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 厨房に入ると。

 いつものように、青年と中年の間という見かけの料理長と下働きの中年女が二人、揃ってまだのんびりと寛いでいた。

 まだおそらく時刻は十四時じゅうよんときを回ったくらい。屋敷の夕食の支度が忙しくなるには少し間がある。

 何か小さな木の板を動かす独り遊びらしきものをしていた料理長のヴァランタンが、顔を上げてきた。


「何だお嬢様、遅かったじゃないか」

「途中で、躓いてしまったので」

「ふうん。じゃあ早くそれ、処理してくれ」

「はい」


 作業台の一つに椅子を寄せて、オリアーヌは豆の莢を剥く作業を始めた。

 瞬く間に終了すると、次には大量のイモの皮剥きに移る。

 料理長は、独り遊び。

 下働きの女たちは、楽しげにお喋り。

 その横で、黙々と作業は進められた。


 使用人たちに「お嬢様」と呼ばれるように、オリアーヌは先代リュシドール子爵の長女としてこの領地屋敷で生まれて、十年あまりを過ごしている。

 一人娘として両親に可愛がられ、七歳のときまでは文句なく幸せな生活を送っていた。

 その年、弟が生まれた。身体の弱い母が何度か死産をくり返した末ようやく恵まれた跡継ぎとなる男子で、ランベールと名づけられた。

 姉となったオリアーヌと両親、三人揃ってますますの幸福を噛みしめた。

 悲劇が起きたのは、その半年後だった。

 所用があって王都に向かっていた両親とオリアーヌの乗ったムマの引く車が、魔獣に襲われて深い谷に向かう斜面に転落した。

 勢いで飛び出した娘は途中の木に引っかかったが、両親の乗る車体はそのまま底まで転落していった。

 半日後に救出されたオリアーヌは右脚に傷害を負ったものの、命は取り留めた。両親は、死体で発見された。

 まだ首も座らない乳児だった弟は王都への旅に同行しなかったため、難を逃れていた。

 屋敷に戻されるとまだ脚の痛みと熱の上がり下がりが続く中、オリアーヌは真っ先に弟の寝室に飛び込んだ。何も知らず天井に向けて両手を揺らしていた赤ん坊は、姉の顔を見るなり満面に笑みを浮かべた。

「きゃあきゃあ」と、さも嬉しそうな声が、小さな口に漏れていた。


「ああ、ランベール」


 弟の手を握り、頬を重ね。

 オリアーヌの両目に、止めようもなく涙が溢れ落ちた。

 この赤ん坊は、まだほとんど親の温もりを知らないのに。

 両親から受けるべき愛情を、永遠に失ってしまった。

 なんて、なんて、悲しい運命――。

 これからは私が、お父様お母様にに替わって貴方を護り、愛していくからね。

 幼な児がきょとんと表情を収めるほどに小さな掌を握り締め。オリアーヌは天の両親に誓った。


 しばらくの間、オリアーヌは寝たり起きたりの生活が続いた。

 起きられる限りは弟の部屋に足を運び、乳母と侍女とともにその世話に加わった。

 そんな間に、親戚たちの間で協議が行われたらしい。

 経過も結果も、まだ七歳の娘に説明する必要はないと判断されたようだ。

 ある日、両親より少し若いかという夫婦が屋敷を訪れた。

 父の従弟いとこに当たるアデラール・リュシドール、と男は名乗った。

 以前からの執事の説明によると、このアデラールが子爵位を継いだのだという。「暫定」という言葉がそこに添えられていたが、オリアーヌにはよく意味が分からない。

 とにかくこの夫婦が両親に替わってここのあるじになるのだ、とは理解した。


「家や領のことは心配せず、すべて私に任せなさい」

「オリアーヌはまだ怪我が治らず、ランベールは身体が弱いというのでしょう? 大人しく養生するといいですよ」


 新子爵夫妻から優しい声をかけられ、子ども二人はそれぞれの部屋で侍女一人ずつの世話を受けて不自由のない生活を送ることになった。

 アデラール子爵は人当たりのいい性格らしく、夫婦揃って社交もそつなくこなしていたようだ。

 もちろん領主の執務など初めての経験だが、ベテラン執事の支えを受けて問題なく過ごしていた。

 実の父母のように一緒に食事をとるでもないし居間でお喋りをするでもないが、一応衣食住に不足はなく、怪我のせいで行動が少なくなっていたオリアーヌはこんなものかと納得していた。

