03 罪悪感と恋心
いよいよ、原とのデートの日がやってきた。
(おかしくないよね……?)
由美は、全身鏡の前で今日のコーディネートを確認する。
まだ彼氏でもない男性とのデート。
気合が入っていると思われないよう、落ち着いた黒のニットにスカートではなくパンツを合わせる。
けれども、好きになれるかもしれない相手だから気を抜きすぎる格好もしたくない。
だから、控えめの細いネックレスと小さなパールのイヤリングを付けて調整する。
「由美、今日はお洒落してるじゃない。どこか出かけるの?」
不意に鏡に母――奈美恵の顔が映り込む。
母はいつもの笑みで鏡の中の由美を見つめる。
「うん、ちょっと出かけてくる。夜ごはんも外で食べるね」
「そう。お母さんも仕事で夜遅くなるから、ちょうどいいわ」
どこに行くのか、誰と行くのか、深堀りされずに済んでホッとする。
母に男性と出かけるなんて言ったら、止められるに決まっている。
(でも、ずっとお母さんに隠し事なんてできないよね……)
由美は、離婚してからずっと、母と娘で二人暮らしをしている。
父の不倫のせいで変わってしまった面も大きいけれど、母は由美のためにすべてを捧げていた。父から養育費を満足にもらえていないせいで、母は由美を育てるために仕事を掛け持ちして働いていたのだ。
だから、社会人になった今は由美が母を支えたいと思っている。
『お母さんが頑張れるのは、由美がいてくれるからよ』
全力で愛して、由美の夢を応援してくれている母に感謝している。
母を悲しませるようなことはしたくない。
当日になって、由美は原とのデートに怖気づいてしまう。
「じゃあお母さんはもう行くわね」
「うん。行ってらっしゃい。気を付けてね」
「由美も、あんまり遅くならないようにね」
「わかってるよ」
出勤する母を見送って、由美はため息を吐く。
(原さんとのデート、大丈夫かな……)
好きという気持ちを知りたい。恋をしてみたい。
そう思ってしまったことが罪のような気がして、由美の気持ちは沈んでいった。
こんな気持ちでデートを楽しめるのだろうか。
***
ドタキャンすることも考えたが、由美は原との待ち合わせ場所である駅に向かった。
「矢田さん、こんにちは!」
まだ待ち合わせの十分前であるのに、すでに原は待っていた。
一体いつからいたのだろう。
由美を見つけた時の原の嬉しそうな笑顔に、憂鬱だった気持ちが少しだけ明るくなった。
かと思えば、すぐに顔を背けられて不思議に思う。
「原さん?」
「す、すみません。私服の矢田さんが可愛すぎて……直視できません」
「え……」
顔を真っ赤に染めて、原は照れくさそうに言う。
そういう原も、仕事終わりのスーツ姿とは違っていて、新鮮だった。
紺色のニットに、黒のスラックス。アクセサリーは付けていないが、一目でブランド物だと分かる質の良い時計が左手にある。
(原さんってスタイルいいし、かっこいいよね……なんで彼女いないんだろう)
性格も穏やかで優しいし、私服がダサいわけでもない。
何の仕事をしているのかは分からないけれど、真面目に働いているようだから経済力も問題なさそうだ。
すぐにでも結婚できそうなのに、年下の由美にアプローチを続けている。
ますます不思議に思う。
今日のデートでは原について知らないことを知りたい。
「取り乱してしまってすみません。せっかく矢田さんの貴重な時間をもらえるので、楽しい一日にできるよう頑張りますね」
「はい、よろしくお願いします」
まず向かったのはイタリアンのお店だ。
事前にどんなものが食べたいか、行きたい場所はあるのか、いろいろと聞いてくれたけれど、理想のデートなんて考えたこともないから、由美は原にお任せすることにした。
二人きりになる密室は避けることと、十九時までには帰りたいという要望だけは伝えたけれど。
「すごく素敵なお店ですね」
「ここのパスタが絶品なので、ぜひ矢田さんにも食べてほしくて」
白と青を基調とした店内はお洒落で、ワインのボトルやグラスなどが飾られている。
人気店のようで、多くの客で賑わっていた。
原が予約してくれていたので、スムーズに席まで案内される。
食欲をそそるいい匂いが漂ってきて、お腹が空いてきた。
席に座ると、原がメニューを開いて見せてくれる。
おすすめがパスタというだけあって、パスタのメニューもトマトソース系やジェノベーゼ、カルボナーラ、ペペロンチーノ、和風など色々ある。
ピザのメニューも豊富で、由美は悩む。
「すみません……私、けっこう優柔不断でなかなか決められなくて」
「わかります。これだけメニューが豊富だと悩みますよね。僕なんて初めて来たとき、注文を決めるまでに三十分くらいかかって、結局店員さんのおすすめにしましたよ」
