第15話
ヨサリは右手でジャケットの襟を掴んだまま、左手で刀の
そうして頭の上まで振り上げ、順手に持ち替えたその切っ先を、黒い泥へ――怪異と化したテルへと向けた。
やはり、そうか。
……お前も「会いたい」という思いを抱えていたのだな。
予感はあったのだ。もし、ハルがテルの存在に気付けば――この世にいると信じ、会いたいと強く願ってしまったら。その思いに引きずられ、テルは確実に怪異になってしまうだろう、と。
「貴様を斬る! その未練、断ち切らせてもらおう!」
白刃を振り下ろす。
だが、切っ先が届くよりも早く、ハルの体がぐらりと傾いた。その足を、腕を、首を掴んでいる、岩場の縁から伸びてきた無数の手。力の抜けた体は、抗うことなく黒々とした海へと引きずり込まれる。
ヨサリは、掴んだ襟を離さなかった。
ドボン、という波の音を最後に、鼓膜がこもった水音に包まれる。
夜の海の冷たさに浸かって、刀を握った指先から、下駄の脱げた足先まで、たちまち熱が奪われていく。
束ねた後ろ髪も、重くなった着物も、波に揉まれるがまま海中を踊っていて、ヨサリの体が動くのを枷のように邪魔してくる。
それでもヨサリは、右腕にハルの体をしかと抱いて、わずかな月明かりを頼りに水面を目指した。
ハルに群がる手は、その体を水底へと沈めようと、下へ下へと引っ張っていく。それらを片っ端からなぎ払い、どうにかハルの体を引き上げようとする。
だが、怨念に満ちた手は、次から次へと暗い水の底から伸びてきて。
――切りが無い。このままではハルがもたない!
そう奥歯を噛んだ時、ハルが苦しげに泡を吐き出して、水面へと手を伸ばした。
ほとんど無意識の行動だったのだろう。伸ばしたというより、力の入っていない腕が、水面に向かって浮いていくような格好だった。
それでも、確かに伸ばされたその手は――今度こそ届いた。
水面から降りてきた、透き通った小さな手。
テルの手だ。
確信したヨサリは、刀を大きく振りかぶった。
海ごと叩き斬るほどの渾身の力で、一閃。
泡をともになぎ払った白刃が、ハルを掴んでいた無数の手を全て断ち切る。
瞬間、その時を待っていたように、ハルの体がぐんと浮上した。
伸ばされた手をかたく握った小さな手が、ハルとヨサリを水面に向かって引っ張り上げていく。水底から追いすがってくる手が届くよりも早く、月の光が揺らめく水面が近付いてきて――。
「気が付いたか」
「…………ヨサリ?」
たずねれば、開いたばかりのパッチリとした大きな目がこちらを向く。
途端、岩場に横たわっていたずぶ濡れの体が飛び起きた。
「い、今、テルが……テルは?」
言いながら、首をキョロキョロと、それでも足りずに体ごと左右に振って、岩場をしきりに見渡すハル。
辺りには誰も……何もいなかった。
ここは、
今ここにいるのは、二人だけ。亡者も、怪異も、何も。
だからヨサリは、否定も肯定もせず。
「……そうか。会えたのだな」
とだけ答えた。
それで、何が起きていたのか理解したのだろう。
かすかな、息を呑んだ音がした。
「俺、テルに会えたんだ……」
呆然と言ったハルが、濡れた岩場の上へ仰向けに寝転んだ。
「俺、テルに会えたのに、何も言えなかった……! 会って、言いたいことが……謝らなくちゃいけないことが、すっげぇあったのに……!」
顔を覆った両手の間からもれ聞こえてくる、ひどく震えた声。
隣で胡座をかいていたヨサリが聞き取れたのは、そこまでだった。一言二言続いたようだったが、生憎、ザァザァと打ち寄せる波の音にかき消されてしまっている。
「テルは……」
……謝らずとも、お前を恨んでなぞいないだろう。
そう言おうとして、止めた。
ヨサリがそう思ったのは、彼の記憶で見たからだ。追体験するかのように、この身で感じたからだ。
あの胸が締め付けられるような苦しさを。目の奥が燃えるような熱を。
だが、伝えられないと思った。
あれは人間の情だ。獄卒であるヨサリには無いものだ。ヨサリがどんなに言葉を尽くしても、きっと伝えられないだろう。
