第8話

 ビュウッ、とひときわ強い夜風が吹いた。


 いっせいに巻き上げられる、地面に積もっていた枯れ葉。ヨサリの頭の後ろで一つに束ねられた長い黒髪。乱れた着物の裾。


 辺りはたちまち、騒がしい葉擦れの音に包み込まれる。


「ハル!!」


 かき消されまいと、ヨサリは声を張り上げて名前を呼んだ。


 やはり、返事は無い。それでも、風にあおられた体がそのまま倒れていってしまわぬよう、下駄の歯を一層土の中へと食い込ませ、力の限り引き寄せる。


 すると突然、辺りに冷たささえ感じる青白い光が満ちた。


 月が雲の裏から出てきたのだ。


 咄嗟に、すぐ隣で項垂れているハルの横顔を覗き込む。


 感情も生気もごっそり抜け落ちた表情。どこを見ているのか分からないうつろな瞳。


 口は、閉じられることもなく、薄く開いたままで。


「ぉこ……」

「!」


 それが、かすかに動いていることに気が付いた。


 上がっている息を殺し、口の端からもれ聞こえてくる言葉に耳を傾ける。


「どこ……どこぉ……ちーちゃん……」


 ――ちーちゃん?


 抑揚なく繰り返される声は、確かにハルのものだった。だが、震える言葉尻が、今にも泣き出しそうな声色が、これはハルの言葉ではないと訴えてくる。


 まるで、未練に飲まれた亡者のような言葉だった。自身がここにいる理由すら忘れ、ただ未練を晴らすためだけにいるかのような――。


 そこまで考えて、はたと気が付く。


 思えば、ここは美鷹山。怪異たちが集まりやすい場所である。こういった負の想いが積み重なったところに現われる亡者は、未練ばかりに支配され、自身がここにいる理由すら覚えていないことがほとんど。


 まさか……こいつは、山の怪ではない?


「ちぃ、ぁん……ちーちゃん……」

「おい! どこの誰だか知らないが」

「どこ……ちー、ちゃ……」

「よく思い出せ! お前は何をしていた? 『ちーちゃん』とやらがいるのは、こんな場所ではないだろう?!」


 たまらず、ヨサリは叫んだ。


 途端、ハルが動きを止めた。


 唐突に前へ進もうとしていた力が無くなり、ヨサリは体勢を崩しながらも、両腕と刀で作った輪は解かずに様子をうかがう。


 すると、ハルの右肩から何かがスゥッと伸び上がった。


 うっすら透き通った、丸みのある白い手。すらりとした細く長い腕。手首には、赤のベルトの腕時計をつけていた。血のように濃く鮮やかな色に目を奪われながら、あぁ、これは女の腕だ、と直感する。


 やはり、そうか。


 そう思ったと同時に、腕が消え、ゆっくりとハルがこちらを振り返った。


 虚ろだった目に、段々と光が戻ってくる。どこを見ているのかも分からなかった視線が、ハッと揺らいで焦点を結ぶ。


 見開かれた、パッチリとした大きな瞳が、しかとヨサリを捉えた。


「――……っ、ヨ」


 薄く開かれた口から、震えた息がもれる。


 しかし、それが言葉になるよりも早く、ハルの体からフッと力が抜けた。


 まぶたが閉じ、膝が折れて、落ち葉で覆われた斜面の上へと倒れていく。


「ハ……ッ!」


 ヨサリは、崩れ落ちるその体が崖下へと向かわぬよう、刀の鞘でぐいと引き寄せた。そうして、抱きとめようと手を伸ばしかけ――そのまま刀を握り直すと、左手で下緒を解いた。


 抜刀しきらぬまま、鞘から引き出した刀身を、頭上へ。


 ガキンッ!!


 不意を打った、手が痺れるほどの強い衝撃。


 刀身は、ハルの背後に迫っていた、黒い肉の塊に大きな口だけがくっついた異形の牙を受け止めていた。


 力の抜けた体を胸の上に乗せたまま、ほとんど倒れるような格好だった。当然、衝撃を受け流すことも、踏ん張りを効かせることも出来ない。


 バキ、と何かが欠ける嫌な音がした。


 と同時に、血管の切れる音も。


「こンの……!!」


 ヨサリは、右手の刀で異形の牙と押し合いながら、切っ先が入ったままの鞘から左手を離した。そのまま、左腕を下にして体を横に倒す。胸の上に乗っていたハルを転がして退かすと、地面についた左手を軸にして右足を振り上げ異形を蹴り飛ばす。


