第2話 奴隷少女は『無想』する
貴族街を抜け、平民街に入って数十分が経った頃。
「名前は?」
先を歩いていたマゼルが、突然背中越しに問うてきた。
少女はビクッと身体を跳ねさせると、恐る恐る口を開く。
「きゅ、93番です」
はぁと大きな溜め息が聞こえた。
「それは店にいる間の呼び名だろう。俺が聞いているのは元の名前だ」
「あ、ありません」
「何?」
マゼルは立ち止まると、怪訝な顔を向けてくる。
「じゃあお前は家で何と呼ばれていたんだ?」
「え、えっと、『おい』とか『クズ』とか……でしょうか」
「……そうか」
マゼルは俯き、拳を握った。
それがどこか怒っているように見え、少女は身をすくめる。
「あ、あの――」
「……今日からお前の名はクウリだ」
「えっ、は、はい。わかりました」
そこから話が広がるでもなく、マゼルは再び歩き出す。
クウリと名付けられた少女は、その背中を怯えながら追うのだった。
そうして到着したのは、小さな庭がある平屋。
大きくも小さくもない、平均的なその家屋がマゼルの家だった。
中に入るよう言われ、リビングへ連れていかれると、その一角に備えられたキッチンへ。
「料理はできると聞いたが」
「は、はい。お店で習いましたので」
売りに出される前の教育期間で、クウリは他の奴隷達と一緒にさまざまなことを叩き込まれた。
料理と家事、読み書き計算に言葉遣い、そして男を満足させるテクニックまで。
それはもちろん商品価値を高めるために。
「それは貴族向けの豪勢な料理だろう? 平民が食うような飯は作れないのか?」
「いえ、普通のお料理も作れます。家で毎日両親に作らされていたので」
「……そうか。じゃあ家事は任せる。で、次はこっちだ」
連れていかれたのは、二つある個室の一つ。
その部屋にはテーブルにベッド、タンスといった家具のほか、あちこちにぬいぐるみが置かれていた。
「今日からここがお前の部屋だ。この部屋にあるのは自由に使え」
既に誰かの部屋であるように思え、そこを自分が使っていいのか不安になったが、主人がそう言うのであれば受け入れるしかない。
「はい、ありがとうございます」
「ああ。さて、それじゃあ」
身体にマゼルの視線が向けられた。
ああ、これから自分は弄ばれるのか。
クウリはぎゅっと拳を握り、身体を震わせる。
「動きやすい服に着替えて庭に来い」
「庭……あ、はい、わかりました」
答えるとマゼルは部屋を出ていって、クウリはふぅと息を吐く。
そうしてタンスを開くと、綺麗に畳まれたかわいらしい服がたくさんあった。
これは一体誰のものだろう。
そんな疑問を抱きながら、クウリは装飾のないシャツとズボンを手に取った。
着替えて庭へ出ると、マゼルから木剣を手渡された。
「えっと、これは?」
「構えろ」
言われた通りに構えてみると、
「違う、こうだ」
手を掴まれ握り直させられた。
「よし。じゃあ俺がいいと言うまで素振りしろ」
「素振りですか?」
「そうだ。さっさとしろ」
なぜそんなことをさせるのか、不思議に思いながらもクウリは剣を振り上げた。
5分も経たずに息が切れ、10分を過ぎた頃には身体に痛みが走り出し。
15分でいよいよ限界を迎え、クウリはもう無理だと視線で訴える。
しかし、マゼルは何も言わず、厳しい目を向けて来るだけ。
主人の命令は絶対。
勝手に辞める訳にはいかず、クウリは力を振り絞って剣を振った。
「――もういい」
声が掛かったのは、さらに15分が経ってからだった。
クウリは倒れ込むようにぺたりと座り込む。
「続きは明日だ。動けるようになったら風呂に入ってこい」
それだけ言ってマゼルは家の中に。
その瞬間、クウリはばたんと仰向けに倒れる。
(明日もこんなことを……)
これからの日々を想像して涙がこぼれた。
何とか風呂を済ませてリビングに行くと、マゼルが料理をしていた。
「座ってろ」
「……はい」
手伝ったほうがいいのか一瞬悩んだが、奴隷は言われたことをするだけの道具。
無駄な口は叩かないほうがいいと判断し、素直に椅子に腰を下ろす。
数分経って目の前に料理が差し出された。
「食え」
クリームシチューとパン。
奴隷の身分からすれば、想像していたよりも随分とマトモだった。
量も十分、むしろ多いくらい。
本来は良い人に買われたと喜ぶところなのだろう。
しかし、クウリはその料理を見て絶望していた。
疲労が故にまったく食欲が湧かないのだ。
「……はい。ありがたく頂戴します」
とはいえ、食べれませんなどとは死んでも言えない。
クウリは渋々スプーンを取って食事を始めた。
それから三十分ほど掛け。
何度も吐きそうになりながらも、なんとか完食。
そして明日から自分がすべきことについて聞かされると、余暇を与えられた。
どうやら夜のご奉仕は一切不要らしい。
それが一番嫌だったから、そう言われた時は本当に嬉しかった。
しかしそんな喜びも、自室のベッドに横たわると同時に霧散してしまった。
(明日も明後日もそのまた次もあれを……)
数時間経った今も全身が痛い。
これから先、ずっとあんなことが続くと思うと胸が苦しくなる。
「ひっく……」
