第3話

 誰もいなくなったクラブルームの前で、ハルがこちらに向かって小さく手を振る。右手で扉を開け、左手で「来い来い」と。仕方なくヨサリは軒先から降り、連れ立って部屋の中へと入る。


 入り口に「美術部クラブルーム」という札がかかったそこは、十畳ほどの広さに画材や書籍、製作途中と思しき作品たちがこれでもかと詰め込まれた、窮屈な部屋だった。

 棚を埋め尽くすファイルと本、賑やかな背表紙の雑誌。机に並ぶカラフルなチューブと開いたままのスケッチブック。壁に立てかけられたイーゼルや、そのそばに貼られた何かのポスター。何も置かれていないのは、部屋の中央、作業用らしい机が置かれた空間だけだ。


 入ってきた扉のすぐ隣の壁には回廊に面した窓が並んでおり、それと向かうあう反対側の壁には大きな横長の窓が一枚。くだんの、幽霊が現れたという窓だろう。そこから差し込む光は傾き始めていて、物であふれた部屋の中を橙がかった色で照らしていた。


 圧迫感さえ覚える部屋に、思わずヨサリは扉を背にして立ち止まる。


 だが、ハルには勝手知ったる部屋らしい。電灯をつけ、迷いなく奥へと入っていったハルは、壁際の机の上に荷物を置くと、中央の机の下から丸椅子を引っ張り出してきて「ここ座っといて」と言った。ありがたく腰かけることにする。


 丁度、例の窓がよく見える位置だった。


 すると、視線を遮るようにハルがやってきて、黒いエプロンを着けながらヨサリの向かい側に腰を下ろす。


「……幽霊騒ぎらしいな」

「な~」


 のんびりとうなずくハル。


 手にしたトートバッグから水彩絵の具一式を取り出すと、パレットや筆をいそいと机上に広げ始める。


 宣言した通り、普段と変わらず絵描きながら、幽霊が現われるまで待つもりなのだろう。その正体を確かめるために。


 だが、その前にもう一つ、確かめなければならないことがある。


「ハル」

「ん?」

「幽霊を信じていない、とは本当か?」


 途端、ハルの手がピタッと止まった。


 顔が上がって、視線がぶつかる。そのまま、そらすことなくハルは言う。


「本当だぜ」


 迷いない声を聞いて、ふと思い出す。


 そうだった。思えば、一沙岬で初めてヨサリの姿を目にした時にも、この男は言っていた。「俺、そういうの信じないようにしてんだけど」と。


「念のため確認しておくが……お前、見えているんだよな?」

「そりゃもう! でなきゃ、こうやってアンタと話してねぇよ。……でも、錯覚か幻覚か、それか気のせいか何かだろって思うようにしてる」

「……?」


 ……つまり、「そういうもの」が見えているものの、存在するとは思っていない、と?


 見えているものを、否定し続けていると?


 言葉を失ってしまったヨサリに、ハルはムッと口をヘの字にする。


 しかしたちまち真剣な表情になると、咳払いを一つして、両手で机をペチンと叩いた。


「いいか。俺は、幽霊とか魂とかが存在するなんて、信じない。俺が信じてるのは進化論だから」

「なぜそこで進化論など……いや、一旦聞かせてもらおう」

「おう」


 ハルは腕を組み、続ける。


「獄卒さんからしたら、死んだら魂だけになってあの世へ~とか、あの世で罰を受けた魂は生まれ変わって~とかさ、そういうの当たり前かもしれねぇけど」

「あぁ」

「それはどうでもいい」

「あ゛ぁ?」

「いいの。俺には、本当はどうだとか、事実がこうだとか、関係ねぇんだよ。気持ちの問題だ」

「はぁ、気持ち」


 曖昧にうなずくと、ハルの言葉に一層力が込められる。


「だって、考えてもみろよ。『どこの誰かも知らねぇ奴の魂が俺に生まれ変わった』って思うより、『海にいた小っせェ生き物がしぶとく生き抜いた結果、俺が生まれた』って思う方が、よっぽど良いだろ。俺も生きてやるぜ~! って感じすんの。分かる?」

