3.
「今日も行くの? 気をつけてね」
そんな言葉に見送られながら、今日も園を出た。
一晩が経ったからか、田辺さんは普段と変わらぬ優しい目をしていた。
今日も空は青く、深く続いていた。
そんな空を見るだけで、足取りは軽くなっていく。
そしてようやく、冷気を纏った校舎から暑さで白く浮き上がる屋上へと扉を押した。
もわっとした空気が体に張り付くことも、最早心地いい。
肺いっぱいに空気を溜め込んで、大の字に寝転んだ。田辺さんには止められたのに、この欲望には抗えない。私はこんなにも貪欲だったのかと、初めて気付かされる事ばかりだ。
目を閉じて、蝉声に耳を傾けた。
心地よかった。
「日々姫!」
けれど、不意に聞こえた私を呼ぶ声に背中がびくんと跳ねる。
「びっくりした」
目を開けた先にいたのは、またもやあのユウレイだった。
私の中では幻覚だと処理されていたのに、目の前にいるものだから恐怖は倍増だ。
昨日と変わらない白いワンピースの彼女は、太陽に照らされると、より透けていて怖気つく。
二回目の顔合わせに若干狼狽しつつも、腰に手を伸ばす。
まだ五分と経っていないからか、体調の変化もなく自然に上半身を起こした。
「もしかしてあたしのこと忘れちゃった?」
彼女を見つめたまま何も言わない私に、見かねたユウレイが話す。
「つゆり、さん、だっけ」
頬をぷくーっと膨らます彼女は、一瞬にして笑顔に変わった。
「そう。つゆり」
満足したようで彼女は私と同じように、「よいしょ」と熱を持った地面に腰を下ろした。
風が吹くたび、彼女の腰まで伸びた髪が背中を撫でて、少しくすぐったい。
髪の隙間からチラリと彼女を覗くと、空を見上げていた。
相変わらず、肌も髪も真っ白で本当に死んでいるみたい。
それでも徐にしか動かない雲にも飽きたのか、こちらを振り返った。
「何してたの?」
きっと屋上でのことだろう。
「特に何も。強いて言えば、蝉の声を聞いてた」
ふーんと彼女は心底興味なさそうに相槌を打った。やっぱり、彼女には理解出来ないのだろう。屋上に囚われる私のことなんて。
「虫好きなの?」
「全然」
「あたしも。嫌い」
二人は汗ばむ炎昼の下で、中身のない話を繰り広げていた。
そろそろ帰って欲しい、そんな感情まで抱き始める。
私はこの屋上に孤独を求めて来ているのに、ユウレイとは言えど他人がいるのは不本意だ。
「日々姫はさ、どうしてこんなに暑い屋上にいるの」
宇宙まで届きそうなほど、大きな入道雲を眺めながら、彼女は口を開いた。
聞いたことのない真剣な声色が聞こえて、思わず横を向く。
初めて中身のある質問だった。
でも、その理由はきっと彼女には話したって伝わらない。
そう思った私はやはり可愛げのない子で、
「あなたは」
と返した。あなたはどうして屋上にいるの、と。私の縄張りなのにという皮肉も込めた返答だった。
「あたしかぁ」
でもそんな皮肉は歯牙にもかけず、返答を探す彼女に面食らってしまう。
手を丸めて顎へ持っていき、首を傾げている。
「あたし、何も覚えてないんだ」
ポツリと、質問の意図に当てはまらない言葉が返ってきた。
「覚えてない?」
でもその一言を聞き流すことも出来ず、無意識に聞き返す。
心臓がドクドクと波打っている。
蝉声に遮られることなく、彼女の言葉がすうっと耳に入ってきた。
「そう。人間だった時の記憶がないんだ。人間としてのつゆりの記憶がない」
記憶がない。
その一言に、はっとユウレイを見る。
私も。
言葉が漏れていく。心臓がより一層音を立て始める。体の内側から熱い血液が巡っていく。
私もなの。私も記憶がないの。
いつの記憶がないかも分からない。いつから無いのかも分からない。
何もかも、思い出せない。
「初めて目を覚ました時、監獄のように狭くて、陽の光が入らない部屋で、あたしは寝ていたの。多分、病室だったんだと思う。パッて下を見たら、自分と同じ顔の女の子が包帯に巻かれて眠っていた。直感で感じた。あたしは、この子の魂の化身だって」
声は震えていた。
屋上のアスファルトに指を押し付けながら、くるくると円を描いている。その眉は露骨に寄せられている。初めて見せる人間らしい表情だった。
きっと彼女は彼女なりに、恐怖を抱えていたんだろう。
得体の知れない、自分自身に。
何も思い出せない、自分自身に。
「だから、この子が通っていた学校に来れば何か思い出すかもって思った。でもね手がかりなんて無くて、気がついたら屋上に来ていた。もういっそ、空に呑まれようと思って。でもそこで、日々姫と会ったの」
昨日のことを思い出しているのか、そのまた遠いところなのか、彼女は目を細めている。
私はその遠くを見る目を見つめて、口を噤むことしか出来なかった。
「日々姫が陽の光に照らされて、綺麗だった。その横顔に、自分を思い出せない怖さが吹き飛んだの」
真っ直ぐに語られるその話に思わず、体が痒くなっていく。でも少しだけ、手先が痺れて、胸が高鳴った。
「だからあたしは、日々姫に会うためにここに来てるのかもしれない」
私を視界に捉えながら、ニッと口角を上げて、彼女は、つゆりは笑った。
目尻に皺がよって、口角が上がって、照れくさそうにはにかんで、でも大きくなった瞳孔の中には、寂しさが隠れているように見えた。
私はもう、つゆりを陽の人間だと一括りに出来なくなった。
彼女は私と、同じだったんだ。
それから私たちは、昼下がり頃まで互いの話を聞き合った。私の額に汗が伝るまで、屋上が雲の影に覆われるまで、話が途切れることはなかった。
私の思惑通り、さゆりは私の辛さを一身に受け止めてくれた。
人前で泣いたのは、初めてだった。
きっと私が欲していたのは、逃げ場なんかじゃなく、共感だったんだ。悲しみを、恐怖を、分け合いたかった。
こんな私でも生きてていいと、自己嫌悪に呑まれなくても、良いんだと言って欲しかった。何の記憶がなくても、私は日々姫として生きていいのだと。
「記憶があってもなくても、自分が嫌いでも好きでも、日々姫は日々姫。あなたは逃げてもいいし、何をしてもいい。辛かったね、怖かったね、あたしも一緒」
この言葉を望んでいた。
初め、つゆりを陽の人間だと遠ざけた。その冷たい手に怯んだ。
今ならその行動一つ一つ、馬鹿らしく感じる。
この日、私は初めて人の温もりというものを知った。
それはのたうつように暑い夏よりも、悠々と連なる雲よりも、何処までも消えない青よりも、私の心を溶かした。
もう屋上で、空に呑まれるだけでは、きっとこの気持ちは晴らせない。
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