4.


それからというもの、私は屋上へ行く頻度が更に高くなった。

屋上では特にすることもなく、ただつゆりと話すだけ。

話せば話すほど、私とつゆりは何処となく似ていた。

二人は約束しているわけでも無いのに、欠かさず午前にやってくる。

そして太陽が朽ちる頃に、解散した。私は勿論、園に帰るがつゆりのことは知らない。いつも、何処かに溶けるように静かにいなくなってしまう。

でもそんなことはいいのだ。

私はただ、つゆりがいてくれるだけで良い。

基本的に社交的なタイプでない私は、つゆりの話を聞いている事がほとんど。

その話は全てが新鮮だった。忘れているものを取り戻しているような、そんな気がする。

あれから私たちは、お互いの境遇について触れていない。

だから袖から覗く、何本にも及ぶリストカットの跡にも気がついていないフリをした。

つゆりが話したいと思った時に、私は聞く。

それが暗黙の了解であり、私たちの関係性だ。

一通り話すのにも飽きて、区切りがつくと、二人で空を眺める。

この時間が好きだ。

『誰かと一緒にいるとその癖が移る』

どこかで聞いた話。夫婦や親友であれば、顔つきさえも似てくるらしい。

私とつゆりには程遠い話だが、お互いの好きなものは共感しあえるようになった。

初め、つゆりは空が嫌いだったそうだ。


「大きくて、眩しくて、好きじゃなかった」


そう言っていた。ユウレイであるつゆりには太陽に雲、空はあまりにも眩しすぎたんだろう。空に呑まれたい、と言っていたくらいだ。自分よりも遥かに大きい怪物だったんだ、つゆりには。

でも私はその圧倒的な存在感に惹かれた。

そう伝えるとつゆりは不満を吐いていたが、今ではよく見上げているのを目にする。

今では、結構空が好きみたいだ。


彼女のくしゃっと笑う笑顔に励まされ、いつしか私たちは屋上を飛び越えていった。

私が屋上に固執しなくなったなんて、誰が想像出来ただろう。

それくらいに、私の中でつゆりの存在は肥大化していった。きっともう、つゆり無しでは前の自分より下落してしまうだろう。

私は、もう高校三年生だ。園に留まって養ってもらえるのはきっとこの一年までだ。記憶がないと、弱音を吐けるのはこの一年しかない。

怖くても、自分に対して未知でも、死ぬ覚悟がない限り、生きていくしかない。

だからつゆりがしたいと、行きたいと言ったものには着いて行くことにした。

そこで一つ分かった事がある。

つゆりの姿は、私以外に見えていないということだ。


「高校生、一人ね。二千円だよ」


つゆりが行きたいと駄々を捏ねていた水族館で、言われた言葉。

私たちは、人混みが好きではなかった。

だから、屋上以外に行くところなんて言えば、学校の近くにある河川敷くらいだ。駆け回る子供、犬と散歩する老人、そして私たちくらいしかいない所。風で揺らぐ草の匂い、波紋する水。それを眺めながら、話していた。

