酷詩無想(こくしむそう)
萌(きざし)ハルキ
第1話
巧緻な透かし彫りが施された中華卓子の前に立ったまま、劉(リュウ)はますます熱心に話を続けた。棉品(メンピン)が店内に押し入ってから片時も手放さない青竜刀など目に入らぬかのように、いくつもの持論を展開する。今は、最近の若者について、強く憤っていた。
「最近の若いやつらは、『自分が世界を動かしている』と勘違いしておる。しかし、それは間違ったこと。そして、ひどく危険なことじゃ。なぜなら、やつらは増長しているから。いつ足元を掬われても、おかしくない状況にあるってことじゃ。
それを、ちっともわかっていない。世界は自分を中心に回っていると、勘違いしとる。もっとも、わしはそのことを、教えてやるつもりはないがね。そんな道理もないし、そもそも、わしみたいな「旧的人」の話なんて、聞く耳を持たぬだろうよ。
やつらが信じるのは金銭だけ。きっと、肉親の言うことにすら、耳を傾けぬことだろう。やつらにとって、肉親とはつまり、他者の一部なのだ。決してそれは、尊ぶべき存在ではない。そこには、儒教的な年長者を敬うという感情の余地はないんじゃ。
考えてみると、恐ろしい人種だ。完全にわしらとは違う。先人が守り続けてきたものを、やつらはいとも簡単に切り捨てた。世界から、ぷっつりと切り離されている。孤独じゃろうよ。なぜなら、この世界の中で、何も繋ぎ留めるものもなく、浮かんでいるのだから。
ひょっとしたら、それで金銭に固執するのかもしれん。金銭は増えた分だけ重たくなるからのう。浮ついたやつらの存在に、重みを与えてくれるのは、金銭だけというわけだ。それに引き換え、人の優しさや仲間意識なんて、重さを測ることができない。そういった形のないものに対しては、やつらは安心感を得られない。哀れな者たちじゃ」
劉はそういうと、籐製の椅子に力なく腰を下ろした。目の下のくまが黒く腫れ上がっている。それもそのはずだ。六十も半ばになろうとする年齢で、真夜中に二時間以上も熱弁を振るっているのだ。いくらこの街を牛耳る実力者であっても、肉体的な衰えは隠せない。
三十歳になったばかりの棉品でさえ、強く疲労を感じ始めていた。特に、青龍刀を持つ手が痺れ始めている。過度な緊張状態から、いったん両手を開放してやる必要があった。そこで棉品は腰の革帯に青龍刀を差し込むと、劉の前を離れて、店の茶箪笥から一番高級そうな茶葉を取り出した。
劉が携帯電話を持たぬことは知っていた。革表紙の住所録をひっくり返し、昔ながらの黒電話で発信するため、目を離した隙に助けを呼ばれる心配はなかった。手が開放されて一息つけた棉品は、気前よく急須に茶葉を押し込んだ。それ見て、劉が鋭い声を上げる。
「おい、棉品。その茶は高いんだ。そんなに使うんじゃない」
「劉老大に元気を取り戻してもらおうと思って……。美味い茶を飲むと、元気が出るから」
棉品は、劉の剣幕に押されて、弱々しく答える。それを劉はぴしゃりと撥ね付けた。
「元気なんぞ必要ないわい。どうせ、わしを殺すんじゃろ。だったら、情けなどかけずに、ひと思いにやったらどうじゃ。その方が互いに、時間の無駄をしないですむ」
「そんな、殺すだなんて……」
棉品は困惑して言葉を濁す。確かに棉品が受けている命令は、家督を譲り渡す誓約書に署名させた後は、物取りの犯行に見せかけて劉を始末することだった。けれども棉品にはそれができそうも無かった。なぜなら、劉は血の繋がった叔父だから。
そのうえ、劉は棉品が生まれ育った街、チャイナタウンの顔役だ。そんな偉大な叔父に、危害を加えることなどできるはずが無い。
棉品の揺れる気持ちなどどこ吹く風で、劉は差し出された茶を美味そうに啜りながら、話を再開する。青龍刀で脅されているにもかかわらず、その表情はまるで昔話でもするかのように穏やかだ。
