お姫様と機械仕掛けの異能力

@punitapunipuni

お姫様と機械仕掛けの異能力

 柳夢は孤児であった。

 夢の両親は、夢が三歳だった時に交通事故で死んだ。後から聞いた事件の詳細は次のようなものだった。両親は横浜旅行の帰り道、横断歩道を渡っていた際に、、居眠り運転をしたトラックに突っ込まれたらしい。即死だったとも聞いた。

 両親がその数奇な人生に幕を下ろしている間、夢は東京の家で、シッターさんと二人きりだった。両親はあまり夢のこと世話しなかった。両親が夢に与えてくれたのは「食べ物」や「住む家」などといった生活必需品くらいで、肝心の夢のお世話となるとシッターさんに任せきりだった。両親が事故にあった現場の「横浜」も、夢を家において二人だけで遊びに行ったのだ。

 だからシッターさんから「ご両親が交通事故で亡くなったらしい」と深刻そうに言われても、夢は大して悲しいとも思わなかった。

 もちろん、両親がいなくなった寂しさも少しはあった。でもそれは例えるなら、楽しみにしていたバラエティ番組の放送が終了してしまった時のような、耐えようと思えば耐えられる程度の寂しさだった。両親と会えなくなったとしても、それは夢からしてみれば「もとからあんまり会えなかった人たちと過ごす時間が、とうとうゼロになっただけ」というだけに過ぎなかった。

 両親と住んでいた家を離れ、次に夢が過ごしたのは、「ひまわり園」という名の児童養護施設のような建物だった。シッターさんからの拙い説明によると、この養護施設は夢と同じように「事故や事件で両親を失った子供たち」を集めて、その子たちが大人になるまで面倒を見ているらしかった。

 「これでお別れですね。それでは、お元気で」

 ひまわり園に移る前日、シッターさんは目を潤ませながらそう言った。

 「もう会うことはないかもしれないけど、でもこれだけは言わせてください。今までありがとう。夢さんと過ごすのは大変でもあったけど、すごく楽しかった。どうかお幸せに。――友達を、大切にね」

 そしてシッターさんは夢を抱きしめた。三歳だった夢にはどうしていきなりシッターさんがそんなことを言い出したのか、イマイチ理解できていなかった。しかし、シッターさんが自分を大切に思ってくれていることだけはわかった。

 夢が三歳までで最も長い時間を共に過ごしたのは、紛れもなくこのシッターさんだった。

 あの時の自分にとって「両親の代わり」として愛情を注いでくれていたのは、シッターさんだったのだ。そのことが後からわかって、シッターさんがくれた愛情の重さをひしひしと感じた。

 もっとも、夢はそのシッターさんの名前を知らない。名前に興味がなかったからだった。だから当然会うことも、探すことも難しい。


 ひまわり園は不思議な施設だった。十数人ほどの子供たちが共同生活を営んでおり、夢はそこの新メンバーとして暮らすこととなった。最年少の子が二歳、最年長の子でも十歳と、入所している子たちは皆低年齢だった。

 彼らはそれぞれがそれぞれの事情で親を失い、この施設に集められたのである。でもそういう事情に深堀して、詳しい話を根掘り葉掘り聞きだそうとすることは、夢を含めた施設の子たち全員がしていなかった。夢たちは幼いなりに、自分たちが置かれた険しい状況を理解していた。だからあけすけと他人の事情に踏み入って、調和を乱すような真似をする輩は現れなかった。施設を監督している職員さんの手助けもあって、夢たちは特に大きく不自由することもなく、孤児院での暮らしを楽しんでいた。

 最初は人見知りを拗らせていた夢も、長く売らすうちにだんだんと周囲の仲間たちに心を開くようになった。そのうちには、かなりプライベートな話をすることができる友達もできた。

 夢が十歳になったとき、思い切って施設の友達に、その子の両親について尋ねてみたことがある。

 「ねえ、ちょっと聞いていいかな」

 そう夢が話しかけたのは、夢と同い年で仲が良かった、新井花という女の子だった。花は茶髪気味の髪の毛をポニーテールにした子で、夢とは本やテレビの趣味が合った。

 「なあに?」

 花が間延びしたような声だった。

 「花ちゃんてさ、どうしてこの施設にやってきたの?こういうことを聞いていいのかずっと躊躇ってたんだけどさ。花ちゃんになら、聞いてもいいかなって」

 すると花は、首をかしげながら

 「いいけど……。夢ちゃんはどういうことが知りたいの?」

 と言った。

 「ほらさ、ここにいる子たちっていうのは、皆それぞれお父さんとか、お母さんががいないわけじゃん。育ててくれる人がいないからこそ、皆でこうやって助け合って暮らしているわけで――」

 「私、普通にお父さんもお母さんもいるよ。あんまり会えないけどね」

 夢の言葉にかぶせるようにして、花はきっぱりとした口調で言った。夢は「えっ」という声を残して固まった。

 花は大げさに肩をすくめて見せた。。

 「私以外の人は夢ちゃんの言った通り、両親がいないんだと思うよ。夢ちゃんは施設に入居するときに『この施設の子たちは皆お父さんお母さんがいませんよ』って説明された?」

 「う、うん。された……」

 大昔にシッターさんからされた説明を思い返す。シッターさんは確かに、この施設のことをそのように説明していた。

 「私、そこんところが皆と違うんだよね。夢ちゃんには話していいかなって思うんだけどさ。私さ、お父さんとお母さんが、自衛隊っていうところで働いてんのよ」

 「じえい――たい?」

 耳なじみのない言葉に、頭の回転が停止する。花は大きくうなずきながら「そう、自衛隊」と繰り返した。

 「自衛隊っていうのは簡単に言うと、私たちの暮らしとか、安全とか、そういうのを守ってる国の組織。この孤児院の近くにも、自衛隊の皆さんが使ってる、だだっ広い練習場みたいのがあるよ。夢ちゃんも見たことあるでしょ?うどん屋さんの目の前だよ」

 夢の頭の中に、コシのある麺が特徴的なうどんチェーン店の景観と、その店の向かい側にある建造物群の景観が同時に浮かんできた。

 あの建物はてっきりマンションか何かだと思っていたけど、実はそれらは「じえいたい」っていう人たちの物だったらしい。

 「へえ、知らなかった。確かに人が住むにしては、敷地があまりにも広すぎるんじゃって思ってたけど……」

 と、建造物群を取り囲むように広がっている、とてつもなく広大な芝生を想像して言う。

 「あそこで自衛隊の皆さんが訓練しているから、あそこの敷地はめちゃくちゃ広いんだよ。そんなことも知らなかったの?」

 花が呆れたような口調で言った。

 「私のお父さんは、そこで自衛隊員として働いているの。だからあんまり私とは会えない。お父さんは毎日訓練が忙しかったり、外国に訓練で出かけることだってしょっちゅうあるから。

 お母さんも、そこで働いているって言ってた。だけど、駐屯地のどこで働いているのかは知らないけどね。多分自衛隊の皆さんにご飯作ったりだとか、そういうことをしてるんじゃないかって思ってる」

 両親のことを語る花は、とてもとても誇らしげだった。誰に対しても胸を張って紹介できる、私の自慢の両親。花が両親のことをそう捉えているというのは、話していて一目瞭然だった。

 「――じゃあ、花ちゃんのお父さんとお母さんは元気なんだ……」

 花ちゃんも「両親がいない仲間」の一人だと思ってたのにな。真実はそうじゃなかったんだ。

 しょんぼりした夢に、花は、

 「ごめんね、騙しているみたいになっちゃって。なかなか言い出せなかったんだ。皆お父さんとかお母さんがいないのに、私だけバッチシ生きてるってなったら、割と気まずいことになっちゃうかなって」

 と言った。

 「あ――そうだ、この話もしていいかな……」

 しょげた夢とは真逆に、花がやたらと明るい口調で言った。

 「これからする話、あんまりほかの人には言っちゃだめって言われてるやつだから、広めないでね」

 そう前置きして、花、声のボリュームをぎゅっと絞った。

 「――あのね夢ちゃん、夢ちゃんがこの施設に来た時、お金はどうしていたの?」

 「お金……。えと、それって何の話?」

 花の言わんとするところが察せず、きょとんとする夢。それに対して花は、「いいから、思い出してみて」と続きをせかした。

 「ううん、詳しいことはわからないなあ。多分だけどシッターさんが何とかしてくれたんじゃないかな……」

 「何とかって、どうしたのよ?シスターさんはどういうことをしてくれたの?」

 「ええっと……」

 答えに詰まった。花は答えが見つからず途方に暮れている夢のことを一瞥すると、満足げな笑みを浮かべた。

 「そうでしょう、知らないでしょう?こういうことは施設の他の面子にも聞いたんだけど、だあれも私たちがこうして暮らすために貰っているお金が、一体誰の物なのか知らないのよ。もっとわかりやすくいうと、私たちはどっから湧いてきてんのか知らないお金で、お洋服を買ったり、ご飯を食べたりしてるっていうこと」

 「なんか難しい話だね……。頭がこんがらがりそう」

 腕を組んで話を整理する。自分が今着ている服も、毎日寝るお布団も、手に入れるにはお金が必要だ。だけどそのお金っていうのがどこからでていて、なんで自分の身の回りの物を揃えるのに使われているのかは、全然見当がつかなかった。

 「言われてみれば変だね。そういえば、私たちにご飯を作ってくれているおばさんたちのお給料とか、そういうのもどっからでているんだろう……」

 夢が言うと、花はちょいちょいと手招きをして、夢の顔をぐっと引き寄せた。そして夢の耳元で、ことさら消え入りそうな声でこう囁いた。

 「実はそのお金ってね、全部自衛隊から出ているんだよ。ぶっちゃけちゃったらこの施設っていうのは、自衛隊の人たちが作った、特別な孤児院なの」

 「自衛……」

 夢の頭の中に閃くものがあった。

 「――それって、花の両親が働いているところだったよね……?」

 小声で言うと、花は大きく頷いた。

 「そう。私のお父さんとお母さんが、忙しく仕事している場所」

 花はそう言って、鼻から大きく息を吸い込んだ。

 「お父さんとお母さんの仕事が忙しすぎて、とてもじゃないけど私を育てている暇はないっていうことだったから、私はここに入ったの。初めのうちは皆もそうだと思ってた。皆お父さんかお母さんが自衛隊の人で、そこのつながりでこの孤児院に入ったんだっていう風に勘違いしてた。だけど仲良くなっていくにつれて、ここにいる皆はそもそも親がいないんだってわかって、それがすんごく不思議だった。どうして私だけがお父さんとお母さんがいて、皆にはいないんだろうって。

 だからそのことを、お父さんに直接聞いてみたことがあったの。そしたらお父さんはこう答えた。

  『お父さんがどういう仕事をしているのかはしってる?その仕事の伝手をたどって、花をあそこに入れたんだよ』

 私はその後も、重ねて質問してみたの。そしたらだいたいこんな風なことがわかった。

 その一。この施設の運営費は、全額自衛隊の予算から出ている。

 その二。この施設で働いている先生たちは、全員が自衛隊の隊員である。というよりかは、自衛隊の中に、私たちみたいな子供の世話をする専門の部門があるらしいんだけどね。先生たちはそこから来てるみたい。

 それから、もう一つは――」

 「ちょっと待って。ええと、この施設に関係したお金っていうのは、自衛隊っていうところが出してくれているんだよね……?だったらそれはどうしてなの?花ちゃんはともかく、私なんかは自衛隊とは何の関係もないよ。そんな組織があるってことすら、今日になって改めて知ったくらいだし……」

 話しながら夢は、なんだか背筋に薄気味悪いものが昇ってくるのを感じた。自分は自分自身の生活について、ほとんど何も把握できていない。こんなに意味不明な要素だらけの中で、今日までのうのうと暮らしてきたことに対して、遅まきながら恐ろしくなってきた。

 「そのことなんだけどね――」

 花はそう言って、しかつめらしい表情になった。

 「正直、私もよくわからないよ。だけど、何となく予想はできる。

 ――今の日本に自衛隊員が不足しているって話は、夢は覚えてる?ほら、今朝もテレビでやっていたじゃない」

 「ああ――うん」

 そういえば、朝のニュースでそんなことも言っていたような気がする。

 「この孤児院っていうのは、そのどんどん少なくなる自衛隊員を増やすために作られたのかもしれない……」

 その言葉を理解するまでに、一瞬の間があった。

 「どういうこと?どうして孤児院を作ることが、自衛隊員を増やすことにつながるの?」

 「ここで孤児を集めて、育てて。子供もいずれは大人になるでしょ?で、そうなったとき、お仕事をする場所を選ばなくちゃなんない。そこで、弱みを握るじゃないけれど、この孤児院で育ったことを使っちゃうのよ」

 花は夢の耳元で囁くように話している。そしてその声に、微かながら、この孤児院のことを嫌悪しているような響きが含まれた。

 「――ここまでお前を育ててやったんだから、仕事はもちろん自衛隊にしろよ?さもないと、ここまでお前を育てるのに使ったお金、全額返してもらうからな?――っていう風に、脅しをかけてくるわけよ」

 「そんな――!」

 言葉が出なかった。もしその話が本当なのだとしたら、将来夢がこの施設を卒業しようとする際には、施設にお金の弱みを握られて自衛隊に入れられてしまうのか。それはちょっと最悪だ。

 「んま、実際のところはわからないけどね。この孤児院はできたばっかりだから、そのそも『孤児院を卒業した先輩』っていうのがいないのよね。今ここで一番年上の人でさえまだ十七歳でしょう?しかもその人は大学にも行くらしいし、一人暮らしも始めるって聞いたから、まだまだ何とも言えないわよね」

 だけどね――と、花の唇が夢の耳に触れそうになるくらいまで近づいてから、花は言った。

 「――ここだけの話、私のお父さんとお母さんは、私が自衛隊に入ることを望んでいるんだよね。会うたびにそういうプレッシャーをかけられるから、正直もうあの人たちは会いたくない」

 そして花は、まるで何事もなかったかような表情で、颯爽と夢のそばから離れていった。そしてそれっきり、夢と自衛隊について語ることはなかった。


 心の中にもやもやと霧のようなものがかかったまま、夢は十二歳になっていた。近所の小学校を卒業し、いよいよ待ちに待った中学校生活の幕開けである。新生活への期待と不安が入り混じった、在校生よりも少しだけ長い春休み。夢はそんな春休みを、日がな一日だらだらと浪費していた。

 そんなある日のことだった。孤児院の講堂で朝食を食べ終えた夢が、自室でテレビを見ていると、職員の一人がわざわざ部屋までやってきた。

 「柳さん、お客さんがお越しですから、第一会議室まで来てください。ぜひ柳さんと顔を合わせてお話ししたいそうです」

 来客者が誰なのか聞く暇もなく、職員はその場から立ち去った。

 夢は小首をかしげた。私に用事のあるお客さんだなんて、いったい全体誰なんだろう?

 ふいに、夢の脳裏を「引き取り手」という言葉がかすめた。この施設で過ごして九年、ようやっと私にも、私を養子として縁組してくれる人が現れたのだろうか。

 これまでにも、外部の人間と養子縁組した人が、この孤児院を去ることはたまにあった。だから毎年新たな子供を預かっているこの施設も、外に出ていく人間が少なからずいるので、施設全体の子供の数は一定に保たれているのだ。

 とうとう私の順番が回ってきたか――夢はそう思った。そして同時に、心臓のあたりに張り詰めたような緊張が走った。

 部屋を出て廊下をてくてく歩いていく。ホールのように天井が高くなっている玄関口のすぐ傍に、目指す第一会議室は陣取っていた。

 恐る恐るドアノブを回して中を覗き込む、会議室は学校の教室程度の広さで、入って右手側に大きなホワイトボード、左手側には会議用の机と、その周囲を取り囲むようにしてずらりとパイプ椅子が並べられている。

 「どうもこんにちは。あなたが柳夢さん?お会いできて嬉しいです」

 パイプ椅子の一角に腰かけていた男性が、ゆっくりと腰を上げた。背広姿の高身長の男性で、黒のフレームの眼鏡をかけている。いかにも理系って感じの顔だった。その目に宿った鋭い光に射抜かれると、夢はなんだか、自分のことが全て見透かされているような情けない気分になってきた。

 「ど、どうも……」

 おどおどしながら頭を下げる。それを見て、研究者風の男は苦笑した。

 「まあまあ、そんなに緊張なさらないでください。私は佐々木俊と言います。ささ、そちらの椅子にお腰かけください」

 彼はハキハキとした親しみやすい声色で言うと、彼が座っていた椅子から、会議机を挟んで反対側にある椅子を手で指し示した。

 「まずは――そうですね、軽く自己紹介といきましょうか。もう一度お尋ねしますが、あなたの名前は柳夢さんでお間違いないですか?」

 恐る恐る室内に足を踏み入れて、彼が手で指定した席に座った後、佐々木と名乗った男は言った。

 「ええ、そうです。間違いありません」

 「そうですか。いいお名前ですね。苗字も名前も一文字。古風な、日本文化の趣をそこはかとなく漂わせる風流な名前だ」

 夢は居心地悪そうに縮こまった。唐突に何を言い出すんだろうこの人は。そこまで特徴的な名前ではないと思うけどな、と冷静に考える。

 「私のことについて、職員さんから何か聞いていることはありますか?」

 佐々木さんがが微笑みを崩さずに言った。

 「いえ、ありません。何も……」

 「そうですか。では一から説明せねばなりませんね」

 と言うと、彼は机の腕で両手を組み合わせて話し出した。

 「最初に言わねばならないのは、私の身分ですね。隠す理由もないので、濁さずに言ってしまいましょう。

 私は自衛隊で働いているんです。とはいいつつも、実際に戦闘を行う部隊っていうわけではありません。私は研究者なんです。自衛隊の技術や化学などを裏から支えています。黒子役ということです」

 自衛隊――その響きが、夢の脳内をこだました。それはかつて花ちゃんが語っていた。この孤児院を設営している組織ではないのか。

 第二次世界大戦後のGHQによる民主改革により、大日本帝国軍は全面的な解体を余儀なくされた。しかし、アメリカ軍の財政的逼迫や朝鮮戦争、東西冷戦による国際情勢の悪化などの煽りを受けて、自衛隊は1960年に再度「軍隊」として再編された。東アジアの平和の維持を主目的とはしているが、自衛隊はその内情に不透明なところも多いとして国際世論から批判を浴びている。――ここまでは小学校の授業でも習った。

 そんな自衛隊の人がなぜここに?しかも、自衛隊の中でも特に「研究職」なんていう小難しい仕事をしているらしい。自分とは縁もゆかりもないように思える。

 「柳さんがこの施設になじんでいることは、私どもも重々承知しております。ですが無理を承知で、私は柳さんにとあるお願いをしにきたのです」

 そう言って彼は姿勢を正した。眼鏡の奥の目が細くなる。

 「単刀直入に申し上げます。――私たちの研究に協力していただけませんか。私たちは自衛隊○○駐屯地の地下で、とある軍事的な研究に精を出しております。そして柳さんが備えているある*特性*が、私たちの研究に必要なのです」

 「特性……ですか」

 「はい。あなたの体には、きっとあなたが思っている以上の価値があります。どうか我々に協力してください」

 そう言って佐々木さんは軽くお辞儀をした。しかし、夢の頭はこんがらがる一方だった。

 いまいち佐々木さんの言っていることは腑に落ちない。私の体が持っている特性……。考えてみても特に思い当たる節はない。自分は別に足が速いわけでもないし、身長がとびきり高いわけでもないし、手先がべらぼうに器用なわけでもない。どこにでもいる普通の人間だ。

 夢が黙ったままでいると、佐々木さんは優しく語り掛けるように、

 「戸惑っていらっしゃるようですね。いや、それも当然です」

 と言った。

 「――話は少し変わりますが、柳さん、あなたはご両親を亡くされていますよね。まだ三歳で、愛情をたっぷり注いであげるべき娘をほったらかしにして、二人だけで横浜旅行に向かった際の事件だったと存じていますが」

 夢は冷や水を浴びせられたようになった。驚愕の目つきを佐々木さんに向ける。

 「な、なんでそんなことを……」

 「そしてその時の死因は交通事故。お間違いありませんね?」

 夢は答えなかった。そしてその仕草を、彼は肯定と受け取ったみたいだった。

 「――実はわたくし共の調査部で、あなたのご両親の事故を調べたことがあるんです。そしたらですね――にわかには信じがたい、特別な真実が明らかになったのですよ」

 彼は左手で眼鏡を直した。

 「ます――ご両親の死因です。これはトラックとの衝突によるものとみて、不備はないでしょう。ですが、その時トラックを運転していた運転手の証言によるとですね。――ご両親は自分から、走っているトラックの前に飛び出してきたと言うんですね」

 「自分から飛び出してきた……?そんなこと、嘘に決まってるじゃないですか。運転手の人が罪を減らしたいあまり、私の両親を悪く言っているんでしょう」

 「まあ聞いてください。あながちそうでもないんですよ」

 と言うと、彼は手を組みなおして、やや前傾姿勢になった。空気がズシリと重くなる。話が本題に入ったのだな、と夢は直感した。

 「私が何を言っても、落ち着いて聞いていただきたいのです。私が今からお伝えすることは、場合によっては夢さんの心を大きく揺さぶることになるやもしれませんので」

 「は、はあ……」

 まどろっこしい前置きではある。だけど、その言いぐさは真剣そのものだった。これから一体、どんなことが彼の口から飛び出してくるのだろう?