……それでも、伝えなければ。
ならば。
しばし考えて、口を開く。
「テルは、ずっとお前に憑いていたんだ。それこそ、私がお前を亡者と見紛うほどに。……恨み殺すなら、とっくにやっていたろう?」
だが、そうしなかった。
それどころか、ハルを怪異から守ろうとしていた。ハルの「会いたい」という思いに引きずられ、怪異になってしまった後でさえ。
それが、何よりの証拠だ。
ヨサリの言葉に、ハルは「そっかぁ……」と小さくつぶやく。それから、一度胸を大きく上下させた後、小さく身動いで体を横向きにした。
こちらを向いた大きな瞳と、視線がぶつかる。
「じゃあさぁ、ヨサリ」
「何だ」
「もう、俺のこと、斬らなくていいのか?」
「あぁ。斬るべきものは斬った。お前は紛れもなく、生者だったようだ」
「……はは、やぁっと分かってくれたかぁ」
「お前こそどうなんだ。少しは『そういうの』とやらを信じる気になったか?」
「まぁ、アンタくらいなら……」
「くらい、とはなんだ貴様」
「怖い顔すんなって。幽霊とか魂とか、まだ信じきれねぇけど……アンタのことは信じてみようかなってこと!」
そう言ったハルは、フニャリと力なく口角を上げて、晴れやかに微笑んでいた。
後日、連休の最終日。
ハルとヨサリは、連れ立って
挨拶を済ませ、社務所の応接室に通される。
座卓を囲んで座ると、蓮見はまずハルに頭を下げ、それからヨサリの方を向いた。
「その……ヨサリさん? も、ありがとうございました」
「……あぁ」
その言葉に、一応返事をする。
流石、気配は分かるだけあって、目線の向きは合っている。だが、高さは微妙にずれていた。
「お、ヨサリ、満更でもなさそう」
「適当なことを言うな」
「そ、そうなんだ……」
「だから違うと言って……くそ、聞こえないんだった」
すると、開け放たれた掃き出し窓の向こう、屋根の上の方からカラカラと弾む笑い声がした。
くそ、サザキのやつ、楽しんでいる。笑うな。
ヨサリが頭を抱える一方、隣にいたハルはぱぁっと顔を明るくした。そうして窓の方を振り返ると、その先に広がる青空へ向かって大きく手を振る。
「そうだ、サザキも! 一緒に助けに来てくれたんだって聞いたぜ。ありがとな!」
「サザキさん?」
途端、屋根の上から、栗色の短髪に千鳥柄の手ぬぐいを巻いた頭が降りてくる。
「おいおいおいおいハル坊! アタシのこと、お嬢には内緒だって約束したよなぁ?!」
「あ?! そうじゃん! いっけね!」
「……?」
静寂が訪れた。
しかめっ面で睨んだまま。焦った顔で口を開けたまま。きょとんと首を傾げたまま。
見かねたヨサリは、たまらず言う。
「……私の友の、そこいらの妖怪ということにしておけ」
その言葉を、ハルはぎこちなく復唱した。「そうなんですか」と笑みを浮かべる蓮見に、サザキはホッと胸を撫で下ろしてため息を一つこばし、屋根へと戻っていく。
……ハルのやつ、思ったことがすぐ口から出てしまうのは、相変わらずらしい。
向こう見ずで脳天気だとしても、馬鹿ではないはずだ。「幽霊や魂は信じたくないから、進化論を信じる」などと考えられるだけの頭はあるのだから。その頭を使って、どうにかならんのか。
そうして応接室には、なごやかな時間が流れていった。
ヨサリは迷って……「黒い卒塔婆」について、今は話さないことにした。
恐らく、あれはただの怨念ではない。
美鷹山のあの橋で、山の怪が谷底へ引きずり込もうとした時も。テルの記憶で見た一沙岬で、怪異たちが海へ引きずり込もうとした時も。どちらも、あの黒い卒塔婆が現われている。――まるで、生者をあの世へ誘うように。
こんな偶然があるとは思えなかった。
きっと、何かがある。生者たちを脅かす、何かが……。
……だが今は、ここにある穏やかな日々を壊したくはない。
風に揺れる白いカーテンを見つめながら、ヨサリはただ静かに、二人の楽しげな会話に耳を傾けていた。
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