第21話

メズスが身体を弓なりにし墜落する。

そのまま大地に激突し、激しい破砕音が鳴り響く。

そんな夜に、悠々と天から舞い降りる少年。

「時雨っ!」

百道の声など目もくれず、「たく。こりゃどういう了見だ」と髪を揺らすのは、短身痩躯の少女と見紛うような俺様系男児、時雨。

膨大な幻力と天与の素質を併せ持つ巨才である。

「アイツはメズス!恋歌の身体を乗っ取ったんだ!」

「阿呆吐かせ。んなことは分かってんだ。俺が聞いてんのは、なんで野郎がこのタイミングで復活してんだって話だよ」

「なっ」百道は声を詰まらせた。

「貴様もしやっ!恋歌の中にメズスがいることを理解していたのかっ!?」

「はん、たりめーだろうが。役立たずのテメェとは違げぇんだよ。まぁもっとも、ちっと来んのが遅かったみてぇだがな」

視線の先で、メズスがゆったりと起き上がる。

糸に引かれたようなその光景に百道は憮然とする。

一方時雨は敵愾心に満ちた面持ちだ。

千年ぶりの逸材は獰猛に吠える。

「はん、イメチェンか?えぇ!?」

と同時に幻力を解放。

その威風たるや、周囲の大地が耐えかね崩れるほどだ。

やはり時雨は規格外。

もっとも、それはメズスにも当てはまることである。

「ふむ、主か。以前はよくも痛ぶってくれたな。せっかくの機会だ。たっぷり礼を返してやる。ところで、今宵は生成りの娘は来ていないのか?」

「あぁ?アイツなら今は俗に言う、避難訓練ってやつだ」

「つまりこの場には来ぬと?」

時雨は肩をすくめる。

「さぁな。気が向いたら来るんじゃねぇの?」

まるで友人との約束をひけらかすような適当な口調。

嫌な予感を募らせる百道と対照的に鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気だ。

「そうか、それはありがたい」

「あん?」

メズスが侮蔑の微笑を浮かべた。

「主では我に叶わぬのだからな。なぁに、遊んではやる」

メズスが指を鳴らした。その背後にぬっと現れる歪な影の無数。

それは黒く、燕のようなサイズの鳥の群れ。

一匹一匹は小さいが、おどろおどろしく、凶悪な気配を纏っている。

まるで異次元の扉をくぐり抜けたかのような出現だった。

「ゆけ、黒儡こくらい

鳥らの広げた翼の風切り羽が、劇的に伸びる。

風切り羽が太く長い鞭に変じて、うねるようにしなり、無数の翼が時雨に襲いかかる。

「多勢に無勢とは情けねぇ」

びゅっと、鋭い風切り音と共に、無数の深緑の閃光が走った。

次時、黒儡は体に風穴を作り、実体を失った。

見れば勝ち誇った表情の時雨が、指鉄砲をつくっている。

どうやら空気を銃弾のように固定し射出したようだ。