時には、小さな砂場で、泥団子を作ってみたりもした。お互い作り方を知らないまま、泥を握ったせいで、白い制服を何回汚した事だろうか。

何度も何度も失敗して、その度におかしくて笑っていた。

私は記憶をなくした一年ほど前から、上手く感情を表に出せない。

可笑しい事があっても、何故か笑えなかった。

でも、その一日だけで何回笑顔になれただろう。きっと十年間分くらい笑っていたのかも知れない。

つゆりと一緒にいれば、私も普通になれる。

二人きりで笑い合えるなら、何処へでも行きたいと思う。

そしてつゆりが行きたいと言ったのは、水族館だった。



「二人です」


そう答えても受付の人は、一人分のチケットを私に押し付けた。

今、忙しいのよ、と付け足して、怪訝な顔で私を舐め回すように見る。

本当に、私一人に見えているようだった。

私はそこでハッとした。

私は受付の人に謝って、入場ゲートの中に入った。

そしてつゆりに尋ねる。


「もしかして、つゆりって私以外には見えてないの?」


そうとしか考えられなかった。

あまりにも、近い存在になったけれどつゆりは、魂だった。人間ではない。見えない事も納得がいく。


「うん、そうだよ」


水族館に入館して、目を輝かせていたつゆりは、当たり前の事を吐くようにそう言った。

私は口をあんぐり開ける。


「じゃあ、どうして私は見えるし、触れるの」


私は初めから見えていたし、触れることも出来た。


「日々姫なら見せても良いって思ったから」


当たり前のように言った。

仕組みは理解できないし、疑問も残るけれど、その一言で思わず顔が綻んでしまう。

つまり、私だけがつゆりを特別だと思っていたんじゃなくて、つゆりも私の事を特別扱いしてくれていたのだ。


「ありがとう」


少し照れ臭くなりながらも、心が熱くなる。

つゆりもはにかんで笑っていた。


入り口から水族館はひんやりとしていて、まるで異世界に来てしまったようだった。

青みがかった水槽で、何匹もの魚が悠々と泳いでいる。勿論、子供連れの家族も沢山来園していたように思う。

私は子供連れの家族があまり好きではない。

その理由は定かではないが、恐らく家族がいない私と比べてしまうからだろう。

でも今日は違ったのだ。ただ幸せそうだなという感想しか湧いてこなかった。

人混みの中でも、私の口角はずっと上がりっぱなしだった。



「わあ、凄い。見てよ、日々姫」


一人で水槽を横目に走りながら、どんどん先へと走っている。

水族館に行きたいと話したその心は本心だったのだろう。走る背中が、つゆりにとってどれだけ待ち望んでいたかを物語っている。

まるで小さな子供のように大水槽の前へ走っていった。

つゆりを見ていると、何故かとても懐かしいような、そんな気持ちに駆られる。


「日々姫ーっ! こっち、こっち。凄いよ」


くるりと私の方を向き、手を上下に動かして、私を手招きした。

そのつゆりの手に釣られるように、私も足を動かす。


「つゆり、あんまり先行かないでね。はぐれちゃうから」


そう言いながら、つゆりの隣に立った。

ふふふ、と肩を小さく揺らしながら笑っている。


「なに」

「何だかお姉ちゃんみたいだなって」


可笑しそうに、口元を抑えている。

でも私は反対に、胸が熱く拍動していた。お姉ちゃんみたい、その一言だけで、私にも家族が出来たようで胸が高鳴る。


「そう?」


火照る頬を隠しながら、私も大水槽に目をやった。

その光景に目が輝く。

想像もつかない数の海の生き物たちが、悠々と泳いでいた。自分の何倍もある巨大な魚から、群れで行動する小さな魚まで。

鱗が美しい模様を成す魚から、単色の魚まで。

まるで生物の美、というものが詰められた箱のように感じられる。

気を緩めてしまったら、涙腺から涙が溢れ出してしまいそうだ。

世界はこんなにも自由なんだと気付かされた気がした。

それはつゆりも同じなようで、


「本当に綺麗。みんな自由に泳いでる」


と呟いている。


「だね」


それから私たちはしばらく、この大水槽の前に佇んでいた。

他の来場客から見れば、一人で来て、大水槽の前で立ち尽くす変人だと思うだろう。

それくらい、虜になっていた。


「あの魚、なんか日々姫に似てない?」


暫く経った時、つゆりが水槽を指差した。

