2.
「もう暑いから気をつけてって言ったじゃない。日々姫ちゃん」
隣でネチネチと話すこの人は田辺さんだ。
急いで私を迎えに来たのか、一つに括る髪の毛は乱れている。
田辺さんとは、児童養護施設でかれこれずっと一緒に住んでいる。
私に家族なんていない。
少なくとも、そんな記憶はない。
でもそんな中で田辺さんは唯一、私に寄り添ってくれる。分け隔てなく、まるで本当のお母さんのように。
田辺さんは日陰のない屋上に長くいたことに、ひどく腹を立てているらしかった。日頃から健康面に関しては、耳にタコが出来るほど細かい性格だ。
なのに私は懲りなかった。
屋上に行って体調を崩すことは、今日が初めてではない。
結局私は脱水症状だったらしく、塩分を取り仮眠したらすっかり良くなった。
寝ているうちに徐々に回復してきて、今日出会ったつゆり、とかいうユウレイは、私が見た幻覚なのかも、と思えてきた。
「後ちょっと長く屋上にいたら、危なかったんだからね」
そう、保健室の先生から注意を受けた。それくらい生死が危うかったのであれば、幻覚を見るのだって容易い。
「水分補給もちゃんとね」
田辺さんのお説教はまだまだ続きそうだ。
保健室の先生にも、担任の先生にもこっぴどく叱られてうんざりだった私の耳は、遠のいていく。
それでも三人とも、私に屋上に行くなと言うことは決してしない。
私の拠り所だけは守ってくれる。
「ごめんなさい。気をつけるね」
私はあたかも反省しているように塩らしく謝る。
この一言に安心したようで、田辺さんは私の頭を触れるか触れないかのギリギリで頭を撫でた。
「約束よ」
慣れない私は下を向いて口を噤んで、コクリと頷く。
でも嫌ではない。腕に纏わりつく気持ち悪さがすっと軽減されるように。安心感が身を包んでくれるのだ。
誰を照らし続けているのだろう街頭を、八回ほど通り過ぎると私の家は顔を見せる。
白い壁に刻まれている「ひまわり園」の文字。
まだまだ違和感を感じる、小さなシルバーの門を潜ると、いつもと変わらない景色がそこにはあった。
滑り台。砂場。鉄棒。
ここは子供が大勢いる。私と同様に捨てられた子供が絶えずに訪れるからだ。ここは社会から弾き出されたものの集まりなのだ。
そのためその子供たちを癒すために遊具のレパートリーは幅広い。
「ただいま」
と田辺さんが口にする。
その声に子供達の顔は綻ぶ。待ってましたと言うように、遊んでいた遊具から身を離し、一目散に田辺さんの元へと駆け寄ってきた。
一人一人顔を確認しながら、田辺さんは子供たちの頭に手を乗せる。
ここでは田辺さんはみんなのママなのだ。
田辺さんのことを慕ってない子供なんていない。
一応私は十七歳で、最年長の部類だ。
だから小さな子供たちが多いこの園では、自然と一人でご飯を食べることも増える。
けれど、テレビを独り占めできる事は利点だ。
幼児向けのテレビ番組を見ていると、どうしようもなく胸が苦しくなってしまうから。
その理由は分からない。
けれどその原因不明の息苦しさに襲われる事自体、気持ち悪い。
自分が自分じゃないみたいで。
だから決まってニュース番組をつける。
カレーを頬張りながら、片手にリモコンを持った。黒くて四角い機器から、女の声が流れる。
『八月十七日。今日のニュースをお知らせします』
タイミングはバッチリだった。ちょうどニュースが始まる刻限だったらしい。
このニュース番組は決まって気象情報から入る。今日も猛暑日で、熱中症で運ばれた方が何人だとか、街の人のインタビューなどが組まれている。
でも私の目的は違う。
事件だ。
『浅倉家殺人事件から、今日で一年と半年が経過しました。あの日本中を震撼させた事件の真相はいつ解き明かされるのでしょうか』
不意に画面から聞こえた事件のニュースに思わず見入る。
画面にはきっと殺されたんであろう、親子三人の画像が名前とともに映し出されていた。
三人とも屈託のない笑顔の写真だ。
胸がきゅうと締め付けられた。
『容疑者とされている少女は、未だ目を覚ましておりません。当時、十六歳だった少女は、どうして殺人を犯したのでしょう。犯行後、飛び降り自殺を図ったのは、罪悪感からでしょうか。警察は少女が回復するのを待って、事件を慎重に調べています』
その後には専門家らしき人がこの事件について自己の見解を述べ始めた。
番組内では、この事件の経緯などがまとめられたボードが用意されており、何人もの大人が議論しあっている。
殺したのは、十六歳の少女らしい。
凶器となったナイフに少女の指紋がついていた。部屋には犯行を仄めかす文書が残っていたことにより、容疑者として浮上する。
けれどその少女が、五階のマンションから飛び降り自殺を図った。しかし、自殺は未遂に終わり、今は昏睡状態だ。
私はこのニュースにのめり込むように、食べる手を止めた。
ニュースキャスターと専門家の言葉を一語でも逃すまいと耳を立てた。
次第に息が荒くなる。
心臓がドクンドクンと違うリズムで脈打つ。
何故、少女は一家を殺したのだろうか。その全てを知りたくなった。
日本中を震撼させた事件と謳っているだけある。
私も例外では無いようだ。
肩で息をしながら見入っていると、プツっと言う音とともに画面は黒くなった。ニュースキャスターの言葉も途切れる。
振り返ると、何故かリモコンを手にした田辺さんがそこにはいた。
眉は吊り上がっていて、額に皺を作っている。反射的に怒っているのだと察知した。
「日々姫ちゃん。早く食べて」
聞いたことのない、重く低い田辺さんの声が響く。思わず肩が跳ねてしまった。
「あ、ごめんなさい」
カレーはまだ半分以上残っている。夜も深い。早く食べろというのも正論だ。
私はそれからスプーンを持ち直して静寂が漂う中、食べ続けた。
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