「やる気がねぇなら帰れよ、土に」

「それは此方の台詞だ」

だが刹那、時雨が大きく目を剥いた。その表情は驚愕一色。

その眼前には、目にも留まらぬ速度で躍りかかったメズスがいた。

先刻の奇襲は油断を誘うための囮で、その間に拵えたのだろう。

脚に猛禽類を思わす太く獰猛な鉤爪が、時雨の頭蓋を握りつぶしに掛る。

「避けろ時雨っ!」

一拍遅れて凄まじい衝撃波が周囲を破砕した。

叩きつける強風に、百道は咄嗟に顔を覆う。

恐る恐る目を開けば、メズスの脚蹴を時雨の木刀が受け止めている。

「たく、うるせぇ、気が散るだろうがっ!!」

時雨が拳を振り上げた。

相当量の幻力を纏った拳が、太い脚甲の下側面を殴りつけ、吹き飛ばす。

予想外の反撃にメズスは「むっ」と顔を顰め、クルクルと宙を舞い十メートルほど先に着地した。

「凄まじい威力だ。だがなんのこれしき」

「嘘吐け、やせ我慢」

時雨が指を鳴らすと同時、メズスが膝をついた。

「むぅ‥‥?」

メズスが己の足へ目をやる。

つられて見れば、殴られた方の脚甲がへしゃげ、脚が不自然に曲がっていた。

「これは、折れているな。再生が必要だ」

メズスは体に手を突っ込み、身の中からを取り出した。

朱の幻力が折れた足を癒やしていく。不死鳥の能力の発芽かと思われた。

「見す見す回復などさせるものかっ!」

素早く走り出して、しかし百道は足を止める。

視界の端で、時雨が虚空を斬り伏せたからだ。

ずざんっと雷鳴の如く、不可視の波動が空間を駆け抜け、メズスを肩口から袈裟に斬り裂く。

鎌鼬、としか形容できない現象だ。

この距離無法の斬撃こそ、時雨の奥義であり真骨頂である。

「ぐぬ‥‥!」

メズスが苦痛の表情を浮かべて吐血した。

黒結晶の外套が弾け、隠れていた星座紋が露わになる。

百道は驚愕する。

「鳳凰じゃない。射手座、だと」

星の意味を模る

その視線の星霊の胸に刻まれた星座紋は、不死鳥ではなくを象っていた。

と同時に、恋歌の言葉の意味を理解した。

百道が呟く。

「12天使とは、そういうことか。ずっとおかしいとは思っていた。傷を癒やす能力は確かに不死鳥座にふさわしいものだった。だが星霊フェニックスの羽毛はあらゆる生命に身体を与え、炎は命を吹き込むとされている。貴様からはその特徴が見えなかった」

時雨が肩をすくめる。

「つまり俺たちは端っから騙されてたって訳だ。んでもって、その不死性は恋歌あの女の力だな。その翼も炎も、全てはその肉体あの女に刻まれた朱雀の能力。要するにテメェは他人の力を我が物顔で行使し、擬似的な不死を楽しんでいただけ。まさに虎の威を借る狐だな。だが、まさかテメェの正体が12だとは皮肉が過ぎる」

