第5話

 翌日、木曜日。


 この日も、ヨサリは講義を終えたハルと連れ立って、クラブハウスを訪れていた。しかし真っ先に足を運んだのは、美術部のクラブルームではなく、そこから見下ろしていた軽音楽部の舞台がある芝生の広場だった。


 ハルが思いついたという「幽霊じゃない理由」を確かめるためである。


 昨日の怪異の暴れぶりを踏まえ、ヨサリは「もう放ってはおけんぞ」と抜刀する構えを見せたのだが、ハルは「今日一日だけ、いや一時間だけ、せめて『幽霊じゃない理由』を確かめるまで待ってくれ!」と引き下がらなかった。

 明日金曜日の活動日を迎える前に解決したいのだ、クラブルームには入らずに確かめられるから、と頼み込まれてしまえば、うなずく他なく。


 仕方なく、美術部のクラブルームに入り次第即座に斬る、という条件で待つことにしたのだ。


 そうして訪れた、芝生の広場。


 クラブハウスの裏に広がる一面の緑は、夕暮れにはまだ少し早い、のどかな春の日を浴びて輝いていた。ひとたび風が吹けば、綺麗に刈り込まれた葉先が一斉に揺れ、さざ波のような模様を作り出す。


 木造の舞台を囲む扇型の空間には、いくつかの立木の他には何もなく、敷地もそう広くはない。だが狭くもなく、観覧スペースとして申し分ない程度の、居心地のいい広さだった。


 舞台上では、軽音楽部らしき学生たちが慌ただしく動き回っていた。


 数人がかりで楽器や機材を運び入れ、足元の照明を光らせながらその位置を調整して、何かの装置をいじりながら「あー、あー」とマイクの音を確かめて。まさに、準備の真っ只中といった様子である。


 彼らは皆一様に、腕まくりやシャツ一枚といった涼やかな格好だった。首に巻いたタオルで何度も顔を拭っているものもいる。吹き抜ける風は少し肌寒いとはいえ、遮る雲もない日差しの下、あれだけ動いていれば汗ばむのだろう。


 それでも彼らは、まばらに集まり始めた観客を見つけては「もうすぐ始まりますからね!」と明るく声をかけ、笑顔で手を振っていた。


 そんな舞台の熱も届かないような、広場の隅。チクチクした手触りの芝生の上へ無造作に足を伸ばしたハルは、彼らをぼんやりと見やりながら言う。


「あれから考えてみて、気付いたことがあるんだよ」


 すると、隣で胡座をかくヨサリに指し示すように、少しこちらに身を寄せて指を差す。


 その先にあるのは、舞台の上、背後に建つクラブハウスの二階の窓だった。


「あそこ。右から三番目の窓が、美術部んとこな」

「そうなのか」

「うん。丁度、軽音楽部のステージが見えてただろ。ってことは――」


 あぁ、確かにあの場所か。と、照明の落ちた真っ暗な窓を眺めていると、不意にハルが弾んだ声を出す。


「――あ、やっぱり当たってる」


 同時にクラブハウスの壁へ、日の光よりも明るい、白く四角い光が映り込む。すると、それは上へ上へと移動して窓を照らし、ガラスに当たってまばゆい光を反射させた。


「思ってた通りだ。あの窓、ステージのフットライトが当たる位置にあるんだよ。だから、壇上の人が腕を上げると、手が影になって映るんじゃねぇかな」


 ステージのフットライト。


 それを聞いて、舞台の上へ視線を向ける。そこでは、学生が足元に置かれた機材の位置を調整しているようだった。下から上へ光を放ち、辺りを白く照らす照明機材。見比べてみれば、その機材が右へ左へとずれる細かな動きに合わせて、窓に当たった光も右へ左へと動いている。


 なるほど、これか。


 よく気付いたな、と舌を巻くような心地で隣を見れば、すでにこちらを向いていた大きな瞳と目があった。


 それで、ヨサリの納得が伝わったのだろう。ハルは自慢げに大きくうなずくと「幽霊じゃない理由」を話し始める。


 美術部のクラブルームの窓に現われた手招く影は、ステージのフットライトが当たったことで出来た、壇上の人の手の影だった。


 柚木と長谷川が部屋にいた時間は、部活動の開始時刻よりも前。その時舞台では、まさに今のような準備が行われていたのだろう。そうして、設営された照明機材によって影が映ってしまった。窓のすぐ外にいるような大きさだったのも、距離があったことで影が大きく見えたせい。


