君の光を見ている
瑞穂
君の光を見ている
「お姉さん、東京は初めて?」
「えっ?」
その人の手には、何度も使われたであろう紙袋がぶら下げられている。そこからポケットティッシュを取り出して、街行く人に配っている。
「初東京、おめでとう! これプレゼント」
「……」
両手に受け取った六つのポケットティッシュの裏には、宣伝広告が入っている。
「人の流れに乗らないと、東京じゃ置いてきぼりを喰らうよ」
街行く多くの人々は、流れを止めずに歩き続けている。
「ほら、行った行った。気をつけてね」
「すみません……」
田舎から上京して、鈍臭く歩く私の姿がその人の目に映ってしまったのだろう。がさごそと六つのポケットティッシュを淡いピンク地のショルダーバッグの中に入れて、荷物がパンパンに膨らんでしまう。
「……疲れたな」
初めての東京、ひとり暮らし。必要なものがあって出掛けた池袋駅東口。初めての東京の人との出会いは、ポケットティッシュを配るアルバイトのお兄さん。頭上を見ると、駅方面にある街頭ビジョンには、今日の二ュースが流れている。東京都内、交際していた男性に女性が刺殺される事件。そんなニュースから視線を逸らし、お兄さんに見送られながら入ったのは、某ファーストフード店。
「はあ……お腹空いちゃった」
もう時間は、夕食時。明日、仕事を休んで入学式のために東京に訪れる母と会うまでは、ひとりきり。ひとり分の新発売のハンバーガーのセットを注文して、階上にある席を目指す。
窓際の席を選んで、三階から見える人の風景を眺める。東京初日の夕食は、ハンバーガーのセット。味気無い気がしなくもないが、今の私には十分だ。
初めての東京の風景は、人の流れを観察するところから始まった。東京の人は、横断歩道を渡ることが得意だ。どうやって、多くの人々の間をすり抜けて、目的地まで辿り着くのだろう。駅前から、反対側の信号機まで歩く数十メートル。そこに存在する東京の人たち。
そんなことさえお洒落に見えて、自分の田舎臭さを隠し切れはしない、と悟る。必要だったものは手に入らず、その日を諦める。慣れないパンプスを履いて、それらしく歩こうとしても、十八年もの間熟成された田舎産の私には、それを簡単に拭い切れはしない。
「帰ろう」
ひとりきりで初めての東京の街を過ごし、心細さを覚える。母に連絡をして、スマホをスカートのポケットにしまう。
〈お母さん、東京の街は、どうしてこんなにも人が多いんだろう? なにも買えなかったよ〉
「送信、っと」
切符売り場で、ICカードをチャージして、改札口を通る。ポン。耳に残る小気味良い音は、私の東京生活のはじまりを教える鐘の音だった。
慣れない電車での移動で、どこに立てばいいのか分からない。空いている席に座りたくても、人と人との間の一席に、割り込むほどの勇気はない。扉の前の横に自分の居場所をぶん取って、銀色の手すりを握っている。
新しく買ったばかりのスマホを左手に持ちながら、視線を停車駅の表示板の方に移す。アパートがある最寄り駅までは、あと五駅。約十分程の空白を、どう埋めようか考えている。
疲れて筋が強張った右脚を少しだけ揺らしながら、パンプスのつま先を地面に着ける。トン。意味のない動作をしてしまうほど、ひとりじゃ退屈だ。先行きは、無色透明に見える不透明。誰もが感じるこの不安の正体は、幻かもしれない。
そんなことを頭に浮かべる私は、くだらない思考でいっぱいで、東京に希望を求めてやってきたわけではない。周りから見れば、それは希望と呼べるものかもしれないけれど、私には違う。逃げ道を求めて、やってきた。
明るく陽気で、あたたかい光を求めて、この土地にやってきたわけではない。薄暗く陰気で、凍えそうな闇だったとしても、そこに存在する一員になれたらいい。そんな僅かな幻想のようなものを持って、私は田舎を出た。
新しい私の棲家。アパートに帰って来て、設置されたばかりのテレビの電源をつける。コンビニで買ってきたペットボトルの水を一口飲んでから、地元とは違うテレビの映像を見て、新鮮さを感じる。
