第12話
駐車場が近付くにつれ、怪異の気配も大きくなっていく。
雑木林に囲まれた、だだっ広い灰色のアスファルト。引かれた白線に沿って整列する、色も形も様々な車たち。その間を縫って歩いて行くのは、胸を膨らませた顔を、あるいは満足げな顔をした人々だ。
ヨサリはそれらには目もくれず、そばに立つ公衆トイレへ――その背後の、鎖の柵で仕切られた先の木立へと向かう。
そこには、ただ森が広がっているだけだった。雑木が立ち並び、草木が思うがまま生えている地面に道はない。これでもかと降り注いでいる日差しも覆い茂った葉によって遮られ、木立の中は薄暗かった。
ここは立ち入るべき場所ではないぞ、と訴えてくる拒絶感すらある。
……この奥からだ。怪異の気配がするのも、姿が見えないハルの気配がするも。
見れば、すぐ目の前にある、白い花をつけた雑草が踏み折られていた。
そうしてヨサリが、鎖の柵を跨いで越え、既に折れた雑草を下駄の歯で踏んだところで。
「あぁっ! ヨサリ! いいところに!」
悲鳴にも似た声とともに、慌てたようなはばたきの音がして、ヨサリの肩に雀が止まった。
「サザキ、ハルを見なかったか?」
「見たわよ! その、お嬢と一緒にいたハルとかいう坊主、森に入ってちゃったんだけど?!」
「やはりか」
聞けば、昼食後二人で駐車場を見て回っている時から、ハルの様子に違和感を感じていたという。何かを気にしているような、どこか上の空のような。
不審に思ったサザキは、「蓮見に何かしたら只じゃ置かないわ!」と息巻いて見張っていたらしい。
するとどういう訳か、公衆トイレから出てきたハルが、蓮見の待つ展望台ではなく、背後の木立へと向かっていくではないか。
キョロキョロと辺りを見回しながら歩いていったハルは、木立の前で立ち止まった。そうして、耳に手を当て、首を傾げて――そのまま、森の中へと入っていってしまった。
「まったくあいつは……分かった。私が追おう。貴殿は蓮見に。じきここへ来るはずだ」
「えっ? まさかお嬢、坊主のこと探してるワケ?」
「あぁ。気配に気付いた様子だったからな」
「もぉ~! あンの坊主、お嬢に危ないことさせんじゃないわよ! 怪異に呼ばれるなんて、絶対ロクな目に遭わないのに~!」
全くもってその通りである。地団駄を踏むサザキの爪が、着物に深く食い込んで肩を引っかいたが、文句すら出てこない。
泣き言をわめきながら飛び立っていくサザキを見送り、ヨサリも木立の中へと駆け出した。
踏み折られた草花と、森の奥から感じる気配を頼りに、不規則に並んだ木々の間を抜けていく。
頭の後ろでまとめた長い黒髪をなびかせながら、着物が乱れるのも構わず、下駄の歯で地面を覆う草と落ち葉を蹴って。
腰に刀が無い分、ヨサリの足は軽かった。重さも無ければ、
それでも、ハルの背中は中々見えてこなかった。
ふと考える。
……ハルは何に呼ばれている?
サザキの話から察するに、ハルには声が聞こえていたのだろう。どんな言葉だったのかまでは分からない。だがまぁ、筋肉痛でも荷運びに手を貸すようなお人好しにとって、無視できないものだったのは間違いあるまい。
それに、怪異の気配を感じた時、蓮見がつぶやいていた言葉。
『……お母さん?』
……もし、ここで死んだ蓮見の母が怪異となり、誰かを呼んでいるのだとしたら――。
そこまで考えた時、ヨサリは違和感に気が付いた。
ヨサリが森を走り抜けるのと同じ速さで、後ろへ流れていく視界。その端、雑木に混じってポツリポツリと立っている、不自然な何か。
それは一瞬、低い木の幹のように見えた。地面から真っ直ぐに生えている、ハルの背丈と同じか、わずかに小さいくらいの低木に。
だが、おかしい。低木にしては幹が太すぎるし、そのくせ枝は一本もない。当然、葉もない。加えて、いくら空を覆う枝葉の影の中にあるとしても、あの表皮の色はあまりにも黒すぎる。
足は止めぬまま、それでも視界の端々に現われる何かにじっと目を凝らして。
ふと、幹の表面についた、どこかで見たような凹凸に目がとまった。
あれは――卒塔婆?
