04 曝け出した心

「初めて会ったあの日、矢田さんが声をかけてくれたから、僕の人生は変わったんです」


 原はそう言って、過去を振り返る。

 大学の事務職員は楽で安定していると思われがちだが、実はそうではない。

 理不尽な仕事を押し付けられることも、出来が悪いと叱責されることもしばしば。

 残業も毎日のようにあるし、仕事が終わらなければ休日出勤も当たり前。

 趣味である読書や映画で気晴らしをしていたが、勤務年数が長くなり、役職に就くとそんな余裕もなくなっていった。

 そうして、毎日何のために働いているのか分からなくなっていく。

 学生の笑顔も霞んで見えるほど、ストレスがピークに達していた時だという。

 ケーキ屋ゆうらの近くを通りかかったのは。


「矢田さんにとっては何気ないことだったかも知れません。でも、僕にとってはあの時のシフォンケーキの優しい味や矢田さんの笑顔があまりに美しくて、心を奪われました。この世界にこんなにも美しく愛しい存在があるのか、と」


 原はその時のことを思い出したのか、涙ぐむ。

 自分の言動がこんなにも誰かに影響を与えていたなんて。

 なんだか大げさな気がするけれど、原にとってはそれほどの出来事だったのだろう。


「あの日から、仕事は相変わらず大変ですけど、毎日が楽しくなったんです。だから、矢田さんには本当に感謝しているんです。あの時、僕に声をかけてくれてありがとうございます!」


 死んだように生きていた毎日に、彩が生まれた。

 その気持ちは、由美にも分かる気がする。

 気づかないふりをしていたけれど、いつの間にか原の来店を心待ちにしている自分もいたのだ。

 由美にとっても、原と出会ったあの日は大切な思い出だから。


「私こそ、原さんがケーキを食べて笑顔になってくれたことがすごく嬉しくて……自分がケーキ屋さんになりたかった原点を思い出しました」


 初めてケーキを手作りしたのは、小学生の頃だった。

 小麦粉から作ったわけではなく、市販のスポンジケーキでフルーツや生クリームをトッピングしただけのものだったけれど、両親は笑顔で美味しいと食べてくれた。

 普段、喧嘩ばかりの二人が、由美の作ったケーキで笑顔になってくれた。

 あの幸せな時間をよく覚えている。

 誰かを笑顔にできる幸せなケーキを作りたい。

 その時から、由美はケーキ作りが趣味になり、仕事にしたいと思うようになったのだ。


「矢田さんの作るケーキは、優しくてあたたかな気持ちにしてくれます。それはきっと矢田さん自身が素敵な方だからだと思います」

「そんな……私自身には何も」

「いいえ。矢田さんは世界で一番美しくて、素敵な方です!」

 

 真剣な表情で、原は断言した。


「今日は、本当にありがとうございました。僕はもう矢田さんがデートをしてくれた思い出だけで幸せです。これ以上矢田さんに迷惑をかけたくないので、僕のことを知った上で振ってもらえるなら、きっぱり諦めるつもりです」


 その言葉を聞いて、原は最初からその覚悟を決めていたのだと知る。

 さっさと諦めてほしい。そう思っていたのは過去の自分の本心だ。

 けれど、いざ諦めるといわれると、胸が痛む。


(私は、原さんのことが好きなの……?)


 世の中には好きではない人と付き合う人もいるというが、そんな曖昧な気持ちで原と一緒にいることも由美にはできない。

 好きで一緒になったはずの夫婦でも、不倫をするのだから。


「原さんは……この先ずっと私だけを好きでいられるといえますか?」


 まだ付き合ってもいないのに、重すぎる質問をしてしまった。

 そう後悔したが、原からの答えはそれ以上に重かった。


「はい。きっとこの先も矢田さん以上の人は現れないでしょう。矢田さんでなければ、僕は一生独身でかまいません」

「……え?」

「あっ、すみません……重いですよね……でも、僕の正直な気持ちです。僕は矢田さんと一緒にいられるなら、他に何もいりません。あなたを幸せにするためなら、なんでもしたい、と思って……って、これも重いですね。と、とにかく、僕は何があっても矢田さんのことが大好きです!」


 慌てて言い直しながら、原はどんどん顔を赤く染めていった。

 その必死な様子がおもしろくて、彼は真剣なのに由美は笑ってしまった。


(もう、この人どれだけ私のこと好きなの)


