創作世界から戻ってきたら


 トモヤはそこまで書くとキーボードを走らせていた指を休めた。

 なんてイカすヤツなんだ!

 自分の創り上げた世界に没頭し、自分の生み出したヒーローに心酔する。この種の人間はどの世にも必ずいるもので、この青い惑星の極東の小さな島国の住人、トモヤもその一人だった。

 短く刈り込んだ黒い髪、日焼けした浅黒い肌、そのうえ長身でそこそこ整った顔立ちなのだから、なかなかステキなオニーサンのようだが、実際のところ、この春、高校を卒業する年齢にしては、いまいちガキっぽいところがあった。

 特に今は。

 今、たった今、彼は大冒険をしてきたのだから。

 パソコンのワープロソフトを使って。

 郊外の住宅の二階の六畳間で。

 濃い茶の瞳を生き生きと輝かせる姿は、統制のとれた近年の教育課程の中では、滅多にお目にかかることができない貴重な存在だ。精神的従順面素直度では、彼は五歳のときから年を重ねていないようだ。

 トモヤは机から離れると窓際へ行き、思いっきり背伸びをした。

 学校から帰るとき降っていた雨は、きれいさっぱりあがっており、かわりに午後の太陽が顔をのぞかせている。

 ちぇ。ハルカの嘘つきヤロー。

 トモヤは、所属する映画研究部の部長に文句をたれた。

 いいかげんな天気予報言いやがって。『今日は雨があがりそうにないから、撮影は明日に延期しよう』だって?

 ったく。

 文化祭までに間に合わなかったらどーするつもりだよ。

 しかし、面と向かって意見できるほど強くはない。

 女子は苦手だ。

 あ、でも、それは、先月、隣のクラスのマナミちゃんにフラレタからではない。

 …と思う。

 …思いたい。

 …思わせてくれ。

 頼む。

 って、誰に頼んでんだか。

 トモヤは、一人で苦笑い。

 でも、ほんとのとこ、部長のハルカは苦手だ。ボクの書く脚本に、はっきりくっきりダメだしを出してくる。『もっと色っぽい展開にできない?』とか、『女心、わかってないねー』とか。

 あったりめーだろ。

 ボクは健全な十七歳の高校男子だ。女心がわかってたまるかってんだ。部長こそ男心がわかってねぇじゃないかよ。

 もちろん、面と向かっては言えない。

 こわいもん。

 だけど、愛だの恋だのって書ける気がしない。い、いや、経験不足ってわけじゃないよ、う、うん。

 ごまかすかのように(って誰から? 何を?)空を見上げると、太陽はそんなこと関係ないとばかりにニコニコ顔。

 雨の中、自転車をぶっ飛ばして帰ってきた身としては、ちょいと哀しくなる。

 自転車!

 この神秘の乗り物は小説家志望のトモヤの宝物だった。坂道を登るときの苦しさは難関に立ち向かう主人公の気持ちを味あわせてくれるし、その坂道を登りきったあとの充実感は修行を終えた剣士の気分だった。急な下り坂をブレーキもかけずにすっ飛ばす爽快感は宇宙船を操るヒーローのもので、また、せっかくの下り坂なのに横道から出てくる歩行者の存在にブレーキをかけなければならない屈辱感は夢を打ち砕かれた少年のものだった。

 トモヤの自転車が【宇宙艇ギア】こそ装備していないが、いつも彼をいろいろな世界へと連れて行ってくれる。

 自転車はストーリーを生みだしてくれる自動販売機だ。

 トモヤは窓を開けた。

 雨上がりの済んだ空気が彼を包み込む。

 赤いランドセルを背負った小学生の一団が家の前を走り抜ける。

 隣の犬がそれに吠える。

 どこにでもある平和な風景の展開だ。

 にぎやかなバイクのエンジン音が響き、どこからか焼きイモ(多分、台所で母さんがチン!しているのだろう)の匂いまでもが漂ってくる。

 トモヤは深くため息をついた。

 ああ、この変化のない現実。冒険に満ちたアノ世界との落差をヒシヒシを肩のあたりに感じちゃう。

 彼をとりまいている世界は、小言に人生の目的を見出して幸せな母親に、頭頂部と存在感がうすい父親に、さっさと欲しいモノを見つけて外国に行ってしまった二人の兄に、彼と二人の兄をいつも間違えてくれる祖母。それから学校と映画研究部の仲間…って、いや、違うな、仲間っていえるほど絆はないと思う。誰も本音で語り合ったことないもの。でも、それでうまく回っているんだから、それでいいんだろ。 

 こんな世界。

 こんな世界の誰も、たった今、彼が命がけの冒険をしていたことに気がついていない。

 まぁな、こんなもんか。

 トモヤは、もう一つため息をついた。

 さまざまな物語の中で、彼は、幼いころやりのこしたことや、これからやりたいことをなしとげてみせる。物語を書くことで現実から逃避しているだけかもしれない。でも、そこには、絶えず冒険が満ちあふれ、彼を待ち受けているのだ。

 冒険!

 いい響きじゃないか!

 信じる者にしか観ることができない宝、それが現実世界にあるか?

 隠された秘宝を探したり、とらわれのお姫さまを救い出すような冒険が?

 大魔王と死闘をくりひろげたり、巨大迷路を走り逃げたりする冒険が?

 異星人が現れたり、宇宙船が落っこちてきたり…。

 ドシャドバゴゴゴゴゴォーーーーーーン!!!

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