第6話

『幽霊じゃない理由』は見つかった。


 となれば、残るは怪異を斬るのみである。


 ヨサリは立ち上がり、腰に下げた刀のつかに手を置いて、下駄の歯を芝に沈ませながら歩き始める。


「折角だ、間近で聞いていったらどうだ?」

「いやぁ」


 目線もくれずにたずねれば、返ってきたのは楽しげな口振りの否定。


「ライブって、音がでっかいからなぁ。俺には、いつも通り、窓越しに聞くのが丁度いいぜ」


 そんな言葉とともに、草を踏む音が近付いてくる。たちまち大股で追いついてきたハルは、頬を緩めながらヨサリの隣に並んだ。怪異を斬るところを進んで見に来るとは、物好きな奴である。


 そうして二人は、芝生の広場を後にして、美術部のクラブルームへと向かった。


 その途中、二階の回廊に上がる階段を登るため、中庭へ入った時。


「あっ。あの人、昨日の……」


 中庭の一角、青々とした若葉を茂らせるけやきの下。そこに一人佇んでいる、見覚えのある少女。


 例の、西洋人形じみた少女だ。


 昨日と変わらぬドレスのような衣装めいた服装で、やはり同じようにうつむいて、何度も指を組み替えている。


 すぐに気が付き、小さく声をこぼしたハルは、迷うことなく近寄っていく。恐らくは、昨日そうしたように、声をかけるため。


 だが、先に声を発したのは、少女だった。


「き、きて……」

「え?」


 途端、ぐるん、と。


「きぃ、き、ぇ」


 うつむいていた顔が上がり、長い茶髪を振り乱した首が曲がり、こちらを向く。目元が髪に隠されていようが、その視線が捉えているものははっきりと分かった。


「きいぃ、い、えぇ」


 ゆっくりと持ち上がる細腕。華やかな白いフリルがあしらわれた袖から覗く生白い手。それが、ゆらり、ゆらりと上下に揺れながら、縋るように伸びていく先。

 そこにいるのは、ハルだ。


 直後、雑音混じりの軋んだ女の声が響き渡った。


「きぃいいぃ、てええぇぇぇぇぇぇえ」

「……っ!!」


 ハルが声にならない悲鳴を上げ、後退る。


 ヨサリは鯉口を切り、己の体でハルを隠すように一歩前に出た。右手でつかを握ると、迷うことなく刀を抜く。


「そちらからお出ましか。手間が省ける」

「……え?」

「あれが、くだんの怪異だ」

「…………えっ?!」


 少女が、ガクリと体を揺らして、一歩近付いてくる。


 だが、その足がタイルの床を踏むことはなかった。かかとがぶつかった途端、足は泥人形のようにぐしゃりと潰れて、膝から下が淀んだ黒い泥のかたまりと化す。たちまち、ハルへと伸びていた手も白さを失って、黒く、異様に長細い腕となる。


 それでも少女は、絶えず声を上げながら、膝立ちような格好で懸命に腕を伸ばしていた。


 ゆらり、ゆらり、と手招くように。


「言ったろう、私たちが駆けつけた時点で、あの部屋にはそれなりの気配があった、と。彼女こそがその怪異。古着に憑き、学生たちの間で噂になっていた、クラブハウスに現われる幽霊の正体だ。……お前は、新入生勧誘中の演劇部員と思っていたようだが」

「なっ」


 途端、ドンッと背中を強く叩かれる。


「ヨサリ! アンタ、気付いてたのかよ!」

「あぁ」

「じゃ、じゃあなんで、最初に会った時、斬ろうとしなかった?! いつもの馬鹿の一つ覚えみたいな、問答無用抜刀はどうしたんだよ!」

「その無礼な口はどうにかならんのか。斬るなと言ったのはお前だろう」

「言っ?! ……った! 確かに言ったな! 言ったけど! まさかこの人が怪異だったなんて……!」


 肩越しに聞こえるハルの声が、次第に震え、か細くなっていく。


 着崩してたるんだ着物の背中を、小さく引かれる感覚がした。


「……お前の言う通りだ。正確に言えば、怪異ではなかった。あの時はまだ、辛うじて亡者の気配が残っていて……怪異という状態だった。だが、怪異というものは、己の姿を認め、存在を認め、信じるものにかれる。お前が声をかけたことで――つまり『認めた』ことで、完全に怪異と化したのだろう。お前に『来て』もらうために。だから、あれだけの怪奇現象の起こしたんだ」


