度ね。」
沸騰した程に熱く、甘美な香りを放つ赤い液。
その根源は、男の首だった。
あれが、飲みたい。
「助かるよ。」
ゆっくりと落ちる貴重なオアシスに、目が釘付けになる。
勿体無い。ああ、飲みたい。
あんな糸よりずっと綺麗で、目が離せない。
あの紅一点を、捕まえなければならない。
手首が楽になって、僕はその首に両手を回す。
大きく口を開けてその蜜に噛み付くと、予想よりも遥かに強い甘味が広がった。
渇きのついでと身体が覚えた、ふわりと香ったこの依存に溺れてしまう。
「そんなに良い物?何だか嬉しいね。」
自分の
一頻り吸うと、喉が潤った。
そして、口の中一杯に血の味が広がっている事に気付く。横目に見える首からは確かに血液が流れ、彼の衣服を徐々に汚していった。
「……え……。」
それは、今僕が__僕が、悪趣味な
「だから言ったでしょ、君はもう吸血鬼だって。」
鼓膜に響いた声は、嘲笑的に聞こえた。
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