第13話

「?!」


 瞬間、ヨサリの視界が白一色に染まる。


 キーンと耳鳴りがして、谷底から響いていたせせらぎの音が遠のく。ハルの肩に触れていた感触も、下駄が浮いた浮遊感もあやふやになって、意識すらも遠のいて。


 ――煙炎のような、赤黒い空が見えた。それから、笹藪ささやぶの先に広がる、どこかの岬の風景。


 あぁ、懐かしい景色だ。


 一瞬のうちに頭の中を駆け巡ったそれは、記憶そのものを追体験するかのような感覚だった。先程、テルの感情が流れ込んできた時と同じように。


 ……これは、テルの記憶だ。


 そう思った途端、急速に五感が戻ってくる。


 意識が飛んでいたのは、ほんの一瞬だったらしい。


 戻ってきた視界の中で、すっかり気の抜けた、きょとんとした顔がこちらを見ていた。


「えっ?」

「は……?」


 直後、着物を引っ張っていた無数の手の感覚が消える。辺りに満ちていた強い怨念も、橋を埋め尽くしていた黒い卒塔婆も。


 が、持ち上げられた体は、既に鉄柵の向こうへ乗り出していたようで。


「ハァ?! 落ち……っ?!」

「!!」


 視界がグラリと傾く。

 丁度、鉄柵の一番上に腰かけ、背中から谷底へ落ちるような格好で。


 咄嗟に足を鉄柵に引っ掛けようとするが、下駄が空を切るだけに終わった。それでもヨサリは、ハルの肩に回していた右腕でその腹を抱き、左腕で鉄柵を掴もうと手を伸ばして――。


 その手が掴んだのは、うっすら透き通った、丸みのある白い手だった。


 空から伸びてきた、二の腕から先が無い、すらりとした細く長い腕。その手首に巻かれた、血のように濃く鮮やかな赤色のベルトを見て、ヨサリはハッと息を呑む。


「! 貴様は、あの時の……!」

「うわ――――っ?! ヨ、ヨサリ~~ッ!!」

「揺らすな! しっかり掴まっていろ!」


 ひしと抱きついてきた大きな体を右腕で支え、橋の上へと引き戻そうとする白い手を左手でしかと握り返す。


 その手を頼りに、腰から下を持ち上げて爪先を伸ばし、届き損ねた鉄柵へ膝の裏を引っ掛ける。そうして、腹に力を込めて、上体を起こして。


 橋の上へ戻ってきた下駄が、カランッと小気味良い音を立てた。


 着地した勢いのまま、アスファルトの上へ大の字に倒れ込んだハルが、肩で息をしながら言う。


「た、助かったぁ……し、死ぬかと、思っ……!」

「……あぁ」


 大きなため息をついたヨサリもまた、ぐったりとその場に座り込む。


 ふと、空を見上げる。


 そこに漂っていたヨサリの手を掴んだ腕は、スゥッと浮かび上がると、晴れ渡った空の青色に溶けるように消えていってしまった。


 寝転んだまま、ハルが空に向かって指を差す。


「今の……手? 助けてくれたのか?」

「あぁ。この山で死んだ亡者だろうな」


 そして、恐らくは――。


 その時、森の方から「お嬢~! 危ないわよ、引き返しましょうよ~!」と、ひどく慌てた声が聞こえてくる。


 見れば、キョロキョロと首を動かしている蓮見と、その後ろを飛び回りながら届かぬ声で必死に呼びかけている雀姿のサザキが、森を抜け出てくるところだった。


 蓮見は橋の方へ視線を向けると、そこで寝転ぶハルに気付いたのか、一目散に走り出す。


「ハルくん! 大丈夫?」

「は、蓮見先輩?! どうしてここに?!」


 ヨサリのそばを走り抜け、ハルの元へ駆け寄る蓮見。


 たちまち飛び起きたハルを見るやいなや、その険しかった顔はホッと緩んでいった。荒い息に上下する肩からも、力が抜けたのが分かる。後からやってきたサザキも「ハァ~、やれやれ、無事で何よりだわ」とヨサリの肩に乗って羽を休めた。


