第2話 新たな依頼
コケコッコー!コケコッコー!
木製の古時計が不恰好な鶏の声で朝を知らせる。目覚めるたびに思う。この気持ちの悪い音が、俺の朝を最悪にしている原因じゃないかと。寝覚めが悪いわけではないが、どうにも気分が重い。次こそはもっと爽やかな音を知らせてくれる時計に変えたいものだ。頭を振って布団を抜け出すと、ぼやけた意識を抱えたまま水場へ向かった。
宿の裏手にある井戸で顔を洗う。冷たい水が容赦なく肌を叩き、眠気を一気に吹き飛ばした。タオルで顔を拭きながら、水面に映る自分の顔をじっと見る。黒い髪、黒い瞳。それを見るたびに、否応なしに思い出させられる。自分が何者であるのかを。
「もう過去とは決別しただろ?」
そう頭の中で自問自答する。この姿が目に入るたび、何度も何度もそう言い聞かせてきた。それでも、水面に揺れる像は決して問いかけるのをやめない。過去はしつこくまとわりつくものだ。
深い息をつき、水面から目を離す。季節は暖かくなり始めているというのに、朝の冷たい空気が頬に沁みる。さっさと中へ戻ろうと踵を返したその瞬間、頭に軽い衝撃が走った。
「おっはよーう、レイン!寝ぐせついてるよー!」
後ろから明るい声が響き、頭をぽんと触られる。振り返ると、栗色の髪を後ろでまとめた少女、リアがにやりと笑って立っていた。霧の中で彼女の笑顔がやけに映えて見える。
「リアか。おはよう。朝から元気だな。」
「ふふっ、まだ寝ぐせ治ってないよー。びよーんってなる。かわいい。」
リアはくすくす笑いながら、俺の髪をいじり始める。彼女の指先が不規則に髪を引っ張るたび、軽い痛みとくすぐったさが入り混じる。朝から面倒だが、好きにさせておく。だが、あまりにもしつこいので、やがて我慢できなくなった。
「なあ、リア。そろそろやめてくれないか。」
軽く注意すると、リアは「えへへ、ごめんね。」と笑いながら手を引っ込める。その笑顔はいたずらが成功した子供のようだ。少しだけ胸の奥が温かくなる感覚に戸惑う。
「でも、ちゃんと直さないとみんなに笑われちゃうよ。」
リアの言葉に思わず眉をひそめる。あれだけいじらせたのに、まだ寝ぐせは治っていないらしい。まったく反省の色が見えないが、追及する気力もない。
「あ、そうだ!お父さんが朝ごはんできたよーって。早く行こう!」
そう言って、リアは俺の手を掴み、有無を言わせず引っ張り始めた。彼女の手の温かさと、小さな力ながらも確かな引っ張る感触が伝わる。
「わかった、わかった。引っ張るなって。」
彼女の勢いに苦笑しつつも、抵抗する気は起きなかった。やっぱりリアにはかなわないな。
霞の宿の食堂に入ると、食欲をそそるいい匂いが鼻腔をくすぐる。焼き立てのパンの香ばしさと、スープの温かみのある香りが混ざり合い、空腹が一層刺激される。リアの父親であり、この宿の店主であるバーナーがカウンター越しに朝食の皿を置いていた。
「おはよう、レイン。飯はできてるからさっさと持っていけ。」
バーナーはキッチンの奥で忙しそうに動きながら、ぶっきらぼうに言う。筋骨隆々の巨体に、似つかわしくない花柄のエプロンを身に着けた姿は何度見ても慣れない。風格のある傷跡のせいか、彼の見た目はどう見ても戦士だが、このエプロン1つで印象が台無しになっている。だが、このエプロンがリアの手作りだと知ってから、妙に微笑ましく思えるようになった。
「ほれ、リアの分も持ってけ。さっさと食え。」
「はーい!」
リアは気の抜けた声で返事をし、自分の分を受け取ると席に向かう。バーナーは俺に向かって大きな手を叩いて促した。
「何ぼーっとしてる。あんたも早く食えよ。今日も依頼があるんだろ?」
「ああ、そうだった。ありがとう、バーナーさん。」
「礼なんざいらねえよ。あんたには世話になってるからな。」
