第4話
「あ、あの」
「足が怪我をしたら大変だ」
身長は殆ど変わらない。なのに、片手で持ち上げられる程に軽い。
一体何をどうすれば、こんなに痩せてしまうんだ。
縄で縛られていたと物語る首と手首、足首の痣。身体の無数の擦り傷も、目の下の隈も、どうして。
ルクスエは、力を入れれば折れてしまいそうな青年に一種の恐怖とラダンに対する怒りが湧いた。
「ありがとう、ございます」
ゆっくりと家の中へと降ろされた青年は、室内と認識した途端に目線を泳がせ、布で顔を隠すように縮こまった。
「そうだ。旅の疲れを流す為に、身体を洗ってはどうかな?」
水は貴重ではあるが、身体に垢が溜まっては健康に悪い。
錆びついた装飾を外させ、服を着替えさせるためにも、ルクスエは提案した。
「水が……」
「見張りは竜と戦うから、かなり汚れるんだ。全身が浸かる位に水を使っても、大目に見てもらっている。安心して使ってくれ」
ルクスエはそう言って再度裏手に戻り、二個のバケツを手に井戸から水を汲んできた。
エンテムの町から一時間ほど歩いた場所に川がある。そこから水路を引き、さらに井戸を3か所掘ったおかげで、乾燥地帯であっても町は畑仕事が出来るほどに豊かだ。時には川の様子によって制限が設けられるが、今は特に問題はない。なにより、この井戸は町一番の戦士であるルクスエの持ち物に等しいので、とやかく言う者はほとんどいない。
「あっ、井戸水のままでは冷たいな。温めよう」
バケツ二個を手にルクスエは、裏手から台所の窯へと向かう。
青年は彼の背を追おうとしたが、裸足なので再び外には出られず、その場で待った。
日差しが温かい。湿気はあまりなく、吹き荒れる風もない。
リシタは警戒の声を発していない。
ここは静かで、とても穏やかな場所だ。
「お待たせ。準備が」
「!?」
ルクスエが声を掛けた時、静寂の中にいた彼の肩が大きく揺れた。
「お、驚かせたか。すまない」
「いえ……意識が飛んでいたようです。申し訳ありません」
あぁ自分は眠ってしまったか。そんな風に、眠気が来なくとも起きた時に、それを認識できるはずだ。
しかし青年は、意識が飛んだと言った。いつもの事、という口調だった。
「旅の疲れが酷いようだな。まずは眠った方が良いんじゃないか?」
気がかりであるが、青年は話してはくれないだろう。旅の疲れがあるのは確かなので、ルクスエは風呂を中止し、まず体を休める事を青年に勧める。
「折角用意してくださったのに、無駄にするわけにはいきません」
布を持つ青年の手が、小さく震えている。
汚れていてはいけないと、強迫観念に駆られてしまったのだろうか。
「わかった。風呂は、裏手からしか入れないだ。俺のお古で悪いが、この靴を履いてくれ」
「はい」
少し縒れた皮の靴。青年の足にはいささか大きかったが、裏手を歩くだけなら充分だ。
申し訳なく思いながらルクスエは、青年を風呂場へと案内した。
白と鮮やかな花柄のタイルが全体に貼られ、湿気を含んだ小さな部屋。そこにはお湯で満たされた水瓶が置かれ、壁には人が余裕をもって入れる大きな桶が立てかけてある。
「竜と戦った後、全身返り血を浴びる時があるんだ。竜の種類によっては臭いも酷い。あれくらいの桶でないと、頭から足先まで洗い流せないんだ」
「こんなに大きな……」
ルクスエの話を聞きながら、青年はまじまじと桶を見る。先程の話では、うまく伝わりきれていなかったのだろう。先程に比べ不安の色が薄まり、水を使っても大丈夫だと理解してくれた様子だ。
「扉の横に置いてある籠に、服を入れてくれ。石鹸の入った布袋と垢取り用の馬毛の手袋もそこに一緒に入っているから、好きに使ってくれてかまわない。お湯も足りなければ追加するから、遠慮なく言ってくれ」
新居に暮らしが移っても、帰宅する前には身体を洗えるこの家に立ち寄るだろう。そう思い、着替えの服と一緒に置いておいた石鹸と馬毛の手袋が、昨日の今日で日の目を浴びた。
「わ、私が洗っては、ここが酷く汚れます」
「風呂場は汚れを落とすための場所だ。気にする必要は無い」
本当に良いのか、と青年は躊躇いを見せ、一歩後ろに下がろうとする。
「大丈夫だ。使ってくれ」
「………………はい。使わせて、いただきます」
ルクスエの後押しを受け、青年は小さく頷いた。
「使用後の石鹸や垢取り用の手袋は、中に置いておいてくれ。あとで片づける」
「はい」
「着替えを用意して来る」
「お願いいたします」
無理やり服を脱がさず、同性であっても体を見ないようにルクスエは配慮し、足早にその場を離れた。
1人残された青年は、籠に入った石鹸の入った布袋と垢を取るための馬毛の手袋を確認する。少し使われた形跡はあるが、まだまだ使える代物だ。
厚意を無下にする事は出来ない。青年は頭に被っていた布を取り、装飾品を外し、服を脱ぎ始める。
痣とすり傷、背中に鞭で打たれた無数の傷跡が残るやせ細った体。青年は、水瓶に入れられたお湯を手で掬い、少しずつ体にかけて行く。
ヒリヒリと傷は痛むが、湯の温かさのお陰で軽減される。
青年は痛みに耐えながら、身体を丁寧に洗い流し、傷の無い箇所を石鹸の泡と馬毛の手袋で優しく垢を取り除いていく。すり傷や塞がったばかりの個所は、手で撫でる程度に留めた。
身体から流れ落ち、床へと広がる黒い汚れに、年月を感じ、青年は背中を摩る。
「……くしゅ!」
寒さに慣れている筈が、温かい湯に当たっていたからだろう。身体は暖を求める合図のように口からくしゃみが出た。
あの男性を待たせるわけにもいかない。青年は体を洗う事に集中する。
半刻が過ぎようとした頃、髪と身体を洗い終えた青年は、風呂場から外へと顔を出した。ルクスエは居らず、扉の横に着替えの服が入った籠が置かれている。
これを着れば良いのだろう。そう思い青年は手に取ろうとしたが、頭に被っていた布がない事に気付き、不安と恐怖で錯乱しそうになる。
しかし、すぐ隣に置いてある一回り小さな籠の存在に気付けたことで、落ち着きを取り戻す。籠の中には、頭に被っていた布が丁寧に畳まれて行かれている。
青年は胸を撫でおろした。
「よかった……」
あの男性は、聡い人のようだ。
心の中で感謝をしながら、青年は着替えを始める。
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