第14話

 その日の夜。


 ヨサリは一沙岬かずさみさきへやってきていた。


 岬の先端から少し離れた場所、崖から石階段を降りていった先にある岩場。そこから臨む夜景に視線を向けている。


 とうに日の落ちた岬は暗く、視界に映るのはほとんど黒一色だった。


 見えるものといえば、頭上に広がるよく晴れた星空の、キラキラとした輝き。眼下に広がる海原の、青白い月明かりを映して光っては消えていく波。それから、遠くに見える港へ灯った、温かな色をした人々の暮らしの明かりだけ。


 それでも、絶え間なく響く心地よいさざなみの音と、鼻をくすぐる潮の匂いは、変わらずそこにあった。


 ふと吹き抜ける、爽やかだが冷たい、初夏の夜風。一層強くなる潮の匂い。


 風に遊ばれ、頭の後ろで一つに束ねた長い黒髪がなびく。着崩した着物の裾がはためいて、ヨサリの腰紐に戻ってきたばかりの刀のさやに引っ掛かる。ヨサリはその紺地の布を直して、居住まいを正すように刀のつかを撫でた。


 その時。


 ――ジャリ、ジャリ。


 背後にある松林の中の遊歩道から、砂利を踏む足音が近づいてくる。


 やがて足音は、石階段の上までやってきて、止まった。


「……ヨサリ?」


 振り返れば、パッチリとした大きな瞳がこちらを見下ろしていた。


 暗がりの中に立つ、その大きな体格よりも、さらに大きな苔色のジャケット。ふわふわと潮風に揺れる、柔らかそうな白茶色の髪。ハルだ。


「こんなとこで何してんだ?」

「亡者を斬りに来た」

「おぉう、いつも通りだった」


 ハルは石階段を降りながら「相変わらずだなぁ」と笑った。静かな波の音に、場違いなほど明るい笑い声が交じる。


 そうして隣までやってきたハルは、ただ前を見つめていた。


 視線の先にあるのは、見渡す限りの黒。夜闇の中、月明かりに照らされた波を儚げに輝かせている、日本海。


「お前こそ、どうしてここに来た?」


 そうたずねれば、ハルは視線を前に向けたまま答える。


「……鯨を探したくて」

「お前が探してるのは、本当に鯨か?」


 途端、ハッとしてこちらを向くハル。


 その呼吸をも忘れたような表情を見て、ヨサリは確信した。


「探してるのは――会いたいのは、テルだろう」


 努めて口調に力を込めぬよう言えば、その大きな瞳はみるみるうちに、さらに大きく丸く見開かれていく。




 ヨサリがそれに気付いたのは、テルの記憶を垣間見た時だった。


 ハルを追いかけて辿り着いた橋で、ひときわ強い亡者の気配が放たれ、意識が遠のいた瞬間。いつかどこかの景色が、一瞬のうちに頭の中を駆け巡って、記憶そのものを追体験するかのように流れ込んできた、あの時。




