第12話

濛々たる朝霧が立ち込め、木の葉から滴った朝露が下草を濡らす早朝。

小窓から差しむ陽光が薄暗い廊下に淡い光跡を成し、物置に添えられた生花が煌めく。

時雨邸の回廊を、百道はやや強張った足取りで進んでいた。

その手には盆があり、盆上では湯気が忙しなく踊っている。

百道の足の赴く先は時雨邸母屋の最奥部、通称開かずの間である。

先の廊下の突き当たりに見える、蔓草模様の木扉。

百道はその扉の前に立ち止まった。

この板で隔たれた向こうの空間に、れんかと名乗った紅蓮の髪の彼女がいる。

そんな彼女の食の配膳をすべく、百道は立っている。

「張り紙は、ないな」

例えば、『迷惑なのでもう来ないでください』との書き置きがあれば、その時点で百道はお役御免になってしまうのである。

百道はそっと胸をなで下ろしつつ盆を物置に置く。

それから一呼吸おいて、扉に向き直る。

安堵にはまだ早い。

百道は表情を強張らせ、扉を叩く。

「おはよう、れんか。朝め‥‥朝ご飯持ってきたぞ」

呼びかけに、部屋の奥からの応答はない。

百道は固唾を飲むように待つ。

つーつーと蝉の唱和が廊下に響き、盆のお冷の氷がぱきりと溶ける音。

痺れをきらし、再度ノックを繰返す百道だが、案の定梨の礫。

虚しい静寂だけが返答として返ってくる。

百道は肩を崩し、緊張を吐き出すように呟いた。

「まぁ、普段通りと言えば普段通りだ。予てよりしつこい男は嫌われるというし、この辺りが引き際だろう」

それから、再び扉に向けて呼びかける。

「聞こえているか?れんか。また昼頃に来る。食器はいつも通り扉の前に置いといてくれ」

そう言い残し、百道は踵を返した。


浜辺で彼女を発見して三日が過ぎた。

その間、百道は時雨邸に通い詰めている。

彼女のために何かしてやりたい。彼女が前を向けるよう、少しでも手を貸してやりたい。その思いは日に日に強まるばかりだ。

とはいえ、男女の線を超えるような行為は出来ない。

百道に出来ることと言えば、精々一日三食の配膳(夜見か月美が作る)し、呼びかける程度なのである。

だが、それも順調とは言い難いだろう。

この三日間、蔓草のような曲線装飾の扉が開かれる様子は無い。

修行の方も相も変わらず進展がなく、焦りは募る一方だ。

百道は二つの悩みごとにあぐねいている状態であった。

自分は『大賢者』にならなければならない。

百道の悲願──平和な世界を実現するには、土地神の加護が必要不可欠なのである。

そのため、土地神に認められるような圧倒的な実力を備える必要があるのだ。

百道は己の評価を知っている。

情弱無垢な民の間で自分は『稀代の天才』と呼ばれているらしい。

その一方、星祓隊では落ちこぼれの爪弾き、爪に火を灯す困窮っぷりである。

というのも、百道は賢者の中で唯一幻装が出来ない、出来損ないの賢者なのである。

幻装とは、装具に幻力を与え、新たな武器に変じさせる奥義である。

その爆発力は圧倒的で、幻装使いの有無次第で戦局が傾くほどだ。

以前の不自然な星禍も、幻装ができれば星祓できていたのかも知れない。

「やはり道を開くば幻装の獲得しかない。しかしどうして壁が厚すぎる‥‥」

幻装の獲得は急務だ。

百道とて、これまでだって試行錯誤を繰返してきた。

身に刻まれた数多の術理だって、元を辿れば幻装習得のためだ。

全ては幻装に至るため、百道はその身を修行に捧げてきた。

しかし、未だ望むような結果は出ていない。

いつまでたっても幻装に至れないのは、もはや単純な修行の問題ではないのだろう。

「俺も、他人誰かを頼るべきなのだろうか」

これまで他人を頼るという選択肢はなかった。

だが、先日の戦いを受け、百道の心情にも変化が生まれた。

あの男時雨でさえ他の誰かを頼っているのだ。俺だって‥‥」

そう言いかけたところで、百道は首を強く振った。

百道にとって他人とは信用ならない存在だった。

気休めを言うだけで、百道の現状を直接的に変えてくれるわけではない。その癖、知ったような事ばかりを吹き込み夢だけを見せるのである。

「いいや。所詮他人は他人。当てにできない。俺はまだ走れるはずだ」

百道は再び拳を閉め、修行に戻る。

それこそが未熟であり、真の悪癖とも気づかずに。

「幻装ができない原因はわかっている。幻力だ。俺の幻力では、まだ質が足りないのだ」

百道の課題はの一言で片付けられる。

より正確に言えば、幻力の質だ。

百道は座禅を組み敷いた。

その光景を眺めていた時雨が、冷たく吐き捨てる。

「たく、テメェは心底つまんねぇ野郎だな」

「何?」

「馬鹿の一つ覚えで瞑想ばっか繰り返しやがって。それで強くなれるって本気で思ってんのかぁ?つーか、そんな低い場所ところで苦闘してて、本当に俺を倒せる日が来んのかよ?」