両親には、ただの一度も可愛がってもらえずに売られて。
良くしてくれる大好きなお姉さんとは離れ離れになって。
最後の希望であった王子様も現れることはなく。
どうしてこんな目に遭わないといけないのか。
クウリは自分の運命を呪った。
起きたら朝・夕、二食分の食事を用意し、朝食をマゼルと一緒に済ませた後は掃除と洗濯。
昼過ぎに買い出しへいき、帰宅後に素振り。
そんな日々を繰り返すこと約一ヶ月。
毎日続けていれば望まぬとも体力はつくもので、素振りを一時間以上続けられるようになった頃。
「素振りはもういい。これからは俺の相手をしろ」
この日も嫌々ながら素振りを始めようとした時に、そんなことを言われた。
ようやく素振りから解放される――そう歓喜したのも束の間。
言われた通りに攻撃を仕掛けてみれば容易く躱され、木剣で打ちのめされるか蹴りを浴びる。
待っていたのはさらなる地獄だった。
買い物を終えての帰り道、歩いていたクウリは急に足を止めた。
(帰りたくありません……)
男が高い金を出して女の奴隷を買う理由。
それには労働力の確保という目的もあるが、やはり一番は性的な欲を好きな時に好きなだけ満たせるからである。
しかし、マゼルは身体ではなく、素振りや戦いの相手を要求してきた。
それに何の意味があるのかわからず、なぜ自分を買ったのか不思議だったが、昨晩ようやくマゼルの目的に気付いた。
あの男は苦しむ自分を見て悦んでいるのだと。
帰ればまた、その異常な性癖を満たすために自分は痛めつけられる。
(いっそのこと……)
このまま逃げてしまおうか。
これまで何度も頭をよぎった考えが再び芽を出す。
でも行くあてなんてない。
それにマゼルは前に『逃げても必ず見つけ出す』と言っていた。
クウリは今日も断念し、主人が待つ家に向かって歩き出した。
それから二ヶ月と少し。
この日もクウリは木剣を握り、マゼルと向かい合っていた。
構えも立ち位置もいつもと同じ。
その表情だけが普段と異なっていた。
(痛いのはもう嫌です)
クウリは目を閉じ、鼻から深く息を吸うと、口からゆっくりと吐いた。
何度も何度も繰り返し、その呼吸に意識を向けることで、頭の中から怯えや恐怖を追い出していく。
そうして至るは無想の境地。いつもの震えがない。
目を開けたクウリはグッと身を屈め、憎き主人に向かっていく。
マゼルが正眼に剣を構える。
自然に身体が反応し、クウリは右に身体を翻した。
放たれた右袈裟が空を斬る。
クウリは慣性に逆らうことなく右回りに回転し、そのまま遠心力を加えた右薙ぎをマゼルの背中に。
手に伝わる衝撃、背中の後ろに回された木剣で防がれていた。
クウリは後ろへ飛ぶ。
その瞬間、クウリの頭があった位置に半回転の回し蹴りが振るわれた。
先ほどと同様、身体が勝手に動いただけ。意識しての回避ではない。
ともあれ、絶好のチャンス。大振りの蹴りが生み出した慣性によって、マゼルは背中を見せた。
クウリはマゼルの後頭部に目掛けて剣を振って。
ゴンッ! と鈍い音が鳴り響いた。
「ぐぅ!」
マゼルはしゃがみ込み、右手で後頭部を押さえる。
それを見てクウリはハッと我に返った。
「ご、ご主人様! 申し訳ございません!」
深く頭を下げると、左手が伸びてきているのが目に入った。
遠慮するなと言われていたとは言え、奴隷の分際で主人を傷つけてしまった。
報復されて当然で、殴られても文句は言えない。
クウリはたまらず目を閉じる。
「…………?」
頭に心地よい感触。
何が起きたのか目を開けて確認すると、マゼルは怒るどころか嬉しそうに笑みを浮かべ、自分の頭を優しく撫でていた。
「良い動きだった。今の感覚を忘れるな」
そうして告げられるのはそんな言葉。
何がどうなっているのか、クウリは頭をフル回転させ、状況把握に励む。
自分は勝負に勝った。
そうしたら頭を撫でてもらえた。
お褒めの言葉もかけてもらえた。
嬉しさが遅れて込み上げてきて、クウリはぱぁっと顔を明るくさせる。
するとマゼルは顔をハッとさせ、腕を引っ込めた。
いつもの険しい表情に戻り、ゆっくりと立ち上がる。
「何をボケっとしている。早く続きをするぞ」
クウリは単純だった。
ついさっきまでマゼルのことを心の底から嫌っていたし、恨んでもいたが、今のやり取りでそんな気持ちはどこかへ飛んでいった。
代わりに生まれたのは、もっと褒めてもらいたい。
また頭を撫でてほしい、そんな感情。
クウリはすくっと立ち上がると――
「はいっ!」
キラキラと輝いた目で元気に答えた。
それからというもの、クウリはマゼルとの勝負に前向きに臨むようになった。
マゼルの攻撃の手が緩むことはなく、相変わらず痛めつけられてばかりだったが、それでも腐ることはなく。
褒められたい一心で何度もマゼルに向かっていき、一日の中で半分以上の勝ち星を挙げられるようになった頃。
「ただいま戻り――」
買い出しから帰宅したクウリの目に映ったのは、リビングで倒れているマゼルの姿だった。
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