 背後から、息を呑む音がした。


 だがヨサリは、それを無視して続ける。


「こうなってしまえば、もはや斬る他ない。……獄卒として、生者へあだなす者には容赦しない」


 腰を落とし、音もなく右足を一歩前へ。


 刀を握った両手を左腰の前に構えて、右に傾けた刀身の先を正面へ、泥と化した少女の顔へと向ける。


「ぎ、いぃ、いいぃ、えっ、えええぇぇぇえ」


 呻き交じりに叫びながら、飛びかかってくる少女。


 伸ばされた腕を、刀身を横にして右から左へと凪ぎ払う。視界の端に飛び散る、黒い飛沫。叫び声が悲鳴に変わる。それでも、そのまま流れるように刀を頭上へと振り上げ、左足を前に出して少女との距離を詰める。


 大きな円を描くように振り下ろして、一閃。


 手に伝わってくる、ぐちゃ、と何かを潰したような感触。


 白刃は、少女の胴を両断していた。


 たちまち泥の体が黒い煙となって、風に溶けるように消えていく――呻きとも嗚咽ともつかない、か細い声だけを残して。


 やがてそれも聞こえなくなり、中庭が静けさに包まれてから、ようやくヨサリは刀を納める。


 チン、とつばさやがぶつかって鳴っただけの小さな金属音が、いやに大きく響いて聞こえた。




 美術部のクラブルームに西日が差し込まなくなってから、しばらく経つ。


 窓の向こうに見えるのは、端の方に夕方の色をわずかに残した、始まったばかりの夜空。 


 時折、トン、トン、と部屋の前の回廊を足音が通りすぎていく。あんなに聞こえていた軽快な音楽はとうになく、窓の下にあるはずの舞台からは会話一つ聞こえてこない。


 中央の机には、黒いエプロンを着たハルがいた。「気晴らしに何か描こうかな」と言って、スケッチブックと水彩絵の具を並べたくせに、結局絵筆は一度も動いていない。体を横向きして丸椅子に座り、右肘を机において頬杖をつき、ただぼんやりと窓の外を見つめている。


 その向かいに座ったヨサリも、言葉をかけることなく、ただ腕を組んで同じものを見ていた。


 不意に、ハルが小さな声で言う。


「なぁ、ヨサリ」

「……何だ」

「もしかして、俺のせいなのかな」


 相変わらず、脈絡がない。


 だが、窓を見つめたままの丸まった背中を見れば、嫌というほどに分かってしまう。


 ……怪異という状態でとどまっていた亡者が、完全な怪異になってしまったのは、ハルが「認めた」せいなのか。


「いいや。お前はきっかけにすぎん」


 ヨサリは、努めて力を込めた口調で答えた。


「この世に長くとどまった亡者は皆、己の負の感情や未練によって自我も正気も失い、いずれ怪異になってしまう。……つまり大元を辿れば、原因は、亡者がこの世にとどまらざるを得ない状態になっていること。あの世が終わりを迎えたことにある」


 言い終えた後、一拍遅れてハルが振り返る。


 真っ直ぐにヨサリへ向いたその顔は、ポカンと口を開けたまま、大きく丸く目を見開いていた。


「あの世が終わりを……って、滅んだってことか?!」

「あぁ。……不甲斐ないことにな」


 そうして話し始めたヨサリは、自分の左手が無意識に刀の柄頭つかがしらを撫でていたことに気が付いた。




 あの世が終わりを迎えたのは、二十年前。

 発端は、地獄の一番奥底にある牢から、とある大罪人が脱獄したことだった。




 その日、ヨサリはいつもと変わらない、この世で彷徨う亡者をあの世へ連れて行く仕事をしていた。


 そうして仕事を終えて戻ってきた時、あの世は既に戦場となっていた。


 辺りに満ちた、息も詰まるほどの怨念。往来に転がる、食い荒らされた無数の死体。逃げ惑う亡者。暴れ回る怪異たち。それが、怨念によって正気を失った元住人――あの世で暮らす妖怪や鬼たちだということは、すぐに分かった。


