第4話

 クラブハウスへと向かう階段を登り、中庭に入ったところで、ハルが足を止める。隣を歩いていたヨサリも、つられて立ち止まる。


 理由はすぐに分かった。


「あっ。あれって……」


 中庭の一角、青々とした若葉を茂らせるけやきの下に、ポツンと佇む少女が一人。


 一瞬、西洋人形か、と思った。


 胸元の大きな赤いリボン。風に揺れるワンピースの裾にも、体の前で握られた手元にも、ふんだんにあしらわれた華やかな白いフリル。貴族が着るドレスのような、どこか衣装めいた服装だ。


 うつむき、長い茶髪が垂れていて、目元は見えない。それでも、引き結ばれた口と、何度も組み替えている指の生白さは、見ている方が不安を覚えるほど物憂げだった。


 ハルもそれが気になったのだろう、少しの躊躇ためらいの後に近寄っていくと「あの、すみません」と声をかける。


「演劇部の人ですよね? 大丈夫ですか? もしかして、体調不良とか……」


 途端、少女が弾かれたように顔を上げた。が、その視線はすぐに足元のタイルへと逃げていく。


「あ……いえ、その……きて、きてほしくて……」

「あ、あぁ~……それは、お疲れ様です。勧誘、大変ですよねぇ。演劇部って、みんなすっごい熱量ですし。でもすみません、俺もう美術部って決めちゃってて」


 白い手が、ワンピースをギュッと握る。それに気付いたのか、ハルが申し訳なさげに頭の後ろを手でかき回した。


 そこでヨサリはようやく、新入生勧誘中の演劇部員ということか、と思い至る。


 だから、このクラブハウスは騒がしいのか。あちこちから朗々とした台詞や賑やかな音楽が聞こえてくるのは、まだ無所属の新入生たちを自分の部活動に引き入れるための催しなのだろう。四月ももうすぐ下旬だというのに、熱心なことである。


 すると、ハルがふと思いついたようにたずねる。


「そうだ。最近、何か変わったことってありました? 例えば、幽霊が出たとか」

「……」


 随分思い切ったな。

 しかし少女は、じぃっとハルの瞳を見上げるだけで、何も答えない。


「……」

「……?」


 しばしの沈黙。

 改めて質問を投げかけるように、ハルが首を傾げる。


 その直後だった。


 ――ガシャンッ! ガララ……ッ!


 突然、何かが勢い良く倒れ、崩れる音がした。丁度、ここから二階の回廊へ上がる階段を上って、すぐ目の前の――確かめるまでもない。美術部のクラブルームからだ。


 たちまち、ヨサリが駆け出す。背後から、ひどく慌てた早口の礼の言葉が聞こえて、バタバタと走る足音がついてくる。


 追いついてきたハルが部屋の鍵を使うのを待たず、ヨサリは窓をすり抜けて中へ入った。


 案の定、クラブルームの中は大惨事だった。壁際の机の上に置かれた画材や積まれた書籍、細々とした道具などがひっくり返って、あちこちに散乱している。壁に立てかけられたイーゼルはことごとく床に倒れている。


 昨日、窓に張り付いた手のひらによって荒された時と、まるきり同じように。


「だぁ~っ?! またかよ?! 折角昨日片付けたのに!」


 鍵を開け、遅れて中に入ってきたハルが、途端に膝から崩れ落ちる。


 ……まるで片付けるのが苦痛だと言わんばかりの叫びである。鍵のかかった誰もいない部屋で、ひとりでに物が動いたことに対する恐怖はないのか。


 まぁ、これだけ物であふれた部屋だ、致し方ない。

 昨日も、残った活動時間を全て片付けに費やすほど難儀して、「どこに何があるか分かるようにはなってきたけど、まだ全部は把握してねぇんだよ~」と嘆いていた。今日も同じ言葉を聞くことになりそうだ。


 唖然として動かなくなってしまったハルは放っておいて、ひとまずヨサリは、倒れたイーゼルを元に戻すことにした。それが全て壁に立てかけられたところで、やっとハルも片付けに取りかかり始める。特大とため息と共に、がっくりと肩を落としながら。