その手の先を見つめると、黒くて、大きくて、自由に体を動かすエイの姿があった。

自分の羽を動かしながら縦横無尽に水槽を横切っている。

でも、言われてみれば、髪の毛が黒いところが似ているかも知れない。けれどそれだけだ。

あのエイみたいに私は自由に泳ぐことなんて出来ない。


「似てる? 黒いとこだけじゃない」


私は、肩までしかない髪の毛を持ち上げて、つゆりに見せた。

でも、そんな私の行動には目もくれず、似てるよ。と言ってつゆりはケラケラ笑った。


「ほら。顔とか、そっくりだよ」


今度は真面目そうに言ったので、私ももう一度見た。その顔はお世辞にも可愛いなんて言葉が出るものじゃなかった。のっぺらぼうみたいな顔なのに。

私は眉を顰めて、つゆりを睨む。


「全然似てないし」


否定しても尚笑いが止まらないようだ。とうとう笑いの絶頂に達したのか、小さな手で水槽をトントンと叩いている。

私は何だか悔しくなって、水槽に泳ぐ魚を一心に見つめた。


「つゆりはあの魚に似てるよ。もうこれでもかってくらい」


ようやく見つけた魚を指した。


「え、どこどこ」


と戯ていたがその魚を見ると、あからさまに笑顔を崩した。

私はその様子が面白くて、吹き出してしまう。

だってその魚は、目がこれでもかというくらい離れていて、小さく、灰色の魚なのだ。


「もう」


私の仕返しに気がついたのか、ぷくーと頬を膨らましていた。

けれどそんなやり取りが楽しくて、疲れ切るまでずっと笑っていた。

こうやって笑っている私は、嫌いじゃないかも知れない。

 

それから私たちは、館内を飽きるまで散策した。

クラゲの幻想的なエリア。

超巨大サメがいるエリア。

熱帯魚が暮らすエリア。

けれど一番記憶に残っているのは、イルカのショーだ。

ずっと楽しみにしていたショーで、私たちは前方の席に座った。

ゆらゆらと揺れる水面に胸が高鳴った。

いざ始まると、イルカが飼育員の手の動きに合わせて、水中で何度も何度も芸を繰り広げた。

だが、イルカのショーというものは、何匹ものイルカが織りなすジャンプが見せ物だった。そのジャンプでは大量の水飛沫が飛ぶのが恒例で、両隣に座る親子たちがレインコートを着ていたのにも、そういう訳だったのだ。

けれど私たちはそんなことを、一つも知らない。


「待って。これって水かかるやつじゃない?」


つゆりが焦るように耳打ちした時にはもう遅かった。

防水出来るものなんて持っていない私は、どうすることも出来なかった。そしてつゆりは何故か、私を庇おうと両手を広げる。

けれど勿論効果はない。

つゆりの体を透り抜けて、幾万の水滴が降り注ぐ。

バシャーン

私は気がつけば、全身がびしょびしょに濡れていた。

朝、セットした髪も、シャツもスカートも下着まで、一瞬にして濡れてしまった。

その時、お腹の底から何かが湧き上がってきた。

つゆりは透けているのに、水から私を避けようと、前に立ったこと。

勿論、そんなことは意味がなくて、頭から水を被ったこと。

全てが可笑しかった。

可笑しくて、気がついたら笑いが止まらなくなっていた。


「あははっ。はははっ」


こんなにも感情豊かだったんだと、自分でも驚きだった。

笑いすぎて、お腹が僅かに痛む。


「日々姫、笑いすぎだよ」


こんなに笑う私が珍しかったのか、僅かに戸惑いを見せるつゆり。けれどそれも束の間、つられるように二人して笑う。

大きく口を開けて、目を細めて。生まれて初めて幸せだと、言える瞬間だった。

この瞬間がずっと続いて欲しかった。



「じゃあね」


今日も私たちは、学校の門の前で、解散することになった。

けれど、何かおかしい。

腕を上げて、つゆりに手を振っているのに、つゆりは一向に手を振り返してこない。

弾けるような笑顔も何処かへ消えたように、口角は下がっている。

色んな推測が頭をよぎる中、ハッと我に帰ったかのようにつゆりが顔を上げた。


「うん。じゃあね日々姫」

「……え?」


その一言を言い残して、私が口を開く前に一瞬にして何処かへ消えてしまった。

表情はいつも通りだったはず。

けれど一抹の不安が私を覆った。

開いた瞳孔の奥では笑っていない気がしたのは、私の思い込みだろうか。

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