そう言い残すと、バーナーは再び厨房へと消えていった。だが、実際に世話になっているのはこちらの方だ。ノヴァリスに来たばかりの頃、右も左もわからなかった俺に手を差し伸べてくれたのが彼だ。それ以来、持ちつ持たれつの関係が続いている。
リアが座ったテーブルに向かうと、彼女が「こっちこっちー!」と手を振っている。朝食が乗ったトレーを持ち、彼女の向かいの席に腰を下ろした。
「いただきます。」
朝食はいつも通り黒パンとシチューだが、今日のシチューはクリームシチューだった。濃厚な味わいが硬い黒パンにもよく合い、一口ごとに幸せを感じる。リアと向かい合わせに食べながら、ふと彼女がじっとこちらを見つめていることに気づいた。
「ん?どうした。寝ぐせなら直しただろ?」
問いかけると、リアは口元を綻ばせながら首を振る。
「最近、どうなんだ?結構忙しそうにしてるけど」
「それがね!最近学校のダンスのレッスンがしんどくて。私運動音痴とかじゃないけど、ダンスは苦手みたいで。すごい大変なの」
「ダンスのレッスン?なんでそんなことしてるんだ?」
「9月に成人の儀があるの。私来週の誕生日で15になるでしょ?成人の儀の舞踏会のためにダンスの練習しないといけないの。って、これまえにもいったでしょ!」
リアは頬をぷくっと膨らませ、ぷんぷんと怒った仕草をする。頬を膨らませるのはお決まりのポーズらしく、怒りながらもどこか可愛らしい。成人の儀。そうだった。すっかり忘れていた。リアは来月が誕生日だ。
「もう!忘れちゃうなんて……レインのバカ!鈍感!」
リアは椅子に背中を預けながら、スプーンをテーブルに置いてぷいっと横を向く。
「えぇぇ……」
俺は彼女の視線を受け止められず、苦笑いを浮かべながら頭を掻く。なんでそこまで怒るんだ?と戸惑う気持ちがある一方で、怒らせた自分が悪いのは分かっている。機嫌を直してもらうにはどうしたらいいだろう?
「悪かった。来週誕生日なんだろ?街へ一緒に出掛けて、買い物に行こう。リアのプレゼントを買いに」
そう提案すると、リアは一瞬ぱっと明るい笑みを浮かべた。けれど、それをすぐに隠すかのように不機嫌な顔に戻る。
「ちがーう!そうじゃないの!……それもいいけど。とにかくそういうことじゃないの!」
そう言って、残りのシチューを一気に流し込むと、「ごちそうさま」と小さく呟いて席を立った。そして、トレーを返しに行くとそのまま出て行ってしまった。俺は訳も分からず、一人ぽつんと食堂に取り残された。
食事を終え、俺もトレーを返しに向かう。食堂には次々と宿泊者たちが朝食を食べに入ってきている。小さな窓から差し込む朝日が、食器の金属に反射してきらきらと輝いていた。焼き立てのパンとスープの香りが鼻をくすぐり、静かだった空間が徐々に賑やかになっていく。時間は7時を迎えようかというところだ。この時間帯でこれだけの人が集まるのも納得がいく。
厨房に目を向けると、バーナーさんが大鍋をかき混ぜながら、テキパキと忙しそうに立ち回っている。声をかけて朝食が美味しかったと伝えたかったが、今の彼は手が離せそうにない。仕方なく、感謝の言葉は胸の中にしまい、俺も部屋へと戻ることにした。
部屋へ戻れば、冒険者ギルドが開く8時過ぎまで少しの時間がある。ゆっくりと準備を進めるとしよう。
霞の宿から数分歩くと、冒険者ギルドの建物が見えてくる。街役所のような白を基調とした堅牢な外観で、最初に見たときはイメージしていた冒険者ギルドとはかけ離れた姿に驚いたものだ。ごつごつした派手な建物を想像していたが、国が運営する組織だと聞いて納得した。
ギルドの扉を開けると、開館直後にもかかわらずちらほらと冒険者たちの姿が見える。受付へ向かうと、そこにはウェーブのかかった桃色の髪をなびかせるミネルヴァがいた。
「おはようございます、レインさん。」