まだ揃い切っていない家具と家電。フローリングの床に直接、敷布団を敷いて、ひとまず寝転ぶ。目に映る天井は白く、照明は白い光を放って、異様に光を発しているかのように思える。母からの連絡は、
〈明日の朝7:50には、上野に着くから。また連絡するわね〉
と書いてある。母が私の新しい棲家に到着するまでの間、なにをしようかと考える間もなく、どこまで電波が届くかも分からない無線LANを、ノートパソコンに接続する。電源をオンにして、いつも通りインターネット上を徘徊すれば、東京に来たばかりでこれか……とそんな自分に呆れそうになるが、習慣はすぐには変わらない。
「映画サークルです。良かったら見学に来ませんか?」
「映画サークル……ですか?」
「そうです。映像を撮っています」
声を掛けてくれた女性は、きっと上級生で、綺麗な顔をしている人だった。
「でも、私……」
「見学だけでも来てみて。はい、これチラシ」
「ありがとうございます」
そんな挨拶を交わした後、人の流れに沿って、たくさんのチラシを貰って行く。
「サークルなんて、なにも考えてなかったな」
大学生活には、何ら期待をしていなかった。志望校ではなく、滑り止めで受けた大学に入学が決まって、元々人付き合いの素養もない。それでも地元からはどうしても逃げたくて、決めてしまった東京生活。
「実久、こっちこっち!」
大学の正門前まで辿り着いて、母が私を見つけて声を掛けてくる。
「写真、撮ってあげるわよ」
「いいよ、恥ずかしいから」
「記念じゃないの」
「うん……」
そうやって入学式と書かれた白い看板の隣に立って、真新しいスーツを着た私の写真を撮られる。
「お母さん、帰ろう」
「そうね!」
大学付近にある老舗の有名な喫茶店は、人が混み合っていた。私はミックスジュースを頼んで、母はブレンドコーヒーを頼んでいる。
「美味しいわね、ここのコーヒー」
「良かったね」
「学生生活、頑張って。なにかあったら連絡しなさい」
「うん。私は大丈夫だけど、お父さんのことよろしくね」
「大丈夫よ。やっとふたりで過ごせるようになるんだから」
「私が邪魔者みたいじゃない」
「そんなことないわよ、肩の荷が下りただけよ」
そんな言葉を残して、母は東京を去る。上野駅まで見送りに行って、バイバイ……と小さく挙げた手を振る。母と次に会うのは、夏頃。夏休みの予定だ。
キャンパス内の一角に、庭のような場所がある。そこに小さな池があり、周りには石垣が積んである。少し離れたところには、木製のベンチが数台置いてあって、まばらに人が集まっている。
そんな少し閉ざされた場所を見つけたのは、四月の中旬頃。授業登録を終えて、学生生活が本格的に始まり出した。
「ここの池は、初めて?」
「そうですね、初めて見ました」
池の水面を見ていると、隣に座った学生であろう男性が話しかけてきた。
「誰も注目しないけど、水面が綺麗だと思わない?」
「綺麗ですね……」
「煙草吸っていいかな?」
「どうぞ」
カチャっというライターの火が点く音がして、隣から煙が空気中にふわっと広がるのを見る。煙草の匂いに少し咽そうになるが、失礼のないように、咳き込みそうになるのを我慢する。
「俺は三年だけど、君は?」
「一年です。入学したばかりです」
「どう? 大学には慣れた?」
「まだまだですね。ひとり暮らしなんですけど、慣れるのに、精一杯です」
「慣れるまでは大変だよね。……ごめん、煙草臭い?」
「大丈夫です!」
大人の人の匂いだ。そんな感想を心のなかで呟く。一年と三年では、天と地ほどの差があるように思う。
「学部は、どこなの?」
「文学部です」
「俺は、芸術学部。映像専攻」
「映像ですか?」
「そう、映画。映画を撮りたくて」
「映画、ですか?」
「うん」
「私、映画が好きです!」
「本当。どんな作品が好きですか?」
「詳しくはないんですけど、最近は話題のSF超大作が面白かったです」
「ああ、あれ。面白かったよね」
光に通された綺麗な水面は、その人が吸う煙草の煙で覆い隠されていた。
「俺、年齢は二十二なんだよ」
「そうなんですか?」
「あっちの高校を卒業して、それから一年浪人してたから」
「あっちの高校?」
「帰国子女」
「帰国子女なんですか?」
