ピッツァのテークアウト

明後日諷子

第1話 不穏な鼓動

ぼやけた白色電燈の下でわたしは眼をいて夕空を見ようとすると必ず邪魔に入る窓の粉塵たちと窓のレール上で蠢き今に死に絶えんとしている蟲を見ていた。気がとられて固定電話が部屋に鳴り響いていたことに意識が向かずに蟲がとうとう死んだらしい朝になるまで窓に張り付いていた。

神田かんだ緋佳里ひかりがわたしの留守番電話にメッセージを残したのは大学が春休みに入って一週間ほど経った二月の中旬のことである。要件は三日後の月曜に緋佳里の家でピッツァを焼くからわたしにも来るよう要請するものだったがどうも最近流行りのオーブンレンジをアルバイトの労銀から捻出して購入したらしくせっかくだからお披露目でもしたいのだろうと思っていた。

わたしも緋佳里も南日本の出身で東京それも西日暮里にしにっぽり駅付近で一人暮しをしているために歩いて三十分もせぬ距離にお互い住んでいるから移動は面倒でないし断る理由も見当たらない。そして月曜午後六時九分を過ぎたことを確認して家を出たわたしは不忍しのばず通を北に向った。分厚く濃い雲が空に浮かんでいて時折肌を刺すような風が吹くもいやに鉄臭い香りを乗せている。卑屈そうに背を丸めて遠くに見える灰色の低層マンション目掛けて走った。薄黄色い光に照らされた外廊下を進んでインターホンを鳴らすとだらんと前髪を垂らした緋佳里が顔を出しいつにもまして狭く暗い玄関へとわたしを招き入れるのである。

中学第二学年次に同じクラスであった緋佳里の家へ出向くことはままあった。高校は別のところに進学したが大学の入学式で偶合してもうじき大学三年になるという時期になっても会っていたのである。緋佳里は誰かに面倒をかけてやるのが好きな性分だからわたしのことも中学生の時分より何かと気にかけており当のわたしからすればさして喜ばしいこととも言えぬのだけれど緋佳里には逆らえぬ事情があったからただ任せるにするほかなかった。黒々と光っている長髪を手で梳いて湿った唇を開ける。

「ピッツァ、今から焼くからちょっと待ってよね」

洗面台で手を洗いながら空返事をした。そうしてドア枠にもたれ音もなくわたしを見続けている緋佳里に玄関に並べてあったあの明らかな男物の靴が一体誰の所有物であるか聞こうか聞かまいか迷いけれどもその答は聞かずともいずれ分ることであるゆえあえて声帯でもって空気を震わす必要もないと緋佳里の脇を抜けて暮しのほとんどの役割を担う八畳一間に通ずるドアを開けたのだがそこにはいつも通りのこざっぱりしつつも随所に小物が多く色調も統一性がなくてそれでももう慣れっこだから気にもならぬ緋佳里の部屋があったものの緋佳里の部屋はなかったのである。緋佳里の部屋にはあってはおかしなものがあったのである。


すなわち古吉ふるよし康夫やすおである。


地上に揚げられた深海魚の如く突出した眼球には血脈が張り巡らされており周囲の一挙手一投足を一太刀に一網打尽せんと常にこれを動かしている男。やや開いた口の先に黄色い歯を立ち並ばせて卒倒必至の奇臭を漏らしている男。金属のチェーンが絡まった安物の布切れを果たして服と呼ぶことが通念上ありうるのか見解が分れそうな身なりをしている男。生来の悪逆極まりない性質と口臭で大学ではもはや大気のような扱いとなり「あれは鰥寡かんか孤独こどくでそのうち国から援けがくる」と噂が立つ男である古吉がローテーブルに堂々と坐っているのである。わたしが図らずも顔を歪めたのは彼の作り出す異臭空間にいることもそうだが緋佳里がかような男を家に連れ込んでいる――正確には連れ込んでいるのと同様の情況に何ら不満を持っていなさそうであったことが気に入らなかったためである。そうして自らの荒波をひたと内視すれば第三脳室で動き出した何かがわたしの神経を侵し喰い始めていることに気づいた。

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ピッツァのテークアウト 明後日諷子 @myogonichi2004

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