壊れたら始まる恋もある。

高橋健一郎

第1話

『壊れたら始まる恋もある。』第一章


ジャンル:恋愛×ヒューマンドラマ

テーマ:修復と再生、壊れたものの美しさ

舞台:東京・青山/フィレンツェ


第1章:交差する視線


東京・青山の美術館は、午後の柔らかな光に包まれていた。

修復室の片隅、静けさだけが陽菜の背中を見守っている。


**水野陽菜(みずの はるな)**は目の前の古い絵画に向き合い、細い筆を慎重に動かしていた。

亀裂が入ったキャンバスの表面をなぞるたび、何度も息を整える。


「壊れたものは、そっと息を吹き返させるだけでいい。」


彼女はいつもそう思う。

修復士はただ、過去に触れる者であればいい。そこに余計な手は加えない。


筆先が、少し震えた。


――ドリルの音が、壁の向こうから響いていた。


振動が絵の表面にわずかな揺らぎを与える。


「……また?」


陽菜は眉をひそめ、筆を置く。修復室の扉を開くと、ホールの中央が慌ただしい。

足元に広がる設計図、その上を歩きながら男が指示を飛ばしている。


「そこ、光が入るように壁を取り払う。もっと広く。」


シャツの袖を無造作にまくったその男は、空間の隅々を見渡しながら、まるで自分の庭のように振る舞っていた。


陽菜はため息をつきながら彼に近づく。


「すみません、少し静かにしていただけませんか?」


彼が振り返る。鋭い目つきと整った顔立ち。

フィレンツェの石畳を思わせるような雰囲気が彼にはあった。


「おっと、修復士の先生か。」


その声にはどこか楽しげな響きがある。


アレッサンドロ・ミヤモト。

イタリアと日本の血を引く建築家で、美術館の改装担当だと聞いていた。


「こちらで修復作業をしています。静寂が必要なんです。」


陽菜は努めて冷静に言う。


「芸術には静けさが必要ってわけか。」

アレッサンドロは片眉を上げ、腕を組んだ。


「でもな、美術館は静かすぎても退屈だろう?」


「……ここは展示スペースではありません。過去を守る場所です。」


「過去を守るだけでなく、未来を創るのもアートだ。」


陽菜は、その言葉に一瞬言葉を失う。


彼の目の奥にあるのは、確かに「光」だ。

それは新しい何かを生み出そうとする人間だけが持つ、眩しすぎるものだった。


「過去に触れる資格のない人に、芸術を語られるとは思いませんでした。」


陽菜はそれだけ言い残し、修復室へ戻る。


ドリルの音は止まらなかった。


交差するプライド


陽菜は修復室で再び筆を握った。

しかし、さっきのアレッサンドロの言葉が頭から離れない。


「未来の光、か……」


陽菜にとって修復とは「過去を直し、未来に残す」こと。

だが、彼の言う「新しい光を創る」という考え方は、自分の仕事に踏み込まれるようで少し苦しかった。


「余計なことを考えないで。」


自分にそう言い聞かせる。

しかし、筆先が少しだけ迷った瞬間――


ピキッ。


絵の表面に細かな亀裂が走る。


「……嘘。」


陽菜は息を止め、傷ついた絵画を見つめる。

大きな損傷ではないが、修復士としては「失敗」だった。


ふと隣のホールから、アレッサンドロの軽快な声が聞こえてくる。


「ここは開放感を出して――もっと光を。」


その音が、陽菜には皮肉にしか聞こえなかった。


夕暮れの静寂


美術館が閉館し、館内は静寂を取り戻していた。

しかし、陽菜はまだ修復室で作業を続けていた。


「ここを少し薄く……」


ひび割れた部分に細筆を走らせるが、慎重になりすぎて思うように進まない。


「まだ作業してたのか?」


突然の声に、陽菜は顔を上げた。


アレッサンドロが修復室の入口に立っていた。


「……集中できませんでしたから。」


「午前中のことか?」


陽菜は答えず、作業に戻る。

しかし、アレッサンドロは修復中の絵に視線を向けた。


「ちょっと見せてくれ。」


「……絵に触れないでください。」


アレッサンドロは苦笑しながらも、絵をじっと見つめていた。


「ひび割れ……ここ、午前中にはなかったはずだ。」


陽菜はギクリとしながら答える。


「……修復中に、少し……。」


「人の手が入るってのは、そういうことさ。」

アレッサンドロは気にする素振りもなく、軽く笑う。


「傷ついた部分を隠さず、そのまま残してみたらどうだ?」


「そんなこと……修復士としては許されません。」


「でも、それがこの作品の物語になる。」


陽菜はアレッサンドロを見つめる。

彼の言葉は、陽菜が避けてきたことをまっすぐに突いていた。


「私は、壊れたものを見捨てることはできません。」


アレッサンドロは静かに微笑んだ。


「なら、せいぜい慎重にな。」


彼は軽く手を振り、修復室を後にする。


陽菜はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。


交差した二人の価値観はまだ重ならない。

それでも、陽菜は筆を握り直した。


壊れたものが光を取り戻す、その日まで。

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壊れたら始まる恋もある。 高橋健一郎 @kenichiroh

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