第9話

「なんか全身バキバキでやべぇくらい筋肉痛なんだけど?! しかも足の裏めっちゃキズだらけ!!」

「そうか。元気そうで何よりだ」

「どこがだよぉ~?!」


 ハルは、ぎこちない足取りで北城きたしろ大学寮前のバス停にやってくるなり、そう叫びながらベンチの上へドシャリと倒れ込む。体格に見合った長い足のせいで、ワイドパンツの膝から下は思いきりはみ出していたが。


 美鷹山のキャンプから帰ってきた、翌朝のことであった。




 山を彷徨ったハルを担ぎ、山を降りて。


 その後、キャンプ場へ戻ってきたヨサリは、夜明けまで不寝番をしていた。……ぐっすり寝ているハルをテントの前に置いて。流石に、あの土まみれの足では、中に入れるのは躊躇われたのだ。


 口振りから察するに、ハルは山を彷徨った時のことを覚えていないのだろう。


 となると、ハルからすれば、テントの中で寝ていたかと思えば知らぬうちに外にいた、ということなる。おまけに全身筋肉痛で、足の裏が傷だらけ。叫びたくなるほど訳が分からないのもうなずける。


 まぁ、ヨサリからすれば当然のことだった。あれだけ山中を歩き、獄卒に匹敵するほど強い、肉体の許容量を超えるであろう力を出していたのだから。思うことといえば、風邪を引かなくて良かったな、ぐらいなもので。


 そんな訳知り顔のヨサリに、ハルは仰向けに寝転んだまま、口を尖らせてたずねてくる。


「ヨサリ~、何か知ってるんじゃねぇの? このままだと俺、夢遊病キャラの不思議ちゃんになっちまうよ~」

「何だそれは……。知ってはいるが、お前が信じるとは思えん」

「あ、そういう?」


 その答えで、皆まで伝わったのだろう。ハルは「じゃあいいや」と言って、あっさり引き下がった。


 幽霊や魂といったものを信じないようにしているのは、相変わらずらしい。


 そこで、本題へ入ることにした。


「ハル、今日のお前の予定は知らないが、私は同行しないからそのつもりで」

「えっ?! そうなの?!」


 ベンチに寝ていた体が、勢い良く起き上がった。途端、「イッテ」と小さく悲鳴を上げて腹を押さえるハル。……もしかしすると、鞘の食い込んだところが痣になっているのかもしれない。


 ヨサリは、左手で刀のつかを撫でながら答える。


「あぁ、野暮用でな。水鶴みなづる神社に行く」

「へぇ~、神社に……。あっ、じゃあさ、俺もついてっていいか?」

「構わんが……なぜ?」

「暇だから!」


 いかにも手持ち無沙汰というように両腕を広げ、あっけらかんと笑うハル。


 聞けば、キャンプというゴールデンウィーク中の一大イベントが終わってしまい、残りの休日は暇を持て余しているらしい。


「しかし、ここに来たということは、バスに乗るんだろう。何か予定があったんじゃないのか?」

「い~や? 暇だから海でも見に行こっかなって。ついでにヨサリにも会えるかなって」


 そう言われ、ふと思い出す。


 一沙岬かずさみさきで見つけた、怪異に囲まれ、まるきり亡者のようだったハルの姿。


 ……あの場所に、一人で行かせるよりは。


「……そういうことなら、共に来い」

「よっしゃ! 行く行く!」


 そうして二人は、共に水鶴神社へ向かうことになった。


「……くれぐれも粗相のないようにな」

「?」


 念のため釘を刺したのだが、バスの時刻表とにらめっこをしていたハルは、こちらを向いてきょとんと首を傾げただけだった。




 水鶴神社は、この町の北東、一沙岬にほど近い住宅街の一角に建っている。


 松林と石鳥居に囲まれた境内は、そう広くはない。それでも、本殿と拝殿が一つになった社殿や神門、手水舎など、立ち並ぶ建物はどれも立派で、手入れが行き届いていた。

 社殿の隣には、イチョウの巨木が一本。秋になれば、銀杏の香りをただよわせた黄色の絨毯が敷かれる、見事な光景を見ることが出来る。


 普段は、訪れる人はあまりなく、閑散とした静けさに包まれていることが多い。

 だが、正月や節分といった季節の節目には多くの参拝客で賑わい、イチョウが色づく頃には多くの見物客が訪れる。そんなふうに、町の人々の暮らしに寄り添った、小さな神社だった。


