第4話
時刻は午後七時。
百道は、南都の中心部に位置する学び舎・朱雀校の理事長室を訪れていた。
質素な煉瓦造りの一室に、枯れ木のように細い白髪の老人が、皺よった眉を細め、頬杖をついて百道を見据えている。
この老人の名は長谷部誠司。
一見すればただの老耄であるが、その実南都という大都市の運営を一手に担う一族、長谷部家の現当主である。
本来、一塊の隊士が謁見できるはずもない人物であるが、百道は了見あって呼び出しを受けていた。
「先日の詳細が聞きたい。答えてくれるな?」
誠司の放つ眼光に、百道は息を呑みつつも言葉を紡いだ。
「昨日、俺は重大な失態を侵しました。星禍を目前にしながら浄化を損ね、あろう事か星霊への進化を許してしまった」
言葉を発するたびに、百道の胸中で自責の念が強まる。
誠司が、ふむ、とたっぷりと蓄えた顎鬚をなぞる。
「そう身構えなくてもよい。何も儂は説教のために招集したのではない。君の意見を聞きたいのだよ」
「意見、ですか?」
首を捻る百道に、誠司は鷹揚に首肯する。
「左様。昨日の報告書は拝見した。その星禍は、瞬く間に星獣に至り、星座を降ろしたそうだな?まずはその詳細を聞かせて貰おう」
百道はあの日のありのままを話した。
百道が一通りの事情を述べ終えると、黙聴に徹していた誠司が、その眼光を槍の先の如く尖らせた。
老人の発する鋭利な気迫に、百道は首を竦めた。
「星禍の進行速度はどうだった?」
「はい。黒化現象の発生から実体化までが、異常なほど早かった。それに、星禍発見後、二の一番に荒魂祓えを施したはずなのですが──」
「再発した、だな?」
百道は顔を上げた。それを肯定と取った誠司が唸る。
「やはりか。その星禍の苗床も、樹木だったのではないか?」
「何故、それを?」
誠司は困ったように眉間の皺を押し潰した。
「近頃、南都管轄の灰色区域でその手の星禍が頻発しているのだ。恐らく、君もその一つに出くわしたのだろう。困った話だ。件の星禍は、悪化の早さだけではなくてな」
「まだ、何かあるというのですか?」
誠司がゆったりと視線を上げた。
「百道よ。君は星禍による呪的大厄災──セイサイをどう解釈しておる?」
セイサイ。それは星霊による未曾有の大災害に与えられた名だ。
星霊という巨大な星禍が引き金となり、星禍が連続的に発生する現象である。 セイサイで発生した星禍は、急速に星獣に至り、群れを成す。
以前の、小熊座のように。
誠司の言葉に百道の握る拳が強くなる。
「本来群れを成さぬ星獣共が、星霊という強大な個に取り纏められ、組織的に共闘する。それは百鬼夜行だ。一都が滅ぶ脅威です。仮にここ南都で起きたとすれば、この土地はもう人が住めなくなる」
「その通りだ。セイサイの特筆すべきはその爆発力だ。セイサイにより生じる星禍は、通常の星禍とは比べ物にならない速度で星獣に至る」
そこで百道がハッと顔をあげる。
「爆発力。確かに似ていますね」
「そうだ。件の星禍は、セイサイによる星禍に近い。つまり、高度な知性を有する星霊の仕業と見るのが妥当だろう」
数日前、百道を追い詰めた星禍は、明らかに普通ではなかった。
作為的に引き起こされたのだとすれば、あの様な異常な星禍にも納得がいく。
「つまり、星禍の指導者的存在がいる、ということですね。しかし、如何に星霊とはいえ、それ程の狡猾な事ができるのでしょうか?」
