夏の果て
早坂 椛
1.
蝉声が轟く屋上で、ただ一人寝そべっている。
まるで雨のように降り頻り、何処に行けば良いか分からない雑踏みたいだ。
大の字になって、目の前に佇む雲の峰の行方をじっと見つめている。ジリジリと太陽は私の頬を焼いていき、屋上から跳ね返る熱で、足や腕は真っ赤に染まっている。
そして額には汗が仕切りに伝り、乾いたアスファストに楕円の影を落としていった。
真っ黒な髪は私の首に張り付いて、それが更に暑さを増幅させる。
この一連の流れを私はずっと繰り返していた。
クーラーによる冷気を纏った校内から、屋上へ出る。
ドアを開けた先に待つのは、もわっと、湯気のように湿度を含んだ足元を掬われそうな空気。そよとも吹かぬ風。そして耳を突くような蝉の音と、少し青臭い夏の匂いだけ。
それでも私はここへ来てしまう。
一人になれる私だけの空間。
誰の縄張りにも無意識のうちに入らなくて済む。一つも思い出せない自分への、止まらない自己嫌悪さえも暇をくれるのだ。
「浅倉、屋上行ってみるか」
そう先生が屋上の鍵を持ってきた時は、心底驚いた。
ただの一生徒に何処かの鍵を渡すなんてもってのほか。それが屋上なのだとしたら尚更のこと。危険性を汲んで、生徒は年中立ち入り禁止。入れるのは年に一回のクラス集合写真の場合のみらしい。
けれど、それは先生なりに私を気遣ってのことなのだと今なら思う。
私が暮らす「ひまわり園」でも、私の元へと何人ものカウンセラーと自称する人が訪れた。しかし私を見ると、カウンセラの人も戸惑いの表情を浮かべる。
私の精神は何らかの異常をきたしていたのだ。
だからひまわり園でも話し相手すらいない。
友達なんてもってのほか。
そのため屋上という、隠れ家を創ってくれだのだろう。
そうやって私は今この場所にいる。
逃げ場を見つけてからというもの、ここへ赴くことが日常へと化していた。園よりも、この地球上のどこよりも居心地がいい。
三十分ほど寝ていたのだろうか。照り続けられた頭は、目眩に襲われる寸前の気持ち悪さで覆われている。
三十五度を超える猛暑日の外気にさらされて、正気を保てているのは、もはや奇跡というレベルなのかもしれない。
連なった入道雲は更に他の雲と合体し、私の視界から溢れ出すほど肥大化していた。青は深くなり、何処までも続いている。
そろそろ避難しようかと、少し頭を持ち上げただけで、視界が一転も三転も歪む。
「いっ」
思わず声が漏れた。頭が波打つように熱い。
腰に赤く染まった手を回し、頭を擁護するようにして上半身を起こした。
上半身は起こせても、問題は立てるかどうか。
足を地面につけ、力を込めようとした時だった。
「ねえ。何してるの。日向ぼっこ?」
不意に女の高い声が鼓膜に響き、背筋を怖気が走った。
私は耳を疑う。ここは鍵を持っている私しか入れない。ここに来れる者は鍵を持っている人だけだ。
鍵を持っていなければ、入ってくることも出来ない。
けれど目の前には紛れもなく、白いワンピースを穿いた少女が立っていた。太陽に照らされ輝く白色の髪を纏う少女が、私に向かって手を伸ばしている。
素性が分からない少女の手だった。けれどその手を疑うほどの思考回路は、勿論のこと持ち合わせていない。
私は揺れる視界を片手に彼女の手を握った。
冷たい。
握った彼女の手はとても冷たかった。いや、ただ単に私が熱いだけかもしれない。
「ありがとう、ございます」
この言葉に返事はなく、「せーの」という合図でぐいっと引っ張られる。
やはり、急に立つことは得策ではなかったようだ。割れてしまいそうなほどの頭痛と眩暈は勢いを増す。
「いたっ」
またしゃがみこもうとした私の手を取って、「ほら」と彼女はドアへ一目散に走った。釣られておぼつかない足取りで後を追う。
彼女は一目散に駆け寄った屋上の扉に手をかけ、私を中へと連れ込む。途端に冷たい空気が頬を掠った。
急に動いたせいか、頭痛と眩暈と動悸で視界が歪み出す。
足はガクンと力が抜け、そのまま地面へと落ちていった。
「はあ、はあ、はあ」
一生懸命空気を吸い込む。
熱くなった肺に冷気が降り混じってゆく。その寒暖差に思わず顔が綻んだ。
そんな時間も束の間、
「ねえ。大丈夫? 屋上で何してたのさ」
私と同じように息を整えていた少女の顔が視界いっぱいに映し出される。
途端、背筋が凍った。
「え。どうして透けてる、の」
彼女は透けていた。
顔も、服も、ワンピースの下から覗く脚も。全て。
彼女を通して、下に続く階段が視認できる。
彼女の髪は、真っ白で、腰まで伸びていた。鼻はスーッと綺麗な輪郭を形作っていて、目も大きい。
けれど、瞳孔は白くて、大きくて。
まるで、死んでいるみたいだ。
「あぁ。これ? そんなに驚かなくてもいいよ」
あはは、と彼女は目尻に皺を寄せ、眉をクイっと上げた。
まるで、この質問は想定済みだったかのように。
「気がついたら、こんな風になってたんだ。あたしにもよく分からないんだよね」
そう自分の姿を確認するようにふわりと一回転した。その風で私の髪が靡くことはなかった。
質問に答えられなくてごめんね、と彼女は付け足す。
ユウレイ?
普段の私なら狼狽しただろう。きっと顔を青ざめて。でも今は彼女の言葉に納得している自分がいた。
確かに、幽霊なのであれば屋上に居たことにも辻褄が合う。
「あなた、死んだの?」
「驚かないんだね」
彼女は私のあまりの冷静さぶりに目を丸くした。
でもそんなことはない。
ほら、今も地面に張り付く足が、小刻みに震えている。
「んー」
彼女は手を丸めて、顎に当てた。
「多分、死んではないかな。あたしの本体は別にいる。ただ一時的に生まれた心の集合体、つまり魂だと思う。びっくりだよね」
あまりに当たり前のことのように話す彼女を見て、ぽかんと口を開く。
本体、とまるで自身のことにように話さなかった違和感を感じながら。
「で、今あたしの本体は目を覚ましてない。だから自由に行動出来ている」
彼女自身も、仕組みをはっきりと理解していないらしい。
でも当の本人が言うのだから間違いない。
私は今、魂と話している。
あまりにも非現実的すぎて、「はあ」と呟くので精一杯。
震える脚もいつの間にか収まっている。
でも一つだけ確信があった。きっと彼女は害を及ぼす存在ではない。そう思った途端、
「ありがとう、助けてくれて」
蚊の鳴くような声だった。
「どういたしまして」
けれど彼女はニッと口角を上げ、私に微笑みかけた。
その笑顔はまるで夏に咲く向日葵みたいで、私の胸にまでぼっと灯りがついてしまう。
「あたし、つゆり」
私の目を見て、その名を口にした。
「私は、日々姫。日曜日の日に、お姫様の姫で」
「可愛い名前だね。君にピッタリ」
不思議だ。その一言だけで名前負けだった自分への嫌悪が弱まった気がするのは。
「日々姫ね。覚えたよ」
戯けるように、手でグーサインを作った。
最初から名前の呼び捨てに慄いてしまう。この類の人間は私とは正反対のタイプなのだ。
「じゃあ」と言って彼女は私の手を取った。
透けているのに、触れることは出来るらしい。
「日々姫は保健室行った方がいいよ。もう顔が青くてびっくりしたんだから」
そういえば。自分の体調不良よりも、この瞬間が非日常すぎて頭から抜け落ちていた。
いざ思い出すとあの頭痛が蘇ってくる。
「分かった」
私はこのユウレイに助けてもらってばかりかもしれない。身構えはしたが、案外ユウレイというのも悪い存在じゃないらしい。
徐に立ち上がって波打つ頭を抱えながら、階段を一段一段慎重に下る。
と後ろから声が聞こえた。
「日々姫、またね」
振り返ると透明感の一言では片付けられない、儚い空気を纏った彼女が手をブンブン振っていた。白い髪が舞い、今すぐにでも何処かへ行ってしまいそうな。
きっと彼女の本体もこんな風に明るい人なのだろう。
大きく丸い目を細めて、笑い、どんな人も虜にしてしまう人。
助けられた恩もあり、小さく会釈した。
でも彼女はこれから何処へ行くのだろうと振り返った時には、この冷たい空気に溶けたのか、彼女の姿はもう無かった。
屋上前の扉には再び切り裂くような静けさに包まれていた。
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