「え、そうなんですか」
「そうですよ。だから、僕はいつまでも待てますし、じっくり吟味してください」
「ありがとうございます。ちなみに、おすすめのメニューって……?」
「ミートソースのパスタです。あとは、ナポリタンもおすすめだって言ってたかな……」
「どっちもおいしそうですね」
お腹がぎゅるぎゅるとなりはじめている。
そろそろ空腹も限界なので、注文したい。
けれど、一つに絞れない。
由美がメニュー表とにらめっこしていると、原が「そうだ!」と提案する。
「もし矢田さんが迷っているメニューがあるなら、どちらも頼んでみて、取り皿でシェアしますか? 僕とシェアするのが嫌じゃなければ……ですけど」
「じゃあ、お願いできますか」
そうして、二人でミートソースとナポリタンを食べることにした。
原が取り皿にきれいに盛り付けてくれて、ミニパスタが出来上がる。
ようやくお腹を満たしながら、ゆっくり話ができる。
「ずっと気になっていたんですけど、原さんって何のお仕事をされているんですか?」
「あ、そうですよね……ちゃんと自己紹介ができていませんでしたね」
そう言って、原は少し背筋を伸ばして自己紹介を始める。
「名前は、原彰人。年齢は二十九歳です。仕事は、大学の事務をしていて、好きなものはゆうらのケーキです。趣味は読書で、映画もよく一人で観に行ったりしています……えっと、他に何か気になることとかありますか?」
まるでお見合いのような自己紹介に、思わず由美は笑ってしまいそうになる。
けれど、原が国立大学の事務をしているという情報や趣味についてなど、今まで知らなかったことを知って、興味がわいてきた。
「大学の事務職員さんって、学生からいろんな相談受けたりするイメージがあるんですけど、けっこう大変ですか?」
「そうだと思います……というのも、僕は経理課にいるので、学生と直接関わることって少ないんですよね」
「あ、そうなんですね」
「学生課は毎日のように学生と関わったり、いろいろと相談に乗ったりしているようですけど……でも、毎日楽しそうな学生の声が聞こえてくるのは元気がもらえます」
「それは、なんだか分かります。私も、ゆうらでケーキを選んでいる人のわくわくした表情や帰っていくときの笑顔に元気をもらっています」
仕事が大変な時もあるけれど、お客さんの笑顔で努力が報われる気がする。
原も、仕事に真摯に向き合っていて、大変だけどやりがいを感じていると言っていて、共感することが多かった。
知らない職種の話を聞くのも楽しくて、あっという間に食べ終わってしまった。
「ごちそうさまでした。すごくおいしかったです! 今度はカルボナーラも食べてみたいな……」
会計は原が二人分支払ってくれた。
だから、お礼と感想だけは伝えようとして、思わず「今度」という言葉を使ってしまって、やってしまったと気づく。
「またよければ一緒に来ましょうね」
原との会話はすごく楽しくて、新鮮なことも多かった。
けれど、また次の約束をするには覚悟が足りなくて、由美はあいまいに頷く。
原は気にした様子もなく、次の目的地へ足を向けた。
「初デートで水族館というのは、ベタすぎるでしょうか」
水族館に到着して、自信なさそうに原が言う。
きっとデート場所について色々と調べてくれたのだろう。
「どうなんでしょう……私、これが初めてのデートなのでよくわかりません」
「えぇっ!? 今まで、デートしたことないんですか!? 元カレとか……」
「彼氏がいたことがありませんから」
「……!?」
何気なく言った発言が、原に衝撃を与えてしまったらしい。
「今、彼氏はいないとは聞いていたけど、まさか彼氏がいたことがないなんて……こんなにも可愛い矢田さんの初めての相手が、僕でいいのか? いや、嬉しすぎるが……絶対に楽しませなければ……」
何やらブツブツ言っているようだが、由美には聞こえておらず、どうしたのだろうと首を傾げる。
「すみません。矢田さんとデートできる幸せを改めて感じて、またもや取り乱してしまいました……」
「いえ、もう落ち着きましたか?」
「はい。なんとか……では行きましょうか」
原が事前購入していたチケットを渡してくれて、館内に入る。
魚の住む海域によってルートが分かれているようだ。
大きな水槽に挟まれた道を歩きながら、泳ぐ魚を目で追う。
「矢田さんは、魚は平気ですか?」
「全然平気です。家で魚料理をするときはさばいていますし。地味にうろこを取るのが好きだったりします」
「え、魚さばけるんですか!? というか、ケーキだけじゃなくて料理までできるなんてすごいですね」