 「――まず私たちは、事件発生当初のトラック運転手を詳しく調べました。そしてその調査によると、事件の日、運転手はいたって健康だったのです。運転手からアルコール類や、ドラッグの類は検出されませんでした。というよりかは、運転手は下戸で酒がほとんど飲めないらしいのです。運転手が定期的に受けていた健康診断にも異常は見られませんでしたし、まさに彼の日常というのは、理想的な健康習慣を絵にかいたようなものでした。

 ですがもちろんこれらは、運転手の不注意により、事故が起こった可能性を否定する材料にはなり得ません。たとえ健康であろうとも、時として事故というのは発生してしまうものです。

 そう考えた私たちが次にとったのは、トラックのドライブレコーダーを閲覧することでした。事件当日、まさに柳さんのご両親が不幸に遭った瞬間を、私たちは見たのです」

 夢はごくりと生唾を飲み込んだ。

 両親の死に目。それは夢にとって長い間タブーだった。夢は今まで両親が死ぬ瞬間を想像したことすらなかった。

 「はっきり申し上げます。柳さん。ご両親のご不幸は事故ではありません。あれは意図的に引き起こされた、殺人ともいえるものなのです」

 思わず目を見開いて、佐々木さんの顔をまじまじと見つめる。言われたことの意味が咀嚼できなかった。

 「ご両親の顔には生気がありませんでした。ふらふらと、まるで亡者のような足取りで、トラックの正面に唐突に飛び出してきたのです。そしてそのお二人に、ブレーキが間に合わず、車体が衝突。それが事故の詳細なのです。

 そして重要なのはここから。血の気のない顔になった両親たちは、事故の直前、パクパクと口を動かして何かを伝えようとしていました。それはまるで、空気を求めて喘ぐ金魚のような感じでした。

 私たちはその、柳さんご夫婦が残したメッセージを解読できたのです。洒落た言葉で言い換えれば、ダイイングメッセージとも言えるでしょうか。それがこちらです――」

 彼は机の横に置いていた革製のカバンから、14インチのノートパソコンを取り出して机上に乗せた。それから画面をパカリと割るように開き、タイピングでいくらか操作を加えた後で、パソコンの画面を夢に向けた。

 画面には――夢の母親の顔がアップで写されていた。どうやらこれは、両親が死亡する直前に、母親の姿を捉えていた防犯カメラの映像らしい。画面の八割ほどを占める顔の背後には、横断歩道らしき白線が見え隠れしていた。

 母親の顔は恐ろしいほどに青白い。乱れてべたついた髪が顔中に散っている。画面には明るさに補正がかかっているらしく、夢は隅々まで、彼女の今際の際の顔を吟味することができた。

 軽いめまいを覚える。胃から吐き気が込み上げてきた。

 「お母さんの唇をよく見てください」

 そう言って、佐々木さんは動画の再生スピードを落とした。ひどくスローモーションの映像では、母親の唇の微かな動きから、おおかたどのような事を喋っているのかが見て取れた。

 「お、え、ん、あ、さ、い……」

 母親の唇の動作を、自分でも声に出してなぞってみる。

 「う、え、あ、ん」

 奇妙な感覚だった。この画面に映っている母親は、もうこの世には存在しない。それなのに未だに私の人生にまとわりついて、私の感情を大幅に揺さぶってくる。

 手のひらを組み合わせてじっとしていた佐々木さんは、おもむろに口を開いた。

 「最初の言葉ですが……それはおそらく『ごめんなさい』と言っているのではないでしょうか。それから二つ目の言葉ですが、文脈を考えるに、ここには人名が当てはまるものと考えられます」

 「人名って……人の名前ってことですよね?でも、そんな名前の人っているんですかね」

 「後半の二文字『あ、ん』ですが、これは十中八九『ちゃん』と言っているのだと思います。つまり、お母さんは謝っている対象の人のことをちゃん付けで呼んでいるわけですね。ここから、お母さんが呼びかけている対象の人は、彼女ととっても親しい間柄だったことが推測できます。

 ここまで聞いて――何か思い浮かぶことはありませんか」

 お母さんと親しかった人など、私には皆目見当がつかない。だってお母さんとお父さんは、家に帰ってくることすら稀だったのだから、お母さんの交友関係など私の知る由もない。

 そう思った次の瞬間だった。まるで脳みそに電流が走ったかのように、頭の中を引っ掻き回される。視界がくらくらする。

 夢は気づいた。

 そうだ、考えてみれば至極簡単な話じゃないか。

 お母さんが『ちゃん』付けで呼んで、名前は二文字。母音は「う」と「え」の連続。

 そんな人――たった一人しかいないじゃないか。

 「私……」

 声が震える。必死に落ち着いた声を出そうとするけれど、腹に力が入らない。声が咽喉のあたりに停滞して、くぐもった響きになる。

 「それって……ひょっとして、私のことですか……?」

 信じたくない。こんなことあってたまるか。両親が死んで、ようやっと心の整理がついてきたっていうのに、まだ彼らは私の生活に影を落とすのか。

 「――その可能性が、高いと考えています」

 あくまでも佐々木さんの声色は厳粛だった。落ち着き払っている。

 「しょ、証拠はあるんですか……!お母さんが、死ぬ前に私の名前を呼んでいたっていう……」

 「お母さんの唇の動きの映像を、人工知能による機械的な分析にかけました。その結果、あなたのお母さんが『ごめんなさい、夢ちゃん』と呟いていたことは、疑いようのない事実となりました」

 到底すぐには信じられない話だった。口の中がカラカラに乾いている。

 「どう、してなんですか……。なんで私の名前なんか、ぶつぶつ言っていたんですか……?」

 疑問がパラノイアさながらに膨らんでいく。

 「――それをお話しするには、私たちのしている研究についての知識が必要不可欠です」

 佐々木さんは眼鏡をくいっと直した。

 「私たちの研究施設――自衛隊○○駐屯地に、来ていただけますね?」

 私は頷くしかなかった。


 「『エゴイズムヘイト』というのは日本語に訳すと『人間賛歌』となります。これは簡単に言えば、『人間』という生き物の存在を丸ごと肯定して讃える、つまり『人間って素晴らしい!』ということになります。そして同時に、柳さんがお母さんをあのような憂き目にまで追いやった能力でもあります」

 ひまわり園を数時間前に後にしてから、夢はは佐々木さんの付き人みたいな人が運転する車に乗り○○駐屯地にやってきた。駐屯地のだだっぴろい芝生の端っこに建っている、コンクリート製の建造物。そのから地下へと続くエレベータを降りたところに、佐々木さんたちの研究施設はあった。

 地下はまるで病院のようになっていた、きれいに掃除されたリノリウムの床や、蛍光灯の白い光が、夢に清潔な印象を与えた。佐々木さんが主に滞在している研究室に至るまで、幾人か白衣を着こんだ人たちとすれ違った。男の人も女の人も同じくらいの割合だった。部屋の壁がガラスでできていて、中の様子を見ることができる部屋もあった。いかつい見た目の機械類や、MRIが二台並んだ部屋などがあった。

 「ええっと、つまり私は『人間賛歌をトリガーにして、自分や他人の運命を変えてしまう超能力』があるということなんですか?」

 夢たちが会話しているのは、その研究所の最奥にある佐々木さんの個人部屋である。中は普通の一軒家のリビングと同じような作りになっていた。佐々木さんは普段、ここで寝泊まりをしているらしい。

 「おおむねそういう認識で正しいよ。超能力、と言うと少々語弊がありますけどね。要するに、柳さんは自分や周囲の環境を、自分の思うように変えてしまえるというわけだ」

 「でも私、望んだことが本当に起こってしまった試しとか、身に覚えがありませんよ。もし本当にそういう力がるのなら、私はもっと自由自在に、自分の欲しいものとかを手に入れているはずじゃないですか……?」

 佐々木さんから聞かされた突拍子もない特殊能力の理論。それは夢にとって、まさに青天の霹靂としか形容しがたいものだった。

 「そこが、柳さんが持っている能力の最も謎な部分なんです。これまでの歴史をさかのぼってみても、能力を発現させている人が、力を自由自在に扱えたという例は見つかりません」

 「それは――納得、できないっていうか……」

 佐々木さんは肩の力を抜いて、「もう一度、論旨を整理しましょう」と言った。

 「――柳さんは、日ごろから両親の態度に不満を持っていた。柳さんのことなど顧みず、連日遊び惚けている両親に、軽蔑にも近しい感情を抱いていた。

 日に日に増していく悪感情。それはいつしか、柳さんに生まれつき備わっている、エゴイズムヘイトの能力と結びついた。

 結果として柳さんが選んだのは、両親の破滅だった。形としては交通事故をとっているが、あなたのご両親の死因というのは、実は柳さんの能力に原因が求められるのです」

 「エゴイズムヘイト」という単語も、なかなか耳になじまなかった。どうやらこの世界には、先天的に特異な能力を授けられた人というのが、一定数生れ落ちているらしい。そういう子たちの割合がどの程度なのか、また、どうしてそのような子たちが生れてくるのか、詳しいことはほとんど解明されていない。そして全世界の科学者たちは、その能力に「エゴイズムヘイト――人間賛歌」という名前を与えた。

 要するに佐々木さんたちというのは、自衛隊が出した能力研究の要請に従って、「エゴイズムヘイト」について研究している研究員たちなのだ。

 「だとすると、私の両親を殺めたのは、外ならぬ私自身ということになるじゃないですか……!だって両親の運命みたいなものを捻じ曲げて交通事故に向かわせたのは、私が持つ特殊能力なんでしょう……?」

 梅雨の日の曇天のように、動揺が私の内部に満ちていった。自分とは無関係だと思っていた両親の死。

 私を置いて何日も帰らなかった両親を、私は確かに憎んでいたのかもしれない。だけど、それとこれとは話が別だ。いくらなんでも、幼き日の私が両親の死を望んでいたとまでは思わない。

 「――私見ですが、柳夫妻の死に関して、柳さんの責任は一切ないと思います。もともと柳さんのことをネグレクトしていた、ろくでもない両親ですよ。死んで当然とまでは言いませんが、子供の頃の柳さんときちんと向き合わなかった罰は、遅かれ早かれ下っていたかと」

 「それはつまり――私の両親の死は、身から出た錆ということですか……」

 一呼吸分の間をおいて、「まあ、そういうことになります」という返答が返ってきた。

 「どうかお気になさらないで。再三繰り返すようですが、柳さんご自身には『エゴイズムヘイト』を制御することはできないのです。そういった意味では、ご両親の件は不幸な事故と呼ぶべきです」

 佐々木さんの口ぶりは力強かった。

「断固として、柳さんに責任はありません」

 佐々木さんとは反対に、私は複雑な心境だった。無意識とはいえ、両親の命を奪ってしまったのは私。その事実が肩に重くのしかかる。

 「お父さんと、お母さんは……」

 私は声を絞り出した。佐々木さんが看破している通り、私は両親にさほど愛情を感じていない。私の生んでくれたことには感謝しているけれど、せっかくおなかを痛めてまで私を生んでくれたのに、どうして大切にしてくれなかったのかという気持ちもある。

 だから、私の肩を重くしているのは「両親を殺してしまった」という罪の意識ではない。それよりも私を追い詰めるのは、平凡な人生を歩み、世の中にごまんといる普通の小学生だった私が、一気に「殺人犯」という身分に転落してしまったことだった。

 「どうして最後に、私の名前をつぶやいたのでしょうか……。夢『ちゃん』って言っていましたよね……?でもそれはちょっとおかしいんです。私はお母さんに、*ちゃん付け*でなんて呼ばれたためしがありません……」

 かねてからの疑問を打ち明けてみる。こんな質問をしたところで、私の気持ちが軽くなることはないだろう。それでも聞かずにはいられなかった。

 佐々木さんはしかつめらしい顔になり、

 「おそらくですが柳さんは、心の奥底では、両親に大切にされたかったのだと思います。テレビとかドラマとかで見るような、家族仲の良い円満な家庭にあこがれていた。だけどその『家族に愛されたい』という欲求は、いつまでも満たされなかった。

 三才の時の柳さんは、ほとほとご両親に失望をしていたんだと思います。だから無意識に能力を発動させて、彼らを死に追いやってしまった。そしてその時、両親に対して次のような強烈なシグナルを送った。

 『私を気にかけてほしい。今まで私をほったらかしにしたことを反省してほしい。そして、今更後悔してももう遅いけれど、私をかわいがってほしい。大切な家族の一員として気にかけてほしい』――」

 佐々木さんには容赦がなかった。私の心の一番触れられたくない部分に、この人はずかずか踏み込んでくる。

 私は両親にさほど愛情を持っていない。私はさっき、自分のことをそう分析した。だけど、それは本当に正しいのだろうか……?

 「――ところで、柳さんが持っているような『人の運命を変えてしまう特殊能力』のことを、専門用語でなんと言ったか覚えていますか?」

 佐々木さんが言った。鋭く突き刺すような声色だった。

 私は今更なぜそんな質問をするのか疑問に思いながらも、「えっ、それは確か『エゴイズムヘイト』でしたよね……?」と自信なさげに答えた。

 「そう、正解です。よく覚えていてくださいました。そしたら、今度はその単語の意味について考えてみてほしいのです。柳さんは英語は得意教科ですか?」

 私は首を振った。

 「あんまり……。ビー動詞だとか一般動詞だとか、ややこしくてわけわかんないです。あ、だけど……『ヘイト』の意味ならわかるかもしれないです。嫌うみたいな意味でしたよね?何かの物事を、めっちゃくちゃ嫌ってしまうこと」

 「そうです。ヘイトには誰かのことを憎んだり、反感を持ったりするという意味があります。そして『エゴ』には『自分の利益を中心に考えて、他人の利益は考えない思考や行動の様式』という意味があります。そしてこの名称に、柳さんがお持ちになっている能力の核心があるのです」

 佐々木さんは机に両肘をついて、その手の上に顎を乗せる格好になった。

 「つまり柳さんが行使している能力とは、他人、もしくは自分のエゴに反感を抱いて、その人に憎悪の感情を向けたときに発動するものなのです。強く対象者をヘイトする気持ちが、そのままそっくり能力の威力になります。

 柳さんの両親の場合、意識的か無意識的かは知りませんが、柳さんは両親にヘイトがたまっていました。娘である自分のことなど考えもせず、日々を遊んで暮らしている両親の身勝手なエゴを、子供ながらに憎悪していました。そして積もり積もった悪感情がついに爆発したとき、あの無残な交通事故が起こってしまったのです」

 「私――私が、お父さんとお母さんのエゴを憎悪していた――?」

 「にわかには信じがたい話かもしれませんね。ですが、おそらくたった今の述べた仮説が、現時点では最も信憑性が高い仮説だと思われます。この仮説を採用すると――柳さんの両親が今際の際に口走っていたことにも、すっきり説明がつけられるのです。

 柳さんはつまり、こういうことを主張したかったんだと考えられます。

 『お父さんとお母さんのエゴを満たすために、私をほったらかしにしていいはずがない』と」

 ハッとして息をのんだ。心臓を氷の手で鷲掴みにされたような気分だった。

 多分、佐々木さんの予想は当たっている。私は心の中で、両親にもっとかまってほしいと思っていた。自分をもっと見てほしいと思っていた。

 でもその反対に、両親の仲良さげな関係に私が割って入る余地はないとも痛感していた。

 「――そしてこれはある意味では人間賛歌の行為なのです。他人のエゴイズムと自分のエゴイズムとの擦れ合いが途方もない規模で膨れ上がった場合にのみ、エゴイズムヘイトは発動します。そしてエゴイズムヘイトは待ち受ける運命を圧倒的な力で捻じ曲げていくことによって、その摩擦に強制的に一つの終末を作り出します。これはまさに*人間そのもの*ではないですか。人間は道具を用いることで、自然や環境との摩擦に終止符を打ってきました。だとすればエゴイズムヘイトというのは、人間が作り出した『他者との摩擦と解消する道具』の最高傑作なのではないでしょうか」

 他社との摩擦を解消する道具。私ははその道具を無意識に使って、両親との関係を終わらせようとしたのかな。

 それとも――三歳の私は、両親との関係をやり直せる気でいたのかな。

 「お母さん……」

 今更になって母親のことが恋しくなってきた。今の私がもう一度お母さんに会えたならば、そこでどんなお喋りが花を咲かすのだろう。私はお母さんと仲良くできるだろうか。お母さんは、私のほうに振り向いてくれるのだろうか。

 夢が沈痛な面持ちで縮こまっていると、佐々木さんは夢の傍まですたすた歩いてきて背中を撫でた。大きくて暖かい手だった。

 佐々木さんが背中を撫でる心地よい感触に浸っていると、夢は自分が両親からは得られなかった*何か*を、佐々木さんに代わりに与えてもらっているような気がした。


 晴れて夢は、佐々木さんの研究の共同パートナーとなった。

 佐々木さんは「研究に協力してもらう都合上守ってもらいたい約束」を何点か挙げた。

 一つ目。研究は原則的に、夢の実生活の邪魔にならないように行われる。例えば平日の午前中など、学校のある時間などには夢は研究所に呼び出されない。夢が研究所に来る時間は、学校が終わった放課後か、休日のみに限定される。

 二つ目。もし実験の途中において、夢がわずかなりとも苦痛を感じたのならば、実験は即座に中止される。

 三つ目。研究所に関連するあらゆる情報を、夢は外の人間に漏らしてはならない。特に研究内容に関する情報などは他言無用。この約束を守らなかった場合、孤児院への献金は停止されて、夢は住む場所を失う羽目になる。

 「でもそんなに心配はしなくていい。よっぽどのことがない限りは、夢さんが孤児院を追い出されるようなことにはならないよ。『エゴイズムヘイト』の能力は非常にまれなんだ。ここで夢さんを簡単に逃してしまったら、次はいつ能力を持った人が現れるかわからない」

 そう微笑みながら言う佐々木さんは、柔和な雰囲気を漂わせていた。夢は思い切って質問をしてみた。

 「さっきから実験っていうことを言っていますけども、それは具体的にはどんなことをするんでしょうか?あんまり痛かったりするのは嫌ですよ……」

 「大丈夫、それも心配しなくていい。やってもらうのは簡単な健康診断とか、スポーツテストとかだよ。あとは脳波を計測して一般人との違いを見たりだとか、過去に『エゴイズムヘイト』を発現させた人たちのことを学んでもらって、能力を制御する術を身に着けてもらうだとか。基本的には、脳科学に関連する研究が多いのかな。心理テストだとか認知テストだとか、その手の類を山ほど受けてもらおうと思ってる。

 難しかったり、ハードルの高い実験はしないと誓うよ」

 夢はそれを聞いてほっと胸をなでおろした。佐々木さんの言うことが本当なら、変に身構えている必要もなさそうだ。自衛隊のような強大な組織が統制している研究所なのだから、当然実験の内容も大規模になるんじゃないかとひそかに心配していたところだった。

 「ここでの話は他言無用って言ってたじゃないですか。でも私、どこまでが話していいことで、どこからが話しちゃいけいないことなのか知りません。思わず口が滑っちゃっただけでも、私は孤児院から追い出されちゃうんでしょうか」

 夢は切実に聞いた。この点をはっきりさせておかないと、後々大変になってしまうのはきっと私だ。

 佐々木さんは苦笑しながら

 「そんなに神経質にならなくてもいいよ。いくら我々でも、血も涙もない冷酷集団ではないんだ。思いやりの欠片くらいはちゃんと保持している。

 でもそれはさておき――どこまでが機密の範疇になるのかは、線引きをしておいたほうがいいのかもね。とりあえずはこの施設でしたこと全部を、つまり研究員との会話から実験の詳細に至るまで、その全てを他言無用っていう感じにしておこうか」

 なるほどそれならわかりやすい。「研究所での出来事全般」という括りならば約束を守れそうだ。

 夢はそれから孤児院に戻り、ぐっすりと溶けるように眠った後、再び研究施設を訪れた。佐々木さんに道を教えてもらったこともあって、特に迷うこともなくスムーズにたどり着けた。

 駐屯地の入り口には、白衣を着こんだ佐々木さんが立っていた。にこやかに笑いながら手を振っている。

 私が弾んだ足取りで近づいていくと、佐々木さんは白い歯を見せながら

 「やあ、柳さん。昨日の今日で悪いんだが、早速研究を始めたいと思うんだ。上からかなりプレッシャーをかけられててね。早急に成果を出さないと、私の首が飛んでしまう」

 と、言葉とは裏腹にさほど深刻そうには聞こえない声で言った。

 彼の後ろに連れ立って、駐屯地の端っこに立ったコンクリート製の建造物から、地下の研究施設に下っていく。地下はひんやりと肌寒かった。

 地上はお世辞にも奇麗とはいいがたいコンクリート製の建物だが、一歩地下のの研究所へ足を踏み入れると、そこはまるで別世界と化す。蛍光灯の光を受けて光るリノリウムの床には汚れやほこり一つ見当たらない。大都市の総合病院のような内装だった。

 二人はコツコツと足音を立てながら廊下を進んでいった。

 「そうだ、今日は実験以外にも、ぜひ夢さんに紹介したい人がいるんだよね。ここはひとつ会ってみてはくれないだろうか」

 佐々木さんは首だけを後ろに捻りながらにこやかに呼びかけた。「きっと驚くと思うよ。なにせその人は――いや、やめておこっかな。お楽しみは後に取っておくべきだ」

 「えっ、なんなんですか?気になります」

 夢が言うと、佐々木さんはふふっとほほ笑んだ。

 やがて二人は、昨日もも訪れた佐々木さんの研究室にたどり着いた。セキュリティチェックはここにもあって、ドアノブの斜め上あたりに取り付けられたタブレットに、佐々木さんは部屋の暗証番号と指紋を入力した。

 「玲奈、入るよ」

 そう言って、佐々木さんは扉を開いた。室内には誰かしら人がいるようだった。部屋の電気がついている。佐々木さんはぴょんと飛び込むように中に入った。夢も後に続く。

 昨日佐々木さんと向き合って座った机に、知らない女の子がちょこんと腰かけていた。肩まで伸びた長い黒髪に、大きくぱっちり開いた目。鼻筋もすっきり通っている。

 驚いたのは、彼女の若すぎる外見だった。この研究所ですれ違う人々に、少なくとも子供はいなかった。男の研究者も女の研究者も、見た目から推測するに、おそらく三十代くらいの人が多い印象だった。だが、たった今対面している女の子は違う。その子はどう見ても中学生くらいにしか見えなかった。年相応のあどけない顔で、室内を横切った佐々木さんを見続けている。それからその子にはもう一つ際立った特徴があった。

 ――この子、すっごく美人だ。

 そしてその女の子のすぐ横に、佐々木さんが音もなく近寄って立ち止まった。それから、当然のように女の子の肩に手を添えた。女の子のほうも、体を触られていることを嫌がるそぶりはない。

 女の子はびっくりするほどきれいな顔をこっちへ向けて、「どうも」と会釈した。その際にほんの一瞬だけ目が合った。彼女の瞳では、見ていると吸い込まれてしまいそうなほど黒い瞳孔がしっとりと濡れて光っていた。

 「紹介しましょう」

 佐々木さんが声を張り上げた。

 「こいつの名前は佐々木玲奈。私佐々木俊の、実の妹です」

 佐々木さんの声に同調して、女の子も喋りだす。

 「は、はじめまして。佐々木玲奈と言います」

 ぽかんとする私を見て、佐々木さんはさぞ愉快そうに笑った。

 「合わせたかった人というのはこいつです。どうせそのうち知り合いになるんだし、だったら早ければ早いほうがいいかなって。急になっちゃってすみませんね。まあ、仲良くしてやってください」

 と言うと、佐々木さんは手で私に椅子をすすめた。私はとりあえず、女の子の向かいの席に腰を落ち着ける。佐々木さんは女の子の隣に座った。

 「玲奈、コーヒー淹れてもらえるかな?」

 佐々木さんが言うと、女の子は眉間にしわを寄せて、

 「そんなの、自分で入れたらいいんじゃないの?どうして私がやんなきゃいけないのよ……」

 と悪態をついてから、部屋の壁際にある流しに近づいていった。文句は垂れながらも、コーヒーは作ってくれる様子だった。

 「――では冗談はこの程度にして、本題に入りましょうか」

 佐々木さんの真剣な声音に引っ張られるように、私は正面に顔の向きを直した。

 「あの、佐々木さん、あの子は……」

 「言ったでしょう。私の実の妹、玲奈です。年は柳さんと同じ十二歳です」

 同い年。若いと感じたのは正しかった。

 「っていうことは、佐々木さんとは大分年齢が離れているっていうことですか……?」

 「そうですね。十歳離れています」

 佐々木さんはあっさりと言い放ったが、夢は驚いて玲奈さんがいるのも気にせず大声をだした。

 「佐々木さんって、まだ二十二歳だったんですか!噓でしょ!」

 「――ええ、そうですよ。見えませんでしたか?」

 「はい、見えないです。若いとは思ってたけど、それでも二十代後半くらいかと……」

 佐々木さんは左手で眼鏡を直しながら、「それは心外ですね」と呟いた。

 「私はこう見えても、まだまだピッチピチの二十二歳ですよ。お酒だってこの前飲めるようになったばかりです」

 夢は小さな顔を傾けて考えた。

 「え、そんなに若いのに、佐々木さんは研究所の責任者の座に就かれているんですか?」 

 「まあ一応、この研究所の主任研究者ということになっていますね。だけどそれはあくまで便宜的なもので、私は政府からのお達しに唯々諾々としたがって仕事をする、しがないサラリーマンなんですよ」

