雪下の情

郡冷蔵

雪下の情

 雪の降る仙台駅前を、ぽそぽそと雪を踏んで歩く。

 遊歩道は端から端までイルミネーションで装飾されていて、カップルのさんざめく不夜の領域を構築していた。

 周辺の店舗も赤やら白やら緑やらを店先に掲げ、クリスマスムードを彩っている。

 クリスマス……そう、今日はクリスマスイブだ。

 もう一年近く世俗から離れた日々を過ごしていたものだから、こうして落ち着いて季節行事を眺めるのも久々だ。子供の頃感じたそれにも近しい新鮮さ、あるいは純粋さを覚えながら、私は、イルミネーションに照らされた道をぽそぽそと歩いていく。

 修士課程に進んでからというものずっと、私は論文の執筆に追われていた。

 初稿が完成したのは六月も頭の頃だったが、指導教官は笑顔でそれを突き返し、ああだこうだと最もらしい意見を述べて、最終的に「書き直し」と結論した。かつて執筆卒論でも似たようなことはあったが(一年前のことのはずだが、遠い昔のようだ)、あくまで四年間の学びの確認として大学に提出するそれと、自らの研究成果を学術雑誌への掲載することを目指した今回とでは、論文に求められる質、量、ともに比べものにならない差が存在している。書き直しという結果は同じでも、そこに生じる労力の差は倍では利かなかった。

 しかもそれも一度や二度ではない──三度目の正直を逃し、なかば本気の殺意を抱え始めた四回目、ようやく指導教官が首を縦に動かした。もっとも、そこからも細かな修正は多々あったが、ともあれ。

 十一月の暮れ、私は晴れて論文を書き上げた。

 ようやく肩の荷が降りた。かに思えた。

 その頃にはもうすっかり忘れていたことだが、論文は書いてそこで終わりではない。学術誌への掲載の前には査読という最も大きな壁が残っている。その論文の論理性如何、有意義や否や等を問い、学術誌に掲載するに足ると認められなくてはならないのだ。

 とはいえ、では査読を受けるに際して私に何が出来るかといえば、特に何があるわけでもない。

 雑誌出版社に論文を提出した後は、ただ下ろしかけた荷物を肩にずっしり乗せたまま、つかの間の休息を消費していくだけだ。

「イブさ、どっか行こうよ」

 旧友からメッセージが届いたのは、そんな折のことだった。

 聞けば彼女はかねてより付き合っていた彼氏と袂を別ったばかりで、寂しい身の上なのだという。

「そもそも付き合ってたの、初めて知った」

「言ったよ!!」

 聞いたっけ?

 などと。くそどうでもいいメッセージを交わしつつ、私たちは今日の日の予定を詰めていった。

 イルミネーションのアーチをくぐり抜け、仙台駅を望む広場に出る。その片隅、寒々しい簡素なベンチに彼女は座って待っていた。

 歩調を保ったまま、ゆっくりと彼女のもとに近づく。

「やあ」

 片手を上げてみると、彼女は思い切りため息をついた。

「あのさ。なんでイルミネーションのとこから来てる

の?」

「最短経路だったから?」

「違うじゃん! 一緒に見ようよそこは!」

「うん、これから見るでしょう」

「あのね……二人で見ようねって予定立ててある映画先に一人で見るんか、おのれは」

「さあ。見る人は見るのではないかな? 予習ということで」

「ないわー。絶対ない。そんなやついたらぶん殴るわ」

「相変わらずめんどくさいね」

「めんどくないよ、おかしいのはお前だよ」

「でも君、フられたんでしょう。それでも同じことが言えるの?」

「フッ、は? フられたとは一言も言ってませんけど?」

 わかりやすく声が動揺していたが、別にカマをかけたわけではない。

「いや、クリスマス前に別れているのだから、フった側には新しいパートナーできているでしょ、普通……」

 だって年末年始に一人は寂しい。多少無理してでも年明けになってから別れるはずだ。

 ならば今日私を呼びつけたこいつがどちらなのかは明白であった。

 寒い中待っていたからか少し赤い頬を張って、彼女は不機嫌を表明する。

「別に。あんなやつ年明けにはこっちからフってやるつもりだったし!」

 うーん。論文もこれくらい簡単ならいいのに。

「フられているじゃない」

「楽しいか? 傷心の人間をいじめて楽しいか?」

 ずいと迫ってくる彼女の鼻先に向けて、私は鞄からペットボトル入りのホットココアを取り出してやった。

「飲む?」

「……飲む」

 彼女はペットボトルを受け取って、おや、と眉を少し曲げ、訝しみつつもそれに口をつけてから、改めて私を糾弾した。

「冷めてるんだけど。ぜんぜんあったか~くないんだけど」

 うん。ホットココアという商品名なだけで、永劫ホットなわけではないのである。

「そういうこともあるよ」

「しかも飲みさしだし……」

 ぶつぶつ言いながら二口目をあおり、250mlペットボトルの半分くらいを一気に干してしまう。

 可愛げがない。

「あ。言い忘れていた。久しぶり」

「……ほんとにね」

 どちらを修飾したのかはわからない。

 どちらもなのかもしれないけれど。

「行こうか」

「ん」

 再び、イルミネーションに彩られた遊歩道へと足を進める。

 彼女は素直に感動し、素直に喜んでいたが、ふと私の静かさをなじって、「だから先に見ちゃ駄目なの」と言った。

「そんなことはないよ。さきほどはもっと静かだった。なにしろ、ただの最短経路だったのだから」

 イルミネーションの意義をとやかく言うつもりはない。だがあくまで個人的な見解を述べるのならば、こんなものはただの電気の無駄だ。リジェクトしてやりたい気分だ。

 しかし、少なくともいまは、隣にそれを楽しんでいる人間がいる。

 だからきっとこれでいいのだ。

 私は世俗に疎くなりすぎているから。

「あのねー、あんただってそろそろ将来の相手とか考えなきゃでしょうよ。そんなに可愛げなくてどうするの?」

「そこはお互い様だよ」

 少なくとも、可愛い女の子は冷えたホットココアを一気飲みすることはない。

 ため息をついてみたところで、鞄の中でスマホが震える感触がした。

 特に断りも入れずにそれを開くと、特に断りを入れなかったからか、彼女がまた不機嫌そうにする。

 新規メールだ。送信元は……。

 嗚呼。

 さいですか。

「あのね、聞いてる?」

「……私もフられたみたいだ」

「えっ!? 付き合ってたの!?」

「ここ一年ほどね。次の相手を探すかな」

「え、ええー……」

「うん。論文の話」

 落ちたRejected

「……馬鹿!」

 背中を叩かれた。思わずたたらを踏んだ。

 足下の雪がぎゅっと鳴った。

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