「そう、帰国子女。その国で生まれてさ。見たら分かる通り、日本人だけどね」
「そうなんですね……。私とは、全然違いますね」
「全然、違う?」
「そうです、全然違います」
「違うって……君は、どんな人?」
「どんな、ですか……」
答えに詰まる質問を投げかけられて、嘘を吐いてしまうか、正直に答えるかを迷う。
「十七の時に、不登校になりました。その頃、昼間にひとりで映画館に行ってて」
「うん」
「ひとりで映画を観ることが、唯一、私を守ってくれるプライドでした」
「面白いね」
「そうですかね? えっと……」
「俺? 遥人。相田遥人だよ」
「相田さんは、なにを?」
「高校時代? その頃は、油絵を勉強していたな」
「油絵ですか?」
「そう、面白い高校でね。入学式の後に、全裸で追い掛けっこをするんだよ」
「全裸ですか……?」
日本国内ではあり得ないだろう情景を頭の中に描いては想像して、クレイジーだな……と思う。
「面白いですね。異文化だな……」
「そう?」
相田さんが二本目の煙草に火をつける。また空気中に、煙がふわっと広がっていく。
「君の名前は?」
「名前ですか? 実久です。新川実久」
「実久ちゃんね、了解」
「相田さんは、映画が好きなんですか?」
「まあ、そうだね」
「絵画を専攻には、しなかったんですね」
「そんなこと、言っちゃう?」
「あっ、すみません」
絵画のことなんて、なにも分からないが、相田さんが絵を諦めてしまったことだけは分かる。
「お腹、空かない?」
「え?」
「まだ食べてないなら、飯でも食いに行く?」
「まだ食べてないです、けど……」
「急すぎた? そんなに、怪しい奴じゃないよ」
「……」
「これ、学生証」
彼が見せてきた学生証には、確かに○○大学芸術学部、相田遥人と記されていた。
「私も学生証、見せたほうがいいですか?」
「いや、いいよ。君、面白い子だね」
「お腹は、ちょっとだけ空きました」
「よろしい。じゃあこっちだから、着いてきて」
「はい」
そう言われて、彼の後を着いて行く。裏門を出て、三分程したところに、一見古びた中華屋さんがあった。
「汚いけど、味は上手いよ」
「そうなんですね……」
相田さんと向かい合ってテーブル席に着く。置かれた冷たい水を飲みながら、ふたりでラーメンを注文して、出来上がるのを待つことにする。
「東京のラーメンって、醤油なんですね」
「どこもそうじゃないの?」
「札幌だと味噌じゃないですか? 福岡だと豚骨とか」
「ふーん、ラーメン詳しいの?」
「詳しいわけじゃないです」
彼は、日本の土地勘に詳しくはないようで、日本に住んでいたら誰もが知っていそうな知識でさえ、知らないようだ。
「映画が好きなら、うちのサークルにでも入ったら?」
「でも私、なんの役にも立てないです」
「役に立つ必要なんてないよ。雑用なんていくらでもあるし」
「それに」
「うん、それに?」
「人が多いの、少し苦手なので」
「わざわざ、東京に来た人が?」
「人混みの中に、紛れ込みたかったんです」
「……人混みの中に? 変わってるね」
「そうですか?」
「SFの超大作だけど」
「はい」
「もう一回、観たいと思わない?」
「そうですね、観てもいいですけど」
「この後、授業は?」
「え? 今から観に行くんですか?」
「うん、嫌?」
「嫌じゃないですけど……」
「午後からの授業は?」
「今日は、午前だけでした」
「オッケー、じゃあ、この後行こうよ」
「えっと……、相田さんの予定はいいんですか?」
「大丈夫。用事は済ませたから」
「芸術学部って、神奈川のキャンパスですよね?」
「そう。サークルの用事があって、今日はこっちに来てたんだけど、ラッキーだわ」
「ラッキー?」
「うん、ラッキー」
ラーメンを食べ終え、電車に乗り、渋谷の映画館に出る。二時間半と少しの映画を観た後、感想を伝え合う。
「二回観ても、面白かったです」
「だよな、SF超大作だけあるよ」
彼に右手を繋がれて、渋谷の街を歩いて行く。駅まで辿り着けば、横浜方面に向かう彼とは、反対方向の電車に乗る。
「遥人さん」
「どうした?」
「あの、帰りたくないです」
「明日は、授業でしょ?」
