02 踏み出した一歩

「原さん、遅いな……」


 新作ケーキの発売日。

 苺のレアチーズケーキはどんどん売れていく。

 いつもなら、原が仕事終わりに立ち寄る十八時半を過ぎても姿が見えない。

 閉店時間は夜二十時。ケーキ屋にしては遅くまで開いているので、会社勤めの人たちはこぞってゆうらにやってくる。


「あれ? そういえば今日はまだいつものあの人来てないわね」


 店内が無人になると、店長の佐藤さとう久美子くみこが話しかけてきた。

 久美子はフランスでも修行していた腕のいいパティシエで、尊敬できる女性ではあるのだが、由美が苦手な恋バナが大好物なのだ。

 ほぼ毎日のように原が由美を目当てにケーキを買いに来て、月に一度告白していることも知っている。

 原の一方通行の愛の行方を一番近くで見守り……面白がっているのは久美子だろう。

 だから、今日デートの誘いを受けようと考えているなんてことは口が裂けても言えない。


「まぁ、お仕事が忙しいんじゃないですか」

「原さんだっけ? お仕事って何してる人?」

「知りません」

「えっ? 嘘でしょう」

「本当です。私、原さんの名前以外の情報持ってないですよ」


 そう、由美は原の個人情報をほとんど知らない。


(私が知っていることといえば……)


 大の甘党で、和菓子よりも生クリームやチョコレートたっぷりのケーキが好き。チーズケーキだとスフレの方が好きで、レアチーズケーキにも目がない。

 ケーキを選ぶ時には、全部買いたいけれど一人では食べきれないからと我慢して厳選するため、眉間にシワを寄せて真剣に悩むこと。


(ケーキの好みくらい……?)


 そして、それは原も同じだろう。

 由美は原にプライベートの話など一切していないのだから。


(まぁ、今私に彼氏がいないことは知ってると思うけど……)


 最初の告白を断った時に、彼氏の有無については恐る恐る聞かれたのだ。

 正直にいないと答えると、まだ好きでいたいと言われて、現在に至る。

 あの時、嘘でも彼氏がいると言っていれば、原も諦めてくれたかもしれない。


(でも、嬉しかったんだよなぁ。私のケーキで笑顔になってくれたこと)