「なんだか嫌な気配がして、慌てて追いかけてきたの。……もしかして、見つかった?」

「は、はい。見つけました、黒い卒塔婆。詳しいことは、俺にもよく分かんないんですけど……」


 辺りを探るように見渡す蓮見に、ハルは今しがた起きたことを話し始める。


 が、本人にも分かっていないという言葉通り「『助けて』って声がした方に歩いてったら、黒い卒塔婆だらけの橋に辿り着いて、気付いたらこうなっていた」という曖昧なものだったが。

 ……それにしても、ハルのお人好しは、どうしてこうも裏目に出るのか。


 話を聞き終えた蓮見は、両手を合わせて頭を下げた。


「ごめんなさい、巻き込んでしまって。危ない目に遭わせちゃった」


 途端、ハルは「えっ」とうわずった声を上げ、何度も首を横に振る。


「いや、謝るのは俺の方ッスよ! すみませんでした! 勝手にいなくなって、こんなとこまで探しにきてもらって!」

「ううん、元はといえば、わたしがお願いしたことがきっかけだから……でも、無事で良かった。本当に……」


 声は、段々と震えを増し、今にも泣き出しそうに細くなり。やがて蓮見は、両手で顔を覆ってうつむいてしまう。


 その左手首に巻かれているのは、目を奪われるほど鮮やかな、赤いベルトの腕時計。


 それから、しばらくの沈黙の後。


「ハル」


 呼びかければ、ハルが何も言わずにこちらに視線を向ける。


「蓮見に聞いてほしいことがある。下の名前は……いや、幼い頃、母に呼ばれていた名は何という?」


 ハルはコクコクとうなずいて、ヨサリの言葉をほとんどそのまま復唱して蓮見にたずねた。


 すると、蓮見は少し目元を赤くした顔を上げ、視線を逸らして――視線こそ合わないが、確かにハルの隣に立つヨサリの方を見て――小さく首を傾げながら答える。


「……ちーちゃん。わたしの下の名前、千鶴ちづるだから。……でも、どうしてそんなことを?」

「あぁ、ヨ、ウッ」

「言うな」


 ヨサリが聞けって。とでも言いそうだったハルの口を、その背中を思いきり叩いて止める。


「先ほど手を貸してくれた亡者が『ちーちゃん』とやらを探していたのでな。気になっただけだ」


 そう言えば、口を尖らせたハルはヨサリを一睨みして、蓮見に「さっき助けてくれた幽霊が『ちーちゃん』を探してたみたいで」とだけ伝えた。


 たちまち、蓮見の目が大きく見開かれる。


「……そうなんだ」


 ぽつりとつぶやいた蓮見が、空を見上げる。


 そこに広がっているのは、雲一つない、穏やかな青だった。


 そうして、ハルの「そろそろ戻りましょっか」という言葉にうなずきあった二人は、足早に来た道を戻っていった。




 去り際、ふと気配を感じて振り返る。


 ヨサリの背後、すっかりいつも通りの風景に戻った橋の前に、半透明の女がポツンと立っていた。


 涼しげな水色のシャツ姿。だらりと垂れた、細く長い腕と、癖のない艶やかな長い黒髪。手首に巻かれた赤のベルトの腕時計は、蓮見が着けているものと良く似ている。


 あぁ、これはあの腕の女だ、と直感する。


 うつむく女の口元は、かすかに動いていた。


「ちぃ……ちゃん……ちーちゃ……」


 その言葉を聞いて、ヨサリは静かに問いかける。


「……探し人は見つかったか?」


 すると、女は首を縦に振って、ほんのわずかに口角を上げる。


 直後、その姿はスゥッと薄くなり、そのまま煙のように消えてしまった。


「……まさか彼女、お嬢のお母さん?」

「だろうな」


 肩の上で小首を傾げたサザキに、ヨサリはうなずく。


 蓮見がハルへ話した、母のいなくなった経緯。橋に現われた、山の怪――強い怨念を持った「黒い卒塔婆」。


 それらから考えれば、蓮見の母はこの橋で「黒い卒塔婆」に誘われて、谷底へ落ちてしまったのだろう。

 それでも無念から――これはヨサリの想像でしかないが、恐らくは「待たせている蓮見ちーちゃんの元へ行かなければ」という思いから――亡者となってこの世に留まり、山を彷徨って、正気を失って。やがて山の怪に取り込まれて、その一部になってしまった。


