第2話 固い食事
小さな女の子が、背を向け走る姿を後ろから追いかける。
転ばないように手を差しのべ、大事に大事にする。
私は女の子の名前を呼ぶ。「白鈴」と。
呼ばれた女の子がフフッと笑い声をあげ振り返る。
振り返ったその子の頭からは血が流れ、赤く染まった顔は生気の無い顔をしている。そしてその口が血の泡を吹きながら音を出す。
「お父さん。私は白鈴じゃなくて綾子ですよ」
と。
◇
酷い夢を見た。
何かを忘れているような。何かに追われているような。何かから逃げるような。そんな後味の悪い夢。
薄暗い部屋は変わらず、やはり見覚えはない。どのくらい寝ていたのか分からないが、まだ少し頭が痛い。
私はベッドから起き上がると、聞き耳を立てる。どうやら近くにあの女がいる気配はない。静かにベッドから立ち上がると壁に手を当てドアへと向かう。足は痛むが、支えがあれば何とかなりそうだ。
部屋のドアを少しだけ開ける。私の部屋と同様にドアの向こうも薄暗い。
ドアを開けた正面。十畳ほどのリビングの真ん中には、四人用の机が一つ。奥には本棚が見える。右手にはベランダに繋がっていると思われる大きなガラス窓が見える。どうりで薄暗いわけだ。その大きなガラス窓一面に、遮光性の磨りガラスになるようなフィルムが張られ、外の様子が分からないようになっていた。左手側の奥にはキッチンが見え、その奥には玄関に続く廊下が見える。
私はリビングに進み、本棚を見た。
『認知症とは』『認知症の人との関わり方』『優しい認知症の世界』『もの忘れ。怒りっぽい。妄想。徘徊。それって認知症なのかもしれない』……。
本棚の中には認知症に関する本がたくさんあった。そしてその本棚の上には、一枚の写真が飾られていた。アヤコと言ってた女の面影が残る幼い少女と、免許証で見た山城貞治の二人が笑顔で並んでいる写真。
私はその写真を手に取り、考えている時だった。玄関に続く廊下に面した、もう一部屋からアヤコが出てきた。
「あら、お父さん。起きたの?」
少し怯えたような声で話す女の姿と、手にしている写真を見つめる。
私は本当に山城貞治なのか?アヤコと名乗る女は私の娘なのか?
「お父さん。ご飯にしましょうか?お腹空いたでしょ?」
「……」
女は気を取り直したのか、キッチンに向かうと何かを温めだした。ちょっと前に作っていたご飯なのか、電子レンジの音と共に良い匂いがしてきて、私はお腹が空いている事に気が付いた。
「お父さん。そこに座って待ってて」
私が誰なのか。この女が何者なのか。答えは出ないものの、敵意の無い女の姿に、不安や恐怖心は感じなかった。私はアヤコの言う通りに椅子に座り、ご飯が来るのを待った。
程なくして私の前には、白い湯気に包まれたお粥と厚く焼かれた美味しそうなお肉が出てきた。
アヤコがお粥をスプーンで掬い、私の口元へと運んでくれた。私は無意識に口を開き、それを待った。
「あっつ」
「お父さん!ごめんなさい」
スプーンにのせられたお粥が熱く、口の中を火傷してしまった。アヤコが謝りながら肉を切り分け、再び口元へと運ぶ。
何故だろう。私は再び無意識に口を開けてしまう。
お肉は固く中々噛みきれず、火傷した口の中を刺激して酷く痛んだ。優しく世話をしてくれるアヤコには悪いが、熱いお粥。固い肉で口の中は傷だらけになり、食欲も失せた。アヤコの介助はお世辞にも上手とは言えず、私はアヤコからスプーンを奪い取った。そして自分でお粥を掬おうとした時だった。スプーンに反射して写った自分の姿に違和感を感じた。
不鮮明であるものの、それに写っていたのは見慣れた顔だった。
どう言うことだ?財布の中の免許証も部屋の写真も全て山城貞治だったのに、スプーンに写っていたのはよく知る私。喜村義隆だ。その事に気が付くと、さっきまで甲斐甲斐しく世話をしてくれていた、この女が気持ち悪い。
私はなにも言わず席を立ち玄関に向かう。此処から出なければ。
「お父さん。何処にいくの?」
女は低い声で私を呼び止める。
「此処から帰るんだ!」
もう我慢できない。痛む足を我慢し、玄関に向かう。
「帰るって何処に帰るのよ」
「家に帰るんだ!」
「お父さんの家は此処じゃない」
「違う!此処じゃない。此処じゃないんだ」
「お父さん。外はダメよ。また転んじゃう」
私が玄関に向かうより先に、女が玄関の前に立った。行き場を失った私は、先程女のいたもう一つの部屋に逃げ込む。
「あっそこは駄目よお父さん!」
玄関から響く女の声を無視して、私は部屋に飛び込んだ。
薄暗くカビ臭い部屋。
他の部屋と違い、ヒンヤリとして汚く、足の踏み場もない程散らかった部屋。
そして唯一綺麗なベッドの上には、小さな子供の
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