「そうですけど……このままお家に帰ってひとりなんて嫌だな、と」
「意外とさみしがり屋なの?」
「そ、そうじゃないですけど」
「実久ちゃん、人が苦手なのかと思ったから」
「人が多いのが、苦手なんです」
「分かった、家に着いたら電話するよ。俺も明日は予定があるから」
「……分かりました」
ICカードを改札でタッチして、彼と離れる。それから離した右手を軽く振って、ホームへと続く階段を目指せば、電車がもうすぐ出発してしまう音が聞こえる。
「急いで、実久ちゃん」
「ありがとうございました!」
そう言って、慣れない都会の駅の中を掻い潜って行く。混み合った電車に乗り込めば、はじめて知り合った遥人さんという人のことを考える。
流れるようにお互いのことを知り、流れるように手を繋いだ。私の右手を繋がれた時、彼の左手の大きさを感じて、人と繋がるということは、あたたかさを感じることだと、知る。
八月。大学のテスト期間が終わり、晴れて夏休みだ。アルバイト先で一週間ほどの休みをもらってから、実家に帰省するつもりだ。
「遥人さん、私、しばらく実家に帰るから」
「いつ戻ってくる?」
「一週間くらいのつもり。そのあとは、またバイトだし……」
「了解。気をつけてな」
「うん」
帰省というものは、初めてのことだ。父と母と、寝たきりの祖母。心が躍るというよりは、ちょっぴり義務のように感じてしまう。それでもお互いの顔を見て会話をすれば、安心する。家族というものは、縁が深いのだろう。
新幹線に乗って、約二時間半の地元に着く。駅の改札口の先を見れば、母が出迎えるために待っていた。
「実久!」
そう言ってから、軽く手を振る母を見て、少しだけ老けたように思う。
「ただいま、お母さん」
「おかえり、実久。元気にしてたの?」
「うん、元気だよ。新幹線、混んでたよ」
「そうね、もうすぐお盆だから」
「うん」
久しぶりに会う母と、少しだけぎこちない会話を続ければ、もう私は、東京の人になりかけているのかもしれない……だなんて、烏滸がましい考えが頭に浮かぶ。
遥人さんが、頻繁に私のアパートに訪ねてきて、一緒に食事を取っている。父や母とは、もう何ヶ月も一緒に食べてはいない。そんな頻度を考えてみれば、彼のほうが私の身近な人になっているのかもしれない……だなんて思う。
「お父さん、ただいま」
「おかえり、実久」
「うん、ただいま……」
四ヶ月ぶりに見た父は、さらに痩せたようだった。仕事を辞めてからというものの、家でひとりきり、祖母の介護をしている。母に、こっそりと父の姿を見た感想を伝える。
「ねえ、お母さん」
「なに? 実久」
「お父さん、痩せたね……」
「そうね……」
父の病気が発覚してから、丸四年だ。来月には、私は十九歳になって、あれから四年が経ったことになる。
父の後ろ姿が、変わってしまった。背広を着て、夜遅くに帰ってくる父はいない。痩せ細って、認知症になった祖母の面倒を見る父が、無口なままでいるのは、変わりないけれど。
「相田さんは、元気?」
「え?」
母にそう尋ねられて、どう答えようか迷う。
「うん、元気。忙しそうだよ」
「そう……今度、会わせてね」
「うん」
「実久は……」
「うん?」
「ちゃんと元気にやってるのね、東京で」
「うん、やってるよ、お母さん」
「そう、安心したわ」
母は、遥人さんのことを知っているけれど、父は、ちゃんとは知らないままだ。彼の様子を尋ねて、それから私の様子を尋ねる母を見れば、もうそこに、幼かった頃の私はいない。
「お母さん、実は」
「どうしたの?」
「んー、ううん」
「なに、何があったの」
キッチンで洗い物をしている母の隣に立って、コップに入れた一杯の麦茶を飲む。
「遥人さんに、話したの」
「……そう。相田さんは、なんて?」
「君が生きていてくれて、良かったって」
「……そうね、その通りよ」
「お母さん、私」
「なに、実久」
「遥人さんと、ずっと一緒にいたいんだ」
「そう。相田さんは、桜鳴にとって大切な人なのね」
「そう、大切な人なの……」
一週間の帰省を終えて、東京に帰る日になった。仕事がある母とは、朝のうちに挨拶を交わして、昼の新幹線に乗る私を駅まで送ってくれるのは、父だ。