「しかし、何て言うかな。この街の人間の魂も、地に落ちたものだ。そんなにも簡単に、人を裏切れるものかね。それも、親戚を。赤の他人じゃない。助け合うべき存在じゃ。それを裏切るとは、どんな気持ちだ? わしにはとうてい理解できない。なぁ、棉品、聞かせておくれ。私には難解すぎる。生きる世界が違いすぎるのか?」
「い、いや、そんなことは無いです。おれもこの街で生まれ、生きてきたし、それは、劉老大と同じです」
「だったら、何が違う? わしとおぬしとは、何が隔てているのだ? 同じ街に生まれ、同じ空気を吸い、同じ飯を食ってきた。まぁ、わしの方が、ちょっとばかり、上質な茶を飲んではいたかもしれないがな。年寄りの道楽じゃ。博打も酒もやらん。それくらいの道楽は許されるじゃろうて。
おっと、それからもう一つ大切な道楽があった。知りたがり、という道楽じゃ。自慢ではないが、わしは物知りじゃぞ。たいていの人間とは比べ物にならんほど、勉強しとる。子飼いの情報屋も、たっぷり養っとる。この街で起きたことなら、そのほとんどはわしの耳に届くようにできているからな。しかし残念ながら、全部ではない。ごく一部であるが、欠けている部分がある。
わしは、すべてを知りたいのじゃ。情報というのは、集まれば集まるほど、もっと集めたくなる。まさにそれは、情報が集約することで磁場を形成し、新たな情報を引き寄せようとするかのようじゃ。その力は途方も無い。想像も付かんことじゃろうが、痛みすら伴うほどの力となる。
その痛みを少しでも解消してくれぬか? おぬしをそそのかした者の名を教えてくれ。聞かせてくれたら、わしは素直にこの命を差し出そう。首謀者の名を知るということは、わしはもう生きては帰れぬ、ということだからな。正直なところ、わしはそれでも構わないと思っている」
「い、いや、待ってくれ。おれに命じた大哥(ターゴー)は、そんな人間じゃない。劉老大を傷つけようだなんて、思っちゃいない。心配しないでくれ。悪いようにはしないから」
棉品の言葉が終わる前に、劉は不意をついて問いかけた。
「大哥(兄貴)とな? おぬしが敬愛を込めて、大哥と呼ぶ者は、ただ一人しかおらん。古物商のせがれ、残駈(ザンク)がおぬしに命じたのか?」
その問いを投げられた棉品は、目を白黒させて黙り込む。その様子が雄弁に語っていた。ため息をつきながら、劉は諭すように言う。
「棉品よ。頼むから、もうちょっと、ましな演技をしておくれ。それでは、隠したことにならんぞ」
「お、おれは何も言ってない……」
言い訳がましい甥の言葉を無視して、偉大なる街の顔役は講義を続ける。
「いいか、棉品。上なんて目指さず、街の傘の下で生きるのなら、我慢強ささえ身につけていればいい。しかし、曲がりなりにも、既存の体制を転覆させようと目論んでいるのだろう。そんな大それたことをするのなら、もっとさかしくなれ。相手を欺くんじゃ。己の手の内を悟られるな。一瞬たりとも気を抜いてはならん。たとえ、仲間と一緒にいるときでさえ、油断してはならない」
「そ、そんなこと言ったって」
劉は吐き捨てるように言う。
「ふん。確かに、おぬしに言っても仕方ないことかもしれんな。この際、はっきり言っておこう。残念ながらおぬしは小物だ。上に行くための器が無い。親の教育が悪かったのか、切磋琢磨するような生育環境に無かったのがいけなかったのか……。
ところで、残駈は、そんなに、この地位が欲しいのかね。そんなに魅力的なものとは思えんがな」
馬鹿にしたような劉の言い草に、上を目指したい若者はむきになって答える。
「それでも劉老大は、その地位を半世紀にわたり独占してきた。魅力があるかないかは、それが何よりの答じゃないか」
「馬鹿を言うな。独占なんて、とんでもない。放り投げられるものなら、とっくの昔に、こんな役目は投げ捨ててたわい。それができんから苦労しとる。
誰がここまで、この街を発展させてきたと思ってる? おぬしがおしめを当ててる頃から、わしは街のために尽力してきた。それは、私利私欲のためじゃない。家族や街の仲間を守るために、寝る間も惜しんで働いてきたんじゃ。