「同居している母の帰りが遅かったりすると、私が晩御飯担当になるので。料理も覚えるとすごく楽しいです」
「僕なんて一人暮らしで適当に作って食べてるだけだから、楽しいと思ったことがないです」
「それは食材に対して失礼ですよ。まぁ、魚たちの前でする話でもありませんでしたね」
「はは、それはそうでした」
二人で並んで歩きながら、他愛のない話をする。
もっと緊張すると思っていたけれど、やはり原とは話しやすい。
「あ、ペンギン」
大きな水槽が並ぶ薄暗いエリアを過ぎると、陽の光が降り注ぐ屋外に出た。
ペタペタと並んで歩く皇帝ペンギンたちが見えて、由美は思わず声を出していた。
「かわいいですね」
そう言って、原は由美に笑いかける。
まるで自分が「かわいい」と言われているようで、照れてしまう。
慌てて視線をペンギンに向けると、どんどんプールへと飛び込む仲間たちを前にして、怖気づいているペンギンが一匹いた。
仲間たちはスイスイとプールを楽しそうに泳いでいるのに、一人で水面を見つめている。
その姿が、自分と重なって見えた。
他の友達のように恋愛に飛び込むことができずに、踏み出すこともできなかった自分と。
青春時代、恋愛が中心だった友人たちの輪に入れず、由美はみんなと疎遠になった。
分かりやすく無視されたり、除け者にされることはなかったけれど、自分と友人は違うのだと見えない線がはっきり見えた。
「……あの子は、みんなと違うんですかね」
由美の視線を辿って、原も陸で立ち往生している一匹を見つめた。
「どうでしょう。ただ、みんなより慎重なだけで、その時が来たらきっと飛べるんじゃないでしょうか」
原がそう言った時、なかなか飛び込まなかった1匹がプールに入り、仲間たちと一緒に泳ぎ始めた。
「ちゃんとみんなと泳げてよかったですね」
その様子を見ながら、原が穏やかにそう言った。
自分に向けて言われた気がして、思わず泣きそうになる。
「えっ、矢田さん? どうしたんですか?」
「ごめんなさい、少し……感動、してしまって」
「そ、そうですよね。あの子は頑張りましたもんね」
落ち着いた優しい声に、胸が熱くなる。
(原さんの声、好きだなぁ……)
自然と浮かんだ自分の気持ちにハッとする。
まだ原のことが恋愛的に好きというわけではない。
声が好きなだけだ。
包み込んでくれるような優しさも、由美を否定しないところも、自然体でいられるところも、いいなと思うところは今日のデートでたくさん見つけられた。
「今日は、矢田さんと一緒に過ごすことができて本当に楽しかったです! 来てくれて、ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございました。楽しかったです」
水族館内をゆっくり回り、お土産も見て、まだ陽も沈まないうちに解散となる。
帰りが遅くならないようにという原の気遣いだ。
社交辞令でもなく、原とのデートは本当に楽しかった。
家族でもない、友達でもない、自分に好意を寄せる男性とのデート。
原と一緒にいる時間が楽しくて、出かける前の罪悪感も、不安も、緊張もいつの間にかなくなっていた。
「こんなこと言うとまたしつこいと思われてしまうかもしれませんが、今日一緒に過ごしてみて、僕は矢田さんのことがもっと好きになりました。いつまでも僕は矢田さんのことを好きで待っているので、またチャンスをもらえたら嬉しいです」
真っ直ぐすぎる思いに、胸を打たれた。
だから、由美も正直に自分の気持ちを打ち明けようと決めた。
「原さんのことは、いい人だと思っています。優しいし、私のことを本当に大切に想ってくれているのが伝わってきて、嬉しいです。でも、やっぱりどうしても私は恋愛への苦手意識が捨てられなくて……原さんが悪いわけじゃなくて、私がただ、怖いだけなんです」
原は、由美の言葉を一言一句逃さず聞こうとするように、じっと耳を傾けてくれた。
「そうだったんですね……何も知らずに、何度も告白をして困らせるようなことをしてしまって申し訳ありません。僕の本気を伝えたいと思っていましたが、きっと怖い思いをさせてしまいましたよね」
「そんなことは……でも、どうしてそこまで私のことを好きでいてくれるんですか?」
原がいつまでも好きでいられるほど、自分はいい女ではない。むしろ恋愛経験がなくて、変に潔癖だし、面倒くさい女だと思う。
それなのに、断っても断ってもずっと好きでいてくれるのは何故なのだろう。
「それは、矢田さんが僕の人生を変えてくれたからですよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます