6.

そして、五日目。

今日も屋上へ向かう。あと二日で二学期が始まるからか、校舎内で会う先生方も増えるようになった。

誰だか知らない教員にまで、「まだ暑いからね。気をつけてね」と声をかけられる私は、とんだ問題児なのかもしれない。

今日は、萎れてきた入道雲を見ることよりも、図書館で借りた小説を読むことにしていた。小説は、暇つぶしにちょうどいい。

生きづらいと抱えていたヒロインがヒーローに会って、自分を好きになっていく話。普段なら手にとりさえしない恋愛小説なのに、どっぷりハマってしまった。

屋上の固いアスファルトに腰掛けて、栞を開こうとした時だった。


「日々姫」


不意に女の高い声が聞こえて、背中に怖気が走った。

と同時に、それはこの世で一番聞きたい声でもあった。


「つゆり」


振り返った先にはずっと待ち望んでいた人の姿があった。不安だった心が解きほぐれていく。

私は走って、つゆりを思い切り抱きしめた。

相変わらず、冷たくて、細くて今にも折れてしまいそうな体だ。


「ごめんね。日々姫。ずっと来なくて」


つゆりは震えるような声で言う。私は抱きしめる手を緩めて向き合う。


「本当だよ。どうして来なかったの。心配したんだよ」


自分でも驚くほどの、悲痛な叫びだった。

我慢していた涙が溢れる。


「ごめんね。心配かけて」


そう言い、私の背中を撫でると、ポツリと話し始めた。


「あの日、全部記憶が戻ったの。日々姫の笑顔を見て、全部思い出した」


やっぱり、そうだったんだ。

でもつゆりはやはり、苦しそうだった。


「あたしはね、日々姫と話す資格なんてない。一緒にいる資格もない。だからあたしは頭を冷やすために行かなかった」

「資格? 何のこと?」

「そのままの意味だよ。あたしは、日々姫と一緒にいちゃダメなんだ」


つゆりの大きい目から大粒の涙がこぼれ落ちる。


「どういうことなの。急にいなくなって、来たと思ったら、変なこと言わないで」


思わず叫んでいた。つゆりに、貴方がいなくなった苦しさを理解して欲しかった。

なのに、つゆりは首を横に振り続ける。


「違うの」


今度はつゆりの叫び声だった。

泣きじゃくりながら、それを拭いながら、私の両肩を掴む。


「聞いて。日々姫は、自分には家族がいないと思ってる?」


質問の意図が分からなかった。私が施設に住んでいることくらい知っているのに。


「そうだよ。だから児童養護施設に住んでる」


当たり前のように話す私を見て、つゆりの涙は加速していく。


「違うよ、日々姫。貴方には家族がいる。お父さんと、お母さんと、弟」

「何の話をしてるの」


次々に知らない情報が流れてきて、私の脳内は混乱寸前だった。久しぶりに会えたと思ったら、どうして家族の話なんて。

私に家族がいた? そんなはずがない。

だって私はひまわり園にいるんだから。捨てられたんだから。


「いたんだよ。家族が。よくスーパーに家族で買い物に行っていたでしょ。弟くんは日々姫と遊ぶのが好きだったでしょ。白くて、大きい三角屋根の家で、家族四人で住んでたでしょ」


つゆりは、叫ぶように私に訴えかけた。


「貴方には、家族がいたの! 忘れてなんかいない。小さい子供を見ると、弟くんを思い出して、辛くなるんでしょ。子供連れの家族も、見ていると苦しくなるでしょ。思い出してよ!」