 先のキャンプの夜、彼女に憑かれたハルが山の怪の元へ向かっていたのも、テルが何もしなかったのも、そう考えれば納得がいく。


 そして、あの時ヨサリが叫んだ言葉で、わずかに正気を取り戻したのだ。


 ――「『ちーちゃん』とやらがいるのは、こんな場所ではないだろう?!」


 だから、橋から落ちそうになったヨサリとハルに手を貸し、助けてくれたのだろう。


 山の怪の一部ではなく、ここで死んだ一人の亡者として。


「…………あの世へ行き、何事もなく、輪廻の流れに戻れているといいのだが」


 何の気配もなくなった橋を見やりながら、ヨサリは誰にともなくつぶやいた。




 道の駅に戻ってきたハルと蓮見は、展望台へとやってきていた。ヨサリもまた、東屋の屋根の軒先に腰かけ、肩に乗ったサザキと共に二人を見守っている。


 ぼんやりと港町を眺めるハル。その隣で、スマートフォンをつついている蓮見。

 ふと、「あ」と小さな声が画面の上に落ちた。


「あの橋、峠の旧道にあるみたい」

「えっ。じゃあ、森通らなくても行けたんですか?」

「うん。ちゃんと道があって良かった」


 言いながら、蓮見はスマートフォンをショルダーバッグの中に押し込んだ。そうして、切れ長な黒い瞳で隣に立つハルをじっと見つめると、どこか寂しげに微笑みながら言う。


「……見つけてくれてありがとう、ハルくん。今度、お花持って謝りに行ってくるよ」


 ハルは、困っているようにも笑っているようにも見える、複雑そうな顔をした。


 その胸中は、ヨサリにも容易に想像出来る。


 蓮見の母はずっと、待たせていた「ちーちゃん」の元へ帰ろうとしていた。自身と同じように、あの世へ連れていかれそうになったハルとヨサリを助けてくれた。そんな心優しい人が、謝ってほしいなどとは思っていないだろうに。


 だが、蓮見はその姿を見ていない。ヨサリには伝える術がない。


 どうしようか、ハルを通じて何か言葉を――と思案していると、ハルの口角がフニャリと柔らかく上がったのが見えた。


「蓮見先輩、クレープ食べに行きませんか!」

「……クレープ?」


 きょとんとした蓮見に、ハルは明るくうなずいて「昼メシん時に、フードコートで見かけたんですよ」と道の駅の方を指差す。


「なんというか、蓮見先輩のお母さん、クレープ食べさせてあげたいって感じだったんで!」


 ……どんな感じなんだ、それは。


 蓮見もそう思ったのだろう、フフッと吹き出すと「そうなの?」と不思議そうに言う。その控えめに上がった口角は、橋の袂で消えてしまった女にそっくりだった。


「いいよ、行こっか。ハルくんにお礼もしたいし」

「よっしゃ~!」


 そうして二人は、連れ立って道の駅へと歩いていった。


 しばらくして、果物が詰まったクレープを手にした蓮見が、一足先に戻ってくる。が、それには口は付けず、道の駅の方を落ち着かなさそうに見ていた。ハルはまだ来ないらしい。どの味にするのか、選ぶのに時間がかかっているのだろうか。


 すると、ハルは両手に一つずつ、二つのクレープを持って戻ってきた。


「あれ? ハルくん、二つも食べるの?」

「まさか! チーズが俺の分で、ベーコンがヨサリの分です!」

「ヨサリ?」

「…………あっ」


 ……迂闊なのも大概にしろ。

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