第11話

 翌日。


 雲一つない、少し汗ばむほどの日差しが降り注ぐ、行楽日和。


 ハルと共に水鶴神社の鳥居をくぐると、その先の石階段の脇にある庭では、既に蓮見が待っていた。


 小さな池を囲む植木と灯籠の中、爽やかな初夏の風に遊ばれる白いブラウス。肩の上でサラリと揺れる黒髪。その立ち姿は、昨日の着飾らないトレーナー姿とは違って、随分と大人びて見える。


 蓮見はわずかに首を上へ向け、空へ、植木へ、と落ち着きなく視線を動かしていた。


 何かを探しているのか、と考えて、すぐに思い至る。


 ピチチ、ピチチ、と高く軽やかな鳥の声。


 カサ、と小さく揺れる青葉が茂る枝。


 途端、蓮見が植木を見上げる。


 あの黒い瞳が追いかけているのは、庭にやってきた鳥たちだ。


 ハルもすぐ分かったのだろう。階段を上りながら、こちらに気付いた蓮見と挨拶を交わすと、隣に立って同じように植木を見上げた。


「鳥、好きなんですか?」

「うん」


 うなずいた蓮見は、また新たにやってきた鳥を見つめながら、優しい声で言う。


「……昔、この池の植え込みの下で、怪我したすずめを助けたことがあって。元気になったあの子が、また来てたらいいなって思って、通りかかる度につい探しちゃうの」

「へぇ~」


 そう答えながら、蓮見の視線の先を追いかけるハル。


 が、呆けた顔で腕を組み、首を横に傾けていた。……どれが何という名前の鳥か、分かっていないのだろう。頬に書かれた、どれが雀かな、という文字が見えるような気がした。


 しばし鳥たちを眺めた後、蓮見は手首につけた、赤いベルトの腕時計に目を落とす。


「さ、もうすぐバスが来る時間だね。行こっか」

「よっしゃ。行きましょ~!」


 そうして二人は、最寄りのバス停から巡回バスに乗り、美鷹山の裾野にある道の駅へと向かった。


 道の駅「やまさち」は、美鷹山の裾野にある小高い丘の上、内陸に続く峠へ入っていく道沿いに位置する総合施設だ。峠道を前にした休憩場所としてだけではなく、周辺の観光案内所や公園、地域の特産品を扱う直売所としての機能も兼ね備えている。

 特に、直売所は地域の農産物を買ったり味わったり出来ると評判で、港近くにある魚市場「うみさち」と並び、多くの人が訪れるこの町の観光名所だった。


 それがゴールデンウィークともなれば、より多くの人が集まる訳で。


 ヨサリは、ハルや蓮見と共に行動することを早々に諦め、一人展望台にやってきていた。


 人混みの中を歩くのは、勘弁願いたいのだ。


 獄卒など見えも感じもしない人間達は、当然だが、ヨサリのことなどお構いなしに歩いてくる。

 避けようにも、この混雑ぶりでは難しい。壁や窓のようにすり抜けてかわすことも出来るが、そうしようものなら、生者を通り抜ける瞬間の、生温いものに肌を撫でられるような感触を味わうことになる。

 容赦なく肩をぶつけられるのも、あの慣れない不快感を耐えるのも、どちらも御免だった。


 人を避け、往来の多くない方へ、なるべく少ない方へと足を進めて。そうして辿り着いたのが、道の駅のすぐ隣、丘の上から港町を一望出来る展望台の外れにある、東屋の屋根の上だったのだ。


 軒先に腰かけ、空に向かって投げ出した足。その先に引っかけた下駄と足裏との間を、涼しい風がサラリと撫でていく。


 刀を下げていない腰を所在なく思いながら、ヨサリは着崩した着物の懐で腕を組み、そこからの眺めに目を向けていた。


 眼下に広がるのは、美鷹山の裾野から海へ、斜面を這うようにして築かれた港町の街並み。遠くに見える水平線は、あふれんばかりの日差しを一身に浴び、目の奥に焼き付きそうなほどキラキラと輝いている。

 時折、その輝きの中を通り抜けていく米粒ほどの小さな点は、恐らく港に出入りする船なのだろう。


 こうなることは予想していた。

 刀も無く、人混みも歩けないヨサリは、離れて見守る他ないだろうと。


 それでもこうして同行したのは、あの亡者が――ハルに憑き、強烈な冷たい気配を放つ亡者が、表に出てくる時を見逃さないためだった。


 あの夜、山中で「ハルではない顔」をしたハルを見た時からずっと、ヨサリの胸の底にある不安の渦は大きくなるばかりだ。たとえ刀が無くとも、目を離す訳にはいかない。


 ……まぁ、ハルから「ヨサリも一緒に来るんだろ?」と当然のように言われたことも、同行を決めた理由の一つではあるが。


 そうして、辺りの気配を探りつつ景色を眺めていると。


 ――チチッ、チチッ。


 そんな高く弾んだ音が背後から近付いてきて、とん、と肩を叩かれた。


「や! ヨサリ!」


 ハリがあってよく通る、やや高い男の声。


 振り返ればそこには、栗色の短髪に千鳥柄の手ぬぐいを巻いた、作務衣姿の小柄な男が一人。傾いた屋根の上にいながら器用に足を開いてしゃがみ、小さな口の両端をニッと持ち上げて笑っている。