なぜなら、わしらは自分の祖国を持っておらん。この国にあっては、他所者扱いされ、かといって、中国本土には、帰るべき故郷などありはせん。だからこそ、この街を必死に守ってきた。その苦労を若い世代は知らん。物心付いたときから、豊かな生活に囲まれていたのだから。
わしらはな、茶の代わりに、藁を煮出したものを飲んできたんじゃ。腐りかけの饅頭を嬉々として頬張ってきた。そうやって、この街を作り上げてきた。それを、おぬしたちのような苦労も知らぬ若造どもに、みすみす任せられると思うのか」
「過去の苦労なんて、今の暮らしとはまったく関係ないんだ。そんな暗い話、とっとと忘れて、新しい指導者が、新しい街を作るべきなんだ」
棉品の言葉に、劉は激怒して立ち上がると、こぶしを握り締めて怒鳴りつける。
「そんなことを簡単に口にするもんじゃない。この街のために、どれだけの血と汗と涙が流されてきたと思ってるんじゃ。先人のおかげで、今の暮らしがあるんじゃぞ」
「だったら、良いじゃないか。先人たちも、喜ぶだろうよ。先人の遺伝子を受け継いだ我々次の世代が、この街をもっと発展させる。古臭いやり方は、みんな排除するんだ」
いくら話しても、言葉の届かない甥の様子に、劉は悲しげな目をして言う。
「目を覚ませ、棉品。おぬしは残駈に騙されておる。おぬしはわしの甥なのだ。こんなことをしなければ、平穏に暮らしていける。身の丈に合った生活に満足するのじゃ。高い梯子は倒れやすいってことが、なぜわからん? 今の仕事と生活を大切にするんじゃ」
「こんな、くそみたいな仕事が、か? 朝は市場で食材を仕入れて、昼は厨房で皿洗い。そんな単純作業の繰り返しだから、給料はいつまでたっても上がらない。一人娘の有々にだって、もうちょっと、ましな服を買ってやりたいんだ。こんな端っこの仕事じゃなくて、もっと大きな仕事が欲しい。こんな仕事じゃ、家族を養えない」
「それで計画に乗ったのか? 街のしきたりを無視した、無謀な計画に。そもそも物事には順序というものがある。わしが今の地位を退くとき、その跡目を継ぐのは、翔三(ショウサン)厳(ゲン)ということが、長老会で内定されておるのじゃ。長老会での決定事項を、わしの一存で覆すわけにはいかん。世の中は、すべて規則なのじゃ。規則なくしては、この街を守ることなどできやせん」
「……」
棉品は驚愕の表情で言葉も出ない。劉はさらに言葉を続けた。
「その様子では、長老会の決定事項すら、知らなかったようじゃな。調査不足じゃ。そもそも残駈は何を約束した? 店の一軒でもくれると言ったのか?
いっとくが店を持つということは、それは大きな苦労が伴うものじゃ。人を使うのは、人に使われることの何倍も難しい。何より、人の上に立つためには、それ相当の器が求められる。そして残念なことに、今のおぬしには、それだけの器が備わっていない」
「そんなこと、やってみなきゃ、わからないだろ」
「やらんでも十分わかるさ。こんな、勝ち目の無い喧嘩に乗っかるような、大馬鹿者に、器などないわい」
「な、何を。いくら、劉老大だからといって、馬鹿にするのもいい加減にしろ。脅しじゃないんだ。本物の青龍刀なんだぞ。本当は大哥から、劉老大を殺すように言い付かっているんだ。でもおれは、それを避ける方法を懸命に考えていたんだ。そんなおれのことを、馬鹿呼ばわりするだなんて、どういうことだ。今の言葉を取り下げろ。でないと……」
熱くなる棉品に比べて、劉は岩のように微動だにせずに問う。
「でないと、どうする? わしを殺すか? 言っとくがのう。それで、すべてが解決するとは思っとらんよな。それほど、物分りの悪い子ではあるまい。末端とはいえ、おぬしは劉一族じゃ。家督であるわしを落胆させないでくれ。
万一、おぬしがわしを殺した場合、尊属殺人という大罪により、この街は、おぬしとおぬしの家族を排除することだろう。年長者を敬えという、儒教の精神に真っ向から反する行為じゃからな。