「だったら、貴様ならどうするというのだ?」

「はっ、んなこた自分で考えろ」

時雨は小馬鹿にしたように傲然と肩をすくめると、立ち上がった。

気だるげそうな表情の時雨は、門の方へ歩き出す。

その手には愛用の木刀が携行されている。

「どこへ行く?」

「あん?野暮用だよ」

「まさかお前、星禍を検知したのか?」

百道はまたも歯噛みする。

検知石レーダーも無しに星禍を発見するなど、この男の無法ぶりも相変わらずである。

「待て時雨。ならば俺も同行する。件の不自然な星禍かも知れないだろう?」

「はっ。冗談じゃねぇよ。なんで俺が、わざわざお荷物連れなきゃならねぇんだぁ?」

時雨が顎をしゃくり、母屋の最奥地を示す。

「テメェの仕事はあの女の見張りだろうが」

「だが‥‥」

と、その黒曜の瞳が、真剣に細められた。

「それに。自分も信じられねぇ奴に背中なんざ預けられねぇんだよ。だから、テメェは孤独一人なんだ」

時雨の指摘に、百道は目を瞠る。

それはおおよそ百道の現状を見透かしていた。

痛いところを突かれたせいか、百道の胸の中で焼けるように熱い破壊衝動が煮え始める。

その衝動を抑えつけるように、百道は抑揚強く言い放つ。

「煩い。貴様は大人しく首でも洗って待っていろ。いずれ見下してやる。今は無理でも、近い将来、必ず‥‥!」

百道は次なる決意を胸に、時雨を睥睨するのだ。

「あっそ。せいぜい、他人様にだけは迷惑かけんじゃねぇぞ。今のテメェに価値なんざねぇんだからな」

そう言い残し、時雨は屋敷を飛び出した。

夕闇に同化するその背に、百道は何も言い返せない。

鴉が鳴く夕暮れ。全てが停滞したような日だった。



変化というものはいつも突然だ。

巡り合わせ、或いは縁とでも言うのだろうか。

百道に生じた変化は、奇しくも外部から持ち込まれたものだった。

それは少女れんかを拾ってから丁度一週間が過ぎた頃。

「修行、見てあげてもいいわよ」

縁側に座り、瞑想によって気を高めていた百道は、突然の声に首を翻す。

振り返るとそこにはこちらを見下ろす夜見の姿があった。

「修行を?」

「あの馬鹿に追いつきたいんでしょ?なら面倒見てあげてもいいわよって言ってんの」

「いや、申し出はありがたいが、俺は」

口を濁す百道に、夜見は眉根を潜め、

「は?何、文句あるわけ?」

夜見の傲然な態度に百道はさらに言葉を籠らせる。

「いや、特にそういうわけではないのだが‥‥ただ、なんというか、心情というべきか」

「たく、煮え切らない男ね。いいからさっさと普段の修行内容教えなさいよ」

夜見の強引な態度に、百道は観念したように説明を始めた。

それは百道が血の滲むような苦行の末に編み出した、洗練されたカリキュラムだった。

一通り説明を終え百道が視線を上げた時、夜見は怪訝そうに眉を歪めていた。

「──以上が普段の修行行程だ‥‥何か?」

「それだけ?」

「ああ、以上だが」

「もしかして巫山戯てる?」

「至って真面目だが!?」

声を荒げる百道に、夜見は柳眉を釣り上げ、溜息を吐いた。

「率直に言って全然ダメ。それであの馬鹿に追いつけると思ってるアンタのバカさ加減に驚いてる」