 「いえ、そうじゃなくて。そんなに若いのに、えらい立場につけているのが不思議だなって……」

 佐々木さんは得心が言ったように「ああ」と洩らした。

 「実は私、大学を飛び級で卒業していまして。年齢が若いのはそのせいです」

 どこからともなくコーヒーの香りが漂ってきた。玲奈さんの方向を見やると、彼女はドリッパー付きのカップを三つ並べて、薬缶からじっくりと焦らすようにお湯を注いでいた。本格的なドリップコーヒーだ。

 「そして、私がこんなに早く主任研究者の肩書をいただけていることも――玲奈に関係しているんです」

 彼がそう言ったとたん、薬缶をコンロに戻してコーヒーの様子を見ていた玲奈さんが、びくっと肩を震わせた。

 「玲奈。――話しても構わないよね?」

 佐々木さんが言った。玲奈さんが「もちろん。だけど、恥ずかしいから手短にしてほしい……」と言下に答えた。

 「――玲奈の体は、不治の病に侵されています。今現在はこうして普通に歩けていますが、それもいつまでもつのかわかりません」

 淡々と、佐々木先生の告白は幕を開けた。

 「彼女の病状がわかったのは彼女がまだ幼いころでした。その頃の私たちは故あって親を亡くしており、孤児院で生活をしていました。場所は違いますが、夢さんが暮らしているところと同系統の、自衛隊からの援助金によって成り立っている孤児院です。

 病気の詳細は――あえてここで説明する意義はないでしょう。玲奈の命に関わるレベルの重大な病気でした。つまり玲奈はいつ心臓の鼓動が止まってもおかしくない子なのです。毎日が死と隣り合わせです。

 玲奈の命がもう長くないと知り、絶望の真っただ中だった私に――自衛隊は、玲奈を救えるかもしれない可能性を提示してくれました。

 それが『エゴイズムヘイト』の研究でした」

 「コーヒー、できましたよ」

 気づくと真横に玲奈さんが立っていた。片手に持っていたトレイから、湯気の立ったカップを二つ机の上に卸す。コーヒーの香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。

 「ああ、ありがとう。いつも助かるよ」

 「どういたしまして」

 玲奈さんが品よく会釈する。佐々木さんがコーヒーを一口すすって「旨い」と言った。

 「んじゃあ、私は少しはずそうか」

 玲奈さんは誰にともなく言うと、すたすたと部屋の出入り口に歩を進めた。そのまま出ていくのかと思いきや、玲奈さんは以外にも、ドアノブに手をかけたままこちらを振り向いた。。

 「じゃあ、あの――柳夢さん、でしたっけ。兄の話は退屈かもしれないですが、一通り聞いてもらえると幸いです」

 そして彼女は、音もなく扉の間から外へすり抜けていった。その姿は最後まで浮世だっているというか、どこか現実離れしていた。

 不治の難病を患ってしまった美少女。そんな彼女は、私と佐々木さんが話し込んでいるのを、一体どんな気持ちで聞いていたんだろうか。

 「玲奈さん、あんなに上品な感じなのに、実際はすごく苦しんでいるんですね……」

 彼女への同情を込めて、夢は言った。

 「ええ。自慢の妹ですよ」

 そう言って、佐々木さんは晴れやかな笑顔を見せた。

 「それはそれとして――玲奈の病気には、治療の手立てがありませんでした。ですが、全く活路がないというわけでもなかったのです。

 『エゴイズムヘイト』は、端的に言ってしまえば、その人に本来定められている運命を打ち破ってしまう力です。ですからこれを用いれば――玲奈の病気も、治療が可能になると」

 私はコーヒーカップを両手で摩った。手がじんわりと温かくなる。

 「それはつまり、『エゴイズムヘイト』の能力を操って、玲奈さんの病気が快方に向かうよう、運命を変えてしまおうということですか?」

 「そうです。おおむねはそれで正しいです」

 「でも、私が無意識のうちに両親の破滅を祈っていたなんていうどうしようもない理由で、私の両親は死んでしまったんですよ。『エゴイズムヘイト』っていうのはそんなに都合よく制御できるんですか?」

 「できます」

 自信に満ち満ちた声で、佐々木さんは宣言した。

 「研究は日々進歩を重ねています。能力者に特有の脳波や、能力が発動しやすい条件など、着々と情報は集まっているんです。この研究ペースが維持できれば、今後五年以内には確実に、『エゴイズムヘイト』に関する画期的な発明が生まれるでしょう。

 現に『エゴイズムヘイト』の能力を疑似的に再現する実験だって進められているんですよ。被験者は頭に特殊なヘッドギアを装着し、そのヘッドギアから特殊な電気信号を受け取ることで、普通の人間には得られないとてつもない力を発揮できるのです」

 と、ここで彼は少し肩を落とした」

 「もっとも、それはあくまでも劣化版コピーにすぎません。本家『エゴイズムヘイト』に匹敵するレベルのヘッドギアを発明するには、まだまだ時間がかかるでしょう」

 佐々木さんはコーヒーをすすった。つられるように夢も一口飲む。コーヒーは苦みが強く、夢の好みには全く合わなかった。

 「私たちの研究が一般大衆に受け入れられないであろうことは予測しています。むしろ、それが人間として当然の心境でしょう。私たちはとてもじゃないが、『エゴイズムヘイト』を体系的に理解しているとは言い難い。実験によってかろうじて得られた知識を統合して、なんとかその能力を一般社会に還元すべく、泥臭く奮闘しているだけなのです」

 佐々木さんの言葉は静かだったが、有無を言わさぬ迫力があった。

 後ろで扉の開く音がした。

 「玲奈。部屋に戻ったんじゃなかったのか?」

 扉を軽やかに潜り抜けながら玲奈さんが室内に足を踏み入れた。

 「二人が話し合ってるのに私だけ寝てるっていうのはよくないでしょう。だから戻ってきたの。――夢さん、少しお話していいかな?」

 急に名前を呼ばれてびっくりする。慌てて顔を上げると、玲奈さんと目が合った。

 「兄からも説明があったと思うけど、私はものすっごい病気を患ってるの。はっきり言っちゃえば私はいつ死んでもおかしくない体なの」

 夢は、玲奈さんがいつのまにが敬語をやめていることに気づいた。夢のことを客人としてではなく、一人の同年代の知人として、対等な立場で喋るようになっている。

 「『エゴイズムヘイト』っていうのは、日本全体、世界全体見ても、数えるほどしか発現例がないの。現在この研究所に協力してくれている『エゴイズムヘイト』の方は二人いるけれど、かたや未就学児で、かたや八十代のおじいちゃん。年齢が極端すぎて、研究対象として適切だとは言えない。

 だから私たちは、柳さんが研究への協力を拒んだら、また次の能力者を探すのに途方もない労力を費やす羽目になる。そしてそのべらぼうに時間のかかる捜索活動をしているうちに、研究所の資金もどんどん目減りして、しまいには研究そのものが継続できなくなってしまう。これだけはなんとしてでも避けないといけない。

 ――柳夢さん。私たちには、あなたが必要なんです。これは、私が自分の命を救うために言っているんじゃないんです。自分の病気を治療するために、夢さんのことを引き留めようとしているんじゃないんです。

 『エゴイズムヘイト』には無限の可能性があります。それは軍事に転用されれば、人類史上比肩するもののない殺傷力を持った兵器になるでしょう。だが仮に医療に転用されれば、それは数多の病気に苦しむ人たちを救う、救世主みたいな能力になるでしょう。

 どうか、どうか研究に協力してほしい。あなたが必要なんです」

 言うが早いか、玲奈さんはその場で腰を折ってお辞儀をした。佐々木さんも後に続いて「私からも、どうかよろしくお願いします」と頭を下げる。

 夢はどうしていいのかわからなかった。面と向かって「あなたが必要だ」と言われたこと自体は嬉しかった。『エゴイズムヘイト』という能力の価値がやたら強調されていた点にも悪い気はしなかった。自分は特殊な能力を持っている、普通とは違う人間なんだと考えると、ほのかな高揚感があった。

 だけど夢は、佐々木さんたち兄妹への不信感を捨てきれなかった。『エゴイズムヘイト』がとても危険な力だということは、両親の死に直面した、私が誰よりもよく知っている。

 この人たちに任せて大丈夫なんだろうか――そういう疑惑が頭の隅をかすめた。

 何よりも――佐々木玲奈さん。初対面だが、夢はすでにこの人のことが苦手だった。

 女の私から見てもドキッとしてしまうほど美人で、声だってとても透明感があって綺麗。コンロの前でコーヒーを沸かしている時に気付いたが、玲奈さんはスタイルだって抜群に言い。長身ってわけじゃないけど、なんていうか、絵になる体格なのだ。

 プラスアルファ――玲奈さんには、兄がいる。飛び級で大学には入れてしまうくらい頭がよくて、他者の気持ちがよくわかる兄が。そんな出来すぎた兄がいる人って、毎日をどういう気分で暮らしているんだろうか。

 一人っ子の自分には、想像もできない。


 それから一か月が過ぎた。

 その間、夢は当初の約束通り、律儀に研究所に通い続けた。休みの日はだいたい朝十時くらいに研究所について、そこで研究員さんたちの手伝いをしたり、佐々木さん指導の下で認知テストなどを受けたりしていた。目まぐるしく月日は過ぎ去り、初めて研究所に来たときは小学生だった夢も、近隣の公立中学校に通う中学生になっていた。

 実験とは言っても、やっていることはいたって単純だった。頭に金属質な器械をかぶせられて脳波の測定をされたり、能力の発動には何か規則性はないのか、詳しく聞かれたりした。正直『エゴイズムヘイト』というのがどんな特徴を持った力なのか、自分にもあんまりわかっていなかったので、答えられる内容は数少なかった。それでも研究者たちの反応は満足そうだった。能力の研究に励む彼らにとって、夢のような若くて健康なサンプルというのは、もはやそこにいるだけでありがたい存在だったのだ。

 佐々木さんと何度も会うのとは反対に、玲奈さんと顔をあわせるようなことは滅多になかった。佐々木さん曰く、玲奈さんは多くの時間を自室か、自衛隊駐屯地の中で過ごしているらしい。私はふと思いついて「玲奈さんって、どこの中学校に通っているんですか?」と尋ねた。すると佐々木先生は少し額にしわを作って、

 「玲奈は病気があるから、学校には通えていないんだ」

 と言った。それから玲奈さんの学業の話をぽつぽつと聞かせてくれた。

 どうやら玲奈さんは、患っている重い病気が足かせとなって、学校には通わずに通信教育で勉強をしているらしい。学校に行かない理由としては、もちろん佐々木さん筆頭に周囲が反対したというのもあるが、どちらかというと玲奈さん自身がそう決断したことが大きいみたいだった。もし学校にいる間に体調不良なんかになったりしたら、玲奈さんが助かる手立てなどないからだ。

 だったらなおさら、玲奈さんと研究所内で出会う確率は大きいはずだ。それなのに、玲奈さんと初めて会った一か月前のあの日以来、彼女の姿を見かけた回数はゼロだ。

 別に彼女と会いたいわけじゃないけれど――病気や、不登校。これだけ彼女の不遇を象徴するエピソードが出てくれば、何もしなうても彼女への関心が湧く。興味を掻き立てられる。

 彼女は私のことをどう思っているんだろうか。私のことを、仲良くできる人だと思っているんだろうか。初対面時の私は、予期せぬ彼女の存在に戸惑ってしまって、うまくコミュニケーションがとれなかった覚えがある。それが尾を引いて、私のことを嫌に感じていないだろうか。

 彼女はもし病気さえなかったら、とっても美人なわけだから、おそらくクラスではそれなりの立ち位置を得ていたことだろう。もしかしたら彼氏とかもできたかもしれない。そんな人が、ただただひどい病にかかっているという一点だけで、報われない日々を暮らしている。

 それは少し可哀そうだな、と夢は思った。思ってから、そんな風に考えた自分が、ちょっと笑えた。

 ――自分、玲奈さんのことを好きか嫌いなのか、どっちなんだろう。


 相変わらず玲奈さんとは会えないでいた、五月の日曜日。朝方はぽかぽかと太陽が照っている陽気な日だったが、午後になるにつれて濃い雨雲がどこからともなく出現して、大粒の雨を降らせていた。

 夢はそんな生憎のお天気の中を傘を差しながら歩いていた。目的地は近所のCDショップである。夢のお気に入りのバンド、通称「顎男」が待望のサードアルバムを出版したという知らせを耳にして、いてもたってもいられなくなったのだ。夢はそのバンドのことが小学生の頃から好きだった。。

 今の時代、スマホ一台があれば音楽などネットでちゃちゃっと聞いてしまえる。それもそれで便利だし、悪くない選択だろう。だけどそれじゃ味気ない、と夢は感じていた。自分の一番好きなバンドのアルバムくらい実際にCDを買ってみたい。超人気バンド「顎男」がアルバムを出すなんて機会そうそうたくさんあるわけじゃないんだし、この機会にぜひ私も「CD」なるものを購入してみたい。

 曇天の空模様とは真逆に、夢の足取りは弾んでいた。器用に水たまりを避けながらテンポよく進んでいく。

 目指すCDショップには間もなく到着した。国道沿いにあるそれなりに広くてきれいな店だった。店舗の正面には車が十数台止められる広さの駐車場と、目を引くハイカラな宣伝文句が書かれた電子看板が立っていた。

 夢は店の出入り口のところで傘を折りたたんで、そばに置いてあった傘立てに突き刺した。

 一口にCDショップとは言ったが、この音楽の売れないご時世、CD一本で利益の上げるにはなかなか厳しいものがある。この店もその御多分に漏れず、表向きにはCDショップの看板を掲げてはいるが、店内には雑誌や漫画や、中古のノートパソコン類などの棚が並んでいた。事前にインターネットで検索したところによると、入って前側の半分が中古パソコンやカメラの棚、右手あたりが書籍類の棚、そして奥のほうがお目当てのCDショップの棚らしかった。

 夢は所狭しと商品棚が立ち並んだ細い道を歩いて、店の最深部へと突き進んでいった。「顎男」のCDは店の出入り口からは対角線上に位置する、最も遠い場所にあった。

 とりあえずCDを見つけたことに安心して、すうっと手を伸ばしてそれとる。そのまま抱きかかえるようにCDを顔に近づけて、その表面を穴が開くほど見つめた。ただCDを買いに来ただけなのに、なんだかとても満ち足りた気分だった。憧れのアーティストのCDが、今手元にある。

 いつでも聞ける。いつでも彼らの作る音楽の世界に浸れる。そう思うと、ほわほわと足が宙に浮いてしまうような、あたたかい気持ちになった。

 口元が自然に緩んでしまう。鼻歌でも歌いたい気分でレジに向けた一歩を踏み出す。

 「ちょっと、そこの君」

 急に背後から男の声が聞こえた。今のは自分に呼びかけたのかな。そう思って振り向こうとする。

 が、夢が振り向くより早くに男は動いていた。夢は背後から右の二の腕を掴まれた。男のがっしりとした手が右腕に食い込んでいる。

 顔からさあっと血の気が引いていく。突然の乱暴に体が強張った。

 夢は本能的に恐怖を感じ、咄嗟にその手を振り払った。そして後ろを振り返りざまに、よろめきながら数歩の距離をとった。

 ようやくその男の全体像が見えてきた。緑色の帽子を目深にかぶっていて、首から下は黒系の色で統一されていた。年齢は二十代といったところだろう。

 「君、その手提げかばんの中身はなんだ」

 男は夢が左手にぶら下げていた手提げかばんを指さしながら言った。「中の物を出しなさい」

 男の圧迫的な口調に、夢は少しびびった。そんな夢を見て男はさらに「いいから、早く」と続けた。

 中には財布とか携帯とか、それくらいしか入れてなかったはずだけどな。そう思いつつ、抱えるように持っていた推しバンドのCDを横の棚に置いてかばんの中身をまさぐる。

 「……あれ?」

 手に予期せぬ感触があった。

 「これ、まさか……」

 嫌な予感がして、急いでそれを手提げカバンから引っ張り出す。

 「それ、なんでお前が持ってるんだよ」

 男はにやりと醜悪な笑みを浮かべて、夢が取り出した物を指さした。

 夢の手提げかばんに入っていたもの――それは新品のCDだった。だがしかし、CDの表紙に移っているアーティストの顔ぶれには、全くピンとこなかった。少なくとも、このCDは自分がカバンに入れたものじゃない。一体いつぞやからこのCDはかばんの中に納まっていたのだろう。

 「あ、これは私が入れたやつじゃないですね。なんかの間違いかな……」

 突如として姿を現した謎のCDを夢はまじまじと見つめた。だめだ、さっぱり思い出せない。私こんなの入れたっけ。

 「棚に戻してきます」

 そう言って、夢はその場を去ろうとした。だがその次の瞬間、男は大股に一歩踏み出して夢との距離を詰め、夢の右肩に手を置いた。夢は短く息を吸い込んだ。

 「『棚に戻してきます』じゃないだろ」

 男は魚のように冷たい光を帯びた目で夢を見下ろしていた。

 「それ、万引きしようとしたんだろ」

 発せられた言葉に思わずカッと頬が紅潮する。心臓が急に拍動を初めて、全身の温度が不快なレベルまで上昇する。

 答えに詰まっている夢を見下しながら男は続けた。

 「俺、ずっとお前のこと見てたよ。こんな時間から一人でCDショップ来るガキなんてどうせろくな奴じゃないと思ってね。ちらちらと様子見ていた。

 そしたら案の定、やらかしやがったよな。あっちにあるKPOPの棚に近づいてさあ。周囲に大人の気配がないか、あっちこっち首振って見回した後、一息にパクりやがった。ありゃあ手慣れてるよな。お前さあ、やったの初めてじゃないだろ?前科いっぱいあんだろ?」

 「いや、違う…違いますって。私そんなことしてません。絶対、盗んでなんかしてませんよっ」

 夢の必死の弁解も、男にはまるで届いていないみたいだった。男はふんと鼻を鳴らすと、鋭い目つきで夢のことを睨みつけた。

 「お前、ふざけてんじゃねえぞ」

 押し殺したような声には怒りの感情が多分に入っていた。

 「お前、もとから盗むつもりでこの店来たんだろ。盗品を転売するのか、それとも誰か年上のやつに脅されてやったのかしらないが、どっちみち俺は許せないよ。こんな躾のなってない下品なガキがいるっていうだけで腹の虫がおさまらねえ」

 そして男は、夢の右肩に置いていた手に力を込めた。

 「痛っ」

 夢は思わず顔をしかめた。男の力は尋常じゃないほど強く、服の上から爪が食い込んできていた。

 「い、痛いですっ。話してくださいっ!」

 「だめだ。お前はこのまま店員のところに連れていく。万引きの現行犯として突き出す」

 「え……」

 夢は驚いて男の顔を見上げた。

 「当然だ。お前は犯罪を犯したんだよ。罰は受けてしかるべきだ」

 「そ、そんな……」

 男の顔は張り付けたような無表情だった。夢のことを非難しようとする意志も、悪者を捕まえた正義感に浸っている様子も見られなかった。

 「い、いやです……。私万引きなんてしてません。そんなCD、カバンになんて入れてません……」

 「ならなんてお前のカバンにそのCDがあったんだ。おかしいだろう」

 「それは……」

 わからない、と言おうとした。だがその言葉が口から飛び出す前に、夢の目頭が熱くなった。自分でも制御できないまま、一筋の涙が頬を伝う。

 「てめえ、何泣いてやがる。お前に泣く権利なんてあるわけねえだろ」

 男は口汚く吐き捨てた。それに対して、何も言い返せないのが惨めで、悔しかった。男に泣き顔を見られないように下を向き、ぐっと唇をかんでやり場のない憤りをこらえる。

 「ど、どうしたら信じてもらえますか。私がやったんじゃないって。私、本当になんも知らないんです。気づいたらCDが入ってて、それで……」

 もう何が何だかさっぱりわからなくて、話している間にも何度もつっかえてしまった。自分では気丈に振舞っているつもりでも、言葉の語尾が震えてしまう。

 チッという舌打ちの男が聞こえた。そして、右肩を覆っていた手の感触が消えた。

 「――お前、財布にいくら入ってる?」

 海に浮かんだ真っ黒い氷山みたいに冷たい声だった。

 「それで帳消しにしてやってもいいぞ」

 と言った。

 「財布……?」

 しゃくりあげながら聞く。男は苛立たし気に後頭部をかいた。微小なフケがひらひらと空中に舞っている。

 「だからあ、いくら金持ってんだって話だよ。お前が万引き未遂犯だってことは、お金さえ出してくれりゃ忘れてやってもいい。そう言ってんだよアホ」

 そう言って男は追い打ちをかけるように付け加えた。

 「もっとも――お前が罪の意識を感じていて、自首したいっていうんなら話は別だがな。そんときゃいくらでもそうすればいいさ。世の中から窃盗を働くクソ餓鬼が一人消えたってだけで俺としては満足なんだからな」

 なんだろう、何かがおかしい――

 夢は直感的にそう思った。男の発言には、例えようのない気持ち悪さみたいなのが蠢いている。このままこの男に従っていたらろくな羽目にならない。それはわかっている。だけど、具体的は反論の言葉はでてこない。なんと言い返せば自分の冤罪をとけるのか、そして現在の苦しい状況を打開できるのか、解決案が浮かばない。

 夢は震える手でカバンの中から財布を出した。数えてみると、財布には千円札が二枚入っていた。孤児院での二か月分のお小遣いに匹敵する額だ。

 「さっさと出せっつってんだろっ」

 声を荒げる男に、夢は肩をびくりと震わせた。男はその手のひらを上に向けて差し出してきた。この上にお金を置けという意味だろうか。

 「あ、あのっ」

 夢は精いっぱいの勇気を絞り出して言った。

 「あの、お金さえ渡したら、本当に何もしないでいてくれますか?」

 男は鬼のような形相になり「だから、そう言ってんだろっ」と言った。「本当に物分かりが悪いな、お前」

 男は差し出した手のひらを小刻みに上下に揺すった。お金の催促をしているつもりなのだろう。夢は冷や汗がたらりと脇の下を垂れてのを感じながら、財布の二千円札をつまみ上げた。

 ゆっくりと、ロボットのアームのように腕を持ち上げる。男の手のひらに向かって千円札を運搬する。

 ――どうして私はこんな悪夢みたいな状況にいるんだろう。

 頭の中で激しい混乱の嵐が渦巻いている。早くお金を渡して解放されたい気持ちと男への恐怖が膨らんでいく。

 こんなはずじゃなかったのに。今日は大好きなアーティストのCDを買いに行くっていう、きらきらと輝く充実した日になるはずだったのに。

 どこで道を間違えてしまったのか。

 ――私が悪いのかな。私がどこかで選択を誤ってしまったのかな。

 「待って!」

 不意に大きな声が轟いた。男と夢が二人同時に動きを止めて、その声の主の方向に顔を向けた。そこにいたのは――

 「玲奈……さん……?」

 そこにいたのは、普段は研究所に閉じこもっているはずの佐々木玲奈だった。彼女は白色のワンピースを着こんで、せまい通路の間に堂々と立っていた。理由は不明だが、左手にはスマートフォンが握られていた。