「お父さん」
「どうかしたか」
「おばあちゃん、また認知症が進んだ気がしたよ」
「そうだな……」
「うん」
父が運転する車の中から、地元の風景を眺める。もう一生、住むことはないだろうと決めて出た私のホームタウンは、夏の強い陽射しに地面が焼きつけられていた。
「お父さん!」
そう言って、父の車から降り、左右に大きく手を振る。
「体調、気をつけてね!」
父は何も言わずに、車の中から私に手を振っている。その姿を見てから、私は振り返らずに、駅の改札口へと向かう。
ガラゴロとスーツケースの車輪の音が鳴る。東京で私の帰りを待つ人へのお土産を購入して、それから新幹線の指定席へと乗り込む。
限られた時間の地元への滞在は、私にとっては、家族の顔を見るためだけのものだ。二年前のことを思い出せば、まだ記憶がぶり返してきて、手には汗が滲んでいく。少しだけ浅くなった息を整えながら、新幹線の窓から青空が広がる景色を見る。息を整えているうちに、右目から涙がぽろりとこぼれ落ちる。痛い。二年経っても、まだ痛い。
いつになったら消えてくれるのかも分からないその痛みは、私の人生に遥人さんが現れたことによって、段々と角が取れてきた。それでも残っている痛みたちが、まだ忘れないで……というように、私の心に訴えかけてくる。
〈助けて、遥人さん〉
心の中でそうお願いして、ひとりきりで痛む心をなんとか、鎮めようとする。私を救ってくれるのは、遥人さん。心から叫ぶのは、彼の名前だけだった。
九月。私の十九歳の誕生日まで、あと少し。アルバイト先の先輩である坂本さんが、クリーニング店に隣接するスーパーでカップケーキを購入し、お裾分けをしてくれた。
「坂本さん、ありがとうございます!」
「新川さんが、この前お土産をくれたからよ!」
「ああ……」
地元で購入したお土産を、アルバイト先で配ったお返しがやってきた。
「最初の頃は、どうなることかと思ってたけど」
「え?」
「新川さん、仕事に慣れてきたわね」
「……そうですかね?」
「なに言ってるの。ひとりで店を回せてるんだから、大丈夫よ」
「そう、ですね……」
クリーニング店での仕事は、平日は基本的にひとり作業だ。閉店時間までシフトがある時は、帰りに、遥人さんが迎えに来てくれることがある。
クリーニング店の制服を脱いで、ひとり後片付けをしながら、家に帰る準備をする。午後九時過ぎ。店内の最後の点検をしていると、トントンと扉を叩く音がする。その音のほうに視線を向ければ、顔を見せるのは、遥人さんだった。
「ああ、遥人さん」
〈待って、今鍵を開けるから〉と声に出して伝えようとするが、店の外、道路に面した場所に立っている彼に、その声が届くわけはない。
それでも親指と人差し指を丸にしてくっつけて、〈オッケー〉と彼の口元が動いている。
「迎えに、来てくれたの?」
「うん。今日は早く帰れたから」
「ありがとう、もう少しだから待っててね」
「うん」
帰り道。私のアパートまでは、徒歩約十分程。二人で手を繋いで、星が見える夜空の道を歩き出せば、今日あった出来事を共有する。
「坂本さんが、褒めてくれたよ」
「あの、坂本さんが?」
大袈裟に言う彼の声色に、つい笑ってしまう。
「そう、あの、坂本さんが」
「親しくなれたってことじゃん」
「そうなのかな? 分からないけど、今日はお菓子まで貰ったし、嫌われてはないみたい」
「おお、上手くやってるね」
「うん……」
楽そうかな? なんて少しだけ期待をして始めたクリーニング店のアルバイトは、週末や繁忙期は、そんなことはなく、ただただ仕事に追われるだけだった。それでも、平日のふと人が来なくなる時間には、レジの前に置いてある丸椅子に座って、扉の外を眺める時間が持てる。
雨が降る日、扉の向こうで絶え間なく雨が降っているのを見ると、東京に来て良かった……と思えるのだ。レジカウンターに肘をついて、その絶え間なく降り続ける、雨を見る。
誰かには、洗濯物が濡れてしまい、困り果ててしまう雨かもしれない。けれど、私には、東京に紛れ込めていると思える、特別なギフトだった。
「ねえ、遥人さんは自分のことをどういう人だと思う?」