「ぐ、具体的にどこがだ!?山道ランニング十周に瞑想と幻装の反復修行。それと腹筋、背筋、腕立て伏せ、素振り三百回ずつ。隙のない完璧な布陣のはずだ!」

「全部よ全部、何もかも。根本的に」

「な、なんなんだその態度は!?人が、死ぬ気で編み出したカリキュラムだぞ」

「そうね。おかげでアンタがお話にならない理由が分かったわ」

と、夜見はそう吐き捨てる。

が、百道にとっては開いた口が塞がらない事態である。

唖然とする百道に、夜見が極めて真剣に問う。

「アンタ、確か明日‥‥というか、ここ数週間は非番よね?」

「あ、あぁ、そうだが‥‥」

「なら明日の朝五時にウチに集合」

「ご、五時!?朝のか!?」

「当たり前でしょ。誰が夕方から修行始めるのよ。それと修行着と下着類も持ってきなさい」

「修行着は分かるが、下着類は何故‥‥」

「泊まり込みになる。一度見ると言った以上、徹底的にやるから」

夜見の告げたそれは、百道にとって、地獄の幕開けだった。


翌日の、まだ空が白み始める前のことだ。

諸々の支度を済ました百道は、四時半という早起きとは言い難い時刻に学生寮を飛び出した。

何故こんな早朝にと疑問は募るが、しかし夜見の指示である。

従う他あるまい。

「恐らく泊まり込みになる」という夜見の言葉が気がかりだ。

一体自分はこれからどんな目に遭わされるのだろう。

不穏な予感に身を震わせつつも、百道は時雨邸への足を早める。

早朝の繁華街は物静かだった。

その閑散とした煉瓦通りを、百道は颯爽と駆け抜ける。

仄暗い夜気のもと、誰もいない街風景は、世界そのものが深い眠りについているようであり、百道の中にシトシトと新たな感慨を垂らす。

時刻は午前五時、百道は時雨邸の門前へと辿り着く。

何とか指定された時間に滑り込めたようである。

夜中の静謐を纏う時雨邸は、普段とはまた違った厳粛さを醸し、百道の総身を引き締めた。

──既に常連となりつつある訳だが、何度来ても見慣れないな。

百道は苦笑を浮かべつつ、裏門へ周った。

門を潜り、石畳の竹垂れ道を抜けると、家屋が見える。

古き良きを思わす中枢の母屋は、早朝にも拘らず煌々と灯がついている。

玄関の隣の呼び鈴──通信石付き──を鳴らす。

「早朝にすまない。百道だ」

ややあって、燭台を手にした月美が出迎えた。

僅かに眠そうな眼で、

「おはよう百道君。まだ空も暗いのによく起きられたね」

そう言う月美も既に修行装束に身を包んでおり、準備万端である。

「修行を付けて貰う身で寝坊なんてあり得ないからな」

「ふふ。真面目だ?そう言う所、雨君にとてもそっくり」

「あの男が真面目?とてもその様には見えないが」

百道の異に、月美は悲しそうに視線を落とす。

「そうだよね。だけど、実は誰よりも頑張り屋さんなんですよ?」

「そうなのか?」

「そうなんです」

思い返すとあの黒髪はいちいち小綺麗な男だ。

制服の襟は立っているし袖は清潔、部屋も隅まで掃除が行き届いていた。

潔癖という認識だったが、その本質はもしや。