 生まれたときからあまり丈夫でないランベールも不足のない世話を受けて成長し、乳離れをして乳母が外れただけで、変わらない生活を送っている。

 以前のように外を走り回ることができなくなったオリアーヌには月一回家庭教師の婦人が通ってきて、自習用の教材や書籍類が与えられた。ほぼ終日そのような勉強をするように、侍女も主人から言いつけられているということで、時間が費やされる。

 それでも一日一回は弟と遊ぶ時間がとれた。間もなくランベールはよちよち歩くようになり、回らない口で姉に話しかけるようになっていた。

 屋敷の生活が変わったのは、一年近くが経過してからのことだった。

 子爵夫人が、男子を出産したという。オーバンと名づけられたらしい。

 その頃から、姉弟に以前からついていた侍女二人が姿を消した。執事に尋ねると、私的な事情で退職したという。

 新しく雇用された侍女一名が、姉弟二人合わせて身の周りを見ることになった。

 それから間もなく執事も退職し、新しく少し若い男が雇い入れられた。

 気がつくと屋敷の中に、オリアーヌが以前から知る人間がほぼいなくなっていた。


「今日は、おめかししていただきます」


 春になり、オリアーヌは八歳になった。

 それから数日後、侍女に言われた言葉に、ああと頷いた。

 教会に連れていかれるのだ。


 この国では、子どもがおよそ八歳になった時点で、教会に行って神から加護を賜る儀式がある。

 平民の中にはいい加減な場合もあるようだが、貴族の家庭ではまず例外なく実施されている決まり事だ。

 加護というのはその人ごとに固有の、他人より突出した能力のようなものだ。

 多くの場合、火、水、風、光のどれかを生み出し操る魔法のような力を授かる。ただほとんどは、例えば火なら目の前のまきに点火するのがやっとという、生活で少し便利かという程度のものに収まる。

 その中でもごくまれに――貴族ではやや割合が高いと言われる――少し強力だったり変わった種類の能力を得る場合がある。

 同じ火や水にしても、攻撃に使用して敵を撥ね飛ばすことができる威力がある、など。

 まったく方向性が変わって、農業で作物の栽培方法が自然に頭に浮かぶ能力、など。

 こういう変わった能力に関しては、前例もなくて可能性や限界などがよく分からないものも多い。

 オリアーヌが八歳になったということで、そのために教会に赴くわけだ。


「行くぞ。子爵家の娘として、恥ずかしくない言動に努めなさい」

「はい」


 久しぶりに顔を見たアデラール子爵に何とも子ども相手とは思えない注意を受け、オリアーヌは杖を右腋に挟んでつきながら、家を出た。

 この杖は、以前から勤めている子どもにも優しい庭師の老人が作ってくれたものだ。硬い木の棒一本の上に腋に挟んで落ち着ける平たい部分が固定されて、体重を預けやすくなっている。

 ムマ二頭の引く車に二人で乗って、領都の教会に向かう。

 このムマというのは大人しい大型の動物で、歩みは速くないが力があるので、こうした車を引くのによく使われている。当然ムマも車も高価なのでほぼ貴族専用で、一般の平民が利用することはまずあり得ない。大きな商店で稀に荷物の運搬に使用されている程度だ。

 今回の外出は当主と娘の二人、あとは御者が一人ひとり前に座っているだけだった。

 子爵の住む領主邸は領都の西の端にあり、街の中央部までムマの車で二十ミーダ(分)ほどかかる。

 教会に到着して、領主のお越しということで神官長に愛想よく迎えられた。

 加護を受ける対象の子どもは神の像の前に進み、跪いて祈りを捧げる。

 神官が神の声を聞き、本人と家族に伝える。

 この一連の手続きを経て、加護で得られた能力が使えるようになる。

 暫時宙を見上げていた神官が、低く呻くような声を漏らした。


「これは――聞いたことのない加護ですな」


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