「おはよう、ミネルヴァさん。」
彼女の柔らかな微笑みに、少し気が楽になる。ミネルヴァは冒険者ギルドの受付嬢として、いつも丁寧な対応をしてくれる。
「今日はどんな依頼がありますか?できれば魔獣討伐系が手っ取り早くていいんですが。」
「申し訳ありませんが、レインさんにご紹介できそうな魔獣討伐の依頼は現在ありません。」
「どういうことだ?」
「最近、ノヴァリス周辺で今まで見られなかったような強い魔獣の目撃報告が相次いでいます。その影響で、本来いた魔獣たちが追いやられてしまっているようなんです。」
ノヴァリスのような大都市の近くでは基本的に草食の魔獣や気性の穏やかな魔獣が多い。それが追い払われるほどの強い魔獣が現れたということか。
「つまり、さらに強い魔獣が住処を奪い、ノヴァリス周辺に流れ込んできているということか。」
「その可能性が高いですね。ギルドの上層部でも調査が進められているようです。」
ミネルヴァの言葉にうなずきつつ、俺は軽く礼を述べて受付を離れる。依頼がないとなると、貯蓄を切り崩す生活を余儀なくされる。これは思った以上に厄介な状況だ。どうすればいいか考え込んでいると、背後から聞き慣れた声が響いた。
「お困りのようだな、レイン。」
振り返ると、赤髪にバンダナを巻いた男、フェンが立っていた。軽装の革鎧に短剣を腰に差したシンプルな出で立ちで、いかにも手練れといった雰囲気だ。その余裕のある笑みが、彼の自信を物語っている。
「フェンか。何度も言ってるが、お前のパーティーに入る気はないぞ。」
「それは残念。でも今日はその話じゃねえ。依頼がなくて困ってるんだろ?俺たちが今受けてる依頼を手伝ってくれねえか?」
「手伝い?どんな依頼だ?」
「ああ、最近発見された古代遺跡の調査だ。お前が手に入れたものは全部お前の取り分でいい。一緒にどうだ?」
「古代遺跡の調査……?」
条件が良すぎて、つい裏があるのではないかと考えてしまう。そんな俺の表情を読んだのか、フェンが肩をすくめる。
「そんなに疑うなよ。裏なんてないって。」
「本当に?」
「本当にだって。」
「ほんとぉに?」
「だあっ、しつけえな!親切心だよ!」
フェンがふてくされるのを見て少し笑いがこみ上げるが、その時、フェンの後ろから一人の女性が現れた。
「まったくフェン、普段の行いが悪いから信用されないのよ!」
現れたのは黒髪をポニーテールにまとめた女性。鎖帷子の上に軽いマントを羽織り、腰には使い込まれた剣がぶら下がっている。その鋭い目つきは、これまでの冒険で培われた自信を感じさせる。
彼女は剣の鞘でフェンの頭を軽く叩き、彼を沈黙させた。
「ねえ、レイン。こんな奴ほっといて、私たちと遺跡調査に行かない?」
少し冗談めいた調子で笑みを浮かべるが、その瞳は真剣だった。その時、腰のあたりに柔らかな衝撃を感じた。
「レイン、いっしょにいこ。」
白い髪の少女ミーニャが俺に抱きついてきている。淡い青色のローブを身にまとい、背負った杖が彼女の小さな体には少し大きく見える。無邪気な表情で見上げる彼女に、ため息が漏れた。
「お前ら……しつこいぞ。」
後ろに下がろうとした瞬間、硬い壁のようなものにぶつかる。見上げると、巨漢のガロンが立ちはだかっていた。重厚な鎧をまとい、その背には巨大な戦斧を背負っている。威圧感はあるが、穏やかな表情が彼の人柄を物語っていた。
「レイン。お前に逃げ場はない。」
「ガロン、お前まで……?」
三人に囲まれ、ついに観念せざるを得なかった。
「わかった、受ける。受けます。手伝わせていただきます。」
「おっ、そうこなくちゃな!」
フェンが満足げに手を叩き、周囲も笑顔を見せる。これで当分の金策はなんとかなりそうだ。
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