 最初に見えたのは、夏の日の風景だった。


 どこかの住宅街の中。かしましい蝉の声が響く、だるほどの熱を照り返すアスファルトの上。


 目の前には、十歳ほどの男の子が一人。顔をくしゃくしゃに歪ませ、大きな瞳に涙を溜め、癖のある柔らかそうな短い黒髪を振り乱していて何か叫んでいる。


 続け様に、鋭い声が喉を震わせる感覚と、腹の底からあふれ出てくる怒りのような呆れのような感情。


 すぐに理解した。


 髪の色こそ違うが、目の前にいる男の子は幼い頃のハルだ。

 胸中にあるのは、テルの感情だ。


 ハルとテルが、口論をしているのだ。


 やがてハルは、ぐっと押し黙ると、引き締めた唇を指で何度も叩き始めた。


 途端、テルの心が冷や水を浴びられたように、サァッと凍えていく。


 あれは「このままじゃ言いたくないことまで言ってしまう」と、口から出そうになった言葉を飲み込む時の癖だ。


 思ったことが顔にも口にも出てしまうハルを見かねて、「それは言い過ぎだよ」と怒り半分ふざけ半分で口をつついているうちに、いつの間にか癖になっていた、その仕草。


 だから、分かってしまった。


 言いたくないことを、言わないよう耐えている。飲み込んでくれている。


 あのハルが。


 そう思ってしまえば、ぎゅっと胸が締め付けられて、何も言葉が出てこなくなる。

 息が止まったように苦しくて、喉まで出かかっていた言葉は声にならなくて。それでも、腹の底では怒りがドロドロと渦巻いたまま、今にもひどい言葉を浴びせようとしていて。


 そうしてテルが何も言えずにいると、突然、ハルがこちらに背を向けて走り出した。


 住宅街の細い道を走り、遠ざかっていく背中。


 それを目にした瞬間、言いようのない猛烈な不安に襲われる。


 ――きっとハルは、このまま消えてしまう。


 テルは、逃げる背中を必死で追いかけた。だがどうやら、足はハルの方が早かったようで、距離は縮まらなかった。住宅街を抜けても、見慣れた芝生の広場を過ぎても、松林の遊歩道を走り抜けても。


 ようやくその背中に追いついた時、ハルは、一沙岬の崖の上から身を投げようとしていた。


 ……いや、正確には、引きずり落とされそうだった。


 恐らく、あまりの光景に、テルは気付けなかったのだろう。……ハルの足を掴んで離さない、崖下から伸びる無数の手。それらを囲む怨念に満ちた黒い卒塔婆。ハルが言わずに飲み込んだであろう負の思いにつけこみ、この岬に集まった怪異たちが彼を海の底へ引きずり込もうとしている様には。