 聞こえた女の声も、恐らくは舞台からだろう。準備をする中で発されたマイクを通した声か、あるいは準備を進めていた学生同士の呼びかけか。断定は出来ないが、たまたまそう聞こえてしまった可能性は捨てきれない。


「――って感じで、どうだ? 先輩たち、納得してくれると思う?」

「……それを私に聞くのか?」

「? あ、そっか。ヨサリからしたら、あれは怪異です、で終わりだもんな」

「あぁ。……だが、まぁ、筋は通っているんじゃないか」


 ヨサリにとって、あの手招く影は怪異に他ならない。


 そんなヨサリでも「よく気付いたな」と思えた理由なのだ。納得してもらえる余地は、十分にあるだろう。


 本当のところは分からない。ハルの考えた通り、壇上の影が窓に映れば、手招く影のように見えるのか。柚木と長谷川がいた時、照明機材が使われていたのか。


 机上の空論かもしれない。事実は確かめようもない。


 だが、それで構わないのだろう。なにせハルの目的――「幽霊じゃない理由」を考えることとは、柚木と長谷川が納得し、美術部のクラブルームで安心して過ごせるようになる、幽霊ではない理由づけをすることなのだから。


 いつかハルが言っていた言葉の意味が、少し分かったような気がした。


 ――本当はどうだとか、事実がこうだとか、関係ねぇんだよ。気持ちの問題だ。


 きっと、こういうことなのだろう。


 不意に、耳元でビュゥと空気を裂く音がして、強い風が吹いた。


 サラリと肩を撫でていく細かな感触と共に、たなびく長い黒髪が視界の端に映る。何とはなしに目で追えば、同じように風に揺られる、ゆったりとしたワイドパンツの裾が目に留まった。


 その下にある左足首に巻かれている、白い包帯。


「ハル、その……昨日の、足を引っ張られた件についてはどうするつもりだ?」

「あぁ、これ? これは、変な体勢のせいで足がグキッてなっただけだぜ」

「…………」


 いいのか、それで。


 さっきまでの感心を返してくれ。柚木と長谷川に話す理由はあんなにしっかりしていたのに、自分だけの話になった途端、どうしてこうも適当なのか。


「うわっ、怖ぇ顔! ごめんって! 助けてもらったのは悪かったってば! ……でもまぁ、俺だけが遭遇したことについては、先輩たちには内緒にしておくよ」

「……そうか。それがいいだろうな」


 言うべきか迷った小言は一旦棚に上げ、ヨサリはうなずきを返す。


 すると、ハルは「よーし!」と気合いの入った声を上げて、自分の頬を両手でペチンッ叩いた。


「じゃあ、後は上手く言えるよう練習! だな!」

「練習?」


 たずねると、ハルは頬を叩いた手で、今度は頬を軽くつまむ。


「そうなんだよ、俺、内緒にしておくとか苦手で……なんか顔にも声色にも出ちまうみたいだから……」

「自覚があったのか」

「いや無いけど」

「なら持て」

「自分じゃよく分かんねーの! ただ、昔テルがそう言ってたから、そうなんだって思ってるだけ」

「……テル?」

「うん。越谷白輝こしたにあきてる。俺の幼馴染み」


 あぁ、それはさぞ面倒見の良い友なのだろうな、と思った。


 こんなにも奔放で、向こう見ずで、脳天気な男と幼少期から共にいるなんて、きっと余程の世話好きでなければ出来ない。思ったことが顔にも口にも出ている、とわざわざ指摘しているところからも、そのお節介さがうかがえた。


 ヨサリは、不覚にも、苦楽を共にする戦友を見つけたような思いだった。


「お前の友ならば、きっと良い男なのだろう。大切にしろよ」


 そんな思いのまま言えば、ハルは唇を引き結んだまま、それを指先でムニムニと揉みながら「ん~」とだけ答えた。

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