 「ひさしぶり。3か月ぶりくらいだよね。元気にしてた?」

 玲奈さんはにこりと夢に微笑みかけた。

 「ど、どうしてここに……」

 夢が困惑をあらわにするのと、男が「お前、こいつの知り合いか?」と言うのがほぼ重なった。

 「悪いけど今取り込み中なんだわ。あっち行っててくれないかな?」

 男は冷静に、だけども玲奈さんという部外者の介入を拒絶するような雰囲気で言った。そして肉食動物が獲物に狙いを定める時のような、冷徹な光のこもった眼をした。

 「なんか用事でもあんのか?人のこと怒鳴ってきやがって。文句があるならさっさと言えよ」

 完全に脅しているような声音で喋る男。しかし玲奈さんは一歩も引かなかった。

 「さっきから聞いていれば、わけわかんないことまくしたてて夢を困らせてるし。あんたって本当に何なの?馬鹿なの?死ぬの?」

 完全に敵対姿勢をあらわにしている。ともすれば男を余計に怒らせてしまうかもしれない。

 案の定、男はおおげさに舌打ちを一回かますと、声のボリュームを上げて反論しだした。

 「わけわかんないだと?お前、こいつが何をやらかしたか知ってんのかよ。万引きだぞ」

 そして男はギラギラと下品に輝く瞳で、玲奈さんのことを睨みつけた。

 「お前がいつから見てたのか知らないけどな、一応説明しておいてやるよ。こいつはたった今、店に置いてあったCDを万引きしようとしてたんだ。カメラだとか大人だとかの目を盗んで、会計前のCDをちゃっかり手に持ってるカバンに入れてやがった。やってることはもろに犯罪だ」

 「じゃあ聞くけど、あんたはじゃあなんで夢にお金を要求してるの?そんなことしたって何にもならないでしょう!あんたは警察でも何でもないんだから……」

 男は少したじろいだ。玲奈さんの指摘は的を射ていた。言われてみれば、男が夢に金銭を要求する道理などどこにもない。そのことに夢は遅まきながら気が付いた。

 男は束の間悔しそうに顔をしかめた。そして玲奈さんに対して怒りのこもった目線を向けた。

 「どっちにしろ、こいつが窃盗しようとしたって事実は変わらねんだ。お前それはわかってるんだろうな?お前がこいつの何なのかは知らないが、他人の物盗んで平気な顔しているやつを、お前は何の嫌悪感もなく受け入れられんのか?」

 夢は息をのんだ。

 「いや、玲奈さん、それは違うのっ。私CDなんて盗んでない。本当に、信じてっ」

 「うるせぇっ」

 男は一喝した。

 「じゃあなんでカバンにそんなモン入れてやがったんだよ。盗もうとしたんじゃなけりゃ説明つかねえだろ」

 「そうでもないわ」

 玲奈さんの透き通るような声が響いた。

 「夢がそのまま店外へ出ていたら、その理屈も通ったかもしれないけど。夢はずっと店内にいた。っていうことは、ただ単にCDはカバンに入れて持ち運ぼうとしていただけで、盗もうだなんて姑息な意思はなかったんじゃないの?」

 それにプラスアルファして――と言って、玲奈さんは手に持っていたスマートフォンを高々と掲げた。そういえば、彼女がどうしてスマホなんて握りしめていたのか、ずっと疑問に思っていた。

 「ここに写ってるわ。――なんで夢のカバンの中に、あんな品のないバンドのCDがあったのか」

 そう意味深なことを告げて、玲奈さんはスマートフォンの画面を一度タップした。

 画面をのぞき込んだ男は動揺した声色で、

 「お前――いつから見てたんだよ……」

 と言った。夢も後ろから画面の中をしっかりと見据える。

 移っている映像は、間違いなく夢たちがいるCDショップ内で撮影されたものだ。画面のそこここに移るCDの山がそれを裏付けている。カメラはCDショップの入り口あたりから、店の奥のほうを取るような構図だ。そして映像の中心あたりに移っているの手提げかばんを左手に持った女だった。

 「これ、私……?」

 来ている服や身に着けている靴、そして何よりも持っている物が決定的な証拠だ。この女性はCDショップをうろついている夢で確定できる。

 ではなぜ、玲奈さんは私の背中なんて撮っていたのだろう。夢は瞬時疑問に思った。そしてその答えは、カメラの映像にくっきりと収められていた。

  棚と棚の間を縫って歩く夢。その背後に、全身を黒っぽい服で包んだ不審な奴が距離を詰めていく。男の手にはCDが握られていた。さすがにCDの表紙までは見ることができない。

 カメラはあくまで一定の距離を保ちつつ、動いている夢と男の後姿をおさめ続けている。

 CDを持った男の服装と、さっきから夢のことを脅している男の服装はピタリ一致する。映像の中の男と、今まさに隣に立って夢を脅迫している男が同一人物であることは明白だ。

 動画内で、男は夢とつかず離れずを保っている。だが突如として男は歩くスピードを速めると、瞬時に夢との距離を詰めた。それからその勢いのまま、ひょいと手に持っていたCDを夢のカバンの中に入れた。

 すべてが一瞬の間に行われたことだった。

 「えっ?」

 夢は束の間、映像がどんな意味を示しているのか理解できなかった。そして何とか映像の中の情報を消化した時には、横の男の顔はみるみる赤くなり、今にも爆発寸前の活火山のような様相を呈していた。

 「必要とあらば、この映像はしかるべきところに見せましょう」

 スマートフォンをポケットにしまった玲奈さんが、勝ち誇るように言った。

 男は沈黙した。両手の握りこぶしがプルプルと震えている。

 「もう、いいっ。勝手にしろっ!」

 そう言って、男は身をひるがえして早足に歩き去っていった。そしてその去り際に夢に向かって一度だけ視線を投げた。その眼にはどす黒い憎悪と、悪意の塊がはち切れんばかりに詰まっていた。

 嵐のような時間は過ぎ去り、場には静けさが戻った。夢はなんだか気が抜けて、フウッと間抜けな音を立てながら長い息を吐いた。

 「大丈夫だった?乱暴とかされてない?さっき腕とか掴まれてたけど、傷とかになってないかな?」

 男が見えなくなったのを確認すると、玲奈さんはさも心配げに夢のほうへかけよってきた。そして先ほど男に掴まれていた夢の腕や、肩に手を当てた。

 「痛い?」

 「いえ、大丈夫ですけど……」

 「そう?それはよかった」

 そう言って、玲奈さんは安心したように笑みを浮かべた。相変わらずびっくりするくらい整った顔だ。

 「あ、あの……」

 「うん?どうしたの?」

 夢は少し口ごもった。正直な話、玲奈さんとは数か月ぶりに直接会ったことも手伝って、どんなしゃべり方で話せばいいのかがいまいち掴めていなかった。だけどとりあえず、助けてもらったことには感謝しないとな。

 「ありがとうございました。助けてくれて」

 夢はぺこりと頭を下げた。玲奈さんが「とんでもないとんでもない」と笑いながら、胸の前で慌ただし気に手を振る。

 「あんなチンピラみたいな輩に絡まれてたんだもの。助けてあげるのが当然ってもんでしょ」

 誇らしげに言いながら、玲奈さんは手のひらで自分の胸を叩いた。「どやさ」

 その動作が面白くて夢はクスリと笑った。そして、改めて玲奈さんの顔をしかと見た。

 「ええっと……会うのはかなりひさしぶりですよね。あの、どうして玲奈さんはこんな店に?普段は病気がいつ悪化するかわからないから、あの研究施設にいるって聞いてましたけど……」

 夢が尋ねると、玲奈さんは白い歯をむき出しにして笑いながら「よくぞ聞いてくれたっ!」と言った。それから来ていたパーカーのポケットに手を突っ込むと、中から何かを引っ張り出した。

 「あっ」

 夢は反射的に声を出していた。「それって……」

 「おっ、もしかして君もファンなのかい?」

 玲奈さんは言った。

 「それって『顎男』ですよね……」

 見てみれば、玲奈さんが購入していたのは夢の大のお気に入りバンド「顎男」のCDだった。

 「そうだよ。よく知ってるね」

 「はい。だって私も、そのCDを買いにこの店に来たんですから……」

 玲奈さんはその奇麗な目をことさら大きく見開いた。夢は続けた。

 「最高ですよね、そのバンド……」

 玲奈さんは一拍遅れて、心底嬉しそうに言った。

 「そうだね。超最高だよね!」


 「暑い……」

 日差しがこれでもかと照り付ける猛暑の中、夢は缶のアイスコーヒーを飲みながら二人の到着を待っていた。

 今日は日本全体を席巻しつつある人気バンド「顎男」のライブ当日である。夢は昔からずっと「顎男」のライブに行くことを夢見ていた。彼らの紡ぎだす音楽を生で聞けたらどれだけ幸せだろうと、「顎男」の音楽と初めて出会った時から思っていた。

 そしてその夢が、今まさに叶おうとしている。

 今日この日に「顎男」の紡ぎだす音楽にじかに触れるためだけに、ここ数週間は準備を整えてきたのだ。インターネットでチケットを予約したり、会場で他のお客さんから浮かないように、服装やライブ特有のアイテムについて調べを重ねたりした。

 さらに今日は――自分は一人じゃない。音楽の趣味が合う人がいなくて、一人孤独に「顎男」を楽しんでいた小学生の頃とは違う。

 「あっ、来た来た!」

 仲間がいることが嬉しくって、自然と弾んだ声になる。「おおいっ!」と叫びながら、頭の上で手を大きくウェーブさせるように振る。相手もこちらに気が付いて小刻みに手を振り返してきた。車いすに座ったお婆ちゃんと、それを押している女子の二人組だ。はたから見れば完全に血縁関係のある人同士だ。

 我慢できずに二人の元へ駆け出す。太陽の暴力的なまでの熱気も気にならず、爽やかに彼女らへ駆け寄る。

 「ごめーん、遅れちゃった?」

 玲奈さんが申し訳なさそうな顔で言った。ミント色のワンピースを優雅に着こなす姿を見ていると、やっぱり女としての格の違いを思い知らされる。大人っぽいコーデと、ややあどけなさがのこる顔のバランスが絶妙だ。私、こんな人と並んで歩かないといけないのか。気が滅入るなあ。

 「あっそうそう。こちらが貴子さんだよ」

 そう言って、玲奈さんは車いすのお婆ちゃんを手で指し示した。お婆ちゃんは座ったまま一礼すると、「どうも、初めまして」と、穏やかな口調で言った。そのどことなく上品な所作や話し方に夢は好印象を持った。

 「初めまして。私が近藤貴子です。何分私はこんな不自由な体ですから、ご迷惑をおかけするかと思いますが、どうぞよろしくお願いします」

 「いえいえ、そんなことはありませんよ。むしろ私のほうこそ、失礼なこと言っちゃったりするかもしれないんで……」

 「そうなんですよ。貴子さん。夢は少しばかり抜けてるところがあるんで、それなりに厳しく接してないと、突然不躾なこと言われたりしちゃいますよ」

 玲奈が横から茶々を入れる。私は少しムッとなって、「玲奈、初対面の人にそゆこと言う?」と言った。玲奈さんは舌をチロリと出して「てへぺろ」と、申し訳なさの欠片も感じられない謝罪をした。しかしこんな子供っぽい顔芸でさえ玲奈は様になっている。畜生、悔しいがここは玲奈の顔に免じて許すしかない!

 「ささ、ライブまで時間もないですから、ちゃっちゃと列に並んじゃいましょう」

 玲奈の一声で、私たちは横一列になって歩き出した。車いすを押すのは玲奈さんの役目。私は車いすが突っかかってしまう段差やゴミがないか、くまなく床を見回す役目だ。

 さすが「顎男」の人気は物凄い。夢たち一同の眼前にはライブが行われるアリーナの建物が移っている。そしてそれから少し視線を下すと、そこにはとてつもない規模の人混みがあった。この人たち全員が「顎男」を楽しみにしているのかと思うと、夢は何だか誇らしいような気分になった。「顎男」の音楽が持つ集客力に畏敬の念がぬぐえない。

 「そう言えば、夢と貴子さんは初対面なんですよね?」

 玲奈さんが話を切り出した。

 「そうですね。研究の日程とかも、被らないように設定されているらしいですし……」

 自衛隊○○駐屯地地下で研究されている、人知を超えた超自然的能力「エゴイズムヘイト」。貴子さんはその能力を発現した能力者の一人だった。夢が来るよりもはるかに前から研究に協力し、彼女の能力のおかげで、「エゴイズムヘイト」研究は百年進んだとまで言われているらしい。

 そして何を隠そう――貴子さんは、昔から比較的交流があった玲奈に「顎男」の魅力を教え込んだ張本人でもある。

 「『エゴイズムヘイト』能力者同士が直接会うことは基本的に禁止されているらしいですから」

 と貴子さんがはにかみながら言った。そんなことは初耳だった夢は「えっ、そうなんですか?」と素っ頓狂な声を上げる。

 「『エゴイズムヘイト』の能力者同士がじかに触れあって、予想外の何かが起こってしまったら――研究所の方たちはそんなことを心配しているみたいですよ。だから能力者同士は会わせない、研究の日時も別日にする。そういう姿勢が徹底されているみたいです」

 「あれ?だったら貴子さん、私と会っちゃまずいんじゃないですかね……」

 そう言った次の瞬間、貴子さんは少しだけ表情をこわばらせた。そしてまたすぐに元の柔和な微笑みに戻った。

 「――本当のことを言うとですね、私、実はもうほとんど能力がないんですよ」

 貴子さんは落ち着いた口調でそう言った。

 「数年前くらいから徐々に徐々に能力を失っていまして。今ではもう、普通の人間と何ら変わりませんよ。だからこそ研究所の方々も、夢さんとこうして遊びに出かけることを黙認したのでしょう」

 それから貴子さんはふっと息をついた。

 「私の能力が一番優れていた時期は今からだいたい二十年ほど前です。そこからは右肩下がりですよ。能力のコントロールも、昔はある程度上手くいったんですがね」

 なんと相槌を打ってよいかわからず、「そうなんですね」と無難に流した。「エゴイズムヘイト」の能力の強さが何によって決まるのかは判明していないと佐々木さんが言っていたことを思い出す。自分のようにある日突然能力に目覚める人もいれば、徐々にその能力を失っていく人もいるということだろうか。

 「あの、貴子さんはどうして研究所に協力をしているんですか?どういうきっかけであの研究に手を貸すことに?」

 貴子さんは一瞬、虚を突かれたような顔をした。それから少し思案投げ首すると、膝の上で両のてのひらを重ね合わせた。

 「――あなたは大変良い子そうだから、せっかくこうして出会えたことですし、私の小話を聞いてもらいましょうか。多少はプライベートなことを話したほうが私はスッキリしますしね」

 そして貴子さんは、考えあぐねているように視線をあちこち彷徨わせた。

 「――まずは昔話を一つ。

 私には娘がいました。名前は『里奈』と言いました。えくぼのかわいい、利発な子供でした。病気で夫に先立たれてしまい、未亡人となっていた私は、女手一つで必死に娘を育てていました。連日夜遅くまで働いて、娘を大学に通わせるための学費を貯めました。どんなにつらいことがあっても『これは里奈を幸せにするためなんだ』と自分に言い聞かせて、自分の体に鞭を打って働きました。そしてもちろん――当時は自分の身に『エゴイズムヘイト』なんていう物騒な力が備わっているなど、露ほども知りませんでした」

 貴子さんはそこで一息ついた。

 「ああ、今思えば里奈の大学進学が一つの分岐点だったのかもしれません。私は里奈に大学で勉強してほしかったんです。私自身が学歴では苦労していますから、せめて大切な我が子には、上質な教育を与えたかったんです」

 「大事になさっていたんですよね、里奈さんのこと」

 玲奈が言った。貴子さんは「ええ、とっても」と相槌を打った。

 「でも里奈は、大学の勉強なんて無駄だと言いました。私がどれだけ必死に説得しようと『学問なんて社会に出たら役に立たない』の一点張りでした。最後には、玲奈は私が勧めていた大学とは全く別の、美容系の専門学校に進学しました。

 里奈が言うことを聞いてくれなくなって、私は頭を抱えっぱなしでした。里奈の真意を聞き出そうと、話し合いの場を設けようともしました。でもそのたびに里奈はのらりくらりと私を躱すのです。里奈は専門学校の近くで一人暮らしを始めました。だんだんと、里奈とは疎遠になっていきました。

 そうやってお互いの連絡が途絶え始めた矢先、私のもとに、一枚の手紙が届きました」

 「手紙――ですか」

 夢は貴子さんの言葉を繰り返して言った。

 「ええ。何の手紙だかわかります?」

 「えっ?うーん、なんでしょうね……。仕事がうまくいってるとか、そういうことでしょうか?」

 「結婚報告、ですよ」

 夢は反射的に「えっ?」と聞き返した。

 「里奈は私の全く知らないうちに、とあるベンチャー企業勤めの男性と結婚していました。手紙には『結婚式を挙げるからよかったら出てくれ』といった内容のことが書いてありました。また、次のようにも書いていました。『子供が近々生まれる予定だから、そこんところお願いね』――一体、何をお願いしているというのでしょう」

 それから貴子さんはひどく残念そうな顔をした。

 「私はそれを見て、なんだかとてつもなく腹が立ちました。せめて私に、妊娠していることぐらいは教えてくれてもよかったんじゃないのか。私はすぐさま、里奈が男と同棲している家に行きました。そして問い詰めました。どうして私の意見を何も聞かなかったのか。専門学校はどうしたのか。

 里奈の回答はシンプルでした。専門学校は辞めた。私の意見を聞かなかったのは、自分のことぐらい自分で決められると思ったから。妊娠を伝えなかったのも同じ理由だと言いました。里奈に言わせてもらえば、私は人生の重大ごとを相談するには値しない、頼りない母親なのだそうでした」

 夢がふと貴子さんを見ると、貴子さんは両手のこぶしをぎゅっと握って、膝の上でプルプルと震わせていた。

 「私は――正直言って、憤懣やるかたない心境でした。今まで里奈のためにやってきたこと、我慢してきたことを、すべてコケにされたような気分でした。

 許せない。心からそう思いました」

 しかしその気持ちは、母親としては失格でした。貴子さんは哀しそうに言った。

 「私は母親として最もやってはいけない、人の道から外れた心情になってしまいました。娘の最大の理解者であるべき私が、あろうことが娘を憎んで、許せないと思ってしまったのです。もう娘の言うことなんて聞きたくない、大事にしてやる義理もないと――そういう考えを持ってしまいました。

 娘の結婚式には出ませんでした。出る意味がないと思ったからです。里奈が子供を産んだ時も、同じような対応をしました。私にとって初めての孫となる子は、女の子でした。友梨佳という名前でした。

 友梨佳を通じて里奈との仲を修復できるかもしれないと、淡い期待を持ったこともありました。でも――無理だった。里奈との間に生まれた溝は、私が思っていた以上に大きく、深かったようでした。友梨佳とは年に二三回程度しか会えませんでしたが、それでも友梨佳は、私のことをすごく気に入ってくれているようでした。それがせめてもの救いでした。

 友梨佳が育っている間も、しばしば里奈との揉め事は発生していました。友梨佳が生まれてからは、主に彼女のことについてお互いに意見をぶつけ合いました。

 相変わらず里奈とは意見が合いませんでした。里奈の考え方や価値観、思考に対する嫌悪感みたいなものが、私の中にとぐろをまいて住み着いていました。

 そして――忘れもしない、十五年前のあの日です。まるで昨日起きた出来事かのように、あの日のことは鮮明に思い出せてしまうんです」

 貴子さんは痛みでもこらえているような顔をした。

 「その日、私たちは長電話をして今いた。電話をかけた理由は忘れました。どうせ些細な用事だったのでしょう。

 例によって友梨佳のことを話題に出していました。だけどそれは今思えば、友梨佳を出汁にして、お互いに不満をぶつけあっていただけだったんです。

 提案はやがて不満に変わり、不満はやがて罵声に変わりました。理性も減ったくれもない、ただの怒鳴りあいです。お互いがお互いの事情を全く考慮せずに、ただの暴言を吐きあっていました。

 獣のような声を張り上げた口論も煮詰まっていきました。最後には、とうとう私は我を忘れてしまい、

 『あんたを育てるのに、私はどれだけ苦労してきたと思ってる』

 と言ってしまいました。私のこの言葉に、娘は烈火のごとく怒り狂いました。

 『別にそんなこと頼んでない。私だって、好きでお前の子供に生まれたわけじゃない』

 さらに、『私だって親を選べるなら、お前みたいなのは選んでなかった』とも言いました。

 私はもう――怒りが自分では制御できないほどに膨れ上がって、視界が真っ赤に染まりました。ただわなわなと怒りに震えながら、じっと娘の不幸を祈りました。親としては失格の態度だと、今では反省しています。

 そうしているうちに、私は自分の体に、なんだか奇妙な感覚を覚えました。手といわず足といわず、全身の皮膚の二センチメートル下ぐらいに、もぞもぞと何かが動いているような感じがしました。体がなんだか熱く、特に運動をしているわけでもないのに、体中に汗をかいていました。

 里奈に変化が起こったのはその時です。突如として受話器から里奈のうめき声が響いてきました。重いインフルエンザの患者のように呼吸が荒くなって、息をするのえさえ苦しそうでした。けれども私はそれを大事だとは捉えませんでした。

 『今あんたがどうなっているか知らないけど、お母さんはあんたを許すつもりはないから』

 ――私が里奈に発した最後の言葉です。もっとも、里奈が生きているうちにこれを聞いたかどうかはわかりません。 その夜に仕事から帰宅した里奈の夫が、倒れたまま息を引き取っている里奈と、その体をゆすっている友梨佳を発見しました。里奈の眼には涙の跡があったそうです。

 自衛隊から『エゴイズムヘイト』関連の方がいらっしゃったのは、里奈の葬式から一夜明けた朝でした。おおかた里奈の死に不審な点があって、その時の里奈の家の通話履歴などから私にたどり着いたのでしょう」

 夢は言葉を失っていた。貴子さんが赤裸々に語ったエピソードには、何とも言えぬ生々しさがあった。話しているときの貴子さんはときおり悲しそうに目を伏せたり、声を震わせたりしていた。それらの動作も相まって、夢は貴子さんが一体どんな気持ちで彼女の過去を吐き出しているのか想像して、貴子さんに深く共感した。

 「そんなことが――あったんですね……」

 さすがに気の利いた言い回しも浮かんでこない。

 貴子さんも自分と同類の人間だった。彼女も自分と同様に『エゴイズムヘイト』の能力で家族を失ってしまい、その経験で心に傷を負い、消えることのない罪悪感にもがき苦しんでいる。