侮蔑の眼差しで時雨は肩を竦め、木刀を担ぎ上げた。

「鳥でもねぇんじゃろくに飛べないんだろう?だったらこの俺が、ふっ飛ばしてやるよっ!」

時雨が「ブウンンッ!!」と、豪快に大地を踏み抜いた。

なんとその瞬間、メズスの足下が深く割れ、下から上へと凄まじい突風が吹き上げる。

「ぐくっ」

突風に煽られ、メズスは強制的に上空へと吹っ飛ばされた。

「くっ、ボルテージが上がったか」

そこへ剣の如く鋭い岩の群れが突き迫る。

大地が隆起し、メズスを撃墜すべく突き上がったのだ。

恐らく土に作用する術理なのだろうが、百道の行使する術理とは規模が段違いである。

躍りかかる岩の剣を、メズスは「何のこれしきっ」と黒い靄の障壁で受け止めた。

「これしきじゃねぇよ!」と金切り声が夜気を裂き、メズスが首を釣り上げた。

つられて百道も仰ぎ見れば上空そこには既に時雨がいた。

「才児めがっ!!」

メズスは翼を振るった。が、時雨はなお素早い。

夜空を蹴り、素早く懐に潜り込むと、その顎を思い切り「ずりゃぁあ!」と蹴り上げた。

足蹴により、メズスは多量の血を噴き出し、そのまま上空へ突き上げられる。

メズスがピタリと宙に静止した。

天へ滞空し、九字を裂く。内容はわからぬが、何らかの術理を発動したのだ。

「今度は此方の番だ」

メズスが猛禽の脚甲で、虚空を蹴るような素振りを見せた。

その獰猛な足の先端に、重濁なる瘴気が螺旋を描いている。

あれを貰えば、例え時雨であっても只では済まないだろう。

「陰式・裂矢──」

と、そこで詠唱が止まる。

メズスの周囲を、白い霧が取り囲んでいた。

「だ、か、らっ」

濃霧が無数の巨腕を模し浮かんでいる。

それはさながら巨人の腕だ。恐らく木火土金水の水に分類される術理なのだろう。

「俺の番だってんだろうが!!」

時雨が「ごばぁっ!!」と腕を振るい、それに連動するように巨腕がメズスを叩き落とした。

打撃を受けたメズスはそのまま垂直に落下。

境内の鳥居にぶつかり、派手な破砕音が鳴り響く。

その光景を目の当たりにし、百道は立ち尽くしてた。

黄道一二星座。

原初の星禍とされる伝説の存在である。

しかしその詳細の殆どは未だ謎に包まれたままだ。

千年の歴史の中、人類が観測したのはたったの一体。

だが、その一体は教科書に載るような大量虐殺を何度も引き起こし、未だ討伐は果たせていない。

黄道一二星座とは、星霊の中でも隔絶した力を持つとされている。

そんな星霊と実力伯仲に渡り合う巨大な才に、百道は打ち震えていた。

「これが、千年ぶりの逸材。なんて奴だ」

時雨の強さの要因は、非凡な幻力にある。

万物に宿る気、幻力。幻力には属性があり、固有の色がある。

例えば火なら赤、水ならば青、木ならば緑。と、それぞれ色を宿している。

そして、それは人にも当てはまる。

人の幻力は遺伝や体質など生まれた時点で確定する。簡単な話、金髪の百道の幻力は金色、赤髪の恋歌ならば朱、空色の瞳の月美なら空色の幻力を宿している。

だが、時雨には固定の色がない。

それ即ち、何色にでもなれる全ての属性への適性を持つ、と言うこと。

木火土金水、色の軛に捕らわれぬ変幻自在な幻力。

その才を持って黄道12星座の星霊を圧倒しているのだ。

先ほど披露した多彩な術理はその片鱗なのである。

もっとも、本人はこの程度では満足してはいないようだが。

時雨は木刀をクルリと回して弄ぶと、不敵な笑みを湛え、更なる追撃をかけるべく駆け出した。

「やはり、主を相手取るにはちと足りぬな」

沸き立つ土煙の中、不気味な声が響いた。

「あん?」

足を止めた時雨が眉間に皺を寄せる。

パラパラと崩れる瓦礫の音。パキパキと、黒い結晶が砕け落ちる音。

土煙の中、メズスがゆっくりと起き上がる。

「我の認識が甘かった。主は、この場で殺しておいた方がよさそうだ。故に、少々無理をする。これは最終奥義だったのだが、仕方あるまい」

横柄さを滲ませた謳うような声。どこか開き直ったような、そんな印象を受ける。

百道は猛烈な違和感を覚えた。

「貴様、一体何をするつもりだ!?」

「真髄を見せると言っているのだ。主らの指摘通り、我は十二天使が一矢、射手座」

次の瞬間、百道は目を瞠った。

「なっ!?」

その腕を手刀のように尖らせ、なんと自らの右胸を突き刺したのだ。

百道は──恐らく時雨も──思考が白濁した。

メズスは右胸から何かを引き抜いた。

何かは、赤く脈打つ臓物。

恋歌の心臓だった。

思わず漏れる慄然の声。

メズスは心臓を指で玩び、

「我とこの者は半ば共生状態にあった。さすればこの器の不死性を受けられるからな。だがそれではどうにも我本来の力は発揮できなかった。まあそれでも十分事足りようと思っていたが、どうやら足りぬらしい。となればもはやこれは不要」