百道の問いに、誠司が僅かに「どうしたものか」と零す。よほど手を倦ねいているのだろう。此度の事態は、誠司にしてみても理解の外なのだ。
「して、百道。君に──」
誠司が何かを言いかけた所で、どがんっと、理事長室の扉が開かれた。
勢いよく開闢する扉から現れたのは、百道もよく知る男である。
「時雨!?何故お前がここに!」
「時雨か、遅かったな」
誠司に驚きはない。
時雨は「おいコラじじぃ‥‥!」と呟き、両手を腰に置きながら誠司のデスクに詰め寄った。その相好からは、只ならぬ怒気が見受けられる。
時雨は、バシッとデスクに書類を叩きつけた。
「ジジィ、一体全体、こりゃどういう了見だぁ!?」
百道としては仰天である。誠司に対し、あまりにも不遜な態度である。
「なっ!?時雨、貴様!誠司様に何て口の聞き方を!」
百道の声に、時雨は見向きもしない。
誠司は冷静沈着な様子で聞き返した。
「どう、とは?」
「約束が違うだろうが、なんでこの俺が、巡回任務なんざに駆り出されなきゃなんねぇんだよ!」
誠司は「ふむ」と下顎に蓄えた髭を弄りつつ、
「理由は多々あるが、主な理由としては、街の守りを強化しようと思うてな」
時雨が、鋭い眼光で誠司を睥睨した。
裡に一振りの剣を潜ませたような、剣呑な雰囲気を纏っている。
「答えになってねぇよ。何で俺にお鉢が回ってんだって訊いてんだ」
しかし誠司も譲らぬ姿勢だ。
「主がどう言おうと既に決まったこと、今更覆らぬよ。それに、契りの境界に踏み込んだのはお主が先だろう?」
時雨が「チッ」と舌打ちする。
「だったら、黒化エリアの調査はどうすんだぁ?まさか俺抜きでやろうってんじゃねぇだろうな?」
黒化エリアとは、天ノ御柱結界の外に広がる、瘴気に侵された土地の呼び名だ。
星獣が跋扈する、汚染された土地である。
そこに巣食う星獣共を殲滅し、その土地を浄化・奪還することこそ、星祓隊の使命なのである。
誠司が頷く。
「ふむ。黒化エリアの調査は一時見送りの予定だ」
「見送りぃ?巫山戯てんのか、テメェ。黒化エリアの調査が俺たちの使命ったのはテメェだろうが?」
怪訝そうに柳眉を釣り上げる時雨に、誠司が泰然に告げる。
「件の星禍を皮切り、状況が一変したのだよ。恐らく、これは何かの前兆だろう。いいや、それはもう、始まっているのかも知れない。我々は今、前人未踏の危機に直面しているのだ」
「はぁ?んなもんいつもの話だろうが。じゃあなんだ?その間アイツらはどうなる?どうせテメェのことだ。呑気に休暇って訳にもいかねぇんだろ?」
誠司は鷹揚に首肯した。
「あの二人には不測の事態に備え、暫くの間は南都に留まって貰う予定だ。その方がお前も安心じゃろう?」
それから誠司は極めて真剣な面持ちで続けた。
「時雨、案ずるな。奴らはいずれ、必ず根絶やしにする」
時雨が「はっ」と鼻を鳴らした。
「隠居風情が偉そうに。悠長に守り徹してたら勝てるモンも勝てねぇぜ」
吐き捨てる時雨を目尻に、百道が口を開いた。
「差し出がましいようですが、黒化エリアの調査とは、なんの事でしょうか?それに、先日の時雨らの独断の行動は一体」
「」
百道の指摘に、時雨の眼に冷たい影が伸びる。
「つーかよ。ソイツに聞かせて大丈夫かぁ?
