第二章 死に場所

第7話

 ザァァ……。


 夜風が吹いて、いっせいに鳴き出した木々のざわめきが山の中にこだました。


 途端、枝葉の隙間から差し込む月明かりが遮られて、にわかに視界が真っ暗になる。頭の片隅で、頼むからすぐ雲の裏から出てきてくれ、と思ったが、それにどれだけ時間がかかるか見上げて確かめる余裕は無い。


 ヨサリは、刀を握る手に力を込めた。


 右手はつかを、左手はさやを掴んでいる。伸ばした両腕と、柄と鞘を下緒で結んだ刀とで作った輪。その中にいる男がこれ以上前に進まぬよう、必死で抑え込んでいるのだ。


「止まれ、ハル!!」


 半ば叫ぶように、名前を呼ぶ。


「……」


 返事は無い。


 傷だらけの素足も止まらない。ぐったり項垂れた、寝癖だらけの頭は振り返りすらしない。どれだけさやが腹に食い込もうとも、ただ前へ――せせらぎの音が響く崖の下へ向かって、歩いていこうとする。


 ぐい、ぐい、と前へ傾いていく体。


 足元の暗がりから、ガサッ、パララ……と何かが崩れ、落ちていく音がした。


 ヨサリは、積もった落ち葉とむき出しの根でうねった斜面に、下駄の歯を食い込ませて踏ん張った。乱れた着物はそのままに、肺が土の匂いに満たされるのも構わず、肩で息をする。


「この……~~ッ、いい加減、返事くらいしろ……!!」


 くそ、この薄い体のどこから、獄卒に匹敵するほどの強い力が出てくるんだ。




 ……だがやはり、待機していて正解だったな、と思う。


 こうも見事に呼ばれるとは。


 懸念した通り、この男の怪異を引き寄せる性質は、山の怪にも影響するらしい。




 始まりは数日前。


 日差しにジリジリとした肌を焼く熱を感じるようになってきた、よく晴れた朝だった。


 北城きたしろ大学寮前のバス停に行くと、ワイドパンツを履いた両足を投げ出して、ベンチに腰かける男が一人。七分丈のシャツの裾を揺らしながら、あらぬ方向に跳ねたふわふわの白茶色の髪を何度も撫でつけている。が、その癖が直る気配はない。


 いつものように待ちぼうけしていたハルは、やってきたヨサリを見つけるなり、挨拶もそこそこに言った。


「ゴールデンウィークにさ、ゼミのみんなとキャンプ行くことになったんだけど、ヨサリも来る?」

「は?」

「しかもなんと一泊二日」

「……はぁ?」


 ハルは右手で指を一本、左手で指を二本立てて、フニャリと口角を上げてみせる。


 行く訳なかろう、キャンプなど。獄卒を何だと思っている。


 ヨサリは、たちまち頭の中を埋め尽くした断り文句に顔をしかめた。それでもハルは、寝ぼけ眼をこすりながら、お構いなしに話し続ける。


 ハルが通う北城大学では、「ゼミ」と呼ばれる少人数で研究発表や討論をする授業がある。専門的な学びが始まっていないハルたち一年生は「基礎ゼミ」と題し、学生に求められる資質や身近な題材をテーマにして、研究発表の何たるかを学んでいるのだそうだ。


 教員の話を聞くだけの講義とは違い、学生同士で話し合い、協力して取り組まなければならないことばかり。そこで、グループ内の親睦を深めるため、今回のキャンプが企画されたのだという。


「まぁ、そんな仰々しいもんじゃなくて、親睦を深めるって建前で遊びたいだけだぜ」


 ふふ、と小さく笑って「大学生って感じだよなぁ」と他人事のように言うハル。


 ならば尚更、なぜ獄卒を誘おうなどと思ったのか。


 ヨサリは内心、どの断り文句を言ってやろうか、と考えながら話を聞いていた。だが、ハルが欠伸しつつ差し出してきた、キャンプ場らしき森が映ったスマートフォンの画面を見て、はたと思考が止まる。


「……ハル、これは美鷹山みたかやまか?」

「? うん、多分。こっから南西に登ってったとこにある、みたかのもりキャンプ場」

「そうか……」


 ヨサリはあごを手で撫でた。


 美鷹山は、ハルの言った通り、この港町の南西に位置する山だ。雑木の森に覆われているが標高はそう高くなく、中腹には内陸へと続く峠道が、裾野には道の駅やキャンプ場といった行楽施設が建っている。人里との距離が近い、住民たちにも馴染み深い場所だろう。


 よく足を運ぶ、という点ではヨサリも同じだった。


 怪異が多く棲んでいるからである。


 山という土地が持つ性質のせいか、はたまた裏鬼門という方角のせいか、この山には山の怪――土地神や妖怪にも近い、山に居着いた怪異が多くいた。


 彼らはその性質上、山から降りてくることはない。だが、土地に深く根付いていて一度や二度斬ったくらいでは消滅もしない。そのため、ヨサリはよく山を訪れ、立ち入った人間たちに危害が及ばぬよう警戒しているのだった。


 その美鷹山に、ハルが行く。


 そうなれば――この男の怪異を引き寄せる性質は、山の怪にも影響するのではないか?


 ハルと出会ってから一ヶ月が経とうとしているが、結局、亡者の気配がする原因は分からないままだ。怪異を引き寄せる性質も相変わらずで、ヨサリは集まってきた怪異を斬る護衛の真似事を続けている。


 それだけではない。先日美術部のクラブルームで感じた、他の怪異を圧倒するほどの強烈な亡者の気配。


 あれからずっと、ヨサリの胸の底には暗雲が渦を巻いている。決してハルに気付かせてはならない、という絶対的な予感。それから、いつかハルに牙をむくのではないか、という漠然とした不安。


 ……目を離すには、気がかりなことが多すぎる。


 そう結論づけたヨサリは、喉まで出ていた断り文句を全て飲み込むことにした。


「……同行は断る。だが、近くで待機はしていよう。何かあれば駆けつける」

「よっしゃ。頼もしいぜ。俺がいたら、怪異が集まってきて大変なことになんじゃねぇかな、って思ってたとこでさぁ」


 フニャリと力の抜けた笑顔を浮かべたハルに、ヨサリは面食らう。


 ……そういう理由で誘ったのなら先に言え。




 そうして意気揚々と出かけていった、一泊二日のキャンプ。


 異変が起きたのは、その日の夜だった。




 ささやかな虫の声と、風に揺れる木々のざわめきだけが聞こえる、寝静まったキャンプ場の一角。


 そこに建つテントの中から、のっそりと出てくる人影が見えた。


 月明かりしかない中でも分かる大きな体躯と、肩にかかった見覚えのある苔色のジャケット。爆発している白茶色の髪。


 それが、テントの前に並べられた靴も履かずに、フラフラとおぼつかない足取りで森の中へ入っていく。


 一目見て、ハルだと分かった。

 だが、どう見ても尋常ではない。


 ヨサリは待機していた木の上から飛び降りると、ハルが消えていった森へ駆け込む。


 その背中に追いついた時、ハルは既に遊歩道から大きくれた、雑木が立ち並ぶ山の斜面にいた。

 パキ、パキ、と地面に転がる小枝を素足で踏みつけながら、肩をゆらゆらと左右に揺らしながら。意志など無いように――何かに呼ばれるように、森の奥へと向かっている。


 行く先にあるのは――沢へと落ちていく、ほとんど崖のような急斜面。


 気付いた瞬間、ヨサリは落ち葉ばかりの斜面を駆け上がってすぐさま距離を詰め、その歩みを力ずくで止めにかかったのだった。

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