「いやちっとも」


 人間のことはよく分からない。だが、ハルも天を仰ぎながら「だぁ~! 獄卒よく分かんねぇ!」と頭をかきまわしたので気にしないことにした。お互い様らしい。


 それでも分からないなりに、力説された言葉を咀嚼そしゃくしてみる。


 ――気持ちの問題、か。


 想像でしかないが、ハルは「しぶとく生き抜く」ものたちの一員として――「そういうもの」とは関わり合いのない一人の人間として生きたいのだろうな、と思った。この男のこういうところは、やはり生者らしいな、とも。


 同時に、に落ちる部分もある。


 いくら亡者の気配がしようが、あんなに怪異にまとわりつかれようが、全く動じず五体満足でいられる理由。


 それは、信じていないからだ。

 徹底的に否定しているからだ。


 怪異というものは、己の姿を認め、存在を認め、信じるものにかれる。逆もしかり、という訳だ。……だとしても、限度があるとは思うが。


 ハルはうつむき、目をギュッと閉じて、眉間を指先でグリグリとこね回す。


「うん、それはしょうがねぇ、分かんなくてもいい! ただな、ええと……そう、だから!」


 ハッとしてこちらを向く大きな瞳。ビシッと突き立てられる人差し指。


 そうして、片側の口角をニィと上げると、まるでイタズラ前の作戦会議かのような小さな声で言った。


「だからさ、『幽霊じゃない理由』を考えるのは結構得意なんだぜ、俺」

「……なるほど。そういう心積もりか」


 うなずくヨサリに、ハルは満足げに「そういうこと」と笑みを深める。


 ハルの言う正体を確かめるとは、つまり、幽霊ではない理由づけをするということ。柚木と長谷川が納得し、この部屋で安心して過ごせるようになる「幽霊じゃない理由」を考えることである。


 ……ヨサリとしては、てっきり、怪現象を引き起こす怪異を見つけて斬ればいいとばかり思っていたのだが。


 そうなると、即座に斬る、という訳にはいくまい。せめてハルが目的を果たすまでは、斬らぬようにしなければ。


 そんな考えを巡らせながら、ヨサリは刀を握った指先で、柄頭つかがしらをトントンと叩いた。




 机上に置かれたスケッチブックの上を絵筆が滑り、鮮やかな青色を引いていく。


 描かれているのは、波打ち際の風景だった。


 ハルが絵を描き始めて、しばらく経つ。


 会話は無かった。ハルはこちらに目線をくれることもなく無言で絵を描き進めていて、ヨサリもただ静かにそれを眺めているだけ。


 かといって、ハルが落ち着いて製作に没頭しているかといえば、そんなことはなく。筆を何度も動かしては、にやけたり、険しい顔で首を傾げたり、慌ててティッシュを押し当てたりと忙しなく動いている。黙っていてもやかましい男である。


 長谷川が話していた通り、窓一枚隔てた部屋の外からは賑やかな音が聞こえてきていた。行き交う学生たちの足音。楽しげに交わされる言葉。どこか台詞めいたよく通る声に、「ミニライブへようこそ!」という声を皮切りに流れ始めた軽快な音楽。


 活気に満ちた音を辿るように、窓の外へ視線を向ける。


 幽霊が見えたという、横長の大きな窓。


 窓の向こうに見えるのは、端の方を夜の色に染め始めた夕焼け空。浮かぶ筋雲。遠くには、角張った建物らしきものの黒いシルエットがある。


 さて、姿を現すだろうか。


 そうして、手持ち無沙汰に刀のさやを撫でた時だった。


 ――……きぃ。


 鼓膜をくすぐっただけの、ほんの小さな音。


 ――き、きぃ……。


 瞬間、これだ、と思った。


 外の喧噪に溶け込み、今にも消えてしまいそうな。しかし確かに呼びかけてくる、か細い女の声。


 反射的に、さやを撫でていた左手が鯉口を切る。


 同時に、ボチャン、と水音がする。見れば、ハルの手から筆洗いバケツの中へ、絵筆が転げ落ちたようだった。


 ハルは振り返り、背後を凝視していた。視線の先にあるのは、やはり、例の夕焼け空を映した窓。


 窓の向こうには、何かが、ぬぼぅと下から伸びている。


 黒く、異様に長細い腕だ。その手首は力なく曲がっていて、先にある手のひらもだらりと垂れ下がっている。丁度、手首に糸をくくりつけて上から吊せば、あんな格好になるだろう。当然、そんな糸などないが。