 他の男性を知っているわけではないが、こんな一途に想ってくれる人は原しかいないだろう。

 そう思えたし、原なら信じられると思えた。

 だから、デートに来たのだ。ちゃんと向き合うために。


「原さん、私の話も聞いてくれますか?」


 ***


 解散予定だったが、由美が自分から原を夜カフェに誘った。

 半個室の店内は落ち着いた間接照明に照らされている。

 急遽調べて入ったカフェだが、店の雰囲気はとても良い。


「すごいですね。パフェもこんなに種類が……!」

「ふふ。原さん、ワッフルもありますよ」

「うわ、迷うなぁ」


 原も由美も甘いものが好きなので、デザートメニューが豊富なカフェは嬉しい。

 ここを選んで正解だったかもしれない。

 原はチョコレートパフェを、由美はフルーツワッフルを注文し、ほんの少し沈黙が落ちる。


「……私の家は、父の不倫が原因で離婚しました。それも一度ではなかったようで、母は精神的に追い詰められていきました。私が恋愛に苦手意識を持っているのは、愛はいつか冷めるもので、裏切られるものだと思っているからです」


 唐突に話し始めた由美の話を原は黙って真剣に聞いてくれている。


「……母は父を恨んでいます。結婚にいい思い出はないし、私にもどれだけ結婚生活が地獄だったかを話してくれました……だから、私は結婚に夢も希望も持っていません。むしろ苦しいものだとすら、思っています」


 冷静に話そうと思っていたのに、だんだんと声が震えてくる。

 大好きな二人の笑顔は、いつからか見なくなって、父は家に帰って来なくなった。

 ただ、不倫を問い詰める母の怒鳴り声と、言い返す父の姿だけが強く記憶に残っている。


「矢田さん、無理に話さなくても大丈夫ですよ」


 原の優しい声でハッとする。

 拳は爪が食い込むほどかたく握りしめ、呼吸すら忘れて話していた。

 急に空気を吸い込んだせいで、ゴホゴホとおもいきりむせてしまう。


「だ、大丈夫ですか?」


 胸を押さえて苦しむ由美の背を、急いでこちらの席に回ってきてくれた原が優しくさすってくれる。

 その手にいやらしさは感じず、むしろ安心して呼吸が楽になった。


「はぁ、はぁ……すみません」

「謝らないでください。矢田さんは、僕には何を言ってもいいんですよ」

「そんなことは……」

「だって、僕は何を言われても矢田さんを好きでいる自信がありますし、僕が矢田さんに怒ったりすることは絶対にありませんから」


 普通の感覚なら、ここまでの愛情を持たれていることを怖いと思ったかもしれない。

 けれど、由美はすぐに他の誰かに乗り換えられるような薄っぺらい愛なんていらないのだ。

 結婚式で誓う「永遠の愛」が欲しい。

 何があっても変わることのない愛が。


「私が理不尽に原さんを怒ってしまっても?」


 原の言葉が、愛が本当か確かめたくて、また試すようなことを聞いてしまう。

 心の傷が開けば、不安や恐怖に支配される。

 今、由美は心の傷を原にさらけだしているのだ。


「えぇ。僕が怒られることはあっても、怒ることはありません。矢田さんが悪いことなんて一つもないんですよ」

「原さん、それは私を甘やかしすぎなのでは?」


 そう問えば、原はすぐに首を横に振った。


「矢田さんは僕にも、他の誰かにも気遣い屋さんで優しいのに、自分には厳しそうなので、その分僕が全力で甘やかしてもいいんじゃないでしょうか。僕には我儘も言っていいし、怒ってもいいし、ストレスをぶつけてもらっても大丈夫です。だって、世界一かわいくて美しい矢田さんといられるだけで僕は幸せですからね」


 我儘ばかり言っていては呆れられるし、怒りをぶつければ怒りが返ってくる。

 それが普通だ。

 何をしても好きでいられるなんて、有り得ないと誰もが思うだろう。

 しかし、原の愛は普通ではない。

 

「……って、まだ片想いなのに何を言っているんだって感じですよね」


 すみません、と原が謝ったところで注文していたパフェとワッフルが運ばれてきた。


「ひとまず、食べましょうか」


 元の席に戻り、原が気を取り直して言った。

 まだ心の中の整理ができていないが、由美は覚悟を決めて口を開く。


「原さん。本当に私のことをずっと好きでいてくれるなら……お付き合い、お願いしたいです」

「ほ、本当ですかっ!?」


 あまりに動揺して、原の声が裏返った。


「私には付き合うのがどういうことかまだ分からないし、やっぱり怖いという気持ちもありますけど」

「矢田さんはそのままでいいんですよ。一緒にいられる権利をもらえただけで十分です!」


 そう言って、原はまた泣き出してしまった。

 今度は嬉し泣きだろう。

 表情は明るくて、幸せそうだ。

 そんな彼につられるように、由美も笑っていた。


「では、これからよろしくお願いします」


 二人で照れながら乾杯して、甘いデザートを堪能した。


(原さんにちゃんと好きって言える日がくるといいな……)


 原からもらった愛が甘すぎて、生クリームが物足りなく感じた。

 まだ同じだけの愛を返せる自信はないけれど、好きだという気持ちはたしかに自分の中にある。

 それでも、口にする勇気はない。

 恋人として過ごす中で、いつかは言おうと心の内で誓った。

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