射手座は心の臓を高らかに掲げるとぐしゃり。まるで果実でも搾るかのように握りつぶした。

乾いた簡素な音が耳朶を打つ。

命が死ぬ決定的な瞬間を目前にし、百道は立ち尽くしていた。

「ああ、命の美酒よ。なんと甘美なのだろうか」

垂れる鮮血を口で受けるメズスは、嗜虐的に舌舐めずり。

それは考え得る中で最も命を冒涜していた。

百道は吠える

「貴様‥‥貴様、だけは許さない。ぶっ殺してやるっ!!」

メズスは、冷めたような瞳でももちを見据える。

「まあそう焦るな。どの道人類の殲滅は決定事項だ」

「はん、テメェ一人でこの街を落とせるとでも?」

「できるさ、この力があればな。奇しくも今の我は完璧に近いのだから」

メズスは胸の紋様を明け透けにして、歌うように続ける。

「己が星の象徴を開示しよう──我は一二天使が一矢、人馬宮」

星霊とは、極めて曖昧な存在だ。

幻力の歪みから生まれ、瘴気を取り込み星の意味を獲得し、己が意味を主張することでようやく存在が確立される。

その星霊が真明を名乗る。それの意味するところは即ち。

「──核星の衣(ゾディアックス)」

呪言に呼応して、瘴気が渦巻き、夜よりも暗い黒が完成。

まるで羽化直前の繭のように、メズスを包み込む。

「幻力が、更にデカく膨れ上がっていく」

やがて黒球が砕け、決壊した繭から星霊が姿を現した。

「そん‥‥な」

百道は憮然とした。

朱が、彼女の片鱗がどこにも見あたらないのだ。

全身を守る黒硬質な鎧に、の翼。

陶器のように澄んだ美貌はそのまま、しかし蒼穹の双眸は黒く、鮮烈な紅蓮の髪は濡羽へと変じてしまっている。

これではまるで。

「巫山戯やがって」

百道の憂いを代弁したように、時雨が吐き捨てた。

「テメェ、魂を喰ってやがるな。そのまま完全に喰い尽くすつもりか?」

「喰らう?何を今更」

黒髪が夜風に靡く。

「我らを獣と断定した名付けたのは人間貴様らだろう?」

メズスが、翼を爆発的に展開した。

その暴風が四肢をこれでもかと叩き、雪のように羽毛が舞う。

異様に無機質な、不健全な純白の羽毛。

羽毛が気纏うのは穢れた黒霧──瘴気だ。

恐らくあの羽毛も瘴気が実体化したものだ。

だと言うのに、純白。闇より出でた白。

その事実が、百道には不穏でならなかった。

「あと三十分といった所か」

「あん?」時雨が眉根を潜めた。

「この娘の魂を喰いちるまでの時間だ。さて、第三ラウンドを始めよう」

揺蕩う純白の羽が空中の一点に集合し、巨大な一本の大羽を形作る。

「人馬宮・羽矢の夜雨」

貯めるように、ぐぐぐっと極限まで弓なりに反らせた大羽が、いよいよその緊張を解いた。

悪寒が総身を駆け抜け、肌が粟立つ。

目にも留まらぬ超速で、何かが射出された。羽毛だ。

大量の羽矢が放物線を描きながら空を滑る。

それはまるで散弾銃だ、一矢一矢が途轍もない貫通力を有している。

「っ、土式・壁羅‥‥!」

咄嗟に結界を敷くが、羽矢に悉く破壊される。

咄嗟に岩段に身を滑り込ませなければ、今頃全身風穴だらけだっただろう。

「っ、術理で防御できる次元を軽く超えている!」

チラリと岩陰から覗き見たら、大羽を弓形にしたメズスがいた。

「今のは狼煙に過ぎんぞ?」

メズスはまたもや羽を射出させた。

夥しい羽矢は──もはや百道など眼中になく──時雨一点に降り注がれる。

時雨はダンッ!と大地を踏み抜いた。

その瞬間、時雨を中心に烈風が広がった。またも初見の術理だ。その未知の術の煽りを受け、羽矢は勢いを失う。

「この程度で活きがんなよ、雑魚」

時雨が「ざんっ!」と木刀を地面に突き刺した。

と同時、メズスの足場の大地が隆起。大地そのものがメズスを呑み込むべく躍りかかった。

メズスは翼を叩き夜空に舞い上がる。

夜空に滞空しつつ、翼を弓なりに緊張させた。

──まただ。あの一斉射出が来る!