 あの時、原に食べさせた試食は、由美が練習で作っていたシフォンケーキだった。

 自分のケーキでも、人を笑顔にできるんだと思わせてくれた。

 あの日、原は由美に自信をくれたのだ。

 だから、嘘はつきたくなかった。

 こんな不思議な関係になるなんて、思いもしなかったけれど。


「矢田さん、クローズお願いできる?」

「はい」


 結局、閉店の二十時まで原は来なかった。

 由美は、入口の扉にかけてある「OPEN」を「CLOSED」に変えるために外に出る。

 その時、ドタバタと慌てたような足音が近づいてきた。


「あぁっ、間に合わなかった……です、ね……はぁ、はぁ」


 額の汗をぬぐい、肩で息をしているのはずっと待っていた原だ。

 まだ寒い一月に汗をかくほど走ってきたのか。


「仕事が立て込んでいて、残業していました……もう残ってないですよね?」

「さすがにもう新作ケーキは売り切れてしまいましたし、他のケーキも……」

「ですよね……また明日出直します。でも、矢田さんにお会いできてよかった」


 にっこりと由美に笑みを向けて、原は背を向けた。

 また明日来るなら、その時でもいいかもしれない。

 けれど、いつまでもずるずると原の気持ちを無碍にし続けるのも心苦しい。

 だから、由美は勇気を出して、声をかけた。


「あの!」


 原は由美の声に振り返り、不思議そうに首を傾げる。


「まだ、原さんのこと何も知らないし、好きになれるかも分からないですけど、デート……行ってもいいと思っています」


 なんだか告白するような気恥ずかしさがあり、由美は原のことを直視できず、もじもじしながら言った。

 それでも、原は理解してくれたようで、目を大きく見開いて、満面の笑みを浮かべた。


「本当ですか?!」

「デ、デートだけです、けど……」

「矢田さんとデートできる権利は何よりも価値がありますよ!」

「そ、そんな……大げさです」


 原にとって、由美はどれだけの存在になっているのだろう。

 女神でも崇めるような崇拝ぶりだ。

 けれど、ここまで肯定されて悪い気もしなかった。


「矢田さーん、大丈夫?」


 店内から、久美子の声がした。

 いつまでも外で話をしているわけにもいかない。


「もうすぐ上がりですか?」

「はい」

「迷惑じゃなければ、待っていてもいいですか?」


 原の申し出に、由美はぎこちなく頷いた。

 先ほどからずっと心臓がドキドキしている。

 自分から異性にデートに誘うなんて初めてだし、恋愛というものに足を踏み入れようと思ったのも原だけだ。

 慣れないことをしたせいで、ドキドキして落ち着かない。

 冷静に客観視できるもう一人の自分がほしい。

 原に背を向けて店内に戻り、ひと通りの片付けをして、仕事を終える。


「矢田さん、お疲れ様でした」


 そう言って、原はあたたかなミルクティーを差し出してくれた。

 残業で疲れているだろうに、由美のために飲み物を買いに行ってくれたのだ。


「あ、ありがとうございます。えっと、お金は……」

「いやいやそんな、僕が勝手にしたことですから、気にしないでください」


 カバンから財布を出そうとした由美に、原は両手を振って拒否した。

 こういう時はお金のことよりも、気持ちを受け取った方がいいのだろう。

 由美は軽く頭を下げてから、ミルクティーを口にした。


「ん〜、あったまる〜」


 冷えた体が温まる。

 少しだけぬるくなっているが、猫舌の由美には飲みやすくてちょうどよかった。


(え……なんでそんなに幸せそうに笑ってるの……?)


 ミルクティーを飲んでいる由美を見つめる原は柔らかく目を細め、幸せそうに微笑んでいた。

 なんだかこちらが恥ずかしくなって、思わず顔をそらす。


「……あんまり見ないでください!」

「そ、そうですよね、すみません」


 由美が照れ隠しに強く言っても、原は気分を害することなく素直に謝った。

 けれど、その直後にはにかみながら心のうちをこぼした。


「あまりに矢田さんが可愛くて、思わず見惚れてしまいました……」


 なんてことを言うのだろう。

 顔に熱が集まり、心臓がどくどくと高鳴っている。

 ミルクティーを飲んだ時よりも、体が熱い。

 ただ話しているだけでこれでは、デートに行くとどうなってしまうのだろう。

 自分を保っていられるだろうか。


(どうしよう、やっぱりデートはやめにしますって言う……?)


 そんな由美の内心などつゆ知らず、デートに行けると浮き足だっている原は、携帯を取り出した。


「もしよかったら、連絡先を交換してもいいですか? デートの予定を立てるためにも……」

「あ、そうですよね……」


 自分たちはまだ連絡先すら知らないのだ。

 呼吸を整えて、由美は自分の携帯を取り出す。

 緊張で手が震えてしまう。

 少し手間取りながらも、メッセージアプリの登録が完了した。


「ありがとうございます! 矢田さん、帰りは電車ですか?」

「はい」

「じゃあ、暗いし駅まで送ります」

「いや、でもお疲れでしょうし……大丈夫ですよ」


 店から駅までは、歩いて二十分程度だ。

 街灯は少ないけれど、車も通るし真っ暗ではない。

 残業で疲れている原に送ってもらうなんてできない。

 それに、一人で帰ることには慣れている。

 むしろ一人の方がいい。

 そう思っていたのだが……。


「矢田さんの顔を見たら、疲れも吹き飛びました。それに、美人が一人で夜道を歩くなんて危ないです」


 真顔で言われて、ドキッとしてしまう。


(そんなわけないじゃん……)