 貴子さんはそのまま黙ってしまった。夢は何となく玲奈の声が聞きたくなった。車いすを押している玲奈の顔に目をやる。

 「……?」

 その時玲奈が見せた表情に、夢ははどことなく違和感があった。玲奈は眉と眉の間に少しだけ皺を寄せていた。

 これは玲奈が困っていたり、不思議に思っていたりする時の表情の癖だ。玲奈と長く付き合っていないとわからないだろうけど、こういう顔をするとき、玲奈はいつも何かに迷っている。

 今回は状況からして、貴子さんの昔話の可能性に迷っている可能性が大だろう。

 「玲奈……?」

 夢が名前を呼ぶと、玲奈はハッとしたような顔をした。それから「ごめん、少し考え事してた」と、聞いてもいないのにそんなことを言った。

 「湿っぽい話になっちゃってごめんなさいね。でもほら、今日は楽しむために来たんですよ。今話したことは綺麗さっぱり忘れて、思い切りライブを楽しみましょう」

 玲奈と私の間にあった微妙な空気を察したのか、貴子さんは先ほどとは打って変わって、いやに明るい口調で話し出した。

 「『楽しみましょう』だなんて、こんな空気を作り出した張本人が言うのは変ですかね……」

 夢と玲奈はお互いに顔を見合わせた。そして、玲奈が溌溂とした声で言った。

 「いいえ、全然変ではないですよ。そうですね、ぜひ楽しみましょう」

 貴子さんは仏のように穏やかにほほ笑んだ。


 ライブ会場を埋め尽くす圧倒的な人の数に、夢はただただ感嘆するばかりだった。

 色とりどりのペンライトが四方八方から目に飛び込んでくる。赤、白、青。それぞれの色が『顎男』のメンバーカラーだ。まだライブの最初の曲すら始まっていないが、会場が発している熱意には凄まじいものがあった。この空気を肌で感じられただけでライブまで出向いた価値はあるだろう。

 「あそこのステージで歌うんですよね」

 隣にいる貴子さんがステージ上を指をさしながら尋ねた。夢たちは三人一組となって、ライブ会場の二階の席から下のステージを見下ろしていた。貴子さんのような車いすの人は一般の人に交じって観戦をすることは難しいので、二階のスペースがあてがわれていた。ここなら人口密度はさほど高くないが、代わりにステージからはかなり遠のいてしまうという欠点がある。

 「そうですよ。あそこにバンドメンバーが登場するんです」

 って言っても、私もライブ来るのは初めてなんであまりわかってないですけど――夢はそう言い添えた。

 玲奈はさっき「飲み物買ってくる」と言い残してどこかに消えてしまった。なので今は貴子さんと二人きり。先ほどの貴子さんが語って聞かせてくれた重苦しい話題には触れないよう、会話を盛り上げないと。玲奈がいない分私がしっかりしなければ。

 「夢さん、そう言えば私たち、ペンライトを持っていないですね」

 貴子さんが会場の熱気に負けない程度の声量で言った。

 「ああ、欲しかったですか?」

 夢が聞くと、貴子さんは「そういうわけではないんですよ」と苦笑した。

 「あのライト、とても綺麗だなと思って。私も『顎男』のライブに来たのは初めてですから。『ライブってこんな感じなんだ』って感動しっぱなしです」

 「貴子さんもライブは初体験なんですね。ちょっと意外です。玲奈とかと来たことあるのかと思ってました」

 夢が意外そうに言うと、貴子さんは「だから、ペンライトとかも新鮮に感じられて」と言った。

 「じゃあ貴子さんがもし持つとしたら、何色のペンライトがいいですか?ここからざっと見た感じだと、黄色とか青が多そうですけど」

 「私は――白、ですかね」

 「白、ですか。どうして?」

 「ペンライトの色って、『顎団』のメンバーカラーに対応しているでしょう?」

 夢は「ああ、それで……」と納得した。

 白は『顎男』のボーカルにして、作詞や作曲までもできてしまう優等生「藤山聡」のメンバーカラーだ。

 「藤山さんが好きなんですか?ああもしかして、『推し』っていうやつですかね?私も藤山さんのことは大好きだから、気持ちはめっちゃわかりますよ」

 自然と声に熱意がこもる。藤山さんの素晴らしさなら何時間でも語れてしまう。

 だがなぜだか、貴子さんの反応は薄かった。熱弁する夢とは対照的に、貴子さんはどこか冷ややかな声で「まあ……思い入れという意味では、確かに『押し』にあたるかもしれないですね」と言った。

 「藤山さんは私の中で、とてつもなく重要な人になってるんです。それはもうただのバンドとか、音楽だとか、そういう物を超越した次元で。彼がいなかったら今の私はなかった。彼が居てくれたおかげで、今の私の価値観などが出来上がっていった。そういうレベルの方なんですよ」

 そう言って貴子さんは「難しいわね……。彼が私にとってどのような存在なのか、イマイチ自分でも把握できていないんですよ」と、面映ゆそうな顔をした。

 「へえ、そうなんですね。貴子さんも大好きなんですね、藤山さんのことっ!」

 夢は喜色満面だ。貴子さんも夢に同調するようにふふっと笑った。

 「ただ一つ言えるのは、やっぱり私の中にあるこの気持ちは、そのままではいけないっていうことです。これだけ藤山さんにお熱なんですもの。ライブに行ったりだとか、同じ『顎男』ファンの人たちと交流しなくては」

 「そうですよね。CDで音楽を聴くのもいいですけど、やっぱり生で見るのが一番ですよねえ。そのほうが盛り上がれますから」

 「ですね。だから私、できたら藤山さんとは生でお話ししたいなって思っているんですよ。握手会とか、サイン会とか。どんな形でも構いませんから」

 「それ、めっちゃ良いアイデアですね!今度そういうイベントがどっかにないか探してみましょう!」

 その時、貴子さんが夢の後方を見つめながら「あら、帰ってきましたよ」と言った。振り向くと、そこにはペットボトル三本を抱きかかえるように抱えた玲奈が、焦ったような顔をしながら近づいてきていた。

 「いやー焦った。自販機って探すと見つからないのよね。喉乾いてないときには頻繁に見かけるのに」

 「お帰り。ありがとうね」

 夢が感謝の言葉をかけたその時だった。天井に取り付けられた照明が一気に暗くなって、玲奈が「きゃっ!何?」と短く悲鳴を上げた。

 夢は暗くなった訳にピンときて、二階の手すりからステージを見下ろした。どこからともなく表れたスポットライトが、縦横無尽に会場のあちこちの壁を照らし出したのち、ステージをちょうど照らし上げる位置に収まった。

 「あっ!見てあれ!」

 夢が勢い込んで言う。ステージの両袖から『顎男』のメンバーが走り出てくる。メンバーはステージの中央あたりでばらけて、あらかじめステージにセッティングしてあったギターやドラムなど、それぞれが担当する楽器に集まった。

 「本物の『顎男』だ……」

 夢は恍惚とした表情でつぶやいた。メンバーが息を合わせて音楽を演奏し始める。ファンならば誰でも知っている有名曲だ。

 そしてステージの右端から、最後のメンバーが歩いて出てきた。『顎男』が誇る天才「藤山聡」。その本人が、手にマイクを持ってステージ中央に出てくる。その歩き姿たるや、カリスマ性良し、かっこよさ良し、色っぽさ良し。アーティストとしては非の打ち所がない。

 「ああっ!なんか落ちたっ!コンタクト落ちちゃったんだけどっ!夢拾って!」

 玲奈が後ろで騒いでいる。藤山が音楽に合わせて美声を披露する。

 「待って!私もそっち集中したいんだけどっ!夢、なんで無視するの?どうしてようっ!」

 ますますヒートアップした玲奈の焦り具合を聞き流しながら、夢は藤山が紡ぎだす美しい歌声に浸った。


 その後もライブは順調に続いた。ライブが終了に近づくと、彼らはお客さんの要望に応えてアンコールまで演奏してくれた。そのことが夢にはかなりジンと来た。そこまでお客さんの希望に寄り添ってくれるだなんて、彼らはなんて優しい心の持ち主なんだろう――

 ライブ終わりに立ち寄ったフードコートで玲奈にそんなことを話すと、玲奈は人を小馬鹿にしたような顔で吹き出した。

 「あれは『私たちは観客の意見を聞きましたよ』っていうパフォーマンスだよ。アンコールを受けること自体は事前に決まってる」

 「でもいいじゃないですか。私、感動しましたよ。みなさん半端なくカッコよくって、私ライブ見ている途中で少し泣きそうになってきちゃって……」

 貴子さんが感慨深げな声で言った。

 ちょうどその時、机の端に乗せておいた呼び出しブザーが振動して、料理が出来上がったことを伝えた。

 「ラーメンできたみたいね。夢、取りに行ってこよう」

 玲奈がブザーと伝票を握りしめて立ち上がった。「荷物は私が見てますから、お構いなく」と貴子さんが言う。

 「すごかったよねえライブ。やっぱCDで聴くのと生で聞くのとでは違うわ。生は迫力があるもん。歌声に圧倒されてる感じがある」

 今日はライブに来れて本当に良かった。未だにライブでの興奮と熱狂が忘れられない。

 「貴子さんも楽しんでくれてたみたいでよかったよ。玲奈もそう思うでしょ?」

 玲奈は即座には答えなかった。夢に顔を向けることもなく、機械的に足を前に進めている。

 「――貴子さん、最近はふさぎ込んでいる時間が多かったから」

 玲奈はごくごく控えめな声でそう言った。

 「ふさぎこんでいる――貴子さんが?」

 「そう。ぶっちゃけて言うとね、貴子さんがあんなに感情を表に出しているのを見るのはすごく久しぶりなの。数か月、いや下手したら一年くらい、貴子さんが笑っている顔を見ていないかもしれない」

 にわかには信じがたい話だった。夢はむしろ、貴子さんに対して「お年の割には活発だな」という印象を持っていた。

 「だから私、今日の貴子さんがあんなに興奮しているのが信じられなくて。誤解のないように言っておくと、貴子さんって普段は全然あんな風じゃないから。問いかけても答えてくれることは稀だし、たまにガン無視されたり、一人で何かをブツブツ呟いてたりすることだってある」

 怪訝そうに眉を顰める夢。玲奈はそんな夢の顔を一瞥すると、「あとね、これはずっと気になってたことなんだけどね――」と、秘密めかした声で言った。

 「ライブが始まる前さ、貴子さんがちょっと込み入った話をしてたじゃない?貴子さんの昔話」

 「ああ、うん、してたね。なんだっけ、娘さんとうまくいってなくて、それで『エゴイズムヘイト』を発動しちゃった――みたいな」

 「そう。それなんだけどね――」

 あれ、私が聞いてた話とは全く違うんだよね――玲奈は過度に深刻そうになるでもなく、かといってさらりと流してしまうわけでもなく、それなりの事の重大さが感じられる声で言った。

 「貴子さんに娘がいた話は知ってる。貴子さんの孫には実際会ったことある。でも貴子さんが娘を殺して、そこから『エゴイズムヘイト』研究に協力したっていうのは初耳だわ。そんな話今までに一度も聞いたことがない」

 玲奈はまっすぐ前方を見据えながら、困ったように腕を組んだ。

 「貴子さんが言っていることはちぐはぐだわ。私、貴子さんはもっと別の理由で研究所と繋がったと聞いてた」

 「聞いたって、誰から?」

 「お兄ちゃん――佐々木主任研究員から。だから情報筋は確かだと思う」

 佐々木先生が直々に言ったことなら、信憑性は高いだろう。誰よりも『エゴイズムヘイト』研究に懸けている思いが強い佐々木さんなら、実験対象者の経歴くらい頭に入れているはずだ。

 だが――だとちょっと疑問が残る。なら貴子さんが涙声になりながら語っていたアレは、一体何の話だったと言うのだ?

 「もともとは貴子さんはどうして研究所に来たって言ってたの?」

 夢が聞く。玲奈はしばし考えてから、「貴子さんは自分から自衛隊にやってきたらしい」と言った。

 「貴子さんはある日、ひょんなことから自分が人にはない特別な力を持っていることに気づいてしまう。不審に思った貴子さんは八方手を尽くして、自分と同じような力を持っている人たちとコンタクトをとれないか探してみる。そこで最終的に行き着いたのが――自衛隊〇〇駐屯地」

 玲奈は組んでいた腕をほどきながら「でも正直、私はこの話には納得していなかった」と告げた。

 「だって考えてもみてよ。自衛隊○○駐屯地の地下で研究をしていることは表向きには非公表なんだよ。あくまで実験は秘密裏に行われているの。それがどうして、貴子さんみたいな一般人に見つかっちゃってるワケ?自衛隊の情報操作技術はそんなに甘いものじゃない」

 目的地の味噌ラーメン専門店に着いた。玲奈がレジの店員に番号札を手渡すと、店員はレジの横に準備してあった味噌ラーメン二丁をお盆にのせて、夢に持たせた。

 「私が聞いていた話には疑問点がまだある。貴子さんが『自分に特別な力があると気づいた』っていうのがもう嘘くさいと思わない?なんなのよ、その三流ラノベのプロローグみたいな文章は。『エゴイズムヘイト』の力はそう簡単に自覚できるようなもんじゃない。発動条件も複雑だし、能力が及ぶ範囲は場合によって本当に多種多様だから」

 玲奈の物言いはだんだんと熱を帯びてきた。夢はヒートアップする玲奈の話の要点を頭で整理する。

 貴子さんは自らの口で、彼女が『エゴイズムヘイト』の力を自覚するに至った経緯を語った。しかし玲奈に言わせてみれば、貴子さんが言ったことには怪しい点も多く、そのまま「はいそうですか」と飲み込めるような類の話ではないらしい。

 これだけでも十分不可思議なのだが、それにプラスして、ここ最近の貴子さんの様子も興味深い。貴子さんとそれなりに長く付き合っている玲奈によれば、貴子さんはここ一年ほどの期間、妙に気分が沈み込むことが多かったらしい。貴子さんの笑顔を見るのすら、数か月ぶりのことなんだとか。

 夢が貴子さんについて思案投げ首していると、玲奈は「ああでも、そんなに気にしないで」と少し困ったように言った。

 「今のは私が個人的に気になったことを夢にも聞いてほしかっただけだから。夢はそんなに思い悩む必要もないよ。私の愚痴だと思ってもらって、聞き流しちゃって」

 ならなんでそんなこと私に言ったのか、という言葉が舌の先まで出かかった。気にするなと言われても、気になるものは気になるんだから仕方ない。席に戻ったら貴子さんにそれとなく真相を聞いてみようかな――

 そう思って、貴子さんが確保している席を探す。しかし、なぜだか貴子さんが見当たらない。おかしいなと思いながら玲奈を見る。

 どうやら玲奈も同じ気持ちらしかった。小首をかしげながら、「私たちの席ってあっちだったよね?」と、フードコートの一角を指さす。

 記憶を頼りにもと来た道をたどる。そして二人はフードコートの端っこの、三人用のテーブルで足を止めた。椅子の上に玲奈と夢のバッグが横に倒されて置かれている。

 「ここ――で合ってるよね?」

 玲奈が不安げに聞いた。

 「合ってるはず」

 夢が答えた。そして、森の中に置き去りにされたヘンゼルとグレーテルさながらに、落ち着きなく周囲をきょろきょろと見回す。

 「貴子さんは――どこ行ったの?」


 「どう?何か見つかった」

 玲奈が急かすように聞いた。夢は残念そうな表情を浮かべて首を振る。

 「いや、こっちでもない。トイレも通路も見てみたけど、どこにもいない」

 玲奈が落胆したようにため息をつく。夢の胸に困惑と不安が押し寄せる。

 注文していたラーメンを取りに行っていたわずかな間に、貴子さんは影も形もなく姿を消した。かろうじて三人が陣取っていた席に残っていたのは、玲奈と夢が持参した鞄と、貴子さんが羽織っていた赤いカーディガンのみ。

 これはおかしいと訝しんだ二人は、フードコート周辺をあらかた歩き回って貴子さんを探した。しかし貴子さんを見つけることはおろか、貴子さんがどこに行ったのかを探る手掛かり品さえ一つも見つけられなかった。

 「マジでどこにいったのよあの人……」

 玲奈がため息交じりに言った。

 失踪――ふいに夢はそんなことを考えた。しかしすぐに首を振ってその考えを打ち消す。まだ貴子さんがいなくなったと決まったわけじゃない。少し辺りを散策していて、まだ戻ってきていないだけかもしれない。

 「もう少し待ってみたらどうかな。貴子さん、きっと呑気に散歩でもしているだけだよ」

 夢が空気を和ませるつもりで言うと、玲奈はすぐさま反駁した。

 「でも見て回れるところは大方探したじゃない。あと散歩できる所っていったら、もうこの会場の外しかないよ」

 「それはそうだけど……」

 「私たちに何も言わずにいなくなるなんて、ただごとじゃないよね。貴子さんってば何を考えているのやら……」

 玲奈はしかつめらしい顔で考え込んでいる。

 「とりあえず、片っ端から道行く人に声をかけてみるところからやってみなきゃ……。貴子さんは一応は自衛隊の管理下にある人間だから、もしこれで行方がわからなくなったらかなりやばい……」

 玲奈が困り果てたように言った。「まずい、まずいわ……」と、玲奈にしては珍しく弱気になっている。そしてそれが、夢に今現在起こっていることの重大さを感じさせた。

 不可解なのは、貴子さんが自分たちに何も告げずに姿をくらましたことだ。何か理由があっての行動なら納得もできるが、現状貴子さんの行動理念が全くもって不明瞭なので、自分たちには手の打ちようがない。

 「貴子さん、どうしちゃったんだろう。どこか一人だけで行きたいとこでもあったのかな……」

 玲奈が悔しそうに爪を噛みながら言った。

 どこか一人だけで行きたい場所――夢はその言葉を頭の中で反芻した。

 ライブが始まる前の貴子さんとの会話を思い出す。あれは果たして何の話題だっただろうか。細く伸びた記憶の糸を手繰り寄せようと、夢は頭をフル回転させる。

 「あっ」

 瞬間、夢の頭に何かがひらめいた。

 貴子さんが行きそうな場所。それはライブ開始前に貴子さんが会いたがっていた人を考えれば、するすると流れるように見つかった。

 「貴子さん、藤山さんに会いたいって言ってたわ……」

 『顎男』の創設メンバーの一人にして、『顎男』を『顎男』たらしめている存在。ボーカルの藤山聡。

 「玲奈がジュース会に行っている間に、貴子さんと少しお喋りしてたんだけど。その時貴子さんが言ってた。『藤山さんとは、ぜひとも生でお話してみたい』って……」

 夢は力強く言った。「貴子さんは藤山さんに会いに行った……とかは、考えられないかな?」

 玲奈は訝し気にううんと唸った。

 「藤山さんねえ……。確かに、理屈としてはあり得そうだけど……。でもだからって、こんな中途半端なタイミングで行くか?私たちには一言も告げずに、一人で勝手に行動して。せめて藤山さんに会いに行く旨を記したメモくらいは残していきそうなもんだけど……」

 玲奈は真剣な声音で言った。しかし、その反論はある程度予想済みだ。夢はことさらに熱を込めて説明を加える。

 「メモはただ単に持っていなかっただけかもしれないよ。それか、あまりに藤山さんに会いたいあまり書くのを忘れたとか。

 考えても見てよ。もし藤山さんと直接話せるチャンスがあったとして、玲奈なら待つの?連れの人たちなんかほっぽりだしてでも、絶対にチャンスをモノにしたいと思わない?」

 玲奈は「まあ、私なら待たないかもしれないけど……」と、曖昧な態度をとった。

 「貴子さんが藤山さんのファンだってのは知ってる。っていうかあの人、藤山さんのサインだって持ってるよ」

 貴子さんが藤山聡のサインを――?

 「それ、ガチ?」

 信じられなかった。藤山さんのサインなんて、全国各地に十万人単位でいるであろう『顎男』ファンからすれば、まさにキリスト教で例えるところの聖書にも等しいものだろう。

 「ガチ。こないだ見せてもらったし。ちなみにそのサインは、貴子さんが孫の友梨佳さんから貰ったものらしい。

 ていうかそもそも貴子さんが『顎男』を好きになったのは、友梨佳さんに影響されたことが大きいらしくて。もともとは友梨佳さんが好きで聞いてた『顎男』を貴子さんにも進めて、そこからどんどん沼にはまったらしいの」

 「そのサインっていうのはどんな感じの奴なの?懸賞とかで当たったとか?」

 玲奈は少し考えて、

 「いや――直筆って言ってたね。友梨佳さんは目の前でそれを書いてもらったらしい」

 夢は素直にうらやましいと思った。もし貴子さんとこの後合流出来たら、是が非でもサインを見せてもらおう。

 ――それにしても、友梨佳さんというのは一体どういう性格をしてるんだろう?藤山さんのサインなんて凄いもの入手したら、私なら毎晩枕の下に入れて眠るだろうけど。

 「友梨佳さんって、とても親孝行な人なんだねえ」

 感心した様子で夢は言った。「いや、この場合は違うか。祖母孝行……?普通そんなの、誰にも渡さないよ。ええっと玲奈は、その友梨佳さんにも会ったことあるの?」

 顔も知らない友梨佳さんへの興味から、何気なく聞いた一言だった。しかしなぜか玲奈は表情を曇らせた。

 「ちょうど一年位前まではね。頻繁に研究所にも遊びに来てて、私にもよくしてくれた。だけど最近はぱたりと来るのやめちゃったんだよね……」

 「だったらここ一年はほぼ会ってないってこと?友梨佳さん、どうかしちゃったの?」

 玲奈は頬をポリポリ掻きながら、「一年はいろいろなことがあったからね」と声のトーンを落とした。

 「貴子さんがふさぎ込むようになったって話はさっきしたでしょ?それも一年前からなんだよね。それから、もともとは貴子さんはギターの山本さんを押してたんだけど、押しを藤山さんに変えたのも一年前。よく貴子さんと一緒に研究所に来ていた友梨佳さんがこなくなったもの一年前」

 それから、と玲奈は続けた。

 「貴子さんの『エゴイズムヘイト』の力が弱まり始めたのも、一年前……」

 玲奈は沈痛な表情をして言った。

 「――友梨佳さんが研究所に来なくなった理由、貴子さんには聞いたことあるの?」

 夢が静かに聞いた。玲奈は力なく首を横に振って否定する。

 「聞かないわ。聞けるわけがないじゃない。だって貴子さんは、笑わなくなるわ、『エゴイズムヘイト』の力は失うわ、おまけに物凄く気に入っていた山本さんを応援するのをやめて藤山さんに乗り換えるわで、もう何が何だか意味不明な状況だったんだもの。この上友梨佳さんのことなんて尋ねたら――貴子さん、爆発しちゃうかもしれないじゃん。

 『エゴイズムヘイト』の能力の発動には、その時の能力者の精神状態が大きくかかわっているの。そして得てして『エゴイズムヘイト』の力が不安定になるのは――つまり急に力が増幅したり、逆に貴子さんのように極限まで力が弱まったりするのは、能力者のメンタルがズタズタの時。そんな状態でさらに貴子さんに負荷をかけたら――貴子さんが、可哀そうじゃない」

 「つまり玲奈は――」

 玲奈が考えていることがわかってしまった。

 「――玲奈は、友梨佳さんは死んだって――そう思ってるんだね」

 さっと玲奈の顔から血の気が引いた。そして、ややムキになったように言った。

 「――ええ、そうよ。考えたくもないけど――貴子さんが陥っていた惨状を見れば、否でもその考えにはたどり着いちゃう。

 でも、死んだとまでは断言できないけどね。重い病気にかかっちゃって、そのせいで病院を出られなくなっちゃったとかいう可能性もある。でもいずれにしても、友梨佳さんの身に何か重大事件が起こったんだと思う」

 夢は少しの間言葉を失った。

 非常に孫思いだった貴子さん。そんな貴子さんが、溺愛していた孫を何らの事情で失ったとしたら?