 鳥居を抜け、ところどころに苔の生えた石階段を上がれれば、銅板葺どうはんぶきの神門が見えてくる。


 すると、隣を歩いていたハルが足を止め、辺りをキョロキョロと見渡した。


「うわぁ~、めっちゃ久しぶりに来たなぁ。懐かしいぜ」

「そうなのか」

「うん。毎年初詣に来てたし……あぁ、そう、小学校の頃、図工の授業で写生しに来たことがあってさ。丁度ここに座って、あの辺を描いてた」


 言いながら、足元の階段、階段の脇にある庭、と忙しなく指を差す。そこから見える風景は、植木と灯籠に囲まれた小さな池の奥に、松林の中にある社務所と神門がある、というものだった。さぞ絵になるだろう。


 そんなハルの思い出話に耳を傾けながら、神門をくぐる。


 境内には誰の姿もなく、鳥のさえずりだけが響いていた。


 真っ直ぐ伸びる参道の石畳を進んでいけば、立派な社殿が出迎えてくれる。美しい曲線を描いた反りのある屋根と、大きなしめ縄。左右に並んだ灯籠。


 ヨサリは、小さく黙礼だけして、その前を素通りした。


 そのまま、参道から外れた砂利の上を歩いていく。と、背後からパン、パンと手を鳴らす音が二度聞こえてきた。その後、少し遅れてついてくる大股の足音。ハルはしっかりと参拝したらしい。


 そうして社殿の隣、まだ緑色の扇形の葉を茂らせた、イチョウの木の下へ。青空へ向かって伸びる枝先を見上げながら、声をかける。


「水鶴殿、ヨサリです。お越しいただけますか」

「えっ? み、水鶴殿って、もしかして」

「あぁ。この神社の……」


 頭上から、バサリと羽ばたく音がした。


 直後、すぅっと空を滑り降りてきた一羽の鶴。大きな白い翼をはばたかせながら高度を下げると、黒く細長い足で足踏みするように地面へ降り立ち、トコトコと二人の目の前にやってくる。


 鶴は、くちばしをパクパクさせながら、水のように透き通った男の声で言った。


「おお、ヨサリ。息災か」

「えぇ、お陰様で」


 ヨサリが深々と一礼するのに合わせ、鶴も赤い天辺の頭を下げる。


「はは、実に面白い顔をする。やはり小僧には、この姿も見えているようだな」

「……そのようで」


 鶴の言葉に、ヨサリは振り返ってうなずいた。


 そこにいるハルの、ただでさえ大きな目をこれでもかと見開いて、両手で口元を覆った顔の間抜けさといったら。隠された口も開きっぱなしなのだろう、その手の隙間からは「お、おぉ……?!」だの「鶴が喋っ……?!」だの、小さな声がもれ聞こえている。


「……ハル。こちらは、水鶴殿。この神社にまつられている鎮守神ちんじゅがみだ」

「はっはっはっ、そう大層なものではないがなぁ」


 くちばしを打ち鳴らして笑う鶴に、ハルは目を白黒させたまま「は、はじめまして……!」とだけ返し、ペコリと頭を下げた。……幽霊も魂も信じない男でも、神様には礼を欠かさないらしい。


「それで? 今日は何用かな?」


 そうたずねながらも、鶴は首を伸ばして、ヨサリの腰に下がった刀のつばをつついてくる。


 用件はお見通しなのだろう。


「先日、山の怪と打ち合いになった際、切り込み痕を受けてしまいまして」


 ヨサリは腰紐から下緒を解いて刀を外し、体の前で真っ直ぐに構えると、わずかに刀身を抜いて見せる。


 つばにほど近いところに、小さな欠けが一つ。


「こちらの修繕をお願いしに参りました」

「あい分かった。引き受けよう」


 細長い首を縦に振った鶴に、ヨサリはまた深々と頭を下げて礼を言った。そうして、下緒を輪になるよう結び、鶴の首に掛けて刀を預ける。


 その手元を、一歩前に出てきたハルが、ヨサリの隣から不思議そうに覗き込んでいた。


「えぇと、その、水鶴さま? ……は、ヨサリの刀を直せるんだ?」

「あぁ。私が刀を握るようになった頃から世話になっている」

「ふふ、そうだなぁ。こうして刀を手入れしてやったり、剣の稽古をつけてやったりしてな……」


 当時を思い出したのか、鶴は「あの頃は剣の腕がつたなくてなぁ。折角の良い刀だというのに、素手で殴った方が早いと言って聞かなくて……」と、畳んだ羽を揺らしてくふくふと笑い始める。