しかし羽矢が放たれることはなかった。

見仰げば空中で木刀と翼が鍔迫り合っている。

「時雨っ!」

巨大な力同士の衝突が衝撃波を呼んだのだろう。空間が軋み、大地が吹き飛んだ。

それでも二者の衝突は終わらない。

木刀と翼が、幾重も打ち合い、周囲の空間を歪ませて、また次の場所で衝突を繰り返す。双方、実力伯仲の戦闘を繰広げている。

「やはり主は生きが良いな。この娘の次は主を喰らってやろう」

「うるせぇ小鳥だ。食われるのはテメェだ」

実力伯仲の傍らで、百道は戦況を冷静に分析していた。

二者の戦闘は百道が評価できる次元を凌駕している。

だがそれを差し置いたとしてもおかしいのだ。

何か。生命としての前提が覆るような、払拭し難い違和感。

「‥‥この感覚は一体」

メズスが翼を内側に巻き、烈風を弾き出した。

それは瘴気の塊だったのだろう。渦は黒ずんだ瘴気の竜巻に至る。

竜巻はコマの如く回転し、周囲を削り取りながらのたうった。

「チッ、面倒ごとをちまちまと。男なら堂々と戦えよっ」

「生憎、ねちっこい性分だ。仲間内では粘性眼鏡と評されるほどに、な」

メズスがほくそ笑んだその瞬間、爆発音のような轟音が轟いた。

竜巻が内側から爆ぜたように見え、気づけば百道はうつ伏せになっていた。

「ぐっ、うぐっ」

百道は自らを取り巻く環境の変化に目を瞠る。

と同時に百道は、生存は単なる偶然なのだと悟った。

周囲の木々も、境内の家屋も、岩も石段も、全てが木っ端微塵となっている。

「竜巻を中心に、全方位に羽矢が振り撒きやがったな。傍迷惑な野郎──だっ!!」

時雨がシュシュシュッと虚空を多重に斬った。

刹那の衝撃波がメズスに迫る。

メズスが再度竜巻を喚んだ。

「手品はこれからだ」

「何っ!?」と時雨が目を瞠る。

竜巻が斬撃を絡め取り、威力を増した斬撃を返したのである。

迫る己の斬撃を、時雨は身を翻し回避した。

「チッ、厄介なもん持ちよこしやがって」

背後で木々が伐採されるその様子を、天地逆さの態勢で俯瞰していた時雨が、弾かれたように首を釣り上げた。

その頭上に、純白の羽矢の群れが浮かんでいたのだ。

「まだまだ終わらんぞ?」

降り注ぐ矢の群れに、時雨は風の如く駆ける。

しかし矢は意志を持ったようにその後を追尾した。

「たく、鬱陶しい。ちょこまかと無駄な足掻きを」

「──それはこちらの台詞だな」

その時既にメズスは時雨の懐に潜り込んでいた。

「くっ」時雨は木刀を抜いたがもう遅い。その猛禽類の太脚が、華奢な腹部を無慈悲に穿つ。

深くめり込む脚甲とメキメキとあばらに響く音。

「知見だが、この世に無駄などない。主もそう思わぬか?」

ぐぐぐと、脚甲がめり込み、僅かな停滞を経て、時雨は蹴り飛ばされた。

時雨は一度もバウンドせずに数十メートル先の崖に激突したが、流石と言うべきか、次の瞬間には体勢を整えていた。

「ちっ。しょうもねぇ目眩まししやがって」

しかし口元に赤い液体が付着している。

「時雨!気を付けろ、様子がおかしい!!」

「うるせぇ!んなこた分かってんだ!」

時雨が崖を蹴り宙に舞い上がった。

刹那、空を滑るようにすっ飛んできたメズスが、先刻まで時雨の居た崖を木っ端微塵に叩き砕いた。

「そのまま抑えとけっ!」

時雨が大音声を上げた瞬間──どう言う理屈かわからぬが──崖から土の手が伸びメズスを捕まえる。

「ふん、貴様もつくづく器用な男だ」

メズスは強引に岩腕を引き千切った。

その間に時雨は斬撃を放つ。威力にしてもタイミングにしても完璧な一撃だ。

斬撃が空を駆け抜け、鎌鼬が炸裂、見事その胴を両断‥‥

とはならなかった。

斬撃がメズスの中に溶けて消えた。

「一体どういう事だ!?」

時雨の斬撃がまるで効いていない様子だ。

それどころか、吸収されたようにも見えた。

流石の時雨も予想外の事態に歯噛みする。

「どうなってやがる‥‥攻撃が通用しねぇ」

それは百道の感じていた違和感の答えでもだった。

そうだ。

今のメズスに不死の再生はない。

と言うのに、身体には傷らしき痕は一つも見当たらない。

「まるでダメージ自体を負っていないようだ、か?」

メズスが腕を翳した。

翳した腕のその手中で、何か、半透明の歪みが渦巻いているのだ。

それは判然としない。白でもなければ黒でもさえない。混濁ともまた違う。幻力なのかさえ怪しい、形容し難い力。

嫌な予感が、生物的な根源的恐怖が迫り上がってくる。

ただ一つ確かなことは、ということだ。

「言ったであろう。今の我は完璧に近い、と。この力はいわば自然の摂理だ。例えば大地が水を吸うように、闇が光を呑むように、今の我に人の術理貴様らの攻撃は通じない」

「なん、で、テメェがそれを‥‥」時雨が顔を歪めた。

「偶然の産物だ。この娘と我の幻力が長きに渡り混じり合った結果、取り出せた代物。通常の取得とは違う。恐らく、これきりの力だ。だが、それで主を殺せるのなら栓なきことだろう」