つまり、こうだ。おぬしはわしを殺したとしても、役目を果たすことができないし、そればかりか、この街での住処を無くす。この街から切り捨てられるということは、おぬしとおぬしの家族は、この地球上から永遠に排除されるということだ。
それだけの覚悟のうえで、ここに来ているんだろうな、と聞いておるのじゃ!」
劉の声が朗々と店内に響き渡る。その気迫に棉品は圧されて、一歩、二歩と後退りした。それでもどうにか踏み留まり、棉品が反論しようとしたとき、従業員通用口の鍵を開錠する音がした。身を硬くする棉品。そんな甥に諭すように劉は語りかける。
「窓の外を見てみなさい。暁じゃ。店の仕込みは朝が早い。もうそろそろ従業員が出勤してくる時間じゃ。残念だったな。これで、おぬしらの儚い夢は、消え失せた。だから言ったじゃろ。読みが甘いんじゃと」
「長々と喋っていたのは、時間稼ぎだったのか?」
苦々しく棉品は問う。にこりともせずに、劉は答える。
「まぁ、半分はそうじゃ。そして半分は、おぬしに伝えたかったことを話したまでだ」
「くそっ」
そう言い残すと、棉品は踵を返し、厨房の奥にある搬入口へ向けて走り出した。入れ替わるようにして、早番の従業員たちが入ってくる。彼らの挨拶に鷹揚に答えてから、劉は店の電話に向かった。
昔ながらの黒電話の受話器を上げると、住所録を見ながら数字円盤を回す。夜明け前という時間にもかかわらず、まるで指示を待っていたかのように、電話の相手はすぐに出た。劉は低い声で言う。
「翔三厳か? ああ、わしじゃ。朝早くにすまんな。実は、おぬしに頼みがある。残駈とその一派を、亡きものにしてくれ。うむ、そうじゃ。やつらは、この街の秩序を乱した。やり方はおぬしに任せる。それから仕事の報酬だが、わしの地位をおぬしに譲ろう。いや、構わん。いずれ、おぬしに譲ることが決められていたんじゃ。その時期が、ちょっとばかり早まったに過ぎん。では、よろしく頼むぞ」
電話を切ろうとして、劉は相手を呼び止めた。
「ちょっと、待ってくれ。ひとつ言い忘れたことがある。残駈の一派には、わしの甥も含まれておる。……できるだけ、苦しまない方法にしてやってくれ」
そう言うと、劉は重たそうに受話器を置いた。その背中は、たった一本の電話をかけただけで、十歳も老け込んだかのようだった。
過度な疲労で霞み始めた目を窓の外に向けると、街は新たな朝を迎えようとしていた。路地のあちこちに捨てられたごみ屑。塗装の剥げかかった飲食店の看板。これらが、否応なく朝日の下に照らし出される。この街は、この時間が一番醜いと、劉はいつも感じていた。夜のネオンの下では巧妙に隠匿されていた、チャイナタウンの真の姿。汚いものを見たくはなくて、劉は目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、幸福だった日々の思い出。
劉は久しぶりに中国の童謡を口ずさんだ。就学前の棉品が、好んで歌っていたものだ。人見知りだが、素直で可愛らしい子どもだった。子どものいない劉にとっては、一族の血を繋いでくれるはずの存在だった。大切に、大切に育んで来た。
劉の一族であるにもかかわらず、一番の下働きをさせていたのも、貧弱な棉品の性根を鍛え上げるためであった。しかしもう、棉品はいなくなる。だから、棉品の代わりに、劉は童謡を口ずさむことにした。
海鳥去 (海鳥は行く)
一路飛翔 (どこまでも飛んで行く)
隔海相望 (海を越えて)
超越國家 (国を越えて)
拋棄故鄉、飛走 (故郷を捨てて飛んで行く)
到最東邊的國家 (東の端の国に)
建造新家 (新たな住処を作り)
我永遠不會回到我的家鄉 (二度と故郷へは戻らない)
古き日の童謡を口ずさみながら、劉は肩を震わせて、朝日の中で静かに涙した。
酷詩無想(こくしむそう) 萌(きざし)ハルキ @kiza_halu
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