 ヨサリは、隣から何か言いたげな視線を感じたが、あえて無視した。聞き流せ、そんな話は。


「というか、ヨサリって、獄卒なのに刀だよな。地獄の鬼って、こう、金棒担いでるもんじゃないの?」


 首を傾げたハルが、肩に何かを担ぐような仕草をする。


 ヨサリは腕を組み、視線を少しだけ上へと向けながら、かつて見ていたあの世の風景を思い起こした。


「そうだな……色んな武器が使われていたが、金棒を得物としていた奴は多かった。そのイメージは概ね正しい」

「じゃあ、ヨサリも?」

「あぁ。生憎、あの世に置いてきたがな」


 そう苦々しく言って肩をすくめ、空手をひらりと振ってみせる。


 着の身着のまま、この世まで逃げてきたのだ。惜しくはあるが、仕方なかった。


 すると、「あぁ!」と膝を打ったような声が上がる。


「なるほど! だから素手」

「その話は忘れろ」

「ウ゛ッ」


 ヨサリは、その横腹に容赦なく肘打ちをした。


 そんなやり取りを見ていた鶴は、ひとしきり笑った後、器用にくちばしで羽を整えながら言う。


「まぁ、面倒を見てやる代わりに、こやつには『この地の怪異を増やさぬよう斬ってくれ』と頼んでいるのだ。持ちつ持たれつというやつだな。まこと頼りになるよ、『幽鬼殺し』殿」

「……その呼び方は、好かないんですがね」

「はは、そう睨むな。頼りたい心の表れなのだ。この辺りの獄卒は、おぬしの他には皆いなくなってしまったからなぁ」

「えっ? それって、どういう……」


 ぎょっと目を丸くしたハルが、ヨサリを見て、鶴を見て、もう一度ヨサリを見る。

 おろおろと左右に揺れる顔を視界の端に映したまま、ヨサリは腕を組み直してわずかにうつむいた。


「どういうも何も。事実だが」

「そうだな。こやつはまだ怪異化していない、珍しい獄卒なのだよ」


 さも当然のように答えたヨサリの肘を、鶴のくちばしがチョイチョイとつつく。


「亡者も、あやかしも、獄卒も、肉体を持たぬものは皆等しく怪異になり得る。無論、このわたしもな。……この世は生者の、肉体を持つ者のための世界だ。肉体を持たぬ者は、やがて正気を手放し、あるべき形を見失い、怪異に転じてしまう。この世に数十年も長居することは、本来出来ないのだよ。……自分を自分たらしめる、強い意志や信仰がない限りは」

「……そうなんだ」


 ハルの口から、今にも消え入りそうな声がこぼれてくる。その表情を見た鶴は、くちばしをカチカチと鳴らして「なに、こやつには、それだけの意志があるということ。心配はいらんよ」と付け足した。


 そうして、細長い首を伸ばし、くちばしを空へ向けて。


「しかし、本当に惜しいなぁ……。まさか、おぬしの兄弟も、この『明星』を残して逝ってしまうとは思わなんだ……あやつも良い獄卒だったなぁ」

「えぇ」


 昔を懐かしむような言葉に、ヨサリは迷いなく首を縦に振った。


 ――あぁ、本当に。どうしようもなく良い奴で、仕方のない奴だった。


 すると、ハルがおずおずと右手を挙げる。


「……あの、獄卒の兄弟って?」

「あぁ。そうだな……」


 うなずいたものの、どう説明してやるべきか。


 輪廻を共にする者? 元は一つの魂だった者? いやしかし、こいつは魂など信じていないしな……。


 などと迷っている間に、鶴が先に口を開く。


「獄卒にとっての兄弟とは、魂を分け合って生まれた者。人間でいえば、双子のようなものかな」

「そっかぁ……」


 その答えに納得したのか、ハルは静かにうなずいて、どこか遠くへ視線を向ける。


 そうして、引き結んだ唇を指で何度も叩くと。


「俺、ちょっと社殿の方見てくるよ」


 と言い残して、イチョウの木の下から離れていった。


 足早に去っていく、らしくない背中を見送りながら、ヨサリは首を捻る。


「おや。気のきく奴だなぁ」

「…………普段は、無遠慮な発言ばかりする奴なんですがね」




 それからしばらく、ヨサリは鶴の思い出話に付き合い、ついでに先日出会った山の怪についても報告した。


 話を聞いた鶴は、長い首を力なく下げて「どこも活発だなぁ。海も、山も」とつぶやく。


「ヨサリ、くれぐれも用心したまえよ」

「勿論です」


 肩をトン、とつつかれて、ヨサリは力強くうなずいた。

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