第1話 予兆

 木々の中を足音を殺して進む。魔獣に気づかれないよう、息さえ控えめにしながら。薄暗い森の中、微かな光を頼りに目を凝らし、周囲を探る。


(見つけた!)


 心の中でつぶやく。視線の先には、生い茂る木々の間をゆっくりと動く灰色の毛並みを持つ熊—灰熊だ。その巨体が静かに揺れる。獲物を探しているのか、それとも単に森を徘徊しているだけなのか。まさか、自分が狩られるとは夢にも思っていないだろう。


 慎重に距離を詰め、腰に携えた剣の柄にそっと手を添える。そして、息を整えた一瞬の隙に剣を抜き放ち、灰熊の背中へ突き立てた。鋭い刃が分厚い毛皮を貫き、骨に届く。灰熊は不意を突かれ短い咆哮を上げるが、その巨体が地面に沈むのに時間はかからなかった。短い抵抗を試みるも、やがて完全に動かなくなる。


 息を整えながら、灰熊の動きが止まったのを確認し、安堵の息を漏らす。緊張感が全身を覆っていたせいで、汗が背中を伝っていくのがわかる。この方法なら安全に仕留められるが、張り詰めた神経を保ち続けることには慣れそうもない。自分にはあまり向いていないやり方だと苦笑する。


 手際よく灰熊の毛皮を剥ぎ取り、傷つけないよう丁寧にバックパックにしまう。これで二匹目だ。しかし、依頼を完遂するには五匹分が必要だ。気を引き締め直し、再び森の中へ足を踏み入れる。


 五匹目を仕留めた時、身体中に疲労が広がっていた。木陰で腰を下ろし、ようやく大きく息をつく。


「ふー、依頼かんりょーう!」


 思わず声を漏らしながら革製の水筒を取り出し、乾いた喉を潤す。紫の花が一面に広がる美しい花畑が視界に飛び込んでくる。聖蓮の香りが漂い、魔獣を寄せ付けない穏やかな空間。だが、その静けさは突如破られた。


 森の奥から鳥たちが一斉に飛び立ち、空を黒く染める。異常な光景に眉をひそめたその瞬間、雷鳴のような轟音が耳を打ち、大地が激しく揺れ始める。


(地震だ!)


 反射的に身を低くし、揺れが収まるのを待つ。しかし、揺れは次第に激しさを増し、身体が浮き上がりそうなほどの衝撃に襲われる。必死に耐えながら、森の奥から立ち上る煙が目に入った。


(何が起きてる?)


 警戒心と興味が交錯する中、足が自然と煙の方向へ向かう。森を抜けると、そこには焼け焦げた大地が広がっていた。辺り一面、木々の残骸が散乱し、巨大な穴が地面を穿っている。その中心に立つ異形—人影のように見えるが、明らかに人ではない。


 背中に広がる黒い翼、頭には角。その姿は御伽噺に語られる悪魔そのものだ。しかし、その雰囲気にはどこか神聖なものすら感じられる。目を奪われたまま身動きが取れなくなる。


(なんだ、あれは…?)


 祈るような気持ちで木陰に身を隠し、気づかれないことを願う。しかし、次の瞬間、視界から異形が消えた。


「そこで何をしている。」


 低く響く声に心臓が跳ねる。振り返ると、そこには異形が立っていた。背中に翼、頭に角。その黒い瞳は、まるで魂の奥深くを覗き込むような視線だ。その圧倒的な存在感に、全身が震える。


「振り向け。」


 命令のようなその声に、全身が硬直する。恐怖が足をすくませ、体が言うことを聞かない。足音が近づくたびに心臓が跳ねる。


「顔を見せろ。」


 震える手で頭を抱えながら、ゆっくりと顔を上げる。視線が交わった瞬間、異形の赤い瞳がこちらを射抜いた。その視線には冷たさだけでなく、何かを探るような焦りが垣間見えた。