時雨の挑発的な視線に、百道の眉が吊り上がる。
「それはどういう意味だ、時雨?」
「あん?あぁ、人語が分かんねぇか。俺は、テメェに、俺らの会話を聞く資格はねぇって言ってんだ。つまりは出ていけ」
「何!?」
取り乱す百道を諌めるように、誠司が呟いた。
「構わんよ。百道君は、ゆくゆくはこの南都を担う人材だ。知っておけば、今後のためになるだろう」
しかし時雨は見下した態度を改めない。
「はっ。どうだか?俺には、ソイツが役に立つ未来なんざ、ちっとも見えやしねぇけどな」
百道は我慢ならず時雨に掴み掛かった。
「なんだと!?さっきから黙って聞いていれば好き勝手に、第一貴様にそんな事を言われる筋合いは断じてない!」
襟首を掴み上げられても時雨の態度は変わらない。
傲然と肩を聳やかし、蔑んだ視線で百道を侮蔑する。
「あん?口答えすんのかぁ、猿真似野郎の分際でぇ?賢者だかなんだか知らねぇがそんな肩書き一つで粋がりやがって。恥ずかしくねぇの?」
「‥‥貴様こそ。そんな不吉な髪色で恥ずかしくないのか?」
百道の指摘に、時雨の肩がびくりと震えた。
襟首を掴む腕を強引に払いのけ、形相を血走らせる。
「テメェ‥‥今日は嫌によく喋るじゃねぇか、猿真似野郎!」
「ふん、不服なら決闘を挑めばいい。此方としても望む所だ」
「はっ。いいぜ、相手してやる。テメェの気概が口だけじゃねぇってんならな」
歪み合う両者に、呆れ果てた誠司が肩を竦める。
「二人とも、その辺りにしておけ。と言っても、聞かんのだろうな‥‥仕方のない」
時雨が腰の木刀を構えた。百道も、背の大太刀に手を伸す。
とその時。時雨がピクリと柳眉をつり上げた。
誠司の呟きが原因だった。
「夜見に月美。それ以上続けるのなら、彼女らの処遇は考え直さねばならぬだろう」
不穏な気配を纏った時雨が、髪を振り乱した。
睨め付ける時雨の眼光が、磨き上げられた刀の如く鋭利な殺気を成し誠司を睨め付ける。時雨の発する殺意で、部屋の空気が引き締まり薄くなるようだった。
「ジジィ、テメェ、この俺を脅す気か?」
「脅し?はて、なんのことやら」
と惚けた様子を装った誠司は、「だが」と呟き、瞬時に態度を翻した。
「この部屋は、かつて、朱雀の巫女が座したとされる神聖な間だ。刃傷沙汰は頂けない。ましてや、喧嘩ごとなど言語道断。決着を望むのならば、正式な手続きを踏み、決闘すれば良い」
凄んだ誠司の突き刺すような気迫に、百道は息を呑む。
時雨は無言で踵を返した。
退出する華奢な背が、扉の影に飲み込まれてゆく。
その様に、老人はそっと肩を竦めるのだ。
「百道も、くれぐれも怪我はないようにな」
※
それは黒髪の少年が誠司に殴り込んだ日から数日と過ぎた日の、学び舎の昼休憩の時間のことだった。
時雨は学び舎の廊下を踏み鳴らしていた。
学び舎・朱雀校は南都のほぼ中心部に位置する術師養成機関だ。
千年の歴史を持つ校舎は経年劣化が激しく、至る所にカビの匂いが染みつき、床板は歩けば軋み、外観の煉瓦造りは風に吹かれただけで震える有様だ。いい加減に改装しろよと思う所である。
そんな古臭い廊下を闊歩する時雨は立ち止まった。
背後から投げられた声が主な原因である。
時雨は屋上へ向かうはずだった踵を返し、溜息を吐いた。
「なんだよ、テメェか」
金髪坊主に三白眼。背は自分より頭一つ高い。
浅黒い少年、百道が仁王立ちに構えていた。
「今日こそ、決着を付けて貰うぞ」
時雨は、またかと白けた表情を浮かべた。
決着、つまりは決闘。
学び舎では生徒間での決闘が認められているのだ。
「コリねぇ野郎だ。先週ボロ雑巾にしてやった所だろうが」
すると百道は
「あんな勝負、俺は断じて認めない!貴様は、合図よりも前に術理を仕掛けていただろう」
「馬鹿が。実際の戦闘に合図なんかねぇだろうが。第一、今は
時雨は言い放ち、踵を返した。