「どういう人って、言われても……」
初めて彼に会った日に尋ねられた質問を、そっくりそのまま、返してみる。
「俺がどういう人かっていうのは、自分で決めれることじゃない。周りの人によって決められるんだ」
「そうなのかな?」
「そうだよ、実久はそう思わないの?」
「思うよ。だけど、それがすべてではないのかもしれないって、最近ちょっとだけ、思う」
「どうして?」
「この前、はじめて、空を見上げた日があったの」
「はじめて、空を見上げた日?」
「そう。私、帰省してたでしょ?」
「うん」
「ふと、空を見上げた瞬間があったの」
「それで?」
「ああ、私、初めて空を見上げたんだって気づいたんだよね」
「……」
「地元にいる時はね、ずっとずっと足元を見て歩いてた」
「うん」
「その瞬間まで、空を見上げたことがないって、そんなことさえ気づかなかった。だから……」
「だから?」
「もしも周りの人が私の価値をすべて決めてしまえるなら、私は空を見上げた自分に、気づいてあげられなかったと思うよ」
「俺は……」
「うん」
「どんな人、なんだろうな……」
彼から零れ落ちる声は、いやに小さいものだった。
「この部屋が、好きになったよ」
「ん?」
隣で寝そべる彼がスマホの画面をスクロールしながら、私の声に耳を傾けている。小さな八畳のアパートの部屋は、周りの人たちから見れば小さな都でも、私たちにとっては他にない大切な都だ。
「ううん。今日も遥人さんがここにいてくれることが嬉しくて」
「実久、どうした?」
「ううん」
偽りのない私たちだけの空間は、世界中のどこにもない。一歩外に出てしまえば、もう私たちだけの世界ではなくなってしまう。
「もしも、遥人さんが罪を犯したとして」
「うん」
「私は、あなたの帰りを待てるのかな?」
「急に、どうした?」
「ふふ。私は遥人さんのおかげで、色がつき始めたんだよ」
「色?」
「そう、色」
「……なあ、実久」
「どうしたの?」
「もしも、俺がそういうことをしたとしても」
「罪を犯すこと?」
「そう」
「待たなくていいからな」
「……うん。でも今の私なら、待ってしまうと思うよ」
「……」
「それに、罪は犯さないでね。遥人さん」
「分かってるよ」
「ねえ、もう春だねえ」
「そうだな」
やさしい光が、窓に差している。夜とは反対に、あたたかい木漏れ日のような光。
ネオン街の照明のように、強く差す光ではない。東京の街は、強く差す光にならなければ、誰も振り向いてはくれないのか? と思う。それでも私は、木漏れ日のような光が好き。やさしくてあたたかい光が、好きになった。
目の前にいる遥人さんと繋いだ両手に力を込めてみる。視線を10センチ程上に向ければ、彼の視線が私に向かう。口には出さないが、彼はいつかこの繋がれた手を離してしまう気がする。
それが訪れた時、私たちの手首に嵌められた見えない鎖は、私たちを引き離さないでいてくれるのだろうか? そんなものはなかった……と言って、彼がその鎖を見えなかったフリをすることを想像する。そんな日がいつか訪れた時、私の身体は半分になってしまうのかな。人間でいられるのは、左半分。外側の世界に向けられた私。無色透明になってしまうのは、右半分。遥人さんに繋がれた内側の世界だけの私。
「実久?」
「なに、遥人さん」
「また考えごと、してただろ」
「うん。でもいつものことでしょ」
「ちゃんと外の世界の景色を見るんだ。目に焼き付けて、この春は今しかないんだぞ」
「分かってる!」
私の目に届く光は、やさしくてあたたかいものになったけれど、彼の目に届く光と同じだとは思えない。彼にはなれない。遥人さんの本当の気持ちを、丁寧に細部まで理解し尽くせる。そんな瞬間は、一生訪れない。そんな考えが浮かぶ度に、少しだけ残念に思う。彼に救われたのは私。私は彼を救えるのだろうか。
「私があなたの光を見ているよ」そう思いながら、私は彼の瞳から視線を逸らせずにいた。
君の光を見ている 瑞穂 @mii_enchanted
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