「……お前は、うっ!ぐあぁぁあ!」


 異形は短く言葉を漏らした後、突然頭を抱えて苦しみ始めた。


「お前は誰なんだ……?なぜ見覚えがある……?ぐぅっぅ……俺は一体……何者なんだ……?」


 苦悶の声を上げながら、異形はふらふらと空へ飛び去って行った。その場に残されたのは、焼け焦げた大地と、異形の足跡だけ。極限の緊張から解放されると、俺は息も絶え絶えにその場に崩れ落ちた。


 静寂が戻った森の中で、ただ自分の鼓動だけが響いていた。





 震える足を引きずるようにして街へ戻る。ノヴァリスの街が近づくにつれ、周囲の自然は徐々に人の手が加えられた景色へと変わっていく。門をくぐると、街は地震の影響で騒がしい雰囲気に包まれていた。建物自体に大きな被害は見られないが、人々が通りで話し込んだり、片付けを始めたりと、いつもの活気とは異なる慌ただしさが漂っている。


 背筋に冷たい汗が流れる。胸の奥で不安と焦りが混ざり合い、頭を離れないのは、先ほど出会った異形の存在だ。地震とあの存在は関係があるのか?街に危険が及ぶ可能性は?直接的なことを聞くことはできないが、状況を把握するためにも、まず冒険者ギルドで話を聞く必要がある。


 

 足早に冒険者ギルドへ向かう。気持ちが急かされる中、広場に面したギルドの外観に目立った損傷は見られなかった。それにわずかな安堵を覚えながら中に入ると、忙しない空気が全身を包む。職員たちは次々と書類を運び、受付では冒険者たちが次々に対応を求めて声を上げていた。その中で、ウェーブのかかった桃色の髪が忙しそうに揺れている。ミネルヴァだ。


「ミネルヴァさん、今ちょっといいですか?」


 声をかけると、彼女は手を止めてこちらを見上げた。一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに柔らかい微笑みを浮かべる。その直後、受付の椅子の脚に足を引っ掛けて、わずかによろける。何とか姿勢を立て直し、赤くなった顔で気まずそうに笑った。


「あっ、レインさん。お疲れ様です!すみません、ちょっと慌てちゃって……」


「いえ、大丈夫です。それより、街はどうですか?被害は大きくないみたいですけど……」


「ええ、建物は無事なところが多いですけど、ここまで大きい地震は初めてだった方が多いみたいで、少し混乱していますね。それに、街の様子もまだ落ち着いてなくて……。」


 彼女は言葉を選びながら、ちらりと机の上の書類を確認する。その仕草に慣れた様子が見え隠れする一方で、落ち着きのなさも伺えた。


「何か変わったこととか、妙な噂とかありませんか?」


 ミネルヴァは一瞬考え込むように眉をひそめたが、すぐに首を横に振る。


「いえ、特には……。でも、何か気になることがあったら教えてくださいね。」


「あ、はい。ありがとうございます。」


 レインは少し躊躇いながらバックパックを下ろし、中から灰熊の毛皮を取り出した。


「あの、これ……依頼分の灰熊の毛皮です。こんな時に報告するのは申し訳ないんですが。」


 ミネルヴァは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。


「いえ、そんなことありません。こうしてお仕事を全うしていただけるのは本当にありがたいです。」


 彼女は丁寧に毛皮を受け取ると、その質感を確認しながら感謝の言葉を続けた。


「すぐに記録しますね。少々お待ちください。」


 レインが椅子に軽く腰掛けると、ミネルヴァは手際よく書類を取り出し、毛皮の受領記録を書き始めた。


「さっそく記録しますね!」


 彼女は手際よく書類を取り出し、毛皮の受領記録を書き始める。その間も何度か顔を上げて、こちらに笑顔を向けた。ミネルヴァと話をしているうちに、胸を締めつけていた不安が少しずつ薄らいでいくのを感じた。彼女の明るい声と、どこか天然な仕草が緊張を解いてくれるようだった。