 視線を外すことなく、ハルが言う。


「ヨサリ、斬るなよ」

「あぁ。心得ている」


 右手はつかに触れないまま答える。


 手のひらが、ゆらり、と上下に揺れた。


 ――……きぃぇ。


 手のひらがまた、揺れた。


 まるで、その細い指先で何かを指し示すように。あるいは、招くように。


 ――きぃ、い。


 そうして手のひらが揺れる度、女の声が聞こえてくる。次第に大きく、はっきりと。耳元でささやくようだったそれは雑音混じりになって、金属を擦り合わせたような、ざらついた声で響いてくる。


 ――ぃ、い、てええぇぇ。


 もしや……「きて」?


 と、思い至った、直後。


 ――バンッ!!


 ガラス窓に、べったりと黒い手のひらが張り付いた。


 間髪入れず、窓の下、壁際にあった机上のあらゆるものがひっくり返って。壁に立てかけられたイーゼルが、ガララッと雪崩れを起こしたように倒れ。


「っ?!」

「うぉわ……っ?! うわっ、イーゼルが!」


 思わず抜刀してしまったヨサリも、飛び上がってイーゼルの雪崩れを止めに行ったハルも。まるで、あの手のひらが張り付いた衝撃で吹き飛ばされたかのような惨状に、目を奪われてしまって。


 ……窓へと視線を戻した時にはもう、そこには何もいなかった。


 ただ、手のひらの跡だけをくっきりと残して。




「ヨサリはどう思う?」


 開口一番、人目もはばからずにそう問われる。


 幽霊の正体を確かめることになった、翌日のことだった。


 今日は水曜日。美術部の活動日ではない。だがハルは、講義を終えるやいなや、クラブハウスへと向かっていった。


 いつものように敷地を見下ろしていたヨサリが、立ち並ぶ角張った建物の間を早歩きで抜けていく背中を見つけ、その隣に降り立った直後にこの質問である。脈絡が無さすぎる。


 しかし、何を問われているかは考えるまでもなかった。


 活動日ではないのにわざわざクラブハウスへ行くのは、幽霊の正体を確かめるために他ならない。


 念のため、辺りに視線を巡らせ、声の届く範囲に人がいないことを確かめてから答える。


「……怪異だな。負の感情がかなり膨らんでいる。そのせいで、縁のない生者にも姿が見えたり、怪現象を起こしたりするようになったのだろう」

「そっか。……まぁ、そうだよな。ヨサリからしたら」

「あぁ。昨日、私たちが駆けつけた時点で、あの部屋にはそれなりの気配があったからな。恐らくはそいつだ」

「えっ?! マジで?!」


 ハルが目を丸くして、裏返った声を上げる。ヨサリはうなずきつつも、「あまり大きい声を出すな」ともう一度辺りを見渡した。


 どう思うかと問われれば、正直なところ、答えはただ一つしかない。


 遂に来たか、である。


 この幽霊騒ぎを聞いた時、ヨサリがまず思ったのはそれだ。


 ハルの元には、亡者の気配に誘われて、とにかく怪異が集まってくる。これだけ引き寄せているのだから、遅かれ早かれ、生者を脅かすような怪奇現象を引き起こす怪異が現われるだろうとは考えていたのだ。


 今すぐ斬ってしまいたいところであるが。


「お前こそどうなんだ。『幽霊じゃない理由』とやらは見つかったのか?」

「う~ん。まだ考え中~……」


 腕を組んだハルが、浮かない顔で空を見上げる。


 分厚い雲に覆われた、仄暗ほのぐらい空だった。


 ……ハルが幽霊の正体を見つけるのと、ヨサリが耐えかねて斬ってしまうのと。早いのは、どちらだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る