「ついてきていたのか、サザキ」


 その男は、ヨサリの顔馴染みの一人。水鶴神社に住み着き、気まぐれに人に化けて暮らしている妖怪サザキ――「作務衣姿の幽霊」の正体である。


 サザキはヨサリの隣へやってくると、フン、と小さく鼻を鳴らした。


「別に、アンタについてきたんじゃないわよ。お嬢のこと見守ってるだけなんだから」

「また着いて回っているのか」

「やぁね。人聞きの悪い」


 そう言うと、サザキは少し身を乗り出して、展望台にある人々の賑わいの方へと視線を向ける。


 そこには、眼下に広がる景色に目を輝かせているハルと、それを微笑みながら見守っている蓮見がいた。


「アタシはただ、あの子の笑顔を見に来ただけよ」


 言葉通り、蓮見を見つめながら「ちょっと見た? あの横顔!」だの、「やーん、今日もカワイイわね!」だの言うサザキ。今日も楽しそうだな。


 一通り堪能したのか、「ハァ~!」と気持ちの良いため息をついたサザキは、ヨサリに向き直ってその胸をトンッと指先でつついた。


「着いて回ってるっていえば、アンタもでしょう? 水鶴さまから聞いたわよ。面白い人間とつるんでいるそうじゃない」

「面白い……というより、訳が分からない、というべきだな……」


 そこでヨサリは、ハルについてたずねてみることにした。


 これまでの経緯も踏まえながら、あの亡者の気配についてかいつまんで話していく。


 ヨサリが亡者と間違えて斬りかかるほど、亡者の気配がする生者。それほどの強い負の思いを抱えた亡者が憑いているようなのだが、しかし現状ハルに何かするでもなく、むしろ守っているようにすら見える――。


「――という訳でな。貴殿はどう見る?」

「ん~? そうねぇ……」


 サザキが再び身を乗り出して、ハルと蓮見をじっと見つめる。


「……別に、普通の人間じゃないかしら? 亡者に憑かれてること以外は」

「それを普通とは言わんだろう」

「えぇ? フツーよ、フツー。あの子の隣歩いてたって、見逃してあげるわよ」

「……そうか。ならばいい」


 こと蓮見に関しては過保護なサザキだ、そう言うのであれば大丈夫なのだろう。……少なくとも、今はまだ。


 するとそこで、景色を眺めていた二人がこちらに背を向け、連れたって歩き始めた。どうやら、道の駅の直売所の方へと向かうらしい。


 それを見たサザキも、すっくと立ち上がる。


「あら、二人は今からお昼かしらねぇ。んじゃ、アタシはお嬢に着いてくから!」

「あぁ。何かあれば知らせてくれ」


 その言葉に返事するように、傍らにいた小鳥はチチッと一鳴きして、パタパタと楽しげに飛んでいった。




 しばらくして。


 ふと、下からの視線を感じた。


 足元を見ると、展望台の東屋の軒先に腰かけたヨサリの下、人混みの中、景色を望む欄干に肘をついた蓮見が一人きり。


 確か二人は、昼食を取った後、公園や駐車場など様々な場所を歩いて見て回っていたはず。そう思って亡者らしい冷たさの混じった気配を探すと、駐車場のそばにある公衆トイレへ入っていく見慣れた白茶色の頭を見つけた。先に展望台の方で待っていてくれ、ということのようだ。


 蓮見は、振り返ってこちらを――ヨサリがいる東屋の屋根をじっと見つめている。


 ……やはり、視線が合っているような気がした。


「おい」


 思わず、ヨサリは声をかける。


 が、蓮見が反応を見せることはなかった。声を発することも、視線が動くことも。


 考えすぎだろうか。


 蓮見には「作務衣姿の幽霊」が見えていないのだ。ならば、ヨサリの姿も然り。


 そうは思うが、昨日社務所から見上げていた時といい、今といい、視線は明らかにヨサリの方を向いている。そもそも、この眺望を前にして後ろを振り返っているというのがおかしな話で……。


 と、思考を巡らせていた時だった。


 背筋に冷たいものが走る。


 唐突に感じた、冷たくて暗い、負の思いがドロドロに混ざり合った気配。


 強い怨念に満ちた怪異の気配だ。


 途端、ヨサリは立ち上がって駆け出そうとして――その視界の端で、蓮見の肩が大きく跳ねたことに気が付いた。


 蓮見は、切れ長の瞳を大きく見開いて、欄干から離れるように一歩後退って。


 そして、小さな声でつぶやく。


「……お母さん?」


 ……なるほど。見えるかどうかは定かではないが、気配が感じ取れるのは確からしい。


 たちまち走り出した蓮見に続いて、ヨサリも東屋の屋根を大きく蹴る。


 向かう先は、怪異の気配が湧き出た場所――ハルがいた公衆トイレのある駐車場だった。

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