 仕事帰りなんてまとめ髪で可愛さもないし、化粧もシンプルだ。というかもはや化粧は崩れている。


「原さんって、目が悪かったりしますか?」

「いいえ、視力は良い方ですよ。裸眼ですし」


 目が悪いせいではないのか。

 だったら、お世辞だろうか。

 そう思いたくても、この半年で原の本気は伝わっている。

 彼は本心から言っているのだ。恋のフィルターとは恐ろしい。


「では、行きましょうか」


 なんだか原のペースに乗せられて、結局駅まで送ってもらうことになってしまった。

 誰かと一緒に歩くなんて――それも男性と――すごく緊張する。

 何を話せばいいのかも分からない。

 そう、思っていたけれど。


「SNSを見たんですけど、新作のレアチーズケーキおいしそうでしたね。苺が好きなので、食べたかったなぁ……やっぱりすぐに売り切れちゃったんですか?」

「えぇ、あっという間でした。途中で追加していたんですけど、追いつかなかったです」

「やっぱりかぁ~。絶対、明日は定時で帰って手に入れます!」

「ふふ、頑張ってください」


 普段、ケーキ屋で話しているような話題を振ってくれたからか、意外と会話には困らなかった。


「あっ……!」

「ど、どうしたんですか?」

「ケーキが買えなくても、焼き菓子だったら買えましたよね……!?」

「たしかに……原さんお気に入りのパウンドケーキはまだたくさんありましたからね」

「うわーーなんで気づかなかったんだろう」


 原は本気で頭を抱えていた。

 焼き菓子は個包装だし、生菓子と違って賞味期限の持ちもいい。

 クッキーやマドレーヌ、パウンドケーキなどは定番で、毎日在庫は十分にあるのだ。

 原のお気に入りは、オレンジのパウンドケーキだ。

 家で食べるときにはさらに市販の生クリームをトッピングして食べているらしい。

 さすが甘党男子である。


「あの、実は賞味期限が今日までの焼き菓子を持って帰ってるんですけど、いりますか?」

「え!? いいんですか!?」

「はい。私一人だと今日中に食べきれないかもって思っていたので……」


 由美はカバンの中から、マドレーヌとクッキーを取り出した。

 廃棄してしまうのはもったいないので、賞味期限が近い売れ残り商品はスタッフで持ち帰るのがゆうらのルールだ。


「これで足りますか?」


 原は常連なので焼き菓子の値段もほとんど覚えている。

 定価よりも多い現金を差し出されたが、先ほどのミルクティーのことを思い出す。


「これは余りものなので、お金はもらえませんよ。さっきのミルクティーのお礼ってことで受け取ってください」


 由美はマドレーヌとクッキーを原に手渡し、笑みを浮かべる。

 ちゃんと食べてくれる人に食べてほしい。


「それなら、いただきます……わぁ、今日はお預けだと思っていたので嬉しいです。ありがとうございます!」


 原は全力で嬉しいと伝えてくれる。

 賞味期限が近い余りものなのに、本気で喜んでくれる。


(やっぱり、原さんと一緒にいるのは……怖くないかも)


 年上だというのに、由美を相手にずっと敬語で、紳士的で、腰も低くて、いつも優しい。

 これが本当の姿なのかどうか、もしかしたら場所が変われば態度が変わるんじゃないかとか、心のどこかで不安だったけれど、大丈夫だと思えた。

 もしかしたら、デートもうまくいくかもしれない。


「あ、もう駅に着きましたね」


 原と話していると、あっという間に駅に着いた。

 一人で歩く時と距離は同じはずなのに、短く感じるなんて不思議だった。


「送っていただいて、ありがとうございました」

「いえいえ、気を付けて帰ってくださいね」

「原さんも、お気を付けて」


 原は、由美が改札を通り、姿が見えなくなるまでずっと笑顔で見送ってくれた。

 そしてその日の夜、原からメッセージが届いた。

 

『今日はありがとうございました。いただいたマドレーヌとクッキー、最高に美味しかったです!』


「ふふっ、もう食べたんだ」


 男性とメッセージのやり取りをする機会は学生時代以来だ。


「こちらこそ、駅まで送っていただきありがとうございました……と」


 由美がメッセージを返すと、数分後にはもう返事が返ってきていた。

 一緒に歩けたことが嬉しかったということと、ゆっくり休んでくださいと由美を気遣う言葉があった。

 そして、最後にあったのは。


『矢田さんの都合の良い日を教えてください』


 原とデートに行く。

 その現実味がわいてきて、ドキドキする。

 初めてのデートへの期待と不安、母との約束を破ることになるかもしれない恐怖。

 これまでの自分から変わる勇気。

 いろんな感情が由美の中で渦巻く。

 それでも、行くと決めたのは自分だ。覚悟を決めなければ。


「先延ばしにするよりかは……」


 原とのデートは、今週の日曜日にすることにした。

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