しかし、百道の呟きに、聞き捨てならぬと足を止める。
「つまり。俺に負けるのが怖いから逃げる、という事で良いな?」
「逃げるだぁ、この俺が?」
「そうだ。俺に負けるのが怖くて、尻尾を巻いて逃げようとしている。違うのか?」
「阿呆吐かせ。誰かテメェなんかにビビんだよ、第一俺は一度も負けてねぇだろうが」
「いいや。お前は恐れている。事実として今お前は目の前の勝負から逃げようとしている。それが証拠だろう?いいんだ。無理をする必要はない」
時雨は青筋を立てて睨んだ。
「テメェ、まだ自分の立場ってのが分かってねぇ見てぇだな」
「そう興奮するな。弱い犬ほどよく吠えるとはよく言うが、まさにその通りだな」
「あ?黙って聞いてりゃ」
「黙ってはいないだろ」
「んだとぉ!テメェ」
「貴様こそ!」
百道の挑発に、時雨がぶっ殺すと掴みかかろうとして、動きを止めた。
その脳裏には、「何やってんの?」と氷点下の文句と「お弁当冷めちゃったよ‥‥」と切実な落胆が過っていた。
時雨は
「付き合いきれねぇってんだ。今俺は猛烈に腹がへってんだよ。第一、坊主の分際で生意気な野郎だな。人里は楽しいかよ猿?」
「俺は坊主だが猿ではない。俺の名は百道だ」
「そうかよ、そいつは悪かった。サル顔だから勘違いしちまってみてぇだ」
「前から散々言っている。お前の脳みそは小突けばコロコロと音がする程空っぽなのか?」
右脳と左脳の中間からブチッ、と理性を司る線がキレた。
「あ?上等だ」
「それはこちらの台詞だ」
黒と琥珀の瞳が交錯し、二人の間にバチバチと火花が散る。
そんな幻影を見る者もいたことだろう。
何せここはお昼休みの真っ只中の廊下、生徒の往来も頻繁で、人目につきやすい。
決闘の予感を嗅ぎつけた生徒がまた次の生徒を呼び寄せ、わいわい、がやがやと生徒達が渦巻き、野次馬の群れができあがる。
その渦の中心で、二人の怒声が重なった。
「「決闘だ!」」
画して、決闘という名を借りた喧嘩が始まるのである。
記憶では、週に一度はこの手の
騒ぎを聞きつけた生徒らが、集まり始める。
もはや毎度おなじみなのである。
※
二人のお馬鹿な少年が取っ組み合いを始めた頃。
学び舎・朱雀校の屋上では、少女の影が二つ、仲睦まじく海を眺めていた。
小洒落た蔓草模様のベンチに腰を据え、木の机には花柄の弁当を並べている。
待ち人をもてなす準備は万端の様子だ。
小高い丘に聳える学び舎朱雀校の屋上は、海が一望できる。
朝焼けの水光はさながら宝石箱のようであり、夕焼けはえもいわれぬ快美。
昼の地平線は陽炎の如く揺らぎ、その儚さは願いでも叶いそうな程である。
故に、学生間ではある種パワースポット的な扱いとなっていた。
例えば、恋愛成就だとか、合格祈願だとか。非常に興味深い。
そんな場所で蕭々と吹きゆく夏の風に頬を打たれながら弁当を食す、それは学生らには中々に乙な事なのだろう。
何かと託け人が集まる。
しかし今日は珍しく人が少ない。少ないというか二人を除いて誰も居ない。
不思議そうに首を捻りながら、淡い髪の少女が心配そうに呟いた。
「遅いなあ、雨君。どうしたんだろう」
少女の名は月美。
透き通るような白磁の美肌に、空色の双眸、編み込まれた白髪のうちの数房が桃色という、限りなく淡い白百合の花弁のような髪を持つ、全体的に白い少女である。
対し隣の、若干灰がかかった青鈍の髪をポニーテールにした少女が不貞腐れたように言う。
「どうせあの馬鹿の事だからどこかで油売ってるのよ」
彼女の名は夜見。可愛いよりは美しく、実際の年齢より2歳ほど落ち着いた凛嶺な少女である。
「それならいいんだけど。それにしても遅い。お弁当冷めちゃう。今日は自信作で、美味しい内に食べて欲しかったんだけど」
「ならいっその事先食べるのは?」
「それはダメ。雨君悲しむし」
夜見は柳眉を逆立てて処置なしと溜息を吐いた。
「知ってたわ。アンタのお人よしにも付き合いきれない」
「え?だって夜見も三人で食べたいでしょ?」
「私は寧ろあの馬鹿の分まで食べてやりたい。自分の要望でわざわざだし巻きも用意させた癖に自分は遅刻。ありえない」
沸々と怒りを露わにする夜見に、顎に指を当てて悩む素ぶりの月美。
月美は出し抜けに立ち上がった。
クルリと華麗なターンを披露して、
「じゃあ呼びに行きましょう!非常に!」
未だベンチに腰を据える夜見にそんな提案を投げる。
「はぁ。結局そうなるか」
文句を垂れつつも夜見も立ち上がった。
お弁当を畳み始めた双方は、いずれにせよ待ち人に甘いのである。
※
校舎に戻ると途端に湿気ったカビの、学校特有の匂いが鼻腔を掠める。
階段の壁に下げられた標識に、夜見は僅かに目を細めた。
──気づけばもう十年、か。
ここでの生活も、自分が異物である事を忘れかける程には板に付いてきた。
されど幼き日の記憶は色褪せることはなく、時折夜見を切なくする。
二階に降った所で、月美が「わ!」と驚嘆の声を漏らした。
彼女が驚くのも無理はない。
向かう先の廊下が、人でごった返しになっていたのである。
「はぁ」
進行方向が人の海。何やらわいわいガヤガヤとお祭り騒ぎだ。
夜見は無性に頭を抱えたくなった。
「何ごとかな?お祭りまで、まだ一ヶ月もあるのに」
「この中を突き進むのは流石に怠い」
そこで夜見の柳眉が釣り上がる。
夜見は後天的な事情により五感が鋭敏だ。野次馬が集うその渦中から、良く知ったその声を検知するなど造作もない。
「ねぇ。今の声ってやっぱり」
月美の白髪に紛れた桃髪の一房が、ぴくりと反応した。
彼女もまた、程々に耳が効くのだ。
「うん、間違いない。雨くんの声」
「最悪の最低」
夜見は半眼呆れ顔で呟いた。
野次馬が取り囲むその渦中にいる人物こそ、二人の主人である。
「ねえ夜見。一緒にお弁当食べようって約束しただけなのに、どうして?」
月美は心底不思議そうに小首を傾げて、その空色の瞳は据わっている。
彼をこよなく愛す彼女でさえもこの呆れ具合だ。
夜見は「処置なし」と言いたげに肩を竦めた。
「私が知るわけ無いでしょ」
「目立つから、かな」
「まぁ、そうね。確かにあの馬鹿は目立つ」
少女と見紛うほど淡麗な目鼻立ちに、圧倒的な実力。
何よりも黒髪だ。
人の目を惹きつける要素は枚挙に暇がない。
夜見はため息を吐いた。
「どうせ、あの馬鹿の身から出た錆よ」
「彼、あれで少しはマシになったんだよ」
「あれでも、って時点でお察しなのよ」
「うん。もう少し改善して欲しいかも」
懇願めいた月美の要望に、夜見も同意する。
「そうね。もう少し大人になって欲しいわ」
すると隣の月美が「ふんす」と息巻いた。
お弁当箱をガッシリと抱きかかえていて、様子がおかしい。
「えっと、月美?どうしたの急に。って、え、ちょっ」
あろう事か月美は人混みに突入を試みたのだ。
珍しく慌てる夜見が、その白い手首を掴んで引き止める。
「ちょっ、待ちなさい!急に何?どうする気?」
「突っ込みます」
「気でも狂った?」
「失礼な!私は正気です。夜見、行こう。救出です‥‥非常に!」
頑なに息巻く月美に、夜見は思わず息を呑んだ。
その空色の瞳には儚くも強い輝きが宿り、夜見にはない峻厳さを醸し出している。
──普段のほほんとしてる癖に、いざという時は頼もしいのよね、この娘。
しかし、眼前の洪水の如く人混みを突破するのは些か無理があるだろう。
夜見は息を吐く。
「なら、術を使いましょう」
夜見が──校内での使用は禁じられている──幻石を取り出した時、
「おっと。校則違反は見逃せないかな」
ふと、横合いから爽やかな声が聞こえた。
気がつけばすぐ傍に男が突っ立っている。
「ひゃっ」
突然の声に驚いた月美は、慌てて夜見の背中に隠れた。
夜見も、不覚を取ったと素早く身構える。
男は夜見とその背中から睨む月美を交互に見回し、困ったように頬を掻いた。
「その反応は流石に傷つくんだけど」
視線の先の男は壁に身を預けて腕を組み、やけに白い歯を見せ、見透かしたように笑う。
「す、すいません」
「月美。謝んなくていい。どう考えてもこの人が悪い」
夜見でさえ、声を掛けられるまで気がつかなかったのだ。意図的に気配を消していたに違いない。
夜見の絶対零度の視線に、男は「おお、怖い怖い」と戯けて見せた。
その軽薄な態度に、夜見は柳眉を顰める。
──やりづらい。
筋骨隆々に薄い顎髭。
もう三十路にさしかかる年齢のはずなのに、爽やかな青年のような風貌。
短く切りそろえられた茶髪は、襟足だけが異様に長い。
絶賛軽薄な笑みを浮かべるこの男の名は長谷部宗司。
この南都の統括を任される高貴な血筋であり、学び舎の講師である。
夜見は不信感を包み隠さず、睥睨した。
夜見はこの男が苦手だ。
世界中の人間を二分するなら、まず間違いなく苦手な分類に入るだろう。
ただ、彼の実父である誠司には恩義があり、理由もなく無碍にするのは気が引ける。
夜見としては複雑な心境なのである。
「何か用ですか?わざわざ隠形までして」
宗司は軽薄そうにはにかんだ。
「ははは、相変わらず手厳しいな。そんなに睨まないでくれよ。夜見ちゃん」
「夜見ちゃん‥‥?」
夜見は声音を低くする。「その呼び方辞めてください」
「ん、何で?」
「なんでって。そうですね、何故だか悪寒がしますので」
「うお。思ってたのの数倍鋭い刃が飛んできたな。俺ってそんな嫌われるようなことしたっけ?」
「うーん。私にも」
月美が小首を傾げ、一泊置いて、ぽん!と手鼓を叩いた。
「あれかも。私たちが転校してきた時、クラスに馴染ませようとして色々しつこかったから‥‥非常に!」
月美の悪意ない台詞に、宗司が刺されたように胸を押さえた。
「うぉ!?つ、月美ちゃんはナチュラスに人をディスるよね」
「え、そ、そうですか!?私、全然そんなつもりなかったけど」
その件には少なからず夜見も心当たりがあった。
若干涙目の月美に切実な視線を向けられ、夜見は困ったように頬をかいた。
「うん、正直、たまに?」
夜見の相槌を見た月美は仰天し、「わた、私っ、もしかして皆さんに失礼なことしちゃってたかな!?気は、気は配っているつもりなんだけど!非常に非常に!」と慌て出す。
「はぁ‥‥」
夜見の溜息は止まらない。
切実な問題である。
月美は自他共に認める世間知らずであり、言葉通りの箱入り娘だ。
感性や常識、その他諸々の局所局所に致命的な欠落がある。
然りとて月美は聡明だ。
故に、彼女の純粋無垢から放たれる疑問は物事の本質をよく捉え、俗界の荒波に揉まれた憔悴心に深く刺さる。
事実、眼前の宗司も、項垂れている。
夜見も時折、彼女の悪意ない刃に滅多刺しにされる事があるから分かる。
──まぁ確かに。刺さるわよね。
今は儚い雰囲気が誤魔化してくれているが、大人になる頃にはそのメッキも剥がれているだろう。
「アンタはもう少し人と関わんなさい。清楚な見た目もあと十年もすれば終わるんだから」
夜見に額を弾かれ、月美は「あう」と喘ぐ。
「けどさ、他に言い呼び方なんてないだろ?何せ、二人とも──」
そう言いかけた所で、宗司は空咳をする。
夜見の絶対零度の視線に気がついたからだろう。
大人しく失言を認め、「失敬」と頭を下げた。
月美が思い出したように口を開いた。
「そう言えば宗司さん。何かご用事があったんじゃ」
「ああ、そうだった。二人にお願いがあってね」
お願い?宗司の頼みなどどうせ碌なもんじゃないと、二人して顔を見合わせる。
「お願い、ですか?」
「無益な事はお断りですよ」
「うちの息子とそちらの旦那の仲裁役。頼まれてくれないかな?ほら、このままじゃ弁償代、すごい事になっちゃうぞ?」
夜見の溜息は、騒然たる廊下のうねりにかき消されるのだった。
寄せては返す小波が砂を運び、夏の熱気を纏った潮風が頬を舐め、髪を流す。
ここは南都の外れにある、周囲を断崖絶壁に覆われた、まるで巨人の大腕に隠されたような入江だ。
夏の猛射に揺らぐ入江の砂浜には、四つの影あった。
性懲りも無く取っ組み合う男児二人を、岩に腰掛けた女子二人が眺めている。
月美が悲しそうに嘆いた。
「止まらないね。午後の授業は欠席しなきゃだよ」
夜見はどこか悟った口調で頷く。
「それはいずれにせよって奴よ。あれだけ騒げば
夜見らが人混みを押しのけ仲裁に入った時、既に決闘は始まっていた。
決闘というか只の喧嘩だ。お互いの髪や頬を引っ張り合い、分かりやすく取っ組み合っていた。
そして、その構図は入江に引っ張ってきてもなお変わらない。
「私、仲裁してくる!」
何を思ったか、月美が果敢にも啀み合う男児の間に割り込んで行った。
されど月美の仲裁も焼け石に水だろう。
「その勇敢は讃えるわ」
あの手の喧嘩は火に油だ。
一度鎮静化したとしても、どちらかの余計な一言を火種に、何度でも再燃する。
その要らぬ言葉の被せ合いは犬猿の逸話の体現のようであり、その不毛さに夜見は項垂れた。
「全く。もう少し建設的に生きてほしいわ」
夜見の贔屓目抜きにしても、時雨は天才だ。
生まれ持った天与の素質とたゆまぬ努力により、その実力は既に一線を画す位置にある。そんな彼が一度暴れ出せば百道の命が危うい。
──彼に人は殺して欲しくない。拙に願うばかりである。
それはさておき、聞く話、喧嘩の発端は百道らしい。
この少年も懲りないものだ。時雨に髪を刈り上げられたその日から、めげずに挑み続けている。
夜見は重たい腰を上げ、
「で、結局、どっちが悪いの?」
夜見の問に、頬を引っ張り合う馬鹿共は口を揃えて叫んだ。
『ふぉいふにふぃまっふぇる‥‥!!』
夜見は深い溜息を吐いた。
「いいわ。潔く決闘で決めなさい」
※
入江の浜で、双方が睨み合っていた。
模擬戦だ。
百道が使うのは訓練用に刃を砕いた大太刀だ。対し、時雨の手にはお馴染みの木刀が携行されている。
「数分後貴様は敗北を知るだろう‥‥!」
「はっ、なら教えてくれよ。テメェはよく知ってるだろう?」
「ほざけ!その余裕、いつまで保つか!?」
眼光を強める百道に対し、時雨は木刀を軽く遊ばせた。
さも負けるはずがない、と不敵に唇を釣り上げている。
そんな余裕綽々な態度に、百道の木刀を握る手も強まる。
二人の周囲には幻力的障壁──結界が立ち上がっている。
ある程度激しい戦闘を繰広げたとしても、周囲の損壊を気にする必要はない。
まあ最も。場所が場所なだけに周囲を注意する必要も無いのかも知れないが、念には念をというのが夜見の信条である。
「二人共、始めますよ~」
レフリー役をかってでた月美が、垂直に手を伸した。
「よーい」
言下、その軽やかな合図に反し、辺りに決闘特有の緊迫感が漂う。
百道の表情が強ばり、時雨が舌なめずりをした。
月美が、天高く伸した手を、振り下ろす。
決戦の火蓋が切られた。
「初めっ!」
その瞬間、百道の姿が消えた。
正確には消えたわけではない。だが消えたように見えた。
高い動体視力を持つ夜見には分かる。
初動、百道の重心は明らかに右に傾いていた。
しかし百道は左に飛んだ。右に飛ぶ素振りを見せて、敢えて逆方向に飛んだのだ。
一切の重心移動なしにだ。
あれは巧い。歴戦の猛者でも騙せてしまうだろう。
「お猿さんみたい」
例えは些か失礼だが、ちゃんと賛辞だ。
つまり百道は今、時雨から見て右側、結界の側面を韋駄天の如く駆けている。
百道は時雨の背後に回り込み、死角から大太刀を振り放った。
「フン‥‥!!」
鋭い大太刀の剣撃が、ブンと小気味いい音を鳴らして時雨の首筋に迫る。