そもそも、百道と時雨は所詮二年ほどの付き合いだ。知らぬ側面だってまだ沢山あるはずである。

百道は頷いた。

「確かに、そうなのかもしれないな」

頭ごなしはよくないと反省するうちに、百道は縁側に通される。

縁側の庭先では、既に夜見が素振りを始めていた。

顔に薄らと汗が浮かばせ、酷く集中している様子だ。

華奢な体に気纏う幻力が怪しく揺れ、刀身の銀光が虚空を裂く。

素振りをする夜見は凜々しく様になっていた。

と同時に、その背は繊細で、襟首から僅かに覗くうなじは痛いほど白い。

修練装束に身を包む姿はまるで天狐の巫女のようである。

とてもじゃないが、一週間前星霊と渡り合った猛者には見えない。

毅然な態度の裏に隠れていた女性の発露のようで、百道は目が離せない。

と、此方に気がついた夜見が盛大に溜息を吐いた。

「何見てんの?来たのならさっさと着替えてきたら?」

その視線はいつにも増して素っ気なく、百道は大慌てで退散。空き部屋を拝借して修練着に着替える。

百道が縁側に戻った頃、二人の修行はすっかり本格化していた。

月美が、石段の上で座禅を組んでいた。

その周りを、きめ細やかな気が流麗に舞っている。

見習いから大賢者まで欠かさぬ基本修行、瞑想である。

百道はその精度に圧倒されていた。

月美の周りには、夏だというのに粉雪が舞い、石の上には雪が積もっている。

まるで月美の周囲に、雪原が顕現したかのようだ。

瞑想により高まった高密度の幻力が、周囲に影響を及ぼしているのだろう。

「俺ではこうはならない‥‥瞑想一つで、こうも違うというのかっ」

百道からこぼれ落ちた台詞は、これまでの歩みを全否定するものだった。

しかし悔しくはなかった。

むしろ、負けてられないと百道は息巻くのだ。

「アンタはこっち」と、夜見が手招きした。

「一体どういう修行なんだ?」

「特別な事はしないわ。基本的には普段通りよ。ランニングして、瞑想修行して、そして筋トレ」

「うん?それのどこが大変なのだ?」

但し、と夜見が指を立てた。

「制限を設けるわ」

「制限?」

不穏な響きだ。

百道の喉が戦慄いた。

「ち、ちなみに、どのような?」

夜見は返答の代わりに詠唱を始めた。

聞き覚えのないリズムである。

その声の抑揚に応じ、夜見の掌中で紫の靄が渦巻き始める。

「ちょっ、それは何だ、その明らかに禍々しい力は!?まさか不死鳥メズスに使った力か!?」

「じっとしてなさい。大丈夫、命に別状はない。黙って受け入れれば一瞬よ」

「いや、断る!俺は断固として断、る‥‥ちょっ、夜見?夜見さん?おい、聞けって!」

夜見はその手で百道の背中に伸ばした。

百道は後ずさる。

「ちょっと、逃げないで」

「と、とにかく一度説明をくれ!頼むからっ!」

夜見が偽悪的に口角を歪ませる。

「いいから、背中ビリッとするわよ」

有無を言わさぬ夜見の掌が、百道の背中に触れた。

その瞬間。

「──うぐ!?」

猛烈な違和感に百道は身悶えた。

まるで背中から灼熱の蛇が入り込んで体内を暴れ回ったような痛烈な不快感が、総身を弄る。

──痛い!?と言うか、熱い!身体の内が燃え上がっているようだっ!

それに伴い、身体が沈んだ。

「一体っ、何をした‥‥!?」

まるで四肢に錘を吊されたかのようである。

夜見が補足を加えた。

「この術の名は断絶呪幻。アンタの幻力回路に堰を作り、身体機能を低下させる術理よ。これで当面アンタは普段通りの動きが出来なくなる」

唖然と口を開く百道を目尻にして、夜見が悪女さながの冷笑を浮かべた。

「さて、普段通りの修行を始めるわよ」

画して、地獄の修行は始まるのである。


「み、みずぅ‥‥」

雲一つ無い青空の元、蝉時雨に囲まれた山の小道を、百道は走っていた。

照りつける日差しが朝霧を攫い、木の葉に乗った朝滴が下茂を塗らし、舞い上がる土と湿の匂いが鼻腔を燻る。

平素であればきっと爽快な気分で風を切っていたに違いない。

だが、この時の百道の足取りは軽やかとはほど遠かった。

「ぐぎぎぎっ‥‥ぐんぬぅうう‥‥!」

低く唸り、歯を食いしばって足を踏み出し、滝のような汗が顔をしたたり落ちる。

重い足を引きずるその足運びは、地面に擦りそうなほど不安定だ。

今の百道は、とある制限により、単純な歩行ですら苦行なのである。

「あ、づい。た、倒れる‥‥」

朝とは言え真夏だ。気温は四十度に差し掛かるだろう。

というのに、隣を歩く夜見は涼しげだ。

日傘を差し、「遅い」と苦言をぴしゃり。

「ほら、走りなさい。日が暮れるわよ」

鬼畜の所業だ。流石は夜見である。

「ぐぅ、ぎぃっ!!だが、いくら、何でもッ、はぁぁ!無茶だろっ!?」

「言ったでしょ、無茶を押し通すって」

「だから、と、言って!山、道、十周はっ!初日から、飛ばしすぎ、じゃない、ぐぎいぃい‥‥か!?」

夜見が提示した課題は、普段通りの生活を熟す、という内容だった。

快晴に浮かぶ太陽はカンカン照りだ。

道の奥が夏の熱射に震え、道面が陽炎で揺らぐほどの炎天下である。

鬱蒼と生え茂った頭上の木々も熱除けとしては大して役にも立たず、先ほどから汗水が垂れ流しにしなっている。

しかし問題はもっと別にある。

今の百道は、夜見の術理──断絶呪幻を受け、身体機能を制限された状態なのだ。

その足取りはお年寄りと大差ない程に弱化している。

これは決して物の喩えなどではなく、つい先ほど、健康意識高めの朝散歩おばあちゃんに追い抜かされてしまったばかりなのである。

「口を動かす前に走りなさい」

そう言われても足が前に出ない。百道は情けなく嘆くばかりだ。

「ちょ、ちょっと待って、くれ。」

「はぁ?何甘いこと言ってんのよ」

「ならせめて、せめて水を。水をくれ!このまま、ではっ、熱中症になってしまう‥‥!」

「はいはい、ゴールしたら好きなだけ飲んで良いわよ」

「くぎぃっ‥‥はぁ、はぁ、そ、そんな」

項垂れる百道は仕方なく足を踏み出した。

一つ分かったことがある。

この断絶呪幻という術理、相当の食わせ物だ。

身体機能を著しく低下させるだけでなく、丹田や幻力回路と言った、幻力に関する気管の機能にまで制限をかけてしまうのだ。おかげで幻力操作も儘ならない。

歩行に苦戦する百道を横目に、夜見がやれやれと肩を竦めた。

「ほらペース上げなさい。本気で日が暮れるわよ」


やっとの思いで時雨邸の門に帰ってきたのは、開始から一時間後だった。

のだが、これでようやく一周である。

既にこの時点で百道は全身汗塗れの満身創痍だ。

「こんな状態で、残り九周は絶望的過ぎる‥‥」

「ほら、立ち止まらないっ」

夜見の激励に、百道は顔を上げて、ランニングを再開した。

しかし足元の隆起した木に引っかけてしまったようだ。

「ぐっ、あぅ!?」

気づけば百道は地面に転倒していた。

すぐに身体を起こそうとするが手足が鉛のように重たく中々立ち上がれない。

そんな百道を、夜見の呆れ顔が見下す。

「何してんの?アンタ本当に賢者?」

「すまな、い‥‥」

「たく、脆弱すぎるのよ。あの馬鹿は、この程度で音は上げない。どうする?今日はこの辺りにする?」

もう十分頑張った、この辺でいいんじゃないか。ふとそんな言葉が脳裏を過ぎ去った。

だめだ。それではこれまでの研鑽の日々が全て無に帰す。

「ダメだ。あの男に一杯食わせるまで終われない」

豪語し、百道は立ち上がろうとした。

しかし身体に力が入らない。視界も紫に明滅し、限界を感じた百道はその場にうずくまった。

「完全に脱水症状ね」

「く、くそ」

百道は歯ぎしりする。

暗然と項垂れる百道を見かねたのか、夜見が水筒を投げ渡してきた。

「いいのか?」

夜見は頷くと、門に背を預け、腕を組んだ。

「倒れられる方が迷惑だから」

一見冷酷無情な夜見だが、その根は慈悲深いのだろう。

そうでなければ修行の手伝いなど申し出たりしない。

そんな彼女に訊いてみたくなった。

「なぁ、少し聞いて良いか?」

どうすれば追いつけるのか、いつも考えていた。

だが、未だ明確な答えは見つかっていない。

あの男は常に自分の先にいる。

あの男にはどんな景色が見えているのだろう。どんなふうに世界を感じているのだ。

それを知りたい。

天才と同じ景色を見たいのならば、誰もが目を瞠るほどの圧倒的な努力を積み上げるしかない。これまでだってずっとそうしてきた。

努力を積み重ねればいずれ見えてくるだろう。

努力を重ねた先に答えがあるはずだと。

だが、これまで一度だって実を結んだことはない。

切り開いた道の先には、また新たなスタートが待っているだけ。

焦りが募り、不安は増すばかりだ。

こんなことであの男に追いつくことが出来るのだろうか。

「俺は、どうすれば奴に追いつけるだろうか。何故、これ程の大差がつくのか。俺とアイツ、何が違うのか」

俯くも百道から溢れた言葉は、これまで口にすることのなかった純正の本音だ。

夜見は神妙に眉を絞り、頤に手を当てた。

「差なんてないわよ。アンタもあの馬鹿も大体同じ」

「嫌味か?」

「いいえ?」

変幻自在の幻力と高い潜在能力、独自の戦闘スタンス。

あの巨大すぎる才能を前に、百道などちっぽけだ。

「ならば一体どういう意味だ?同じなら、なぜこうも違う‥‥」

夜見は、愚問とばかりに呟いた。

「才能ね」

百道は唇を硬く結び、膝を抱え顔を埋める。

「やはり、全然違うではないか」

夜見が呆れたように頭を振った。だが、その表情は心なしか緩やかだ。

「アンタがあの馬鹿を追うように、あの馬鹿にも追う背がある。その点では同じよ。それに、その背が途轍もなく大きくて、途方もなく遠いのも同じ。寧ろあの馬鹿が追う背は途方もなく遠い。それこそ雲を掴むような行為で、見ていてヒヤヒヤするくらいよ。それでもあの馬鹿だから、どれだけ遠くても、全身全霊で手を伸す。その距離に嫌気が差すことだってあるだろうに」