 すると、手形を拭き取ったばかりの窓の外から「ミニライブへようこそ!」という声がした。それから一言二言話した後、アップテンポな音楽と歌声が聞こえ始める。


「おっ、今日もやってるなぁ」


 ハルが窓のそばへとやってきて、その向こうを覗き込む。


 窓の外、見下ろした先には、横に長い大きな木造の舞台と、それを取り囲む扇型の芝生の広場があった。


 舞台の上で、楽器をかき鳴らす四人の学生たち。それに取り囲まれるようにして、舞台の真ん中で歌を歌っている青年。その振り上げられた腕が左右に揺れる度、広場に集まった観客が手拍子を叩く。壇上で人々の視線を一身に受ける彼らは、足元に置かれたまばゆい照明に照らされ、暗い曇天の下にあってもキラキラと輝いて見えた。


 あれが、昨日も聞こえていた音楽の出所。新入生勧誘ライブを行っている軽音楽部の学生たちなのだろう。


 聞こえてくる歌に合わせ、ふん、ふん、とハルが鼻歌を歌い始める。


「知っているのか?」

「おう! クランチベリーの……えぇと、俺のお気に入りのアーティストさんの曲!」


 ハルはそう言いながら、物が散乱した机の上に手をついて身を乗り出す。


 と同時に、足元からドサッという音がした。


「うぉおわっ?!」


 途端、大袈裟なほど跳ね上がる肩。


 何事かと床の上を見てみれば、横倒しになった大きな紙袋。そこから飛び出たらしい、散らばった洋服。種類は様々だ。デニムや奇抜なプリントのシャツ、モコモコした変わった質感の生地のものから、これでもかとフリルがついたものまである。大ききや装飾を見るに、どれも女物らしい。


 大方、机の上にあった紙袋が乗り出してきたハルの肘に押し出され、落ちてしまったのだろう。


 ハルは一歩後ずさり、しばしその服の山を眺めてから、恐る恐るそこに混ざっていた白い縦長の紙をつまみ上げた。


「びっ…………くりしたぁ。古着か、これ。先輩のかと思っちまった……」


 心底ホッとしたように、ため息交じりに言う。


 ハルが拾ったのは、伝票だった。その手元を覗き込めば、購入店舗らしき名前と日時、金額や品物が書かれていて、春休みの間に購入された古着であるらしいことが分かる。


「……しかし、なぜこんなところに古着があるんだ?」

「ん~、聞いてみないと分かんねぇけど。多分、作品の素材じゃねぇかな。この前柚木先輩が、パッチワーク? 立体コラージュ? の下絵描いてたから」

「ほう、素材か」


 散らばった服を拾い、一つ一つ畳みながら答えるハルに、ヨサリは内心膝を打つ。

 なるほど、そういうことか。


 作品づくりに用いられるのは、絵の具や紙、彫刻材くらいなものだろうと思っていたが。美術とは、想像以上に自由なものらしい。


 すると、正方形に畳んだ服を机上に積んでいたハルが、ハッと息を呑むような声色で言う。


「きて……って、まさか『着て』か?」


 何の話だ、と思いかけて、すぐに気が付く。


 昨日、耳にした声。幽霊が現われた時に聞こえていた、あの女の声か。


 ハルは目を閉じて、少しだけ上を向く。


「昨日聞こえた声、『きて、きて』って言ってたよな? ちょっと聞き取りづらかったけど……」

「あぁ。私にもそう聞こえた」


 昨日の記憶を呼び起こしているであろう言葉にヨサリがうなずけば、「だよな」と首を縦に振る。


「俺、ああいう声は全部空耳ってことにしてんだけどさ」

「…………まずは聞こう」

「いや、その反応で十分だぜ。んんん、やっぱ空耳じゃ無理があるかぁ~? …………あ」


 小さく声をもらしたのを最後に、ハルの動きが止まった。思案げに服をトントンと叩いていた指先から、苦笑いして上がっていた口角に至るまで、ピタリと。


 その横顔が、みるみるうちに凍りついて、血の気が引いていく。


「……どうした?」


 ハルがこちらを向く。そっと、ゆっくりと……首から下は絶対に動かしてはならない、とでもいうかのように。


「なぁ、ヨサリ。俺の足って、今どうなってる?」

「は?」


 言われて、視線を下げる。


 どう、とは。ゆったりとしたワイドパンツ。僅かに見える足首に、紺のスニーカー。それが、散乱した画材たちの中、わずかに見える床の上に立っている。それだけ――いや、違う。


