第3話

❀猫を呼ぶことなかれ❀




 おれは、いま、とてつもなく非常識な存在だ。黒猫を追ってたどりついた場所は、すでに息たえている天蔵螢介あまくらけいすけを人間として採用した。そのおかげで、彼の奇妙な仕事は始まった。


 求人の貼紙を見てたずねた[さくや亭]は、たいしてもうからない古びた書道教室で、本業によって発生する利鞘が、懐をうるおしている……らしい。仕事が終われば帰れるはずもなく、極楽に逝けるわけでもない螢介は、云いなりにからだを動かすだけである。


「……いいかげんな商売だな」


 亭主のことばを信じるなら、留守中の窓口応対がアルバイトの内容である。面接(簡単な説明)を終えた亭主は、黒いレインコート姿で雨のなかを出かけてゆく。三十代なかばといった容姿だが、だてのような眼鏡が顔の印象をぼかしている。……たぶん、美形だ。へやは貸してもらえたが、屋敷の全貌はつかめない。無駄にひろいのだ。


 ブーブーッ。……だれか来た。


 螢介が「どちらさまですか」と玄関口でたずねると、硝子ガラス戸の向こうで小さな影がゆらめいた。


「お約束どおりに来ました。さくや先生は、おいでですか?」


 鍵をあけると、十二、三歳くらいの子どもが立っていた。書道教室の生徒だろうか。着ていた白いレインコートをがさごそと脱いで、螢介に「こんにちは」と頭をさげる。礼儀正しい少年だ。激しい雨のなかを歩いてきたのに、たいしてぬれていない。……細かいことを気にしたら負けか? 


「悪いけど、亭主は留守なんだ。伝言があれば伺うよ」


「待たせてもらいます。そのように約束されましたので」


「……帰りは何時になるか、おれも解らないんだけど」


「かまいません」


 少年は丁寧語を使うが、なんとなく厚かましい。目的を達するまで居座るつもりだ。タオルは必要なさそうだったので、螢介は庭に面した床の間へ案内した。……どの道、この雨だしな。出直すよう追い返すには気がひける。卓袱台ちゃぶだいにはすずりと墨、巻紙と筆が置いてある。


「お茶を淹れてくるけど、熱いのは平気?」


 螢介は、くだけた口調できく。神経が疲れるため、子ども相手に敬語は使わない。銘仙めいせんの座布団の上にすわる少年は、答えるかわりにうなずいた。いまのところ、態度も表情もおちついている。螢介の立場を質問されるまえに台所へ姿を消しておく。


 平日の午后だというのに、高校生(学ランのおれ)と中学生(たぶん、一年生くらい)が学校へ行かないのは、お互いさまだ。事情なんて人それぞれだから、いちいちたずねる必要はない。聞いたところで、気まずくなるだけだ。……もしくは、気の毒にと思われる。学校へいかないという判断は、世間が思うよりずっと爽快なんだけどね。おれの場合は、教室ほど空気の悪い場所はない。学校へ行くたび、病気になった。心もからだも。勉強には相性がある。得意なやつがひきうければいい。




〘つづく〙


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