 そうして、自重で鞘が落ち、月光に切っ先をきらめかせた刀を両手で握ると。


「この『明星』に傷をつけるとは、余程斬られたいようだな!!」


 白刃を振り下ろし、肉塊を真っ二つに両断した。


 潰れた呻き声を上げ、煙のように消えていく様を横目に見ながら、構え直した刀身に目を落とす。


 すらりと反った、鉄色の刃。そのつばにほど近いところに、小さな欠けが一つ。


 ……あぁ、くそ。やはり切り込み痕がついている。


 思わず吐き捨てるような舌打ちが出た。


 そんなヨサリの煮えくり返った腹わたなど露知らず、次々に飛びかかってくる肉塊。黒く肉々しい、人の頭ほどの大きさの丸い体に、口や目だけがくっついた異形たち。


 ヨサリはそれらを片っ端から斬り伏せると、今まさに飛び出てきた場所――夜闇に沈んだ判別しがたい崖下の沢を睨む。


 そこには、強い怨念に満ちた怪異の気配とともに、ただ黒が広がっているだけだった。しかし時折、ささらぎの音に交じり、「おいで……おいで……」という人の声にも水の流れる音にも聞こえる、奇妙な音が響いている。


 山の怪か。


 大方、ハルが意識を失ったところを狙って来たのだろう。背中越しに聞こえてくる息遣いは、ひどく穏やかで、無防備だった。


 ……さて、どう斬ってやろうか。


 そうして、ヨサリが刀の切っ先を崖下へと向けた時。


 ――どこからか、潮の香りがしたような気がした。


 直後、背後にあった生者の気配がかき消え――入れ替わるように、強烈な亡者の気配が放たれた。


 たちまち、辺りに立ち込めた冷気が足首を撫でていく。


「っ……」


 その海の底のような冷たさに、ぞわりと鳥肌が立つ。


 すると、崖下にあった気配が逃げ去るように霧散した。見下ろせば、そこでは、月の光を浴びた流水が秘めやかに輝いている。どうやら、黒く見えていたのは夜の暗さのせいではなく、山の怪のせいだったらしい。


 森には、さぁさぁ、と清らかなせせらぎの音だけが響いていた。


 ……これは。


 この冷たく、沈鬱な思いに満ちていて、真っ暗な気配は。


 刀を右手に携えたまま、恐る恐る背後を振り返る。


 そこには、ハルが立っていた。


 ぼんやりと宙を見ていたハルは、すぐにこちらの視線に気付いたようで、同じように視線を向けてくる。


 その表情を見て確信した。


「……」

「……貴様、ハルではないな?」


 たずねれば、優しく微笑んでうなずくハル。


 ……ハルの笑顔は、もっと柔らかで力の抜けた、腹の立つほどふにゃふにゃした顔だったな。


 ようやく分かった。


 こいつが、ハルから感じる亡者の気配の正体。


 この亡者が、ハルに取り憑いているのだ。ヨサリがハルを亡者と見紛うほど深く、ぴったりと寄り添うように。


 同時に、腑に落ちた。


 ハルが、いくら怪異にまとわり付かれようが、どんなに怪奇現象に遭おうが、無事でいられる理由。いくら幽霊や魂を信じず、徹底的に否定しているとはいえ、流石に限度があると思っていた。


 この亡者が、ハルを守っているのだ。先日の美術部のクラブルームでの一件も。たった今、山の怪に狙われた時も。怪異を凌駕し、圧倒するほどの暗く冷たい気配で、ハルに危害を加えようとするものを弾き返している。


 ……ならば、なぜ?


 なぜ、あの赤い腕時計の亡者に憑かれていた時は、何もしなかった?


 生者を守ろうとしていながら、どうしてこれほどすさまじい負の思いを抱えている?


 そんなものが、どうしてハルに憑いている?


 疑問は尽きないが、ヨサリには関係のないことだった。


 何であれ、亡者であることに変わりはないのだから。


「貴様が何者なのか、私には分からないが……こうして相見あいまみえたからには、斬らせてもらおう。獄卒として、生者へあだなす者を見過ごす訳にはいかないんだ」


 そう静かに宣言して、刀を構える。


 切っ先は、真っ直ぐハルの――その内にいる亡者の喉元へ向けて。


 生者にあだなすものは、退治しなければならない。


 いつかハルに牙をむくのではないか、という恐れを、現実にしてはならない。


 それは、獄卒として守るべき使命であり、ヨサリの確固たる意志だった。


「……」


 返事は、無い。


 ただ、眉尻を下げ、ひどく申し訳なさげな顔をして、小さく首を傾けて。


 そうしてハルは――ドサッ、と糸が切れたようにその場に倒れた。


「……は?」


 間抜けた声が一つ。まばたきを二度。


 それからようやく刀を納めたヨサリは、積もった落ち葉と小枝とむき出しの根ばかりの地面に寝転がったハルへと駆け寄る。


「おい、ハル。大丈夫か」


 心音と、穏やかに上下する胸を確かめる。……どうやら、意識を失っただけのようだ。地面の上を転がるのはこれで二度目だが、何も履かずに山中を歩き回った足元以外には、目立った怪我は無い。


 ハルから感じる気配にも、すっかり生者らしい輝きが戻っている。


 ……こうなっては仕方がない。


 ヨサリは、腰を下ろして首を後ろにハルの腹が当たるような格好で担ぎ上げると、そのまま山を降りた。




 あの亡者が何者なのか、結局分からぬまま。

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