「そういえば、街の復興作業が進んでいるんですが、そのお手伝いをお願いしているんです。一部の冒険者の方にはギルド長の屋敷の瓦礫撤去をお願いしていて……」


「ギルド長の屋敷、ですか?」


 ミネルヴァは少し申し訳なさそうに笑った。


「はい、あの豪華な建物が今回の地震で少し崩れてしまって……。それで、急遽お願いすることになったんです。」


 レインは軽く眉をひそめる。ギルド長のわがままで自由奔放な振る舞いが頭をよぎる。何度も振り回され、呆れるほどだ。


「俺に、その瓦礫撤去を手伝えって言うんですか?」


「……はい。ギルド長の命令で……。報酬も出ますので、ぜひお願いします。」


 ミネルヴァの声は申し訳なさそうに少し小さくなった。その表情には、何度もこのような状況に振り回されてきたことへの諦めがうっすらと滲んでいる。レインは拳をぎゅっと握り締め、苛立ちを言葉に変えた。


「あんのじじいぃ!俺ら冒険者たちをこき使いやがってぇ……!」


 レインの声は少し熱を帯びていた。だが、目の前のミネルヴァが気まずそうに目をそらしたのを見て、息を吐き出して気を落ち着ける。


「すみません、ミネルヴァさん。つい、かっとなっちゃって。」


 ミネルヴァは困ったように笑みを浮かべながらも、わずかに眉を寄せた。


「いえ……でも、そうですね。私も正直、何と言いますか……うまく言えませんが、もう少しギルド長には……」


 言葉を濁す彼女の表情には、ほんの少し抑えきれない感情がにじんでいた。レインはその顔を見て、再び肩の力を抜いた。


「……わかりました。俺がやりますよ。仕方ないですから。」


 ミネルヴァは少し驚いたように顔を上げると、安心したように微笑んだ。


「ありがとうございます。本当に助かります。」


 その一言には、ミネルヴァの人柄が滲み出ているようだった。レインは彼女の言葉に少しだけ気持ちを和らげながら、ギルドを後にした。




 ノヴァリスの中心には街役所がいくつかあり、その横には街の役員たちが住む区画がある。その一角に、一際目立つ屋敷がそびえ立っている。それが、ギルド長の屋敷だ。


 豪奢というよりは悪趣味。高いもの、目立つものが好きな性格を反映するかのように、屋敷には無意味に高い塔が建てられ、入口には若かりし頃のギルド長を象った金像が鎮座している。その金像もまた、ギルド長の自己顕示欲を象徴するかのようにギラギラと輝いており、周囲の落ち着いた邸宅群の中でひどく浮いている。


 普段はその異様な姿にギルド長の性格が滲み出ていて辟易とするばかりの屋敷だが、今日は地震によってその光景が一変していた。屋敷自体は頑丈に作られていたため倒壊を免れているが、無駄に高いだけの塔は崩れ、屋敷の一部を潰す形で瓦礫と化している。煌びやかだった外観も土埃に覆われ、見る影もない。


 “ざまあみろ”、そんな言葉が思わず口から出そうになるのを飲み込みつつ、俺は冒険者としての責務を果たすため、瓦礫撤去の現場に向かう。既に他の冒険者たちが作業を始めており、俺もすぐに手を動かし始めた。ギルド長の姿が見えないのが少し癪に障るが、いない方が仕事が進むのも事実だ。


 瓦礫を片付けながら、他の冒険者たちから聞いた話では、街中での救助活動や復興作業に多くの人員が割かれており、ここに集まったのは限られた人数らしい。それでも、瓦礫撤去は順調に進み、やがて作業が一段落した頃、ギルド職員が水を配りながら感謝の言葉を伝えて回る。


「お疲れ様です。皆さんのおかげで作業が順調に進みました。本当にありがとうございます。」


 俺は差し出された水を受け取りながら、瓦礫の山を眺める。これほどの惨状になってもなお、半分以上は原型を留めている屋敷を見ると、呆れとともに少し惜しい気持ちが湧いてくる。


(今なら瓦礫の撤去と称して、もう少し壊しても誰にも気づかれなかったんじゃないか……)


 そんなことを考えつつ水を飲み干し、作業が終わった安堵感に浸っていると、突然屋敷の方が騒がしくなった。何事かと振り返ると、まだ崩れずに残っていたバルコニーに二人の男女の姿が見える。男は女の腰を引き寄せ、耳元で何やら囁いた後、女は後ろに下がり、男が一歩前に出る。


「お疲れさまだ、冒険者諸君!」


 特徴的な髭に下品なほど煌びやかな服装を身にまとい、小太りで腹が出た中年男。あのやけに自信満々な態度——ギルド長、フィリップ・ベルメールだ。


「私の大事な屋敷のこの惨状を、ここまで早くきれいに片づけてくれるとは。冒険者ギルドノヴァリス支部5代目ギルド長、この私、フィリップ・ベルメールが誉めてやろう!よくやった!」


 フィリップは高らかに笑い声を上げる。姿を現すタイミングも、その場に漂う空気もすべてが彼らしい。俺は先ほどまでの疲れを忘れて、怒りを抑えるのに必死だった。


「報酬の方だが……この私のために働けるのだ!非常に光栄なことだろう。この貴重な体験こそが君たちへの報酬だ!」


 何を言いすのかと思えば、予想通りの馬鹿げた発言だ。俺たちが汗水流して作業している間、彼は屋敷の残った部分で酒を飲み、さっきの女と戯れていたのだろう。顔の赤さと上機嫌な様子がそれを物語っている。


 周囲の冒険者たちも冷ややかな目を向けているが、フィリップにはその視線すら届いていないようだ。俺の中で怒りがふつふつと沸き上がる。


(いっそこの瓦礫の中に埋めてやった方が、街のためになるんじゃないか?)


 そんな考えが頭をよぎるが、それを行動に移す前に、さっき水を配っていた職員がフィリップの元へ近づき、何やら耳打ちをした。すると、フィリップの表情が一変する。最初は不機嫌そうだったが、次第にその態度を改め、再び冒険者たちに向き直る。


「ま……まあ君たちはいつもよく働いてくれてるからな。その感謝として、報酬を出そう。」


 彼の声にはどこか不本意さが滲んでいる。それでも報酬を出すと聞いて、周囲の空気は少し和らいだ。俺は心の中で呆れながらも、職員が渡してきた報酬袋を受け取る。


(結局、あの職員がいなければ何も変わらないんだよな。あの人がギルド長になってくれればどれだけいいか……)


 そんなことを考えながら、屋敷を後にした。すっかり日も暮れ、家々や店から漏れる灯りだけが通りを照らしている。今日は流石に疲れたので、真っ直ぐ宿へと向かった。


 宿に着き、そのまま自分の部屋に向かった。扉を閉めると同時に、ようやく静かな時間が戻ってきた気がした。ベッドに腰を下ろすと、疲れ切った体が沈み込むような感覚に襲われる。


 今日は随分と慌ただしい一日だった。突如として街を揺るがした地震、その直後に遭遇した異形の存在。地震そのものの衝撃も初めての経験だったが、それ以上に、あの悪魔のような姿をした存在が脳裏に焼き付いて離れない。


(あれは……なんだったんだ?)


 異形の背中に生えた翼や鋭い角、そして恐ろしいまでの威圧感。その姿を思い出すだけで、冷たい汗が背中を流れる。あの時の自分は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。まるで全身を縛り付けられるような感覚——自分の無力さを突きつけられた瞬間だった。


(地震と関係があるのか?いや、それ以前に、街のどこかに潜んでいるのかもしれない……)


 頭の中で考えが巡るが、結論にはたどり着けない。それでも、何か大きな危機が迫っているような感覚だけは拭えなかった。ベッドに横たわり、暗い天井を見つめる。あの日常ではない出来事が続く中で、自分は何をすべきなのか、何ができるのかを考え始める。しかし、次第にまぶたが重くなり、思考が途切れていく。


(何事もない日々が送ることができればいいが……)


 そう願いながら、疲労に身を任せて眠りに落ちた。

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