模擬戦仕様に刃を潰した大太刀とはいえ、只では済まない威力だ。
だが相手は時雨だ。
「この程度かぁ?んな柔な攻撃じゃ、掴まれて終りだろうが」
時雨は斬撃を素手で捌き、その刃を強引に鷲づかみにした。そして、奪いとる。
「胴ががら空きだな」
時雨がニヤリと口角を不気味に歪め、拳を放った。
振り抜かれた拳は空気を巻き込みながら、驚異的な威力となって、百道の脇腹へ迫った。
「そんなことは分かっている‥‥!」
百道は飛び上がった。時雨の背の倍を超える跳躍である。
木刀を抑えられたとき既に彼は
流石というべきか戦況がよく見えている。
百道という少年も、着実に成長しているようだ。
「へぇ‥‥」
頭上を仰ぎ見て、時雨が笑う。
賞賛か、嘲笑か。どちらとも取れる含みのある笑みを湛えている。
「その薄ら笑い、首ごと叩き折ってやる」
百道は空中でグルングルンと前方宙回り。
「技巧・大車輪斬り‥‥!!」
相当量の幻力を纏った大太刀が炸裂する。
といっても演習用なのだが、まるで金属同士が打ち合ったような甲高い音が轟き、余波が周囲を吹き飛ばす。
月美がゴクリと唾を呑んだ。
海風が濛々たる土煙を攫い、二人の姿が露わになる。
「は‥‥?」
思わず夜見の目が点になった。
隣を見れば月美も同じ表情だ。
ねぇ、どうして?とその神経が本気で理解できない様子で困惑している。
二人して顔を引きつらせつつ呟いた。
「「馬鹿」」
馬鹿は誰あろう、時雨だ。
あろうことかあの馬鹿は、大太刀の斬撃を額で止めていた。
幻力の加護を受けた、岩をも砕く一撃を、額の臼骨一枚で受け止めてしまったというのだ。
普通に木刀で受けなさいよとか、真面目に戦いなさいとか、芸人じゃないんだから、とか。そもそも危ないでしょ、頭蓋骨にヒビが入ったらどうするのこれ以上馬鹿になられては面倒も見きれない、とか。
兎にも角にもツッコみたい事が目白押しで、頭がおかしくなりそうだ。
視線の先にはほぞを噛む百道と得意げな時雨だ。
「くっ、貴様!また人を馬鹿にしたような‥‥!」
「はん。テメェの攻撃なんざ俺にゃ微塵も通じねぇんだよ」
「な!?巫山戯るな!俺はまだ負けていない!そういうことは俺を倒してから言え!」
「はぁ?全力を受け止められといて、どの口がほざいてやがる。これ以上の負けはねぇだろうが。弱い犬ほどよく吠えるだったか?そりゃよく言ったもんだ」
「くっ!きぃさぁまああ!言わせておけば!」
「雑魚の等吠えなんざ聞こえねぇよ!!」
隣の月美が頭を抱えている。
──馬鹿の愚行に振り回される彼女がお労しい。
「アンタ、本当にアレでいいの?考え直したら?」
「それが雨君だから。それに、一度乗りかかった船だもん。最後まで添い遂げるよ」
「その船が既に泥船でも?」
「そこはまあ、これから私と夜見とで補強していくとして」
「なんで当然のように私もカウントされてるのよ」
「え?違うの?」
月美は誠不思議そうに小首を傾げた。
月美は何をするでも夜見をニコイチに考える習性があるのだ。
夜見は頭を振った。
「違うわよ。私はあんなの願い下げ。私はもっと知的な人がいいの」
すると月美は目を丸め、妙案を思いついたように手鼓を打った。
「では、帰ったらお勉強してもらいましょう!そうすれば問題ないよね?それはそれとして。おでこで受け止めるのはやめてもらいたいので、今日こそお灸を据えます‥‥非常に!」
むんと息巻く彼女はお叱りモード。一度こうなってしまった月美に何を言っても無駄だろう。
「夜見も付き合ってね」
「はいはい」
やはりニコイチだ。何も分かっていない月美に、夜見は肩を竦めるのだ。
そんな時だった。
風に揺られる時雨の黒髪が、ピクリと逆立った。
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