ゆずの香り
渋川伊香保
ゆずの香り
踏み固められた土の道を通る。背中の荷物が重く感じてきた。足も痛い。ふぅ、とため息をついて、傍らの石に座り込んだ。水筒の水はぬるくて臭いが、しかたない。一息つく。懐の兵糧丸は、今は食べどきではないかもしれない。でも疲れたしなぁ……。
ふと漂う匂いに顔を上げる。わずかに風に混じるこの匂いは、醤油かな?わざわざ風に乗せる、ということは、客寄せ、つまり店だ。団子やかな。助かった。
よっこら、と重い腰をなんとか上げて、歩みを続ける。もう足が動かないと思っていたけど、少し進めば食べ物にありつけるとなると歩けるのは不思議だ。
つくづく人間の原動力は希望だ。
団子屋で水筒に水を入れてもらえるかもしれない。
僕の仕事は諜報である。市井に紛れて人々の様子を伺い、異常はないか、危険な行動はないか、藩の方針に逆らう動きがないか、を調べる。藩の舵取りに不満を持つ者は、その思いを訴える手段を考えるだろう。いざその行動に移す前には色々な兆候がある。噂だとか集まりだとか道具を揃えるだとか。その動きをいち早く察知して報告することが任務である。農民や町民にも言い分はあるだろう。だが彼らとは違う理屈で暮らす僕らにはその思いは今ひとつわからない。そんな僕らだからこそ、非情に彼らを取り締まれるのだそうだ。
そんなもんかね。
あの匂いはやはり団子屋だった。醤油の効いた甘辛いたれが美味い。熱い茶なんて何日ぶりだろう。水筒に水も入れてくれた。
ようやく一息つける。
他の客のおしゃべりに、つい自然に耳を向けてしまう。路の険しさ、家族の愚痴、名物の批評、子供の自慢、旅籠の質、女郎の良し悪し、などなど。
故郷の作付けについての話があると、つい聞き入ってしまう。良いか悪いか、悪ければどうするつもりか、どうしようと相談しているのか。
特に気になる兆候もなかったので、そろそろ出発しようと腰を浮かしかけた瞬間、ある話が耳に入った。
この間の梅雨時に大雨が降って川が増水し、畑が流れたというのだ。このままでは作物が採れない、なのに年貢はいつも通りだ、お代官には情けがないのか、といった会話だった。
果たしてどこの話か。会話の特徴、抑揚とか単語とかを手掛かりに探る。遠江か三河か、もしくは信州伊那の南か……確か今年の梅雨は、伊那の駒ヶ根で川が氾濫したと聞いた。もしかしたら。
だが、僕の管轄は関八州だ。伊那で一揆が起ころうが、むしろ藩主にとっては好都合だろう。山を越えるが、近くの藩が弱体化するのは良いことだ。
ふう、と空を見た。
ゆずの香りがした。ふと見上げると、ゆずがたわわに実っていた。
ゆずの香り 渋川伊香保 @tanzakukaita
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