 玲奈が何点か上げていた、一年前から貴子さんに怒っている変化。その説明がつくような気がする。

 「何かあるんだね。一年前に」

 確信を持った夢の言い方に、玲奈は渋々といった様子でうなずいた。

 「夢、行ってみようか。藤山さんの所に」

 玲奈がぽつりと呟くように言った。さらに、

 「貴子さんが藤山さんに異常に執着しているのなら、藤山さんの居所を探ったら、その延長線上に貴子さんが見つかるかもしれない。――証拠は何もないけどね」

 と続ける。

 「確かに、根拠は何一つないよね。でもやっぱり、藤山さんと貴子さんの間には何か裏があるんじゃないかな。何か怪しいもん!」 夢は目を輝かせて言った。「結局違和感だよりなんだよなあ」と玲奈がやるせなさそうにする。

 「それに他に探すところもないじゃん。目ぼしい場所はあらかた見て回ったし、後行ってない所と言ったら、もう*あそこ*くらいしか残ってないと思うんだけど」

 夢が熱弁する。なんだか楽しくなってきた。こういう会話、推理小説とかでべらぼうに頭の切れる探偵がしていそうだ。なんだか自分が知的な存在になったような気がしてワクワクする。

 「あそこか。でも色んな意味でやばくない?どうせ一般人は立ち入り禁止だろうしさ。確実にいるかもわからない貴子さん一人を追って、あそこに踏み込むのはリスク高すぎるよ……」

 これから二人が向かおうとしている場所を想像して、玲奈は弱気そうだ。夢はここは勢いで制すことにした。

 「大丈夫。行くだけ行ってみて、困ったら後日また謝ればいいよ。――ほら玲奈、行くよ。善は急げ」

 そう言って夢は玲奈の手を握った。そのまま駆け出してしまった夢に、玲奈は心底不安そうな表情で引っ張られていく。

 たがぐんぐんとスピードを増してフードコートを横切っていた夢は、突然速度を落として急停止した。そして振り向きざまに玲奈に聞いた。

 「――ところで藤山さんの控室ってどこにあるんだっけ?」


 「あった……」

 肩で息をしながら夢は立て看板に近づいた。看板には「現在地」と記された赤い丸と、施設内の簡単な地図が描かれている。

 少し遅れて玲奈も追いついた。こちらも同じく喘ぐように呼吸をしながら、よろけた足で夢のそばに寄った。

 「控室……控室…」

 夢がぶつぶつと呟きながら看板を舐めるように見る。「ライブ会場」という角ばった字体のすぐそばに「アーティスト用個室」という丸っこいフォントと、四角い建物のイラストを発見した。

 「ライブ会場の隣……」

 夢は独り言ちて、心の中で舌打ちした。ライブ会場ならば、つい今さっきまでいたフードコートから徒歩五分。わざわざ地図を探してここまで走ってくる必要はなかったわけだ。

 「噓でしょ……ここから走ってきた道を引き返すの……?」

 玲奈が顔面蒼白になった。「しかたない、行くしかないわ」と言って、夢はすぐさま駆け足になる。

 二人は走ってきた道を黙々と引き返した。途中で何度も心が折れそうになったが、痙攣する脚に鞭打って走り続ける。

 ライブ会場まで戻ってきたあたりで、とうとう二人の体力に限界が訪れた。夢は近くに置いてあったベンチに倒れこんで、呼吸を整えることに集中する。十秒遅れくらいで玲奈の荒い呼吸音が聞こえてきた。その音を聞いているだけで、玲奈の辛さの程がよくわかる。

 地図によれば、アーティスト用控室にはライブ会場の横の小道を行けば辿り着くようだった。よし、あと少し頑張ろうと気合を入れた夢は、建物の陰でうずくまっている玲奈をその目にとらえた。

 「玲奈。行こうっ」

 夢は空元気を出して呼びかけた。だがしかし、玲奈は返事すらしなかった。大げさに肩を上下させながら地面を見つめている。

 「玲奈……」

 恐る恐る玲奈に近づいて、その肩に手を置く。玲奈の首筋は汗がびっしょりだった。頬は桜色に上気しているが、首やスカートの端から除く両足は幽霊みたいに青白い。

 ふいに玲奈がせき込んだ。インフルエンザをさらに数段こじらせたみたいなひどい咳き込み具合だった。夢は焦って玲奈の肩を揺さぶった。

 「玲奈!どうしたの!」

 「ごめん……」

 玲奈が蚊の鳴くような声を出した。焦点の定まっていない目を夢に向ける。

 「私は置いといていいから。夢は先に行って……

 「どうして!二人で行くんでしょっ!」

 「私は……休憩したいな。運動不足なのに無理しすぎた……」

 その時、夢はハッと気づいた。

 「玲奈、もしかしてだけど、病気なの……?」

 玲奈が重い病気を患っており、そのせいで学校にすら行けていないことは知っている。

 玲奈は渋い顔をしながら「そうかも」と言った。

 「実は私、あんまり運動とかもしちゃいけないっぽいんだよね……。研究所から出るにもいちいち許可とらないといけないくらいだし。毎月の運動量自体が制限されているんだよ」

 玲奈はいくぶん血の色が薄くなった顔の汗を、服の袖で拭った。たったそれだけの小さな動作なのに、玲奈は手を小刻みに震えさせながらだるそうにしていた。

 「だからごめん、私はここまで。あとは――夢に任せた」

 夢は下唇をかんだ。情けなさがこみ上げてくる。どうして自分は、玲奈が死に至る病を抱えていると知っていたのに、玲奈の体調を気遣わなかったのか。とうとう玲奈が疲労困憊してその場から動けなくなるまで、自分は一瞬たりとも玲奈の病気のことなど思い出さなかった。

 夢は屈んで玲奈と視線の高さを合わせた。

 「いや、それは無理だよ……。玲奈を残しては行けない。玲奈をどこか、休めるところに連れていかないと」

 夢が罪悪感にかられながら声をかけると、玲奈は無理やり口角を上げてぎこちない笑顔を作った。

 「ダメ。夢は先に行かないと。貴子さんを連れて戻るのは、夢の立派な役目だよ」

 「今はそんなことどうでもいいじゃない!」

 夢が声を荒げた。傍から見れば玲奈は自力で立ち上がることすらできない重病人だ。どうして自分が、玲奈を置き去って先に進めようか。

 「貴子さんなんて、ほっといてもいいじゃない…。それより今は玲奈が心配。私が悪いと思うの。少しでも玲奈のことを思いやる気持ちがあったら、玲奈は今頃こんな風にはなっていなかったと思うから。私、一度決めたことには後先考えず突っ走っちゃうタイプだから――」

 「ダメだって。夢はさっさと貴子さんを追いかけないと」

 玲奈の頑なな態度に、夢は少しひるんだ。その隙をつくようにして玲奈は言った。

 「私は大丈夫。いくら重い病気といったって、走りすぎたくらいで死ぬわけじゃあるまいし。ここで休憩して、薬を飲んだら大分よくなると思う。

 それに――走りながら必死に考えたけど、貴子さんは正直怪しいと思う。孫の友梨佳さん関係で何かあったんだろうけど――」

 そこで玲奈は苦しそうに顔をゆがめて、わき腹を手で押さえた。

 「――いずれにせよ、貴子さんは絶対に連れて帰んないといけない。あれでも元『エゴイズムヘイト』能力者なわけだし、連れて帰らなかったら最後、軍事機密を保持する名目で彼女が自衛隊にターゲットにされる可能性もある」

 夢は「でも……」と、かぼそい抗議の声を上げた。

 「自衛隊にターゲットされたら最後、貴子さんはおそらく普通に生きられなくなる。一生を自衛隊員に監視されたり、手荒な扱いを受けることになる。だって自衛隊に敵視されるということは、国家反逆者と同レベルの扱いをされるというのと一緒だから」

 どうしていいのかわからない。もちろん、自分にとっての最優先は玲奈だ。玲奈さえ事なきを得れば、最悪貴子さんが今どうなっていようと、自分には関係ないと思える。しかし――

 「貴子さん、そんなにヤバイ状況なの?」

 夢が切羽詰まった口調で聞いた。

 「時間が経つにつれてどんどん状況は悪くなってる。本来『エゴイズムヘイト』っていうのは、このライブ会場みたいな人込みには来ちゃいけないのよ。夢は若いから特例で許されているだけ。もし仮に何らかの原因で、貴子さんの中に眠っている『エゴイズムヘイト』の力が呼び起されたら、取り返しのつかない惨状になる。

 お願い。夢、行って。私は大丈夫だから。それよりも貴子さんを探し出して」

 迷う。もしここにうずくまっているのが玲奈ではなくて、自分とは何の接点もない一般人だったら、自分は迷いなくその人を助けただろう。

 なぜならば、その人は自分にとっての友人ではないからだ。友人ではない人からの頼みならば、即座に切って捨てられる。

 「大丈夫だよ、夢」

 頭を抱えて悩んでいた夢の背中に、そっと背中を押してくれる春風のように、玲奈の声が届いた。

 「夢ならなんとかなるって。私を信用して。例え貴子さんがどこにいようと、どんな状況になっていようと、夢なら必ず貴子さんを連れ戻せる」

 ふと見ると、玲奈はその大きな瞳でまっすぐ夢を射抜いていた。夢はドキッとして、決まりの悪い思いで目をそらす。

 「私――できるかな、一人で。玲奈もいないのに」

 夢は言った。

 「できる。なぜなら夢は――」

 玲奈はそこで、少しためを作った。なんだろう、と夢が疑問に思う。

 「夢は、私のたった一人の友達だから」

 夢はハッと息をのんだ。玲奈が恥ずかしそうに照れ笑いする。

 「いやあ、こんなセリフを言える日が来るなんてねっ!私、小さい時から研究所に閉じ込められてたから、今これといった友達ができたことがないんだよね」

 だから、夢のことは信頼してる。行って――

 玲奈は夢に向けてグーに握った手を伸ばしてきた。「ほら、タッチしよう」

 夢は一瞬は躊躇った。やっぱり玲奈を置いていくことはできない。玲奈が私を信頼してくれているのは嬉しいが、それが玲奈を見捨てる理由にはならない。

 「私、できないよ……」

 「いいやできる。夢は私が認めた人だもの」

 玲奈の視線がまっすぐに夢を射抜く。玲奈の全てを見透かすような奇麗な視線を受けていると、強情に意見を曲げない自分が悪く思えてくるから不思議だ。

 「――わかった。行ってみる」

 夢はついに決心した。あまり自信はないが、貴子さんの居場所を突き止めることに全力を注ぐ。それが玲奈に置いていく自分の責務だと思った。

 そして夢は玲奈と同じくグーを作って、こぶしの先をお互いに軽く小突いた。


 ライブ会場に敷設された、横幅十メートル、奥行き五十メートルほどの建物が控室となっていた。

 夢は玲奈と別れた地点から最短距離にあった裏口からその建物に入った。

 廊下の床にはカーペットが敷かれていた。カーペットには土だったり埃だったりと、ありとあらゆる汚れが付着していた。壁紙はは破れてコンクリートの壁が剝き出しになっていた。夢は不吉な予感を覚えた。

 夢は左右に並んでいるドアを一つ一つ確認して、中に人がいないかを確かめた。そして裏口から数えて三つ目のドアの前で立ち止まった。

 その部屋は他の一人用の部屋とは違う、十人ほどが入っても十分スペースが確保できるであろう大部屋だった。そしておかしなことに、ほかの部屋は全て室内の電気がついていたが、その部屋だけは中が真っ暗なのだった。

 夢は意を決してドアノブを掴むと、ゆっくりと右にひねった。

 ドアに鍵はかかっていなかった。ドアを少しだけ開けて中を覗き見る。

 廊下の蛍光灯の光が注ぎ込まれる。暗闇の中で、わずかに金属のような物がキラリと光った。

 目を凝らして見ると――その輝きは、車いすのホイールに光が反射したものだった。

 「貴子さん……?います……?」

 どうやら貴子さんは無事に見つかったようだ。それに安堵してドアを完全に開き、ドアのそばにあった電気のスイッチを手探りでつける。

 パッと部屋が明るくなる。まず目に入ったのは貴子さんだ。自分に背を向けるような形で、車いすにちょこんと座っている。貴子さんは夢が部屋に入っても、それに気づいていないかのように部屋の奥を向いていた。

 「貴子さん……?」

 夢は貴子さんが目を止めている先を辿って、息をのんだ。

 そこにいたのは、床に寝転がり、左腕にできた生々しい傷を抑えている男だった。傷からは血がだらだらと流れ落ち、男のズボンに容赦なく滴っている。

 突然の光景に呆気にとられる。

 「大丈夫ですかっ!」

 大声を張り上げ、無我夢中で男に駆け寄る。ジャケットを羽織った男の肩をゆすると、男は苦しそうにうめき声をあげた。そこで改めて男の顔を見た夢は、男が何者であるかを知った。

 「藤山さん……?」

 「顎男」のカリスマ的ボーカル、藤山。鮮血を滴らせながら苦痛に顔をゆがめているその人は、夢が対面することを切望していた張本人だった。

 「貴子さんっ」

 夢は威嚇するような声を出した。

 「これ、どういうことですかっ!」

 慌ててポケットからハンカチを出して藤山さんの傷にあてる。傷は深かった。今すぐにでも救急車を呼んだ方がいいだろう。

 「当然の報いだよ」

 貴子さんは息を堰切らせながら言った。その時になって初めて、夢は貴子さんがやたらと息を切らせていることに気づいた。

 「私には友梨佳という孫がいる話はしただろう。でも、彼女はもうこの世にはいないんだよ」

 これまで貴子さんが発してきた声音のどれとも違う、恐ろしい話し方だった。くたばり損ないのゾンビのようなかすれた声だ。

 「理由は簡単だ………。私の娘は、そこに寝転がっている男に殺されたんだ」

 「なっ……」

 ただでさえ情報の洪水にさらされていた頭に、さらなる爆弾が放り込まれる。「藤山さんが?」と疑問を呟いた。

 「どうして?藤山さんが何をしたの?」

 夢は貴子さんと藤山さんの両方に向けて言った。しかし、藤山さんは荒い呼吸をするばかりで埒が開かず、貴子さんはその疑問には答えるそぶりがなかった。

 「この傷も、貴子さんがつけたってこと?」

 貴子さんは「ああ。それも全て、私の『エゴイズムヘイト』でつけた」と白状した。

 貴子さんは「エゴイズムヘイト」の力を失っていたのではないの?――咄嗟にそう思った。しかし、それを聞くことは叶わなかった。

 彼女はは突如として両腕を前に伸ばして、ストーブの熱に当たるときのような姿勢を作った。

 「ああっ!」

 苦痛に悲鳴を上げたのは藤山さんだった。見れば、腕の傷が少しずつ裂けていっている。それはまるで、肉食獣の鉤づめで腕を引っかかれているかのように。

 「私の人生に楽しみなどあるものか」

 獣のような声で高子さんが言った。

 「聞きたくもない藤山の音楽を聴いていたのも、苦痛で苦痛で仕方なかった。ちっともセンスが良いとは思えない間抜けな『顎男』楽曲を聞いていたのも、全て藤山への憎悪を高めるためだけだ」

 「どうしてっ!じゃあ玲奈に『顎男』を教えたのはなんだったの!あなたの残酷な目的のために玲奈を利用したのっ?」

 夢が必死になって叫ぶ。

 「人生に楽しみなどないって言ってるけどさ、今日は楽しくなかったの?ライブを最高に楽しむために一緒にCD聞いて予習して、一緒に『顎男』のライブ見て」

 藤山さんの腕からどくどくと血が流れ続けている。これが人の運命を捻じ曲げてしまう力『エゴイズムヘイト』の本領なのか。背筋に寒気が走る。

 なんとかこの人を助けなくちゃ。そして――高子さんを止めないと。

 夢は威勢良く立ち上がった。荒い呼吸を繰り返す貴子さんと対峙する。

 「私は楽しかったよ。何よりも、玲奈と貴子さんと会えたってことが嬉しい。私、音楽を通してつながった友達とこんな風に遊んだの、生まれて初めてだからさ……」

 じりじりと高子山への距離を詰める。貴子さんは血走った目で「お前に何がわかる……」と言った。

 玲奈に託された役目を降りるわけにはいかない。ここで引いてしまったら、きっと玲奈に顔向けできない惨状になってしまうだろう。

 「貴子さんがどういう気持ちでいるのか、私には全くわからない……。でも、『エゴイズムヘイト』の力をそんな風に使うのが悪いことだっていうことくらいは私にもわかる」

 辛抱強く呼びかける。これで貴子さんが少しでも心を開いてくれれば、対話に持ち込めるかもしれない。

 「あなたも私の言うことを聞かないのね――里奈と一緒」

 しかし、夢のそんな甘い期待は即座に打ち砕かれた。貴子さんは氷のような目つきをしたかと思うと、藤山さんに向けて広げていた掌を今度は夢に向けた。

 夢はまず足に違和感を覚えた。足の表皮を虫が張っているかのような、ムズムズした感覚に襲われる。たまらず太もものあたりを手で押さえる。

 「邪魔するなら、あなたも同罪よ……」

 そこから違和感は五秒持たずに痛みへと変わった。両足の太ももが針を刺されているかのように痛む。立っていられなくてその場にへたり込み、両足を抱えて転がりまわる。

 「痛っ……」

 たまらず声を上げる。痛みは一秒ごとに倍増する勢いだった。熱せられた鉄を押し付けられたような激痛が、足を中心に広がっている。

 足を抑えていた夢の手に、何かぬるっとした物の感触があった。やっとの思いで足を見ると、ズボンから真っ黒な血液がにじみ出ていた。

 藤山さんと同じように、自分も裂傷を喰らわされたのか。灼熱の痛みとは裏腹に、夢はどこか冷静になって自分のことを見ていた。

 「貴子さん……」

 夢は絞り出すようにして声を出した。

 「もう、やめて……」

 鬼の形相となった貴子さんは、肩で大きく息をしながら、自分と藤山さんを痛めつけることだけに専念していた。

 その時、貴子さんの背後のドアから黒い影が飛びだしてきた。夢がその黒い影の正体を、お茶のペットボトルだと見破るとほぼ同時に、そのペットボトルは貴子さんの後頭部を直撃した。

 「この野郎っ!」

 男勝りの怒鳴り声とともに、次は人の形をしたシルエットが部屋に突入した。その人は車いすに乗った貴子さんにタックルをかまして転倒させると、揉みくちゃになりながらも貴子さんの両手を封じた。

 「夢、大丈夫っ」

 ひっくり返された昆虫のように暴れる貴子さんと格闘しながら大声をしている。

 「玲奈っ!来てくれたの?」

 玲奈は貴子さんと組み合った状態からひょろりと抜け出し立ち上がった。そして、タックルされた勢いで床に激しく打ち付けられ、いまだ身動きとれずにいる貴子さんを見下ろして怒鳴った。

 「貴子さん、全部調べさせてもらったわ!あなたの最愛の孫だった友梨佳さんが、そこにいる藤山に誑かされた挙句に自殺したこと……」

 貴子さんはギラギラと凶暴に動いている目を見開いた。

 「どうして、そのことを……」

 「兄に調べてもらった。藤山の大ファンであった友梨佳さんは、藤山さんに熱心にアピールして個人的な関係を持つようになった。だけどその関係は、藤山さんからしてみればあくまでも遊びにすぎなかった――

 藤山は友梨佳さんを捨てた。『俺にはお前以外にもたくさん女がいる』とバラすという、最悪な方法で。藤山さんに心酔しきっていた友梨佳さんはそれを思い悩んだ挙句、自ら命を絶ってしまった――これが友梨佳さんの死の真相。

 貴子さんが持っていた藤山のサインというのは、藤山が友梨佳さんと仲が良かった時に書いてやったもの。それでつじつまが合う。

 つまりあなたの動機は、孫をたぶらかしたいけ好かないバンドを殺して復讐を果たすこと。完全なる私怨だわ」

 夢は固まったまま玲奈の話に聞き入っていた。貴子さんについて明かされた数々の真相。そのどれもが夢には衝撃的だった。

 あんなに柔和な笑みを浮かべていた貴子さんは、胸の中にこんなにどす黒い物を抱えていたのか。玲奈の語る貴子さんと、自分が貴子さんに抱いていた印象とが乖離しすぎている。

 「それからもう一つ、あなたに言いたいことがある」

 玲奈は嫌悪感をむき出しにした顔で言った。

 「あなたが『エゴイズムヘイトの力を失った』と吹聴して、私たちを騙していたこと」

 じんじんと太ももが痛む。血がべっとりと、パンに塗られたバターのように広がっている。しかしバターの食欲を誘う香りとは違い、血が放つのは不快な生臭さだけだ。

 「あなたのエゴイズムヘイトが凄く弱っているのは本当でしょうね。本来エゴイズムヘイトの力が全開で発揮されたなら、被害はこんな程度じゃ済まなかったでしょうから。――こんなただの一般人を痛めつけるような、ちんけな事件ではね」

 玲奈は貴子さんを睨みつけたまま「夢」と言った。

 「見たところ足を傷つけられているみたいだけど、それ以外に何かされた?」

 夢は「ううん」と、自分の無事をアピールした。「足から血が出てるけど、そこ以外は平気」

 そう、と玲奈が胸をなでおろした。

 「貴子さんが弱っててよかった。もし貴子さんが全盛期の力を保持したままだったら、被害は多分――このライブ会場を丸ごと消し飛ばしちゃうくらいだったから。おそらく数千人単位で犠牲が出てた」

 「なっ……」

 夢が驚いた声を出した。玲奈は「本当よ。だからこそ、自衛隊はエゴイズムヘイトの研究に躍起になってるの。その力はある意味では核兵器をもしのぐんだから」

 さて、貴子さん――玲奈は毅然として言った。

 「私は先ほど、携帯で自衛隊の出動を要請しました。今の衰弱しきったあなたなら捕まえるくらいわけないわ。もうこの事件はそれでお終いになる。

 藤山さんが取り返しようのない罪を犯したのは事実。自衛隊の情報網を使って調べてもらったから間違いない。最愛の友梨佳さんを誑かされた挙句失ってしまった気持ちは、私にもよくわかる。復讐したくなるのも理解できる。でも、そこで実際に暴力に訴えるのは間違ってる。あなたがやらなくたって、いずれは藤山さんのような人は裁かれてしまうわ」

