明日の空
ろくろわ
第1話 暗い部屋
酷い頭痛と鼻を突く、何とも言えない臭いで目が覚めた。
いつの間にか眠っていたらしい。重たい身体を起こそうとして、ふと違和感に気が付いた。
「……ここは何処だ」
自分が寝ているベッドと、引き出しの付いた小さな机が一つあるだけの薄暗く、見覚えの無い部屋。
掛けてある布団をはね除けベッドに腰掛ける。知らない誰かの身体の重みが
膝に手を当て立ち上がり、一歩踏み出したときだった。左足の付け根に鈍い痛みを感じ、声を出す間もなく私はそのままドンっと前に倒れこんだ。何だ、足が折れているのか?
「お父さん!大丈夫?」
その音を聞き付けたのか、見知らぬ女が足を引きずりながら部屋へと入ってきた。
「お前は誰だ!」
歳は五十代と言ったところか、私の怒号に、女は一瞬悲しげな顔をして立ち止まったが、再び駆け寄ってきた。
「お父さん。何を言ってるの?私よ、一人娘の
「アヤコだと?そんな名前は知らん!私の娘の名前は
ふらつく私を支えようと伸ばした女の手を強く払いのける。
「ちょっとお父さん。痛いです。そんなに怒らないで下さい」
「知るかそんな事!私はお前の事なんぞ知らん」
「そんな事を言わないで下さいお父さん。私は貴方、
「お父さんと呼ぶな!それに私は山城貞治ではない。
「……貴方がお父さんと呼べと言ったじゃないですか」
アヤコと名乗る女は俯き、私から距離をとった。
全く、気味が悪い。知らない場所で、知らない女が自分の事をお父さんと呼び、知らない姓名が貴方だと示す。この女に私が山城では無いことを示さなければならない。何か良い方法は無いかと女を見ながら考える。そうだ。財布の中に身分証がある筈だ。だが見渡す限り、財布がない。
「おいお前。私の財布を盗っただろう!さっさと返せ」
「お財布なら、いつもその消灯台の引き出しの中にしまうじゃありませんか」
女の指差す方。ベッド脇の小さな机の引き出しを開く。二つ折のくたびれた見覚えのある革財布。間違いない。これは妻から貰った財布だ。
「おい!これを見ろ」
私は財布を開き、目当ての免許証を取り出す。
「それがどうしたのですか?」
「それがって、よく名前を見てみろ」
「はい。山城貞治と書いてありますが」
「何だと……」
女に言われてしっかりと免許証をみる。
そこには見知らぬ初老の男の写真と山城貞治の名前。財布の中の診察券や氏名が書かれているものも、全て山城貞治と書かれていた。
「そんな馬鹿な」
「お父さん。きっと疲れているのよ。そうだお水を入れてくるので、お飲みになってはいかがですか?」
女はそう言いながら部屋から出ていき、直ぐにコップ一杯の水を持ってきた。確かに酷く喉が渇いていたが、怪しい女が見ている中ではどうにも直ぐ飲めない。女はそれを感じ取ったのか、そっと部屋から出ていった。
一人になり、ようやく肩の力が抜け、私はコップの水を飲んだ。随分と温い、ざらっとした美味しくない水だった。
水を飲み干すと私はベッドに再び横たわった。
起きてから分からない事だらけだ。
ここは何処なのか。
あの女は誰なのか。
どうして私の足が折れているのか。
そして私は一体誰なのか。
記憶を辿ると、私には確かに一人娘がいた。喜村義隆として過ごしてきた人生もある。と思う。だが此処に存在している私は山城貞治と呼ばれる。
私の記憶は迷路のように複雑に絡み合い、結局此処が何処なのか。私は誰なのか。結論が出ない。
そうしている内にベッドに身体が沈み、意識が少しずつ遠退いていく。
「……」
「……そう。多分混乱し……ると思うの」
「……」
「……認知症状……進んでいるのかも」
「……」
「大丈夫よ。ちゃんと出きるから……」
「……」
「私の事。忘れさせてなんか、あげないんだから」
ドアの向こうから、女が私の事を誰かと話している声が遠くに聞こえる。混乱?認知症?一体何の事だ。
私はその声をぼんやりと聞きながら、僅かに残っていた意識を手放した。
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