05 変化と覚悟
原と付き合いはじめて変わったことといえば、ほぼ毎日仕事帰りに迎えにきてくれる人ができたことだろうか。
原の定時は十七時だが、残業でだいたい十九時から二十時になることが多い。
だから、帰っているとちょうどゆうらの閉店時間になる。
「矢田さん、今日もお仕事お疲れ様です」
「原さんも、お疲れ様でした」
店から駅までの道のりが主なデートコースになっていた。
恋愛に苦手意識を持っている由美のために、原はいきなり距離を詰めてくることもなく、恋人らしい触れ合いを求めることもなく、ただ穏やかに傍にいてくれる。
この距離感が心地良かった。
親友と呼べる友人がいない由美にとって、他愛のない自分の話や愚痴を聞いてくれるのはこれまで母だけだった。母にもすべてを話せるわけでもなく、インターネットで同じような人を探すことが多かった。
しかし、少しずつではあるが原とも日常の何でもない話もできるようになった。自分に自信がない由美のことを、原は全肯定してくれる。愛おしそうにこちらを見つめて、いつも幸せそうだ。
本当にこのまま、由美が傍にいるだけで満足なのだろうなと思えるほどに。
(でも、そろそろ呼び方くらいは……変えてもいいかも)
付き合ってもうすぐ一か月経つが、まだお互い名字呼びなのだ。それに、原は年上なのにずっと由美に敬語を使っている。名前を呼びたいといわれたわけではないが、こんなに自分を大切に想ってくれている人を他人行儀に呼ぶのもさみしい気もした。
「あの、原さん」
緊張して、呼び止める声が小さくなってしまう。
しかし、原は聞き逃さず、立ち止まった。
「どうしましたか?」
まだ好きという気持ちは分からないが、原が傍にいてくれると安心するし、頼りたいと思っている。
「名前で呼び合いませんか……?」
「えっ……いいんですか?」
「はい。私の名前は」
「由美さん、ですよね。ちゃんと覚えています」
「そうです。さすが、ですね」
自信満々に由美の名前を言った原が面白くて、思わず笑ってしまう
「あ。もしかして、気持ち悪いなって思ってます?」
「そ、そんなことないですよ。私のこと、よく覚えてくれているなって」
「当たり前ですよ。だって僕、矢田さんのこと大好きですからね」
毎日のように「かわいい」「大好き」と言ってもらえると、やはり嬉しい。
原のおかげで、自己肯定感も上がり、心の空虚感もなくなってきたと思う。
胸があたたかくなり、自然と笑みがこぼれてくる。
愛されるとは、こういうことを言うのだろう。
好きというのは、こういう気持ちのことかもしれない。
「彰人さん」
由美が名を呼ぶと、原は一瞬動きを止めた。
数秒固まったあと、彼の目から涙がこぼれてくる。
「え、どうしたんですか?」
「だって……だって……矢田さんに名前を呼ばれる日がくるなんて思ってなくて」
「もう、泣かなくてもいいじゃないですか~」
告白を断るたびに泣いていたことを思い出す。
「私のこと好きすぎですね」
「当然です! 矢田さんは世界で一番かわいくて、最高に素敵な人なんですから!」
泣きながらおもいきり頷かれて、ますます笑みがこぼれる。
「私のこと、彰人さんも名前で呼んでもいいんですよ」
だから、原の大きすぎる愛に応えられるように、もう一度名を呼んでみた。
「そ、そ、そんな……心の準備が」
ドキドキと高鳴る胸をおさえて、原が頬を赤らめる。
どっちが乙女か分からない反応をされてしまった。
「……由美、さん」
「なんだか、彰人さんの方が年上なのに名前でもさん付けで呼ばれるのは……」
まだ距離を感じてしまう。
「いやでも呼び捨てなんて無理だし……じゃあ、由美ちゃん?」
「はい。そっちの方がいいです!」
由美が笑顔で頷くと、原はまた胸をおさえた。
「こ、これは夢ですか……幸せすぎて」
「ふふ、現実ですよ」
(敬語をやめるのは、まだ先にした方がよさそう……?)
ただ名前を呼んだだけでこの反応。
敬語をやめると言えばどうなってしまうのだろう。
これまで恋愛なんてしたことがないから、自分からどう距離を詰めていけばいいかわからない。
そこまで考えて、自分が原と距離を縮めたいと思っていることに気づく。
(これってもう好きってこと……?)