メズスがゆっくりと時雨に照準を定めた。

時雨は柄にもなく暗然とした様子だ。

驚愕と戦慄に、動きを止めている。

「避けろ、時雨!!」

金切り声と同時、百道はすっ飛んだ。

跳躍。

火事場の馬鹿力とはいうが、その脚力は十メートル上空に及ぶ。

「無駄な事を‥‥」と呆れるメズスの背に、百道は大太刀の斬撃を放つ。

それはなんの変哲もない、幻力による強化を施しただけの、幻装でさえもない一撃。

「な、にっ!?」

大太刀は、流れるように斬り裂いた。

鮮血が舞う。

それはメズスにとっても不足の事態だったのだろう。

翼の純白が揺らぐ。

「ぐくぅ!?」

激しく動揺するメズスに、百道は確信する。

百道の攻撃は──理由は不明だが──今のメズスにも有効なのだ。

「ならばっ」

「止せっ」

百道は畳みかけるように大太刀を振るい裂傷を刻み込んだ。

「おっ、おおおっ!!」

百道は大太刀を振って、畳みかける。

一閃、二閃、三閃と、その身体に打ち込む度に、翼の純白が明滅した。

「時雨、今だ!!」

「ぐっ、止せと言っているっ!!」

メズスが腕を──身の潔白を証明するように──広げた。

腕の力が不安定に揺らぎ、胎動する。

メズスの腕を中心に空間が歪み、

「ガァああああ!」

苦悶の慟哭と共に、明滅する翼がしなり、

「避けろ猿!力の暴発だっ!!」

時雨の声が、耳をさく轟音にかき消される。

痛烈な爆風が総身に叩きつけられる。

咄嗟に百道は大太刀を盾にして受けたが、気がついたときには宙を舞っていた。

それはもう、地面を転がるとかそう言った次元ではない。

身体が一度も地面に触れる事なく数十メートルを飛躍し、背後の絶壁に激突する。

「ぐふっ‥‥!」と吹き出す血。

身体中の血管が破裂するような壮絶な痛みと共に、百道は地面に転がる。

事前に防御力を上げる術理を使用していなければ、百道は失神していただろう。

欠損もなく、損害は思いの外少ないようだ。

頭上でぱらぱらと崩れる。

百道は岩の隙間を抜け出し、明滅する視界にメズスを納めた。

濛々たる土煙の奥部で、一二星座は辛うじて滞空していた。

浅い呼吸を繰り返し、左手と左羽が千切れている。

今し方の爆発は奴にとっても看過できないものだったのだろう。

先ほどの爆発は、制御を失った力が、暴発したのだろうか。

相違点に気がついた。

純白だった翼が、今では濡羽色である。

他にも、千切れたがグジュグジュと再生を始めていた。

「不死性が、戻っている‥‥」

まずいと百道は起き上がる。しかし、すぐに崩れ落ちてしまう。

百道の身体は限界を迎えていた。

隣の崖で「ちっ」と舌打ちが鳴った。

「余計なことしやがって」

「し‥‥ぐ、れ?」

時雨は血だらけだった。

崖に激突する寸前、人の温もりを感じたのを思い出す。

「まさか」

百道を受け止め庇ったというのか。

今、自分が呼吸できているのは、この男のおかげだというのか。

「貴様、また‥‥!」

「ほんっと、世話の焼ける猿だな‥‥テメェはよ」

強く歯噛みする百道を一瞥する時雨の唇が緩んだ。

「これで貸し借り無しだかんな」

その言葉に百道は何も言い返せなくなった。

時雨は立ち上がった。おぼつかない足取りで前に出る。

衣擦れする隊服の至る所に血が滲んでいる。

その横顔にも血が滴っており、重症であることは事実だ。

「ま、て、時雨。一人で行く単独先行するな。勝算も無しに、死ぬぞ」

時雨は屈辱だと顔を顰めた。

「はぁ?勝算があるから行くんだが?」

時雨は木刀を構えた。その視線はメズスばかりを睨んでいる。

体の治療に専念していたメズスが時雨の存在を認知して振り返る。

その手にはもう、例の歪みはない。

時雨が木刀を振り上げ、メズスが翼を弓形に緊張させた。

その時。無数の鋭利な氷柱がメズスを取り囲んだ。

「氷式・魔凍氷刃!」

甲高い真言が夜を劈き、氷刃が一斉に射出される。

「またも小賢しいっ!」

メズスは翼を振り回し、羽矢をばら撒く。

氷刃と羽矢が空中で交わり、氷の破片と羽毛が夜空に舞う。

「小細工女め‥‥!」

飛行を継続したままメズスが吐き捨てた。

その頭頂に音もなく忍び寄る影があった。妖刀を降り構える影が滞空している。

「その小細工にいっぱい食わされなさいっ」

影が大きく戦暈を振るった。

「呪式・彼岸紅刃!!」

強みを帯びた凛声が夜気を薙ぎ、夜空に縦一条の紫閃が走り抜けた。

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