そう思い至った瞬間、視界が開ける。
辿り着いた先にあったのは、ヒビだらけのアスファルトで舗装された道路だった。年季の入った路面に、すぐに思い至る。ここは、美鷹山から内陸へと続く峠道が出来る前、山越えに使われていた旧道だ。
ヨサリの足元で、下駄がカランッと乾いた音を立てる。
――同時に、道の先からジャリ、とかかとを引きずるような足音がした。
「な……?!」
咄嗟に音の方へと視線を向け、ヨサリは息を呑む。
道の先、青々と覆い茂った新緑の中に、ひときわ目立つ大きな赤い橋があった。
向かい合うようにして並んだ、アーチ状の太い鉄骨。間に組まれた、いくつもの細い鉄骨。道の両脇には、いやに高い鉄の欄干がズラリと並んでいる。その直線的な佇まいは、自然にあふれた森の中で異様な存在感を放っていた。
道幅は車二台がギリギリ通れるかどうかといった細さで、真ん中の白線もなければ、当然歩道も無い。
……ここまでは、美鷹山によく訪れるヨサリにとっては、馴染み深い、何ら珍しくもない山中の橋の光景である。
だが、その橋に至るまでの道路の脇に、森の中に、袂に、欄干の向こうに、黒いモヤで覆われた谷底に――橋全体を埋め尽くすように、数え切れないほどの強い怨念を放つ黒い卒塔婆が立っている光景など、一度たりとも見たことが無かった。
蓮見の母が残した警告が脳裏を過ぎる。
――『黒い卒塔婆には近付かないで』。
目を疑うような光景の中、唯一見慣れた後ろ姿に向かって、ヨサリは叫ぶ。
「ハル!!」
黒い卒塔婆に囲まれた道の真ん中で、ハルは、今にも橋を渡り始めようとしていた。
間髪入れず、駆け出す。
下駄がアスファルトを蹴るカッ、カッという音が辺りに響き渡る。
橋に近付くにつれ、橋の下を流れているのであろう、ザァァという川の音が大きくなっていく。その音の中には、時折「おいで……おいで……」という人の声にも水の流れる音にも聞こえる、奇妙な音が交じっている。
聞き覚えのある音に、直感した。
これは、先のキャンプの夜に出会った、美鷹山に棲み着いた山の怪。
ハルを呼んでいるのは、蓮見の母ではない。
山の怪だ。
ハルは、蓮見の母と同じように、山の怪に誘われているのだ――あの世へ。
ヨサリは、風のような速さでハルへと駆け寄ると、ふらふらと揺れる肩をがしりと掴む。
途端、それは飛び上がらんばかりにビクッと跳ねた。
「~~ッ!!」
振り返った半泣きの顔に、ヨサリは目を丸くする。
「! お前、テルか……?!」
どこかハルとは違って見える表情。触れた肩から伝わってくる、暗くて冷たい、強烈な亡者の気配。それは、何度か目の当たりにしてきたテルのものだった。
ハルは――テルは、小さくうなずくと、声もなく唇を震わせて自らの足元へ視線向ける。
その両足首には、卒塔婆と同じ怨念に満ちた黒く肉々しい塊が、いくつも群がっていた。
唯一体にくっついている大きな口で噛みついて。あるいは、たった一つの血走った目玉でこちらを見上げながら、グニャリとした体を巻きつけて。それらが右、左、右、と交互に少しずつ前へと進んで、ハルの体を橋へと向かわせているのだ。
それでも何とか前へ進まないようにしているのだろう、テルは足裏をアスファルトの上に隙間なく付け、踏ん張るような前傾姿勢を取っている。
だが、その抵抗も虚しく、ジャリ、ジャリと音をたてながらかかとごと引きずられ、少しずつ橋の中央が近付いてきていた。
ヨサリは、どうにか引き戻そうとその肩を羽交い締めにした。
「山の怪か……! 貴様まさか、加担しているのではあるまいな?!」
「……っ」
テルは、涙を溜めた目をギュッとつむり、首を何度も横に振る。
と同時に、ヨサリの頭の中に声が響いた。……いや、声というより、体に触れたところから、感情そのものが流れ込んできたかのような感覚だった。
――「何度追い払っても、次から次に出てくるんだ」と。
それから、焦りと無力感と、途方も無い恐怖。
縋るような「ハルを助けてくれ」という願望。
ヨサリは思わず舌打ちをした。
それだけで、いやでも分かってしまう。テルは、あの怪異を圧倒するほどの暗く冷たい気配で、何度も山の怪を弾き返そうとしたのだと。だが何度追い払っても、肉塊たちは谷底から次々に飛びかかってきて、その足を離さないのだと。
こうも力ずくでくるとは。
ハルは既に一度、この山の怪に目を付けられている。流石に二度目ともなると、そう簡単には逃れられないらしい。
だからといって、生者を脅かす怪異を前にして――助けてくれと請われて、斬らぬ訳にはいかない。
ヨサリは、反射的に左手を腰に当てて――そこに刀が無いことを思い出した。
こちらを振り返って見ていたテルの視界にも、そのヨサリの表現が映っていたのだろう。視線が下がり、何も掴めなかった左手を見た途端、わずかに息を呑んで下唇を噛む。
「……」
テルが大きく息を吐き、目を閉じる。
高い鉄柵の向こう、卒塔婆が立ち並ぶ谷底から、無数の手が伸びてくる。
そうして、腹の奥を握し潰されたと錯覚するほど威圧的なひときわ強い亡者の気配が放たれるのと、伸びてきた手によってヨサリ諸共ハルの体が持ち上げられるのは、ほとんど同時だった。
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