 玲奈の語り口がどんどん感情的になっている。夢はその玲奈のことを固唾をのんで見守った。

 「あなたは犯罪者なの。エゴイズムヘイトっていう超常現象みたいな力を利用して他人を傷つけたあくどい人。だから私は同情なんてしない」

 「だ、だからなんだって言うのよ……。藤山が必ず罰を受ける保証なんてないじゃない。エゴイズムヘイトの力だって、私は欲しくて手に入れたものじゃないのに……」

 貴子さんが掠れた声を出した。夢はとてもじゃないが、床に転がっている貴子さんがそんなに危険な人物には見えなかった。

 「行こう、夢」

 玲奈が貴子さんを見下ろしながら言った。

 「……うん、行くけど……。藤山さんと貴子さんはどうするの?」

 「藤山はいずれ自衛隊の誰かが回収する予定。貴子さんは――」

 玲奈は人形のように床に転がった貴子さんを一瞥した。

 「ほら、もう動く気力なんてないでしょう。放っておいても大丈夫。それより、今は私たちのほうが場を離れないと危ない」

 「で、でも……」

 玲奈の言い方はまるで、貴子さんのことを極悪人だと決めつけているみたいだ。犯罪者という印象的な単語を使ったりして貴子さんの悪さのみを際立たせている。

 たった数時間前まで一緒にライブ鑑賞をしていた人に、その態度は少し冷たすぎるんじゃないか。夢はそう言おうとした。

 「玲奈、あのさ……」

 そこまでを口に出した。けれども、玲奈の真一文字にひき無ずんだ唇を見ていると、そのような気持ちは失せていった。

 「私だって、辛いよ……。でも、今はこうするしかない」

 玲奈が独り言のようにしてつぶやいた。玲奈はどことなく陰った目つきをして、物悲しげにうつむいていた。夢はもうそれ以上何も言わず、黙って玲奈の背後を付いていった。

 玲奈だって苦しかったのだ。苦しくないはずがない。玲奈が貴子さんと過ごした時間は自分とは比べ物にならないのだから。

 「夢さん」

 玲奈と並んで部屋から出ようとした際に、貴子さんがか細い声を出した。夢はとっさに立ち止まった。

 「あなたは、私みたいにならないでね。エゴイズムヘイトの力に縛られるのはもうたくさん。その力は玲奈さんがさんざん説明した通り、半端なく危険な代物だから、自衛隊での研究生活にはかなりの不自由があるのよ……。それが夢さんにとって、負担にならないと良いんだけどね」

 「夢、聞いちゃだめっ」

 玲奈が夢の袖を引っ張った。「早く行くよっ」

 「少なくとも、玲奈さんはそのことを気に病んでるみたいよ。あなたがエゴイズムヘイトの強大な能力と研究に縛られて普通の学校生活が送れずにいることを」

 貴子さんの喋りは止まらなかった。玲奈の顔がみるみる赤くなっていくのが夢には謎だった。

 「――玲奈さん。あなた、本当に夢さんにその負担をかけっぱなしでいいと思ってるの?昔グチグチ言ってたわよね。『自分の病気の研究に夢の時間が取られるのが辛い』って」

 「なっ……」

 玲奈は絶句した風だった。

 「か、関係ないでしょうそんなこと……」

 はぐらかすような玲奈の声音に、夢は首をひねった。

 「ねえ、それって何の話――?」

 「いい、夢は聞かなくて!」

 玲奈はぴしゃりと言いつけた。夢は玲奈がこんな感情的になることが解せなくて、「ねえ、なんでそんな言い方するの?」と重ねて聞いた。

 「簡単に言えば、玲奈さんは夢さんが平日休日問わずエゴイズムヘイト研究に駆り出されているのに罪悪感をもっているのです。――ですよね、玲奈さん?」

 玲奈はその悪意に満ちた質問には答えなかった。「夢、何してるの!こんな奴の言うことは聞くだけ損だからさっさと――」と言って夢の服の袖を引っ張る。

 しかし、夢はその玲奈の手を振り払った。そして、精一杯の疑惑と困惑の混ざったまなざしを玲奈に投げかけた。

 玲奈は貴子さんのことを無視こそすれど、否定は一度たりともしていない。それが不思議だった。貴子さんが窮鼠猫を噛むとばかりにでまかせを並べているのなら、そんなことはありませんと一言否定すればお終いのはずなのに。

 それをしないということは――玲奈は貴子さんの言う通り、私に対して罪悪感があるのだろうか。私のことを「エゴイズムヘイト研究に付き合わされている可哀そうな人」とでも認識しているのだろうか。

 「玲奈さん、あくまで善意からお伝えしますが、あなたのその行為は矛盾をはらんでいますよ」

 玲奈の猛烈なタックルを食らって弱っているはず貴子さんは、そんな弱みを一切感じさせない淡々とした口調で語っていた。

 「夢さんにずっと罪悪感を覚えつつも、それを夢さんに口に出したことも、夢さんに感謝したこともない。少なくとも私はそのような様子は全く見ていない。これはおかしいじゃありませんか」

 玲奈は悔しそうに唇をかんで言った。

 「そんなの……いちいちお互いのやることに感謝して『ありがとう』みたいに言う関係なんて、友達とは言えないじゃない!そんなの対等な関係とは言えないっ」

 最後のほうはほとんど怒鳴り声にも近かった。そしてその怒鳴り声が、くしくも夢の予想を現実にしてしまった。

 やはり玲奈は自分のことを、一人の人間としてではなく、あくまでエゴイズムヘイトありきで見ていたのだ。

 今まで私は、玲奈のことは一人の友人として見ているつもりだった。自衛隊の施設から出られなかったりだとか、私とはちょっと住む世界が違うくらいの美人だとか、そういう所謂「普通でない」要素はいっぱいあったけれど、そういうのもひっくるめて「佐々木玲奈」という人間と接しているつもりだった。

 だけど、玲奈は違う。玲奈にとって私は「エゴイズムヘイト研究に付き合わされていて、日常生活がそれに圧迫されている人」なんだ。

 貴子さんが甲高く話し続ける。

 「私は――そんなあなたが死ぬほど嫌いでしたよ。自分一人では何にもできないくせに、いっちょ前に『対等な友人関係』なんてものを気にして。だいたいあなたは許可がなければ外出すらできないではないですか。生活が規則でがんじがらめにされたあなたは、対等な友人関係なんてのは望むべくもない――」

 「黙って!」

 玲奈が金切り声を挙げた。肩を怒りに震わせている。

 「私はそんな――矛盾したあなたが―腹立たしくてたまりませんでした。無力な自分を棚に上げて、唯一の研究所の外の友人である夢さんにすがって――」

 貴子さんの怒りのボルテージが上がっている。しわくちゃな顔に朱が注がれていて、両の掌を広げて玲奈に向けて突き出した。

 その仕草で夢は、これから起こるだろう惨劇を察知した。貴子さんは玲奈に怒りを向けてヘイトすることで、自身の能力を発動させようとしている――?

 「玲奈、乗っちゃだめっ!」

 直立不動の玲奈の肩に手を置く。すると玲奈は蚊の鳴くような声で「ごめん」と言った。

 「ごめんって、何が……?」

 「私がわがままだってことくらい、ちゃんとわかってるよ」

 そう言って玲奈は、自嘲のような笑みを浮かべながら長い髪をかき上げた。ロングヘアーが華麗に宙を舞う。

 「前にも言ったと思うけど、私ってホント友達いないからさ。私の『いつか友達が出来たらこんなことしたいな』っていう希望を、夢に押し付けちゃってた所があるの。

 夢に罪悪感があるってのも――本当。夢はエゴイズムヘイトがあるせいで研究所通いだから、私みたいな不治の病を持つ人にとっては希望の光でも、夢にとってはたまったもんじゃないよね」

 夢は必死に否定した。

 「そんなことないよ。私たちはエゴイズムヘイトなんて関係ない。だって私たちは――友達でしょう?」

 とにかく玲奈を安心させたい一心だ。広げた手を自分の胸のあたりにぺたりとつけて訴える。

 「――夢がそう言ってくれると嬉しいな。さっきはちょっと感情が高ぶっちゃったけど、実は私、結構冷静なんだよね。夢のおかげで目が覚めた。

 ほら貴子さん、これで満足?私も夢も心の内は話したし、これであなたが怒る理由はどこにもないけど?」

 貴子さんは心底悔しそうに「くそっ」と吐き捨てた。そしておもむろに腕を下すと、「もう、終わりか……」と独り言ちたきり動かなくなった。

 「貴子さん、悪いけど私たちはもうこれでさよならだから」

 玲奈の冷たい覚悟が感じられる一声で、貴子さんは完全に沈黙した。その顔にもはや生気はなく、惨めに床に這いつくばったまま微動だにしない。

 これで――貴子さんと藤山さんを巡る一連の騒動は完結したのか。

 貴子さんの暴走は止まったし、。もうこれ以上波乱の種はないだろう。夢は安心した気分になった。

 しかし、事態は思わぬ展開に転がっていった。

 ふと夢が部屋の壁際を見ると、藤山さんが左腕からだらだらと血を流しながら立ち上がっていた。その異様な姿は人間というより、死肉を食らって生きる妖怪のようだった。

 「くそがっ!」

 藤山さんはけたたましい声を上げて走り出した。そして、一瞬にして横向きに寝転がっている貴子さんに詰め寄った。夢と玲奈が止める間もなく、藤山さんは貴子さんを無理やり仰向けにさせると、その上に馬乗りになった。

 「くそがっ!お前は一体何様のつもりなんだよっ!」

 藤山さんは完全に我を失っていた。

 「俺のことをさんざんいたぶりやがっ。お前のせいで、ライブも俺のキャリアも台無しじゃねえか!」

 夢と玲奈が見ている前で――藤山さんは貴子さんの顔を殴りだした。貴子さんは特に抵抗を示すこともなく、振り下ろされるこぶしを淡々と受け続けていた。

 「だいたい、他のメンバーはどうしたんだよ。敦は?俊は?お前はあいつらをどこにやったんだよっ。答えろっ!」

 「やめてよっ藤山さんっ」

 夢が叫んで、藤山さんの肩をつかんで貴子さんから引き離そうとした。だがしかし、成人男性の筋力に敵うわけがない。せいぜい藤山さんの注意を惹く程度が限界だ。

 「玲奈、こっちに来て!貴子さんを引っ張り出してっ」

 凍り付いたように固まっていた玲奈が、夢のその一言をきっかけに動き出した。「やめなさいっ!」と叫んで藤山さんに駆け寄る。二人がかりで藤山さんの背中に縋り付いて、どうにか動きを止めようとする。

 藤山さんはそんな二人のことなど意に介さず、怒りの鉾の赴くままに貴子さんを殴打し続けた。

 貴子さんがとうとう吹き出した。霧吹きの水のようにまきあがった鮮血が、上にいた藤山さんの顔に吹きかかる。

 「このっ――」

 玲奈が藤山さんの右腹に強烈なキックをお見舞いした。うっと呻いて怯んだ隙に、夢が貴子さんを引っ張り出す。貴子さんをずるずると引きずりながら藤山さんとの距離を離す。

 しかし藤山さんは再度立ち上がって、あっという間に夢との距離を詰めた。夢の顔が恐怖で引き攣る。

 そして藤山は、夢の頬を乱暴にぶった。

 「痛っ」

 たまらず打たれた方の頬を抑えると、今度はお腹に蹴りを食らった。あまりの痛みに数歩後ろによろめく。

 「夢っ!」

 玲奈が叫んでいる。その顔は冷や汗でびっしょりだった。

 鉄の塊をぶつけられたような衝撃が頭部に走る。お次は頭を殴られたみたいだ。藤山さんはあまりに節操のない拳を振り回し続けていた。

 痛い、痛い、痛い。頭の芯まで衝撃が響いている。

 だんだんと意識が遠くなる。霞む視界の中にぼんやりと玲奈と藤山さんのシルエットを捉えた。

 連続してショックを食らいすぎたせいで、脳みそがおかしくなったのかもしれない。プロボクサーが倒れる瞬間ってこんな感じなのかな。外の世界が薄い銀幕で隔てられたように霞んでいる。

 藤山さんのパンチがもろに顔面にヒットし、鼻が折り紙のようにクシャっと丸まった。だらだらと鼻血が落ちてくる。


 ああ、私の人生ってこれでおしまいなのかなあ。貴子さんを守って、それで大好き(だった)藤山さんに暴行されて死ぬのなら、それはそれで充実した人生なのかもしれないな。

 音が遠くなる。

 色が遠くなる。

 光が遠くなる。

 自分を取り巻く全ての感覚が遠くなって、夢は一人静かに目を閉じた。


 ――なんだ?

 ヘリコプターのプロペラの回る音が聞こえる。うっすらと瞼を持ち上げると、藤山さんは夢の胸ぐらをつかんだまま、放心したように部屋の窓の外を見ていた。その表情は、驚愕に引きつっているようにも見えた。

 つられて窓に目をやる。窓からは陽光が差し込んでいる。

 がしゃあと、その窓が割れるとてつもない音がした。飛び散ったガラスの破片の後を追いかけるように、迷彩柄の服を着た屈強な兵士たちが突入してくる。兵士たちはみな一様に銃を構えて、夢の足元に寝転がっている貴子さんと、あまりの展開に動けず固まっている藤山さんに銃口を向けていた。

 「今よりこの場は我々が取り仕切る!各自両手を上げろ!」

 自衛隊のリーダーらしき男が胴間声を上げた。わらわらと湧いてきた兵士たちが、両手を挙げた藤山さんを取り囲み、後ろ手に手錠をはめた。残りのメンバーは貴子さんを取り囲み、貴子さんの傷の具合を確認すると、兵士二人がかりで貴子さんを担ぎ上げて外に運搬していった。それら一連の作業は流れるように行われた。

 「まさか、こんな大規模展開になるなんて……」

 玲奈が驚嘆した。

 「大丈夫ですかっ!」

 覚えのある声が聞こえた。期待に胸を膨らませて声の主を見る。そこには、エゴイズムヘイト研究の第一人者であり、夢がほのかに思いを寄せている佐々木先生が立っていた。

 「お兄ちゃん!」

 玲奈が弾んだ声を出した。白衣に身を包んだ佐々木先生は真っ先に玲奈に駆け寄ると、両腕で抱え込むようにして玲奈をのことを抱きしめた。感動の再開といったところだろうか。

 佐々木さんの腕の中で、玲奈がほろりと涙をこぼしたのが見えた。真珠のように輝く水の球が、佐々木さんの胸元でささやかに光っている。

 私も佐々木さんとお話ししたい。その思いが強くなり、千鳥足になりながらもなんとか歩き出す。

 しかし――その腕を、自衛隊員の一人が無慈悲にも捕まえた。

 「君はこっちだ」

 夢は強引に腕を引っ張られると、そのまま隊員たち数人に取り囲まれた。隊員たちは自分のことを閉じ込める壁のようだった。これだけ筋肉質な男たちに包囲されては逃げ場がない。

 「玲奈っ」

 掠れた声で叫ぶ。男たちの方の隙間から、玲奈が視線だけをこちらに向けたのが見えた。

 兵士たちは夢の両肩をがっしりとつかむと、「ご同行願います」と一言添えてから、部屋の外に向けて移動しだした。そしてそのまま夢は、男たちに引きずられるままにずるずると外に運びだされた。

 「待って――!」

 声にならない声を上げる。でも、もう遅かった。夢は藤山さんと同じようにして後ろ手に手錠をはめられた。そして、外に待機してあった自衛隊のヘリコプターの元まで連れていかれた。

 「お前はこれに乗って研究所に戻る」

 隊員の一人が告げた。そして夢はヘリコプターに乗せられた。

 私の扱いが何か変。まるで私が事件を起こした張本人みたいな――

 体全体の痛みに耐えていると、疑問がパラノイアのように膨らんでいく。

 ――佐々木先生、私のことは少しも心配していなかったな。玲奈にはあんなにすぐに駆け寄ったのに。

 玲奈と私。何が違うんだろうか。玲奈は兄妹だから、佐々木先生にあんなに良くしてもらえるのだろうか。それとも、何か別の理由があるのか――?

 もし仮に、その理由が私の持っている力「エゴイズムヘイト」なんだったら――つまり、私がエゴイズムヘイトの能力者だから、佐々木先生は私を可愛がってくれないんだとしたら。

 私はもう佐々木先生を許せないだろう。佐々木先生も結局、私のことを「莫大な力を保持している化け物」としか認識してないっていうことなんだから。


 夢がヘリコプターから降ろされたのは、自衛隊○○駐屯地の青々とした敷地内だった。

 「着いてこい」

 隊員の一人は不愛想にそれだけ言うと、夢の数歩先を歩き始めた。夢は何が何だかさっぱり事情がつかめないままくっ付いていく。夢の後ろを追うようにして、ライフル銃のような重火器を携帯した隊員が三人、警戒心をむき出しにしながら歩いてきた。

 そのまま夢が案内されたのは、自衛隊の地下研究施設の一角にある個室だった。窓は一つもなく、天井の照明がまばゆい光を放っている無骨な部屋だった。壁は真っ白にコーティングされ、角っこに置かれたベッドと本棚だけが唯一のインテリアだ。

 「入れ」

 夢が渋々中に入ると、兵隊たちはすぐさま扉の錠をおろした。ガチャリという不快な金属音がやけに耳に残る。この部屋の中では、鍵を閉める程度の音ですら壁は吸収してくれないらしかった。

 これからどうなっちゃうんだろう、私。一人になった途端に思わず弱音がこぼれる。

 貴子さん関係の処置に色々忙しいから、私はとりあえず隔離して放置ってことなのかな。どんな裏事情があるにせよ、この仕打ちはあんまりだと思う。私の基本的人権への配慮が全然足りていない。

 部屋に誰もいなくなると、孤独感と寂しさが込み上げてきて泣きたくなる。私、ずっとこのまま部屋に閉じ込められたままなのかな。

 「玲奈、早く来てよ……」

 これほど玲奈の様子が知りたいと強く思ったことはない。玲奈なら多分、私のことも容易く見つけ出して、会いに来てくれるだろう。それだけが今の希望だ。

 夢は体の疲労感をとるために、備え付きのベッドと毛布の隙間に体を挟み込んだ。ベッドは信じられないぐらいふかふかで寝心地がよかった。糸でぐいぐいと引っ張られているかのような眠気を感じながら、夢はストンと意識を失った。――明日は玲奈に会えますように。寝る直前にそう独り言ちた。

 しかし、玲奈はそれから二週間たっても一度も姿を見せなかった。


 「――やっと、やっとだ

 兄が満面に笑みを浮かべながら話しているのを、佐々木玲奈はどこかひややかに見ていた。

 「私たちの研究所職員の長年の夢。そして、お前の病気を治すたった一つの策。エゴイズムヘイトの能力者から力の一部を取り出して、それを特殊な危機で培養し、能力者以外の人間も力を使えるようにする奇跡の装置に、本日付けで試運転の許可が出たっ」

 いつもはクールなキャラで通している兄も、今日ばかりは興奮を前面に押し出している。――そのように、兄のことを何も知らない他人には見えるのだろう。

 玲奈はさして興奮できなかった。兄の「自分は興奮しているぞ」という演技や、わざとらしくやったガッツポーズなど、今日の兄はいささか白々しすぎる。

 こういう時、兄が実際に感極まっていることなどほとんどない。兄がこうして感情をあらわにするのは、あくまでも私の気持ちをハッスルさせるためなのだ。

 「お兄ちゃん。装置の話もいいんだけど、私、早く夢に会いたいの」

 言っても無駄だと思いつつ、兄がそれを許可してくれる確立に賭けて聞いてみる。

 「それはダメだ」

 案の定返事はNOだった。

 「エゴイズムヘイトの発動には脳の状態が大きく影響するんだ。今夢なんかに会って脳波の状態が乱れてみろ。お前も私もただじゃすまないぞ。――もちろん、生命にかかわる意味でだ」

 玲奈は歯噛みした。私は夢に会って、事情を説明しないといけない。

 貴子さんがバンド『顎男』のボーカルに重傷を負わせた事件は、自衛隊内で光の速さで問題となった。エゴイズムヘイトの能力者が、その能力を「意図的に」行使し一般人を傷つけるなど、まさに前代未聞の惨事だった。そのためこの件は自衛隊のエゴイズムヘイト研究施設に相当な衝撃を与えた。

 なので研究所としては、とりあえず居所が知れているエゴイズムヘイトの能力者を隔離し、外界との接触を禁止するという荒業がとられることとなった。夢がこの研究所の来客用の個室に閉じ込められたのは、それが直接的な要因である。

 「夢を閉じ込めていられるのももう限界よ。これ以上閉じ込めていたら、夢のヘイトが私たちや自衛隊に向くかもしれない」

 夢との一切の接触を禁じられ、現時点で夢がどんな気持ちでいるかわからない以上、夢が物凄く自衛隊を恨んでいる可能性だって捨てきれない。

 「それは心配いらない。夢に毎朝受けさせているストレスチェックでは、ストレスは検査の全項目において危険値域を大きく下回っている」

 兄が返すのはいつも通りの正論だ。この理屈の塊のような男は、データが三度の飯より好きなのである。

 「――玲奈。お前の病気がついに治るんだぞ。ここはもっと喜んでもいいんじゃないか?」

 佐々木は優しく語りかけた。

 「お前は何か、研究に協力してくださった能力者の皆さんに申し訳なさでもあるんじゃないだろうか。お節介は承知で忠告しておくが、お前のその認識は誤っているぞ。彼らは皆、エゴイズムヘイトの力制御できずに痛い目にあっている人たちだ。エゴイズムヘイトに関する的確な情報を提供して、力の制御の仕方を教えた我々に、感謝の気持ちを持っている人も少なくない。そういう意味ではウィンウィンの関係が築けていると思う」

 「で、その結果が貴子さんの事件ってわけ?エゴイズムヘイトの力を自由自在に制御できるようになったことが、あの惨たらしい事件につながったじゃない」

 佐々木さんは虚を突かれたように怯んだ。そのすきに畳みかける。

 「私は絶対に夢に会いたい。夢に貴子さんの二の舞を演じてほしくない。夢は誰も恨まず、誰に対しても力を発動しないでいてほしい。そのためには私が会って事情を説明しないといけないの」

 玲奈の頑なな態度を見て、兄が不本意そうに黙りこくった。


 「夢。私、ずっと言わなきゃいけなかったことがあるの」

 玲奈が夢の部屋を訪れたのは、監禁生活も二週間目を数えた日の午後だった。

 「ここにいられる時間はそう長くない。職員の人に無理を言って連れてきてもらったんだけど、夢と会うことは兄には秘密にしているから」

 二週間ぶりにあった玲奈は、相変わらず天使のように整った顔で、可愛らしいワンピースを着ていた。そんな玲奈の容姿と自分の容姿とを比べて、夢は心底うんざりした気分になった。――私の顔は監禁が長引くほどやつれているっていうのに、玲奈は部屋の外で自由にスキンケアしたりしているんだろうな。

 「私について――貴子さんが色々ばらしちゃったことがあったでしょ?私が夢に罪悪感を持っているだとかなんとか。でもあれは気にしないでいてほしいの。ほら、私たちは友達でしょ?関係は対等なはずよね」