恋愛相談できる相手なんていない。
友達には、今更恋愛をしようとしているなんて冷めた目で見られそうだし、母にはまだ言えない。
「あの……彰人さん」
「は、はい?」
「彰人さんにもっと近づきたいと思うのは、もう好きってことなんでしょうか?」
分からな過ぎて本人に聞いてしまった。
「えぇっ!?」
名前呼び以上の爆弾を投げてしまったらしい。
原は目を見開いて、完全に固まってしまった。
「あの~、彰人さん?」
「いやもうほんと、どうしよう……矢田さんかわいすぎて……あ、由美ちゃ、んって呼んでもいいんだ……あぁ、ダメ、好きすぎる……」
一時停止している原の目の前で手を振ると、両手で顔をおさえて何やらブツブツ呟いていた。
結局、この日はまともに会話ができないまま駅に到着した。
帰宅後、原から「好きになってもらえていたら嬉しいですけど、無理しなくて大丈夫ですよ」というメッセージが届いた。
別に無理はしていない。由美にとっては、それが驚きだった。
原がありのままの自分を受け入れてくれて愛してくれるから、無理をしなくても一緒にいられるのだ。
きっと、こんな風に愛してくれる人なんて、他にいない。
「彰人さんに何も返せてないな……」
原は由美といられるだけで幸せだというけれど、自分からも何かしたいと思った。
* * *
付き合って一カ月記念日。
いつものように仕事終わりに迎えに来てくれた原が、手のひらサイズの細長い箱を差し出してきた。
「由美ちゃん、僕と一緒にいてくれてありがとうございます」
箱の中に入っていたのは、ピンクゴールドのネックレスだった。
小ぶりの宝石はダイヤモンドだろうか。
キラキラと輝いている。
「すごくきれい」
思わず、感嘆の声をもらす。
ネックレスやブレスレットなどのアクセサリーは、いつも雑貨屋などで買っていた。
こんな本格的なジュエリーをもらう日がくるなんて思ってもいなかった。
「彰人さん、ありがとうございます。もしよかったら、つけてもらえませんか?」
「え、いいんですか?」
「彰人さんからのプレゼントじゃないですか。お願いします」
「は、はい」
緊張しながらも、原はネックレスを手にとり、悪戦苦闘しながら由美の首につけてくれた。
「思っていた通り、よく似合っています。由美ちゃんは本当にきれいですね」
ネックレスをつけた由美を見て、原はうっとりと見惚れていた。
自分が本当に世界で一番美しいと錯覚してしまいそう。
「ありがとうございます。実は、私からも彰人さんに渡したいものがあるんです」
原のために何かしたいと思ったとき、自分にできることは一つだった。
由美も、持っていた紙袋を差し出す。
「……もしかして、僕のために作ってくれたんですか?」
紙袋の中をのぞいて、原が目を輝かせる。
「はい」
ゆうらでは、毎日のようにショーケースに並ぶケーキやお菓子は作っている。
けれど、特定の誰かのために家でお菓子を作るのは久しぶりだった。
作ったのは、ラズベリー入りのガトーショコラだ。
原の喜ぶ顔を想像しながら作るのは、とても楽しかった。
「由美ちゃんの手作り……もったいなくて食べられないかもしれない」
「これからも作りますから、ちゃんと食べてくださいよ」
原のことだ。記念だからと本気で部屋に飾ってしまいそうだ。
「本当に? これからも作ってくれるんですか!?」
「当たり前じゃないですか。これからも彰人さんが一緒にいてくれるなら……ですけど」
「ずっと一緒にいたいです。いや、います! 僕が傍にいることを由美ちゃんが許してくれる限り、僕から離れることはありえません」
「なんだかプロポーズみたいですね」
原からの大きな愛は、一生もののような気がして、最近は結婚について考えることも増えた。
そのたびに両親のことを思い出し、結婚しなくても一緒にいることはできるし、裏切られたときのダメージも少ないのではないかと思っていた。
「あっ、すみません。気が早いですよね……」
「私との付き合いは、結婚を前提で考えてくれているということですか?」
「……もちろん結婚したいとは思っています。これから先、僕が由美ちゃん以外を愛することはないと思うので。でも、一番は由美ちゃんの気持ちが大切だし、僕は今のままで十分幸せです」
やはり、原が優先するのは由美の気持ちだった。
原自身の希望や夢は二の次で、いつも由美のことを第一に考えてくれる。
それで原は本当に幸せなのだろうか。
(私も、前に進みたい)
首元のネックレスに触れて、由美は決意した。
「彰人さん、私の母に会ってもらえませんか?」
由美にとって絶対的な存在である母に、原を紹介する。
きっと反対するだろうし、原にも嫌な思いをさせるだろう。
けれど、これからもずっと一緒にいるならば、母にも認めてもらわなければ無理だから。
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