何を言っているか分からないのに、全て私に当てはまっていた。

子供と接するのが怖いのも、家族を見ていると苦しくなるのも。

幼児向けの番組が、苦しいことも。全部。

次第に息が荒くなる。

酷い頭痛がした。


「お父さんの名前は、浅倉和樹。お母さんの名前は、浅倉美来。弟くんの名前は、浅倉悠樹。そして貴方は浅倉日々姫なんだよ」


その時、私の頭痛は絶頂に達した。


「うう、痛いっ」


頭をハンマーで何度も、何度も殴られているみたいだ。思わず両手で頭を覆う。

けれどその激しい痛みの中から、何やら声が聞こえてきた。


「この番組好きなの? 悠樹」


そう幼い子供に笑顔で話すのは、私だ。


「うんっ」


その幼い子は、私の問いに首を縦に振った。

ああ、思い出した。

私が笑いかけていたのは、紛れもなく、弟の悠樹。

気がつけば、私は大量の涙を流して泣いていた。

そうだ。

私には家族がいた。

普段は厳しいけど、どんな相談も乗ってくれるお父さん。優しくて、怒ると怖いお母さん。どうしようもなく可愛い悠樹。全員、私の大好きな家族だった。

どうして忘れていたんだろう。

あんなにも眩しくて、温かい記憶だったのに。


「つゆり、思い出した、よ」


つゆりはその言葉に、安心したのか更に涙を流した。「ごめんなさい」という言葉と共に。

どうしてつゆりが泣いているの。

そう聞こうとした時だった。

また私は思い出した。

あの日のことを。

最悪で、黒くて、何かが蠢くような記憶を。

塾から、帰路を急いでいた時。

三台の救急車が、帰路を塞いでいた。

事故かな。

そう考えて通り過ぎようとした時、私は自分の目を疑った。


「お母さん、?」


白い台に乗せられていた人は、私のお母さんだった。顔は歪んでいて、足も手も、お腹も全て血に染まっている。

はみ出た手のひらは、力が抜けたように放り出されていた。

私のお母さんが、血を流して倒れているらしかった。

私は目の前の光景を信じられず、ただ立ち尽くす。

でも次の瞬間、更に絶望という拍車をかけられる。


「お父さん、悠樹!」


お父さんと悠樹の姿も見えたからだ。

毎日、砂場で遊んでは土だらけにして帰ってくる弟の靴が、真っ赤に染め上げられていた。

私の、家族が全員、血に染め上げられていた。

情報が整理しきれなかった。ただ三人とも、痛そうに、辛そうに歪み切った顔をして倒れていた。

隣に立っていたおばさんたちが呟く。


「通り魔ですって」

「っ!」


思わず、規制テープを無視して、私は家族に駆け寄った。何人もの警官が私の行手を阻んだ。それでも私は一直線に家族の元へと駆けた。最悪な可能性が何度も何度も頭をよぎる。ようやく握った手は冷たかった。


「お母さん、お父さん、悠樹。どうして」


私は地面に座り込んだ。涙が溢れて止まらない。

私の家族はすでに死んでいた。誰かに、殺されていた。


はあっ、はあっ、はあっ

どんどん息が荒くなる。

私の、家族は死んだ。

もう、死んでいた。

拭っても拭っても溢れ出す涙のせいで、視界がいびつに歪む。


「……、うう、っ……」


どうして忘れていたんだろう。そして、一年半ものうのうと生きていたんだろう。

赤子のように泣く私を見て、つゆりも大粒の涙を流している。

「ごめんなさい」と言いながら。


「どういう意味、それ」


どうして、つゆりが謝るの。そう言おうとした時だった。私の脳裏にあのニュースキャスターの言葉が浮かぶ。いつか見た記憶だった。


『浅倉家殺人事件』

「浅倉、家、殺人事件」


震える声で、その言葉を辿る。

十六歳の少女が、浅倉さん家族三人を殺した酷い事件。日本中を震撼させた事件。きっとそれは、お父さんたちが殺された、殺人事件の名前。

テレビに映る家族の写真が、脳裏に浮かび上がる。

容疑者は……。

私は気がついたら、つゆりを押し倒し、馬乗りになっていた。


「お前が、家族を、私の家族を! 殺したのか!」


自分の声とは、思えない低い声。つゆりの頭を地面に押し付け、喉が壊れそうなほど怒鳴った。

喉が裂けそうなほど熱くなった。

それでも、つゆりは泣くだけで何も言わない。

否定も肯定もしなかった。ということは肯定ということだ。


「うわああああああああああああああああああ!」


心の底からの叫びだった。

家族を殺された絶望。

そしてその家族を殺したのは、大好きなつゆりだったのだ。


「どうして! 殺したんだ! 私の家族を! どうして!」


私は、つゆりの顔を思い切り殴った。

ゴン、という鈍い音が響き渡る。


「どうして、何も言わない! 殺したんだな! どうして! 私から家族を奪ったんだ!」


もう止まらなかった。

私は、殴り続けた。

屋上には私の叫び声と、鈍い音だけが響いている。


「この、殺人鬼ばけもの!」


あの幸せだった家族との日々が思い出される。


「殺人鬼! この、殺人鬼」


殴っても殴っても、家族が帰ってくるわけではない。わかっているのに、憎しみが尽きることはない。

殺人鬼の顔は激しく歪んでいた。

痛みと苦しさに悶え苦しむ顔だった。

けれど私はこれ以上ない力で殴り続けた。それ以外、何もできなかった。

つゆりが泡沫に溶けて、いなくなっても。

何度も何度も殴り続けた。

私の首には、汗なのか、涙なのか分からない液体がずっと流れていた。

そして、つゆりが消え去った後、私は声が枯れるまで、赤子のように泣き続けた。憎しみ、恐怖、悲しみ、色んな負の感情が私の心臓に針を刺していった。

残ったのは、切れた手のひらと、肉体を殴るあの気色の悪い感覚だけだった。

私は今日全てを思い出し、全てを失ったのだ。


あの日、園に帰ったのは夜の十時を過ぎていたと思う。

ようやく帰ってきた私を見るなり、全ての状況を汲み取ったのか、田辺さんは私と一緒に涙が枯れるまで泣いていた。

私だって、普通の高校生だった。

人を殴ったことなんて勿論ない。その日は寝付けることも出来ず、ただ泣いてばかりいた。

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