 ハルが身投げしてしまう。そう思ったテルは、震える足を叱咤し、助けたい一心でその後を追いかけて――。


 ――いつの間にか、一人、見たことのない笹藪ささやぶの中にいた。


 見渡せば、一面の松林。頭上には、煙炎のような赤黒い空。


 それらを一瞥しただけで、テルはすぐさま走り出した。頭の中を埋め尽くした恐怖と焦りに急かされるように、ただひたすら、ハルの名前を呼びながら。


 やがて、松林から抜け出て、視界が開ける。


 笹藪ささやぶの先に広がっていたのは、どこか見覚えのある岬の風景。そこで、こちらに背を向けて立つハル。


 その姿を見つけた時、目の奥に燃えるような熱を感じた。


 あぁ、良かった。無事だったんだ――と、胸を撫で下ろしたのも束の間。


 ハルの目の前、眼下に広がる海から、大きな白い鯨が現われた。


 宙へとおどり出た白い巨体は、胸びれを広げ、細長い頭で天をあおぐ。そのまま背中から沈み、水面を割るようにして大きな水飛沫が立ち上る。


 その水は、もはや大波となって、ハルを飲み込もうとしていた。


 咄嗟に駆け寄って手を伸ばし、名前を呼ぶ。


 途端、ハルもこちらを振り返って、手を伸ばす。


 ……だが、二人の手が触れることはなかった。




 ――気付けば、白い布の上で横たわるハルを見下ろしていた。


 何度も名前を呼ぶが、ハルは苦しげにせき込むだけだった。集まった町の大人たちも、救急隊らしき人たちも、テルの声には答えない。


 思わず、ハルの手に触れる。


 ……肌の温度を感じない。温かさも、冷たさも。


 ハッとして視線を下に落とせば、そこには、透き通った自身の手のひらがあった。




 それが、テルの最期の記憶だったのだろう。


 あんな別れ際だったと知ってしまえば、人心に疎いヨサリでも流石に分かる。


 ハルが探しているのは、きっと鯨などではない。

 探してるのは――会いたいのは、テルだ。




「……探したって、見つからなかったんだよ」


 ハルは、観念したような静かな声で言った。


 そうして、月明かりを映した黒々とした水平線を見つめながら、続ける。


「ここは、俺の幼馴染みの……テルの、死に場所。ここで死んだんだ。八年前、あの鯨を見た日に」

「……あぁ」

「テルはっ……、テルは、海になったんだ! 海になって……しぶとく生き抜きやがる奴らの糧になって……! なぁ、そうだろテル……だから、化けて出てこないんだろ……」


 叫び、うなだれ、力なくその場にうずくまるハル。


 丸くなった背中を見て、ヨサリは思い至る。


 いつか、ハルが真面目な顔で宣言した言葉。


 ――「いいか。俺は、幽霊とか魂とかが存在するなんて、信じない。俺が信じてるのは進化論だから」と。


 だからハルは、そんなことを言ったのか。


 自分の視界に映るものが幽霊だと信じられない――信じたくないから。


 幽霊や怪異といった「この世のものではないもの」が見えるのであれば、当然、亡くした友に一目会いたいと願っただろう。願って、願って……叶わなかったのだ。


 だから、この目に見えるのは、決して幽霊などではないと、理由付けして否定して。


 テルは幽霊ではなく海になったのだと、自分に言い聞かせて。


「……でもさ、今日行った橋で、蓮見先輩のお母さんが助けてくれたのを見て……もしかしたらって思っちまったんだよ。もしかしたら……もしかしたら、テルもこの世にいるんじゃないかって」


 うずくまったまま、くぐもった声で言う。


 そこで言葉を切ったハルは、一呼吸置いてからおもむろに立ち上がり、ヨサリへ向き直った。


「なぁ、ヨサリ。八年前、とっくにあの世は終わってたんだよな? なら、あいつの魂はこの世にとどまってんだよな?」

「……そうだ」


 ヨサリは、うなずく他なかった。


 それは、否定のしようがない事実だ。二十年前にあの世は終わり、閻魔の法廷は閉じている。その後に死んだ人間の多くは、亡者になってこの世にとどまっているだろう。


 例にもれず、テルもそうだった。それどころか、ハルに憑き、その身の中にいるのだ。だからこそ、ハルの前には姿を現さなかった。


 ……嫌な予感に、心臓を握られたような心地がした。


「ならさ……もし魂がこの世にとどまってるっていうんなら……! 海になんかならないで、この死に場所に残ってるっていうんなら……! テルにもう一度会わせてくれよ! なぁ!」


 声を震わせて、ハルが叫ぶ。


 それに応えるかのように、ハルの中にあった気配がぐにゃりと歪む。


 たちまち、暗闇に沈んだ海の底で、ざわり、ざわりとうごめく何かの気配。冷たくて暗い、強い怨念がいくつも混ざり合った、怪異の気配だ。穏やかだった波の音にも「おいで……おいで……」と、つぶやきにもさざなみにも聞こえる、奇妙な音が交ざり始める。


 その声に、ハルの目が見開かれ、海の方へ向いた。


 ヨサリは咄嗟に、目の前のジャケットの襟を両手で掴む。


「ハル、分かっているだろう! ここにいるのは、岬に集まってきた怪異たちだ。お前を呼んでいるのはテルではなく、怪異と化した亡者たちだ。テルは……!」

「それでもいいよ! 怪異になってたって、何だっていい!」


 引き戻すように襟を握られたまま、ハルはかぶりを振る。


 そうして、顔をくしゃくしゃに歪ませ、大きな瞳に涙を溜めて。


「テル……! テルに会いたい……!!」


 今にも泣きそうな、か細い声で言った。


 途端。


 ――ぐちゃ、と嫌な音がした。


 ハルの首がガクリと横に倒れ、その喉元から飛び出してきた、黒い泥のようなもの。


 それが子供の姿をしていたように見えたのは、ほんの一瞬だけだった。すぐに形を失った泥は、ハルの肩を、体を、ドロドロと飲み込んでいく。岩場の上へ、ボトリボトリとこぼれ落ちていく。


 ヨサリは、その気配に覚えがあった。怨念に飲まれ変わり果ててはいるが、ずっとそばで感じてきたものが、確かに残っている。


 ……この海の底のように冷たく澄んだ、真っ暗な気配は。


「ようやく姿を現したな、亡者――越谷白輝こしたにあきてる!!」

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