 しかし、どうしてこんなことになっているのか。


 混乱する頭のまま、亡者を逃がし、怪異を倒し、どうにか閻魔の法廷へ辿り着く。


 そこは、慌ただしく鬼たちが行き交う、まさに戦の本陣のような様相を呈していた。指揮を執っていた、よく知った姿より幾分かやつれた閻魔は、やってきたヨサリを見るなり言った。


 地獄の一番奥底にある牢から、とある大罪人が脱獄したのだ、と。


 ……地獄からの脱獄など、本来、有り得ないことだ。原因が何だったのか、今となっては分からない。


 脱獄の衝撃はすさまじいもので、辺りを破壊し尽くし、あの世中に怨念がまき散らされた。それによって、多くの罪人たちが共に地獄を脱し、住人たちは次々に怪異と化し、更なる破壊と暴力を生んで――。そうして、あの世は無法の戦場になっていったのだという。


 当然、ヨサリも戦いに身を投じた。


 しかし、何をどれだけ倒そうとも、戦況は変わらず。

 脱獄した大罪人の行方を追ったものたちも、成果を上げられず。


 ――やがて、閻魔の訃報と共に、彼の側近から「法廷を閉じる」という通達が来た。


 それは、裁きを受けた亡者を輪廻の流れへ戻す役目を放棄する、ということ。


 罪を裁く者も、罰を与える者も、どこにもいなくなってしまった、ということ。


 獄卒であるヨサリにとって「あの世の終わり」を意味していた。




 ……あれから、どれだけのものを斬っただろうか。


 ただひたすら怪異を斬ってきた。この世にとどまらざるを得なくなってしまった亡者たちを。正気を失った妖怪や鬼――かつての同僚たちを。


 斬って、斬って。そうして、焼け野原となったあの世へ、輪廻の流れに戻れるかも分からない地へ、その魂を送ってきた。


 そんな仕事は……流石にこたえる。


 それでも斬り続けるのは、ただ、獄卒としての矜持だった。


 この世に悪さをするものを、放ってはおけない。生者にあだなすものは、退治しなければならない。


 たとえもう閻魔がいなくとも。かつての仲間を斬ろうとも。


 ――この身が怪異に成り果てる、その日までは。




 そんな内心を自覚しながらも、口に出すことはなく。


 ヨサリは、端的に「あの世の終わり」について話し終えると、念を押すように改めて言う。


「――だから、彼女が怪異になったのは、ハルのせいではない。そう気を病むなよ」


 うなずくこともせず、ただじっと話を聞いていたハルは、そこでようやく「そうだったんだ……」と小さな声を発した。それから、わずかに唇を噛んで、目を伏せる。


 下がった視線の先にあったのは、まだ何も描かれていない、白紙のスケッチブック。


「それってさ……あの世が終わっちまった後に死んだ人間は、亡者になってこの世にとどまってる……ってことだよな……?」

「あぁ、多くはそうだろう。法廷を閉じてしまったからな。輪廻の流れに戻れるかどうかは、私にも分からないが……」

「そっか……。この世に……とどまってるんだ……」


 弱々しい声をこぼしたハルは、眉尻を下げながらも、口角を上げていて。悲しみをこらえるような、それでいて喜びを噛み締めているような、見たことのない顔をしていた。


 ヨサリは、その表情に引っかかりを覚えたが、追及するのは止めておいた。


 ……あぁ、もう少し、人間のことが分かればな。




 翌日の金曜日。


 活動日を迎えた美術部のクラブルームには、苦笑いを浮かべた長谷川と、すっかり腰の引けた柚木がやってきていた。


 そんな二人に、ハルは「幽霊じゃない理由」を語って聞かせた。


 最初は、信じ切れない――というより、味わった恐怖が勝るといった様子で。それでも、「大丈夫! 何にもありませんでしたよ!」と明るく笑うハルを見て安心したのだろう、二人の表情は次第に柔らかくなり、ホッとした笑顔を見せるようになっていった。練習の成果が出たようで何より。


 回廊の屋根の軒先に腰かけていたヨサリは、見せつけるかのような得意顔がこちらを向いているような気がしたが、見なかったことにした。


 あの能天気め。折角一段落したというのに、また噂が立ったらどうするつもりだ。




 それから、クラブハウスに出る幽霊の噂は、ぱったりと聞かなくなったという。


 後日、美術部のクラブルームの覗くと、見事な古着のパッチワークアートが飾られていた。

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