夜見は胸の辺りで拳を握った。

「──諦めない」

百道はハッと顔を上げた。

頭の中から叩き起こされたようだった。

「馬鹿正直に手を伸し続ける。その場所に届く日まで、ずっと。自分なりのやり方で人生を賭けて足掻く。無様で、なりふり構わない。ほら、大体アンタと同じじゃない?」

夜見の言葉がやんわりと胸に鎮まり、目頭の熱さに百道は空を仰いだ。

夏の風が頬を撫でる。

自分に足りない物。それが何なのかはまだ分からない。

そもそもそう言う問題じゃないのかも知れない。

あの男と自分が同じだとも思えない。

ただ、あの男にも追う背があり、自分と同じように模索している。

「‥‥ならば走る他あるまい、ということだな」

「え?」と夜見が目を丸めた。

「そう言う話だったかしら?」

「要するに、あの男は度を超えた頑張り屋で、今の俺に必要なものは根性、と言うことだろう?」

百道は空に手を伸ばした。

追いつきたいならやはり、走り続けるしかないのだ。

その先に答えがあると信じて。

空に手を仰ぐ百道を、夜見は極めて真剣な面持ちで見据えた。

それから一拍あって、夜見は肩を落とす。

「アンタはもう少し聡明マシだと期待した私が馬鹿だった。まあ、やる気になったならいいけど」

「あいにく脳筋なんだ」

夜見はふん、と鼻を鳴らし「立ちなさい」と手を差し出した。

その手を掴み取る。

「気概は大変結構だけど、まずは目の前のことをやり遂げてみせなさい。話はそれからよ」

夜見は踵を返す。

肩越しに振り返り、峻厳な眼差しを向けた。

「もし夕刻までに戻らなかったらお仕置き追課題だから」

「おう‥‥!」

去り行く青鈍の髪を見送る百道は、太ももを数回バシバシと叩き、気合いを叫ぶ。

方針は定まった。ならば後はズベコベ言わず走るのみ。

目の前の事をひたすら全力でこなし前に進む。それだけだ。そうやって山積みの問題を虱潰しにして、それから悩め。

頭上にはメラメラと輝く太陽に雲一つ無い快晴。

そこに先ほどまでの弱気な少年は居らず、百道はそのまま突っ走った。





※追加

百道が前傾姿勢から走り出す様子を、木陰から見守る二つの傘。

白磁のように透き通った少女、月美が口元を隠しつつ奥ゆかしく微笑む。

「凄い。あの状態で走れるなんて、雨君みたいだね──ってあれ?」

月美が振り返ると、夜見が額を覆い隠し、項垂れている。

夜見は「またやってしまった」と落胆しているのだが、過保護な月美としては大事だ。

大いに慌てふためく。

「ど、どうしたの、夜見!?頭痛!?非常に大変!」

夜見が首を振った。

「違う。少し、自分が嫌になっただけ」

「え、急にどうして?」

「私だって、人の事をとやかく言える立場じゃないのに」

「なるほど」

夜見の事情を知る月美は、大凡の心情を見通した。

その上で麗らかにはにかんだ。

「でもそれは百道君を思ってのことなんでしょ?なら、全く問題ないよ。昔も、世間知らずな私を叱ってくれたよね。とても感謝しています」

すると夜見は虫の居所の悪そうに表情を渋めた。

「‥‥アンタってさ、悪気無く人の黒歴史を掘り起こす天才じゃない?」

「え!?今のもダメだった!?ごめんなさい」

「まぁ、どうせ、私は人のこと言えない六でなしよ。けど、あの時は仕方が無かったじゃない。逃げなきゃならなかったのにアンタが七面倒な御託を並べて、その上要らぬ自己犠牲も発揮してきて」

「その件は反省してます。非常に」

「それに、アンタだって私に説教したじゃない。それも初対面の癖にティーカップまで並べて、ほんと、何がしたかったんだか」

「あ、あれは説得したかったの!お茶は、お姉ちゃんの入れ知恵で!」

珍しく声を大きくする月美と、苦虫といじらしさを同居させた面持ちの夜見。

二人の視線が交錯し、睨め付け合い、やがて弾けた。

「ふふふっ」

「くくくっ」

二人の少女は傘を寄せ合い、過去を思い起こす。

ずっとかつての、先天的な悲劇と後天的な悲劇の交点。

月に纏わる、兎と狐の物語を。

「ほんと、阿呆らし。今更、昔の話なんかして」

「そうだね。もう、とっくに終わった話なのにね」

全体的に白く生まれた少女と紫に塗りたくられた少女は、互いの傷をなめ合う。

癒やすように、慈しむように、もうこれ以上傷つかないように。

「ねぇ夜見。夜見が百道君の面倒を見てあげるのって、どこか境遇が似てるから?」

聞いて夜見が眉根を寄せた。

「はぁ?まさか。私は他人に同情なんかしない」

「だって。夜見が他の人の面倒見るの、珍しいから」

「違うわよ。そんなんじゃない」

それに、と夜見が頭を振った。

紫に緑を落としたような色の髪が怪しく揺れる。

「境遇の話なら私よりもアンタの方が‥‥」

そこまで言いかかって、夜見は口を閉した。

「ごめん。倫理観がなってなかった」

「ううん」と月美も頭を振る。そこに怒りは微塵もなく。

「平気、そんなに気にしなくても大丈夫だよ?夜見だから」

「何その言い方。まるで私が気遣い出来ないみたいじゃない」

「そうじゃなくて」

月美は夜見の手をきゅっと握り、甘える兎のように肩口にもたれ掛かる。

「夜見は私の半身だから。例え傷口に触れられたとしてもちっとも嫌じゃないの」

「あっそ」

素っ気なく言い返す夜見は、日傘を畳んだ。

これは相身互いに生きてゆく少女らの物語でもあるのだ。








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