第5話 伏してお願い申し上げます。

 その電話で打ち合わせ、落ち合った僕たちはまた、件のくだんのコーヒーショップへ入った。


 僕は……泣き腫らした彼女の顔が晒されないよう奥の席を選んだ。



 彼女がバッグから取り出した


『斉藤様へ』


 と表書きされた白い封筒の中にはペア宿泊券と手紙が入っていた。


 。。。。。。。。。


 斉藤 様


 難しい字は書けない場末の女の私です。

 だから『“斉”の字をどの字を書けば良いか分からなかった』という事にしておいてください。


 娘の綾子が『福引で当たった』とこの券を病室へ持って来た時から訝しんではおりましたけど、古い馴染みの『伊勢屋』さんがお見舞いに来てくださって本当の事が分かりました。


 すぐあなた様にお返ししようと思いましたが『それは斉藤ちゃんの心を無にしてしまうよ』と『伊勢屋』さんがおっしゃいますので、『知らなかった事』としてあなた様の優しさに甘えるつもりでした。


 けれども私の命が延びれば、いずれは生活が困窮し、綾子は……今度は取り返しのつかない所まで自分の身を犠牲にする事でしょう。


 神様は二つの希望は叶えてはくださらないようです。あの子との思い出づくりの時間は持たせてはいただけないようです。


 私はそれでも一向に構いません。しかし残される綾子が不憫で……


 だから、私は今一度、あなた様の優しさにお縋りして、ひとつのお願い事を申し上げたいのです。


 私の代わりに、あの子を旅行に連れて行ってはくださいませんか?


 そして、その一晩かぎりで結構ですから、あなた様の優しさをあの子にも与えてあげてくださいませんか?


 下世話な私の言い草ですが……あの子は“手つかず”です。

 後々、あなた様の酒席での語り草くらいにはなれます。


 私とは違って路傍の花のように慎まし過ぎるあの子は……この先、“オスからオシッコを掛けられる様な”人生しか来ないと私には思えるのです。


 だからあなたが一生の伴侶に巡り合う前に、どうかどうか一夜だけ、寄り道をしてあげてください。


 伏してお願い申し上げます。

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