5.
「行ってきます」
あれから一晩が経った。
昨日の水族館で買ったお土産を眺めていても不安は募るばかりだった。つゆりの表情がどうしても気になってしまう。
考えを巡らせているうちに、夜明けが来てしまった。
本人に直接確認を取らなければ。その一心で、屋上までの道のりを急いだ。
今日は天気が急変しやすいらしい。
各地で局地的な豪雨に見舞われると、気象予報士が話していた。
雨が降ったら、屋上にいられる時間も短くなってしまう。それはつゆりと居れる時間が短くなるということでもあった。
自然に足の回転は早くなり、どんどん加速していく。
その調子で、階段を一気に登り、屋上の扉を開けた。
そろそろ二学期が始まる季節に近づいている。扉を開けた時の蒸し暑さが軽減していて、少し寂しさを感じてしまう。
「いない」
乱れた呼吸を整いながら、私は腰を落とした。
あんなに蒸気を含んだ空気を纏っていた風は、もうすっかり秋色だった。頬を掠るその風に、冷気が含まれている。
普段なら少し時間が経つと、つゆりはフラッと姿を現す。私の後に来ることは何も不可解でないのに、そわそわして落ち着かない。
開いた手のひらには、いつの間にか爪の跡がくっきりとついていた。
私の頭には、幾つかの最悪のパターンが浮かび上がる。
つゆりは、本体が眠っているから、こうやって自由に動くことが出来る、と話していた。もしかしたら本体が目を覚ましたのかもしれない。
また、本体にいた頃の記憶が戻ったのかもしれない。
どちらにせよ、つゆりが此処に来ない可能性は否めない。
そんな不安が重なって、手が震えだす。
私は、つゆりに救われた。
今更あの子がいなくなったら、私はどうすればいいのだろう。
それこそ廃人と化してしまうだろう。
「早く来てよっ」
蚊の鳴くようなこの声は、夏に溶けてしまった。
どうしていつだって悪い勘は現実になるのだろう。
つゆりは、来なかった。
ポツ、ポツ、ポツ
とうとう雨が降り出した。
寂しくて、怖くて、雨が混じった涙が溢れてしまう。
と、その時、屋上の扉が勢いよく開いた。
「つゆり?」
思わずその名前を呼ぶ。
けれどそこに現れたのは、先生だった。
「浅倉? 今日も屋上に来たって聞いたんだ。ほら、雨に濡れるぞ。早く帰ろう」
雨に濡れる私を見て、形相を変える。
肩で荒く息をしており、きっと雨に濡れてはいけないと、走ってきてくれだんだろう。
頬に伝る涙を見られなかったのが、不幸中の幸い。
俯いたまま、小さく頷いた。
「はい」
首に手を回し先生に抱えられながら、校舎に入る。
最後に振り返っても、そこには誰かの気配すら感じられなかった。
「ほら」
校舎に入ると、先生は予め用意していたのか小さなハンカチを私に手渡した。
先生も濡れているのに、どこまでお人よしなのだろう。
温かいそのハンカチを受け取り、顔を拭いていると、また涙が一滴一滴と溢れ出す。誰かの良心に触れたからだろうか。
こんなちょっとしたことで泣くような私では無かったのに。つゆりに会ってから、何もかもめちゃくちゃだ。
顔を覆って泣きじゃくる私を、先生は何も言わず、そうっと私の背中を撫で続けていた。
それでも屋上へ行くことを辞めなかった。
二日目。来なかった。私は、炎昼の中、つゆりが来るのを待ち続けた。
三日目。今日も来なかった。
四日目。今日も来なかった。つゆりという人物は、私の精神不安定から引き起こした幻覚なのではないかと思うようになった。
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