 なぜだか判然としないが、今日は玲奈のちょっとした仕草や声音の変化がやけに鼻につく。どうしようもなく苛々してたまらない。

 「この二週間、どうして一度も部屋にこなかったの?」

 意図せずとも刺々しい声になってしまう。玲奈は焦ったような笑顔を作りながら、

 「貴子さんのあれがあったから、エゴイズムヘイトの能力者全員に対する風あたりが強くなってたの。夢だけじゃなく、施設が把握している全ての能力者が隔離措置を取られたはず。私も何度が夢に会おうとしたよ」

 「でも今日はこれたんだね」

 夢が言うと、玲奈はむっと眉をひそめた。

 玲奈への苛立ちが止まらない。玲奈の言っていることは結局ダブルスタンダードじゃないだろうか?一方では私のことを友達だのなんだの言っておきつつ、施設に「柳夢とは会うな」と命令されてしまえば、私のことなんか奇麗さっぱり忘れてぬくぬくと日々を過ごしていける。

 「それ、結局対等だとは思ってないってことじゃん!本心では私のことを化け物みたいに思ってるんでしょっ」

 夢が声を張り上げた。玲奈は今度ばかりは一歩も引かなかった。「違うって!」と、夢に負けない声量を飛ばしてくる。

 「なんでわかってくれないの!私にだっていろいろ事情があって、それで――」

 「嘘!そんなわけない。だって事実として玲奈は私の部屋に来なかったじゃない!」

 目の前が赤く染まるような怒りに翻弄されるまま、玲奈に怒号を飛ばす。すると玲奈は、翳った目を申し訳なさそうにそらした。

 「夢。私が謝って気が済むんなら謝るよ。ごめん。私も悪かった……」

 「何その言い方。しょうがなく折れてやりましたみたいな態度取られても、私としてはこれっぽっちも納得できない――」

 その時、ドア付近に立っていた玲奈の背後から白衣姿の人間が顔をのぞかせた。夢がそれに驚いて口ごもる。

 「おやこれはどうしたんですか。玲奈はどうしてここに?」

 その人は佐々木先生だった。玲奈より頭一つ分高い身長で、まるで全てを見透かしているみたいな鋭い眼光が眼鏡の奥で光っていた。

 「困りますね」

 佐々木先生は、状況を一目見ただけで煩わし気に顔をしかめた。

 「こんな風に勝手に二人だけで対面してしまっては……。大方、研究員のどなたかをうまく言いくるめたんでしょうけど……」

 夢は突然の佐々木先生の登場に毒気を抜かれてしまった。その場に黙って立ちすくむ。

 「夢さん。申し訳ありませんが、あなたは今他人と接触することが禁止されているのです。このようなことは慎んでいただきたい」

 その突き放すような声音に、夢はおずおずと反駁した。

 「いや、訪ねてきたのは玲奈からです。私は他人と接触したいと望んだわけじゃ――」

 しまった、と自分のミスに気が付いた時にはもう遅かった。夢が思わず口走ったその言葉を聞いて、玲奈は虚を突かれたように目を見開いていた。

 「いや、今のは違っ――」

 「夢さんはそう思っているそうですよ。だからほら怜奈、もう行くよ」

 夢の弁解にかぶせるようにして佐々木さんが言った。

 佐々木さんは玲奈の肩に手を置いて、玲奈を先頭にして部屋から出て行こうとしていた。

 呆然として言葉が出ない。しかしそんな中にも、「ああ、佐々木さんはこういう状況になったとき、やっぱり玲奈のほうを庇うのね」という皮肉った感想も出てくる。

 ――こんな時になってまで、自分は佐々木さんの関心を一手に注がれている玲奈を妬ましく思っているんだな。

 バタンと扉の閉じる音がした。その音はまるで、自分と玲奈との関係を断ち切るギロチンの音のように聞こえた。

 「こんなことなら――」

 夢は扉を一枚隔てた先にいるであろう玲奈に向けて叫ぶ。

 「私、エゴイズムヘイトの力なんてほしくなかった……。こんな力、綺麗さっぱり消えてしまえば良かったのに!」

 佐々木さんともちっとも仲を詰められず、親友だと認識していた玲奈とも、こんな喧嘩別れのような惨めな形になってしまった。

 やることなすことが全て上手くいかなない。夢はふらふらと部屋の真っ白な壁に近づくと、握りこぶしを振り上げて思い切り壁に叩きつけた。

 喉の奥から嗚咽が込み上げてきた。


 「――実験開始まで、5、4、3、2、1……」

 佐々木研究主任が感情を排除したロボットみたいな声を響かせている。玲奈は頭にかぶったヘッドギアと、背中に押し当てられた金属製の機械類の感触を感じながら、早く実験が終わってくれと心の中で祈っていた。

 二人がいるのは研究所の実験室の一つだった。部屋はいかにも高価そうな機械類やチューブの類が散乱していた。そしてその中を白衣を身にまとった研究員たちが忙しなく動き回っていた。

 玲奈が座っているのは、部屋の中央に位置している「エゴイズムヘイト再現装置」である。鉄製の座り心地の悪い椅子の上部は、人の頭がすっぽり隠れるような場所にヘッドギアが取り付けられていた。

 照りつけるような部屋の照明に思わず目を細める。さっきからこの部屋は、床に落ちている埃すらくっきり視界に入るほどの明るさだ。実験を妨害する類の物がすぐに見つかるようにするための工夫なのだろう。

 「実験開始。神経パルスの信号を入れろ。それから電圧も最大に」

 兄は玲奈の視界に入るところで実験の指示を出していた。兄にしては珍しく、額にうっすらと汗をかいている。

 私、こんなんでいいのかな。不意に自分を責める気持ちが生まれて不安になる。

 玲奈は自分を取り囲んでいる実験器具たちに目をやった。きっとこの実験は成功するだろう。私は予定通りにエゴイズムヘイトの力を発動し、病気は完治する。あの半端なく優秀な兄が実験を取り仕切る限り、失敗なんてことはまずあり得ない。

 しかし、自分の行くべき道は本当にそれだけなんだろうか。夢は別れ際に「エゴイズムヘイトの力なんていらなかった」と、震える声で叫んでいた。

 夢が泣きそうになってまで拒絶した「エゴイズムヘイト」の力を、自分は機械に頼ることで後天的に得ようとしている。それに対する不安や葛藤はどうしても拭えない。

 一厘のつぼみのように花開いた心のもやもやは、まるで山の天気のように、あっという間に巨大な積乱雲へと移り変わった。頭の中で雷が鳴っている。

 そして佐々木玲奈は目を閉じた。

 もうこんな実験終わりにしよう。そして夢に会いに行こう。――たとえ夢が、私のことなんか求めていないとしても。


 兄の怒号が響き渡った。唾を飛ばしながら、勢いよく部下に指示を出している。

 何かが焼けているような臭いがする。それがショートしたケーブルから発せられた匂いだと気づくまでに数秒かかった。

 「玲奈っ!」

 顔面蒼白になった兄が名前を呼んだ。玲奈はひどく胡乱な意識のまま装置に座っている。

 お腹のあたりに温かいものを感じた。なんだか体中がエネルギーに満ち溢れている。気分がいい。今なら空だって飛べてしまいそうだ。

 これが夢か現か、それとも幻なのか、玲奈にはどうも判然としない。

 「座っていろっ!」

 兄が必死になって叫んでいる。玲奈はその時になって初めて、自分が無意識のうちに椅子から立ち上がっていることを認識した。

 「頼むから――座ってくれ!実験はもうおしまいだ!負担をかけてすまなかった……」

 そう頼んでいる兄の目から、キラリと一滴零れ落ちた。

 どうして泣いてるの――?

 とっさに疑問に思う。

 そして玲奈は、おもむろに右腕を先ほどまで自分が腰かけていた装置類にかざした。

 そしてその刹那、機械類はさながらハリケーンの被害を受けた家屋のように砕け散った。数舜遅れて、金属が床に散らばるバラバラという音が聞こえてきた。空気中にプラズマが生まれて光っていた。

 ひいいっと、側にいた白衣の研究員が悲鳴を上げた。研究員は頭から血を流していた。どうやら機械の破片が直撃して表皮を抉ったらしい。

 この人の名前って何だったかな。確か近藤とか言ったと思うけど、覚えていないや。

 深く考えずその人に向けて右手を伸ばす。兄が何やら怒鳴っているが、自分には知ったこっちゃないことだ。

 今はこのまま、ぐっすり寝て起きた朝のような気分の良さに浸っていたい。

 研究員の体が真っ二つになるのと、佐々木研究主任が玲奈の腰に縋りつくのはほとんど同時だった。


 夢が布団にすっぽりくるまって考え事をしていると、部屋の棚がカタカタ音を立てて揺れだした。初めは呑気に「地震なのかな」と思っていたが、揺れは加速度的な勢いで強くなり、やがて布団の中にはいられないような規模になった。

 天井の蛍光がチカチカと明滅している。そのせいで部屋は暗くなったり明るくなったりとカオスな状況だ。どこかでお皿の割れた音がした。

 息をじっと殺して揺れが収まるのを待つ。こういう時はむやみに動かないほうが良いと学校でも習った。両手で頭を覆うようにし、頭と首を守ることに集中する。

 しばらくすると、蛍光灯の光がぷっつりと消えた。部屋が真っ暗になった。部屋に他に光源となるようなものはなく、夢はポケットに入れたスマホを取り出してライトをつけた。

 揺れがだんだんと収まってきた。夢はおっかなびっくり立ち上がると、頼りないスマホの光を頼りに、壁伝いに部屋の出口を目指した。

 去り際に室内を一瞥する。棚は倒れているわ、あちこちに割れた食器類が散乱しているわでひどい状況だった。大災害の後みたいな有様だ。天井の照明が消えているのを見るに、停電もしているのかもしれない。

 「誰かいませんかー?」

 廊下に向かって声を発する。返事はなかった。廊下の照明もすべて消えていて、人っ子一人見当たらない。

 夢はパジャマ姿で身震いした。悪い想像が膨らんできてしまう。

 この超頑丈な自衛隊の研究施設に限って、停電なんてあり得るのだろうか。なんだか急に空恐ろしくなってくる。先ほどの地震といい、人影一つ存在しないこの異様な現状といい、この施設に何らかの良からぬことが起きているのは間違いない。

 そう言えば――今日は玲奈がエゴイズムヘイト関連の実験を行うと、佐々木先生から連絡があった。聞くところによれば、エゴイズムヘイトの能力を疑似的に行使できる装置が完成したから、その試運転を玲奈に任せるらしい。

 この実験は無事に成功したのだろうか。それとも――まさかこの地震の影響を受けて、大失敗に終わったなんて結末じゃないだろうか。この規模の地震ならば十分その可能性はあり得るように思えた。

 玲奈がどうなっているか確かめたくなった。実験室に行くことにする。

 夢は自分に喝を入れるように頬を叩くと、そのまま実験室に向けて歩を進めた。

 実験室までは歩いて5分程度かかった。いつもなら3分程度でたどり着くのだが、なぜだか今は照明が落ちているので暗い分手間取ってしまった。

 実験室に入ってすぐに、ここも地震によって壊滅的な被害を被っていることが知れた。整然と並んでいた、夢には動作する理屈すらわからない機材たちは皆倒れていたし、床はどこから湧いてきたのか不明な機械の欠片で混とんとしていた。

 そしてその部屋の中央に――夢は玲奈の姿を見つけた。

 「玲奈っ!」

 そう言って駆け寄ろうとした。しかし、玲奈の体中に飛び散っている赤い液体を認めると、自然と足が止まった。

 息をのんで立ち尽くす。玲奈がまるでドレスのように身にまとっているのは、どう見ても血液だ。

 咄嗟に部屋の壁のあたりをぐるりと見まわす。よくよく見れば壁にも、深紅の血液がべったりとこびりついていた。それはさながら赤の絵の具をブラシで塗りたくったようだった。

 「どうしたの、これ……」

 恐ろしさに声がこわばる。玲奈がふらりと身を翻し、その手に握っていた物を天に掲げた。

 「これ、見てほしいの」

 玲奈の声は、聴いていて身震いするほど冷静であった。

 「私、お兄ちゃんのことこんなにしちゃった。ひどいよね私って。なんで、こんなことになっちゃったのかなあ」

 子供のように呑気に話している。怜奈が手に持っていたのは――人間の頭部の一部であった。おでこから上の部分のみをナイフですっぱり切り取ったような、人間の頭のブロックだった。

 震える足を何とか動かして、玲奈に近寄ろうとする。しかしその素振りを見て、玲奈は、

 「近寄らないほうがいいよ。そこらへんはお兄ちゃんの肉片が転がってるから。汚いよ」

 と、夢の足元のあたりを指さしながら言った。

 「何やってんのよっ、玲奈っ!」

 全力で叫ぶ。

 「どうして、そんな、そんな……」

 そんなに冷静でいられるの……?――そう続けようとしたものの、空気の塊が胸に詰まって声が出なかった。

 「私、今はこう思ってるんだよ」

 玲奈はそう言って、手に持っていた佐々木先生の欠片を手放した。のそりと夢の方へ歩いてくる。

 「この前夢の部屋に行ったとき、夢に拒絶されちゃったのが凄く悲しかった。それはもうショックだったけど、だけど今は、夢を助けるために別の行動ができる」

 一歩玲奈が距離を詰めた。思わず後ずさりしてしまう。

 「玲奈、やめて……」

 「でも夢は去り際にこうも言ってたでしょ?『こんな事態になるなら私、エゴイズムヘイトの力なんていらないっ』って。――私、今ならその願いを叶えられるんだよ」

 玲奈の目が涙でにじんでいた。ますますわけがわからなくなる。玲奈、もしかして泣いているの?

 そして玲奈は一気に夢に抱き着いた。肩に手をまわして、耳元で囁く。夢はまるで時が止まってしまったかのように、何の音も聞こえない。何も考えられない。ただただ玲奈の生暖かい体温だけが伝わってくる。

 「私が――消すから。夢のエゴイズムヘイトを。ついでに私の病気も治す。そしたらもう、こんな思いしなくて済むでしょう?」


 「嫌……」


 「嫌ああああああああっ!」


 視界が真っ白に染まっていく。花火の光を至近距離で見たのかと思ってしまうほど、眩い光が照り付けている。

 私は目を開けていられずに、無我夢中で玲奈を突き放した。手足を子供みたいに振り回して、力の限り暴れまわる。

 大暴れしたのは、このままだと死んでしまうような気がしたからだった。私はこのまま、玲奈という大いなる力を持った存在に憑りつかれて殺されてしまう。

 二三歩後退した玲奈を見ていると、自分のおなかのあたりにエネルギーがたまるような感覚があった。体中がほてっている。

 ――この感覚には覚えがある。

 まずいこれって、

 私の――エゴイズムヘイトなの?

 玲奈と相対しちゃって、死の危険を感じたから、

 私をそこまで追い詰めた玲奈のことをヘイトしてるってことなのか?

 体が勝手に動く。自分のどこにそんな力があったのかと疑いたくなるような猛ダッシュで玲奈に詰め寄る。そして、その首根っこを掴む。

 音が聞こえなくなった。壁一面に、卵の殻を割りそこなったみたいな歪なヒビが生成され出した。台地が揺れている。夢はバランスを崩して、首をつかんだ玲奈もろとも床に倒れこんだ。

 目の両端に映っていた建物が、ジェンガのように崩壊しだした。天井が崩落して落っこちてくる。とてつもない量の粉塵が宙を舞う。しかし夢は不思議と、それらの落下物にぶつからなかった。まるで落下物が夢と玲奈の周辺を避けているかのようだった。

 崩壊する建物の中で、夢は自分が押し倒している玲奈と目が合った。

 玲奈の目は、相も変わらず吸い込まれそうなほど真っ黒で、涙でしっとりと濡れていた。


 「――たい……」

 まだあどけない少女のか細い声で、夢は我に返った。

 「痛いよ……、夢……」

 慌てて状況を確認する。夢は玲奈に馬乗りになりながら、その首を両手で絞めていた。玲奈の顔は青白かった。

 「ごめんっ」

 夢はそう言って腰を上げた。立ち上がる時には貧血のような眩暈があった。玲奈は、夢が手を離した途端にゲホゲホと咳き込みだした。

 夢はそんな玲奈から視線を挙げて、自分たちを取り巻いている異様な情景に困惑していた。

 辺りはまるで大地震が起きた後のように、どこまでも瓦礫に覆われていた。無事な建物は何一つとしてない。自衛隊の施設内のすべての建造物が倒壊し、土煙が巻き上がっていた。

 土のにおいに混じって、草いきれのような匂いもした。どうしてそうなったのか不明だが、夢たちはいつの間にか地上に出てきていた。夢がいるのは自衛隊駐屯地の屋外演習場だった。倒れたコンクリート製の建造物と雑草が一緒くたに混ざり合い、混沌とした景観を作り上げている。

 ゲホッ、と玲奈からひと際大きな咳音がした。ふと見ると、玲奈は真っ赤な血を吐いているのだった。着ている白いシャツに、たった今吐き出したであろう血が飛び散っていた。

 「ごめん、夢……。私、ちょっとやりすぎちゃったみたい。力が入らないや」

 玲奈の声は、悪い予感を感じずにはいられないくらい弱弱しかった。

 「玲奈、大丈夫だよね?玲奈は助かるよね?」

 無事であってくれよという願望で、自然と声が大きくなる。しかし玲奈は動じなかった。

 「……もう下半身の感覚が無いんだよね。なんだか寒いし。とても寒い」

 違う。玲奈は下半身の感覚が無いんじゃない。

 玲奈は*下半身が無い*のだ。腰から下だけがすっぽり抜け落ちていて、そこから痛々しく血が流れている。

 ああ、玲奈はもう死ぬんだ。やっとその事実を認識できた。でも夢はそれを認めたくなかった。藁にも縋る思いで言う。

 「そうだ、佐々木先生を呼んでくるよ。佐々木先生ならきっと治してくれるよ……!」

 「いいや、それは無理だよ。だって佐々木先生は――」

 「言わないで!」

 夢は悲鳴のような声を出した。

 「その先は言わないで……。玲奈にそんなこと言わせたくない」

 玲奈は少し驚いたような顔をした。だけどすぐにまた、元の「モナリザ」の絵画のような、不思議な魅力を湛えた笑みに戻った。

 「私のエゴイズムヘイトの力で治すから。私がなんとか発動して、それで――」

 焦りながら言う。しかし、

 「それは無理だよ。だって夢は誰をヘイトするの?ほんの少し前まで夢がヘイトしてた私は、ここでもう死にかけてるんだよ。こんな弱っちい生物にヘイトを向けられるわけがない」

 と、玲奈はバッサリ切った。

 「――夢、私は最後に、一か八か賭けをしてみようと思う。私の最後の力を振り絞って、夢のエゴイズムヘイトを消す」

 玲奈の頑な声を聞いて、夢はどうしようもなくなってしまった。玲奈は本気だ。本気で身を粉にして、私の能力をこの世から消し去ろうとしている。

 夢は屈んで玲奈の顔をまじまじと見た。その真っ黒に潤った目には、有無を言わせぬ強い意志がメラメラと燃えていた。

 「――じゃあ、いくよ」

 そう言って、玲奈は夢の両頬に手を添えた。その手は氷のようにひんやりとしていた。

 ほっぺたに触れた玲奈の冷たい手が眩く光りだした。そのクリーム色の光は指数関数的に膨張し、やがて瓦礫の中にぽつんと置き去りにされた二人を包み込んだ。

 外から見れば、私たちはきっと光のドームに包まれているように見えるんだろうな。それはとても幻想的で、神秘的な見た目なのだろう。

 「夢」

 玲奈が短く呼びかけた。

 「夢はこれからも幸せに生きてね。私は夢と仲良くもなりたくて、病気も治したくて、お兄ちゃんの関心も欲しくてって欲張っちゃったけど――その結果として、こうして何も手に入れられずに終わっちゃうんだけどさ」

 「そんなことはない!」

 夢は強く否定した。

 「玲奈はいつだって綺麗で、私の憧れの的だった。あんまり玲奈が完璧すぎるもんだから、私は玲奈を妬むこともあったけれど、でも私は玲奈と会えてよかったと思う!」

 そう、それが私の本心。

 いつか考えたことがある。玲奈とはたくさんの時間を過ごしてきたけれど、私は結局、玲奈のことをどう思っているんだろうと。

 その答えが今更になって出た。

 私はやっぱり玲奈が大切なのだ。だけども、私の気持ちは「大切」一辺倒じゃない。

 私は玲奈を大切に思うのと同じくらい、玲奈を憎んでもいた。怜奈は私に持っていない全てを手に入れているように見えた。容姿も完璧だし、勇気もあるし、あんなにかっこいいお兄ちゃんもいるしで、完璧超人のように思っていた。そんな玲奈に死ぬほど嫉妬していたし、たまには憎むことすらあった。

 私は玲奈が死ぬ寸前になってやっとこれらの気持ちがわかった。

 「ありきたりな表現だけど、私は玲奈に死んでほしくない。だって玲奈は――」

 私の一番大切な友達なんだから、と続けようとした。けれどもどうしてだか、頭に玲奈と過ごした日々がフラッシュバックする。 玲奈は研究所暮らしの現代社会のアウトサイダーだ。死に至る病を抱えて、研究所というお城の中に閉じこもっている。困ったらいつでも優しくて顔の良い兄が助けてくれる。そんな玲奈の境遇はまるで、童話なんかで見るお姫様じゃないか。

 玲奈は「普通の学校」なんてつまらない場所には行かず、何度も危機に陥るたびに、王子様役の兄が助けてくれる。

 玲奈は特別だった。そして私は特別じゃなかった。私はただ単に、お姫様である玲奈を助ける脇役の一つに過ぎなかった。

 私はそれに悶々としていたんだ。

 「やっぱり、言えないや……」

 夢は泣いていた。大粒の涙をぼろぼろこぼしながら語りかける。

 「ごめん、私、本当は玲奈が嫌いなのかもしれない……。未だに私は玲奈に嫉妬してるの。どうしても、玲奈に感謝することができない……。玲奈を大切な友達だって、言い切ることができない!」

 玲奈は女神のようなほほえみを浮かべた。

 「いやあ、最後の最後にそうぶっちゃけられても困るよ。だけど私も夢の気持ちはわかるよ。夢の気持ちは多分私が一番よく知ってる。だって夢は……」

 玲奈は力なく夢の頬を撫でて言った。

 「私の一番大切で、唯一の友達なんだから……」


 ドーム状の光はどんどんそのクリーム色を濃くして、夢はほんの数十センチ先にある玲奈の顔さえ見えないほどになった。

 圧倒的な光のエネルギーの応酬を食らいながら、夢は玲奈と固く手を握り合ったまま、苦々しい思いを味わっていた。

 最後まで、玲奈には敵わなかったな――


 夢が目を開けたとき、目の前に玲奈の姿はなかった。まるで玲奈の肉体が水みたいに蒸発したかのようだった。

 夢たちを覆っていた光の天蓋はどこかへ霧散していた。代わりに頭上を覆っているのは、どこまでも晴れ渡っている青空。太陽の光がまぶしく照り付けている。

 夢は涙を拭いて立ち上がった。そして「じゃあね、私の――大切な友達」と呟いた。

 その言葉はたちまち夏の風に乗って、どこかへと運ばれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お姫様と機械仕掛けの異能力 @punitapunipuni

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画