 ハルの左足首を硬く握り込む黒い手。床に転がった紙袋、その底に淀む黒い泥のような何かから伸びている、骨張った腕。


 怪異だ。


 途端、ハルの体が引きずり倒された。


「ハル!!」

「……っ!!」


 悲鳴を上げる間もなく、紙袋の中へと引っ張られていくハル。


 ヨサリは、その肩を右腕で抱きとめ、左手だけで抜刀した。逆手で持ったまま振り上げた白刃を、紙袋めがけて振り下ろそうとして――直後、脳裏にハルの声が過ぎった。


 ――ヨサリ、斬るなよ。


 ほんの一瞬の躊躇い。だが、もうその時には遅かった。


 ずぞ、と嫌な音がして、ハルの左足首が黒い泥の中に沈んだ。


 ……今振り下ろせば、足を持っていかれてしまう!


 ヨサリが奥歯を噛み締めた、その時。


「な……?!」


 思わず、ハルの肩を抱きとめた右腕から力が抜ける。


 唐突に、ハルから強烈に放たれたのは、亡者の気配だった。冷たく、沈鬱な思いに満ちていて、真っ暗な。


 ――どこからか、潮の香りがしたような気がした。


 瞬間、黒い手が風に吹かれた砂のように消し飛び、腕があらぬ方向に折れる。挙げ句、ハルが飲み込まれかけた泥は紙袋ごと吹き飛んで、壁に貼られていたポスターに叩きつけられグシャリと潰れた。


「な、なにが……起きている……?」


 訳も分からぬまま刀を納め、あれほどしていた生者の気配がかき消えた体を両手で抱え直す。


 ハルは目を閉じ、ぐったりと体を横たえて、ただ静かに息をしていた。


 ……何が起きたかなど、考えずとも分かる。


 紙袋の中の怪異を凌駕し、圧倒するほどの強い亡者の気配が、ハルを引きずり込まんとしていた怨念を弾き返したのだ。


 ……分からないのは、どうしてそれが起きたのか。


 この、すさまじい負の思いを抱えた亡者の気配は何だ?


 どうしてハルから、これほどの気配がする?


 やはり――この男は、亡者なのか?


 あふれんばかりの疑問が、頭の中を駆け巡る。それでも、腕の中にある体は温かく、トク、トク、と一定のリズムで刻まれる確かな振動がジャケット越しに伝わってくる。……間違いなく、生きている。


 すると、その体が小さく身じろいだ。


 ゆっくりとまぶたが持ち上がって現われる、大きな瞳。それは少しだけ揺れた後、真っ直ぐにこちらを向いた。


「……」

「……ハル、で間違いないな?」


 問えば、とぼけた顔の口元がホカンと開く。


 それから、目を何度もパチクリさせると。


「うわ――――っ?! えっ?! お、俺の足、どうなった? 取れてねぇ?! ちゃんとついてる?!」


 すぐさま自分の足に手を伸ばして、グリグリと関節を回しまくり。立ち上がって足の裏の感触を確かめるように、その場で何度も跳ね。


「おま…………お前は本当に、恨めしいほどよく喋るな……」

「えぇっ?! いわれのない恨み!」


 いわれなど、ない訳がなかろう。

 ヨサリは盛大なため息をついて、頭を抱えた。


 今にも霧散してしまいそうな気力をかき集め、どうにか意識を集中させ、気配を探る。


 ハルからは、やはり亡者の気配がする。しかし、先程まで放っていた強烈さは無い。生者らしい輝きが戻り、すっかり元のハルだ。


 この部屋にいた怪異の気配は……鳴りを潜めたか。ひとまず、これ以上の怪現象の心配なさそうだ。


 そこまで確かめると、ヨサリは渾身のしかめっ面でハルを睨む。


「……それだけ動けるのであれば、体に問題はないな?」

「お、おう! 俺の足、ちゃんとくっついてる!」

「よし。ならば、恨みのいわれについて、たっぷり説教してやる」

「ひょぇ……」


 そうして、さらに悲惨さの増した荒れっぱなしの部屋を片付けながら、思いきり文句を言ってやることにした。


 内心、あの強烈な亡者の気配のついて話してはならない――自覚させてはならない、という予感に、冷や汗をかきながら。


 窓の外では、色を濃くし始めた空の暗さを吹き飛ばすような、軽快な音楽が流れ続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る